はてな匿名ダイアリーの
人生何者にもなれなかった、けど
という記事がとてもよい文章だったので、今回はそれにまつわる話です。

ナニモノくんの嘆きと悟りと可能性

件のダイアリーの書き手をナニモノくんと呼ぶことにしましょう。

ナニモノくんはもうじき大学を卒業して就職します。

このダイアリーは、何者かになりたいとあがいてきたそんな彼が、もう何者にもなれないことを自分に納得させようとして書いた、ひとりボケつっこみなストーリーです。

ナニモノくんはこの記事の追記で、「こんなクソみたいな文章」と自己卑下して見せるのですが、何をおっしゃる兎さん、彼の文章はかなり読ませる技巧派のものです。

本人が言うとおり、「書いてる事しっちゃかめっちゃか」な文章ですので、メジャー受けするものとは言えませんが、もうひと捻り、ふた捻りすれば、メタフィクションとして成立する可能性のある、二人称と一人称が入り混じり、いい塩梅にねじくれた文章と言えましょう。

熱情と嘆きの間を往還し、最後には悟りの片鱗すら見せるダイナミックなバランス感覚には、将来花開くかもしれない原石の魅力があります。

さてその内容ですが、ナニモノくんは、周りの友だちと比べて、自分を否定します。

周りの友だちは、ちょっと努力するとどんどん上達していくのに、自分は自分なりに頑張っているのに、ちっとも上達しない、才能がないんだ、と。

でもナニモノくんは、ないものねだりをしてるだけなんですよね。

周りの友だちは多分、時流に合わせることができる標準的な才能がある人たちだったんでしょう。

そういう人たちの多くは、やっぱり何者にもなれずに、普通の大人になっていきます。

ナニモノくんは、それなりの才能は持っているのに、他の人の目でしか自分を測ることができないから、自分の良さが全然わかってないんです。

あなたには十分な才能があります。

マイナー道半世紀のぼくが保証します。

ぼくが保証したからといって、きみが何者かになれるわけではないけれど、きみがあきらめずに「表現」を続けるならば、何者かになれる可能性は、きみの人生が続く限り、いつだってあり続けるんです。

とはいえ、何者かになろうと思って「表現」をするのは、もういい加減やめたほうがいい時期に、ナニモノくんは差し掛かっているのでしょう。

何者かになれた人たちのうち、少数ではありますが、何者かになろうとしたわけではなく、好きなことをしているうちに自然に何者かになった幸福な人たちもいます。

ナニモノくんが目指すべきなのは、そうした「幸福な少数者」です。

でも、こんなことはぼくが言うまでもないことですね。

ナニモノくんは、とりあえず「善く生きる」ことこそが大事なんだと、ちゃんと分かっているんですから。

ナニモノくんは、生きている限り「表現」を続けることでしょう。

「善く生きる」こと自体が「表現」であり、すべての人間にとって、自分の人生こそが最大の「作品」です。

この世に生まれ落ちて、山あり谷ありの一生を送る。そうやってでき上がった「人生という名の作品」を残していく我々すべてが、人の目にどう映ろうと、確かに「何者か」として生きたことになるのだと思います。

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世間の目と自分の目 - 何者にもなれないことを反芻する - fujiponさんの場合

fujiponさんが
http://fujipon.hatenadiary.com/entry/20110929/
という記事でこう書いています。

 医者というのは、世間的にみれば、「ご立派な職業」のひとつだろう。
 しかしながら、世の中はそんなに甘くはない。
 医者の世界のなかで、他者とは代え難い「何者か」になるのは、本当に難しい。

さきほどのナニモノくんの場合、「何者か」という言葉は、社会的に名の知られた成功者、というような意味でした。

そういう意味で「何者かになれる」のは、本当にひと握りの「才能・環境・幸運」に恵まれた人たちだけでしょう。

fujiponさんが語るのは、世間的な意味での「ひとかどの人物」のもう少し先にある「何者か」、自分で自分の優秀性を証明しなければならない「何者か」の話のようです。

はたから見れば、医者であるというだけですでに「何者か」であるのに、自分の中に取り込まれた「厳しい」水準からすると、「医者である」だけでは自分の存在価値を十分に認められない。

