みなさん、マズローの欲求5段階説はご存知ですか?

ビジネスの世界でも有名な話ですし、5段階説は聞いたことががなくても、「承認欲求」という言葉は聞いたことがある方も多いでしょう。

アメリカの心理学者アブラハム・マズローの説では、人間の欲求には次のような段階があり、

  • 自己実現欲求
  • 承認欲求
  • 社会的欲求
  • 安全欲求
  • 生理的欲求

の5つが、下から順に満たされていく必要がある、ということになっています。

ところが、このよく知られた説に対して、

  • マズローの着想は時代遅れであり「もはやアカデミックな心理学の世界では真面目に取り上