医者という職業の範囲内で、自分の評価をうまく高めることができない「可哀想な」お医者さんたちは、お金を稼ぐことや、医者らしくない振る舞いをすることで、「何者か」であることを確認しようとする。

fujiponさん自身は「ブログを書きまくる医者らしからぬお医者」として「何者か」になろうとしてらっしゃるのです。

しかし、「ブログを書きまくること」によっては、迷宮から抜け出すことはできないとすでに感づいているfujiponさんは、こう書きます。

 大部分の「何者にもなれない人間」にとって根源的な「しあわせ」みたいなものって、「おいしい朝ご飯を食べて、おひさまの香りがするふんわりとした布団で寝ること」に尽きるのではないだろうか。
 「何者か」であろうとするより、「生物としての根源的な喜び」を積み重ねていくほうが、「正しい」のかもしれない。

ここに書かれていることはまったく「正しい」とぼくは思うのですが、一つだけ付け加えさせてもらうとすれば、

  • 「おいしい朝ご飯を食べて、おひさまの香りがするふんわりとした布団で寝ること」は、何者かになれた人間にとっても幸せだ、ということです。

「反芻思考」という言葉があって、悪いことを繰り返し考えることによって、うつ的になってしまう、というような話だったりするのですが、よい「反芻思考」というのもあると思うんですよね。

「この間、ふかふかの布団で寝て、朝起きて食べたごはんがおいしかったよなー」

って、幸せな反芻をしながら、

「ぼくは今のところ何者でもないんだけれど、気がついたら『何者か』になれてたら楽しいだろうなーー」

と、小さな空想を反芻する。

fujiponさんの文章を読んでいて、そんな幸せのあり方を想像しましたとさ。

主観的なニーズの変形と、「何者かになった」のに「何者にもなれなかった」人だっているという現実 - シロクマ先生の分析

シロクマさんの
「何者にもなれない」の正体と、中年期以降の約束事について - シロクマの屑籠
記事では、「何者かになる」ということは、他者の目の問題ではなく、「自己認識の問題」であることがはっきりと書かれています。

たとえば尾崎豊というミュージシャンがいます。

彼は社会的に言えば、まさに「何者か」になることのできた、時代を象徴しうる稀有な人物であると言えましょう。

けれども、彼が26歳で亡くなるまでの混迷の人生を辿れば、自分が「何者か」が分からないままに「時代の象徴」になってしまった彼の苦悩が伺われます。

人は、自分自身のニーズに見合った社会的役割が与えられているときに「何者かになれた」と実感して、そうでないときに「何者にもなれていない」と感じる

というシロクマさんの言葉を借りれば、

  • 尾崎は、自分自身のニーズと、与えられた社会的役割のギャップに苦しんだのだ

ということになりましょう。

そこで、シロクマさんはこう言います。

自分の持ち札・立場・今後の見通しでは到底不可能なニーズを、変形させることなく野放しにしておくのは、世渡りとしては上手くない。能力開発や進路選択によって自分自身のニーズに近付いていくことも大切だが、自分自身の主観的なニーズを把握したうえで、そのニーズを自分自身の持ち札・立場・今後の見通しに近づけていくこともまた大切だ。

まったくもっともな話ですし、多くの若者も、このような現実的な選択を日々行なうことによって、やがて「大人」としてのポジションを獲得し、「大人」という名の「何者か」になっていくのでしょう。

こうして「主観的ニーズ」を現実に合わせて変形し、自分を積極的に「大人」にしていくことも確かに大切なことですし、多数派の人々にとっては、それほど苦にもならないことなのかもしれません。

けれども、ここでシロクマさんが言葉の魔法を使って、すべての「中年」を「何者か」にしてしまうことは、

  • 何者かになろうとする実存的欲求

の立場からすれば、丸呑みするわけにはいかないのです。

「大人」として、「中年」として、その役割を受け入れることのできる人たちは幸せになることでしょう。

けれども、それができない少数の者たちは、自分が何者かになる日を夢見て生きていく以外に、ほとんど選択の余地がないのです。

お釈迦さまこと、ゴータマ・シッダルタは、「大人」になることを拒否して出家し、「涅槃」という知識を得ることで「何者か」になることに成功しました。

シッダルタは、すべての人間に「何者か」になる可能性があることを示してくれたのです。

そして、その可能性を信じて生きることこそが「善く生きること」だと思うのです。

その可能性を、仏性と呼ぶか、智慧と呼ぶか、あるいは「意志の力」と呼ぶのかは人それぞれでしょうが、ぼくたち人間に、そうした「無限の可能性」が秘められていることは、もう少し多くのみなさんが確認しておいてもいいことではないでしょうか。

「大人」になれる人は「大人」としての「無限の可能性」に挑み、「大人」になれないぼくのようなスカポンタンは、スカポンタンとして「無限の可能性」に挑む。

そんな社会も楽しいじゃないか、と反芻し、夢想する今日このごろなのです。

てなところで、この記事はおしまいです。
それではみなさん、ナマステジーっ♬

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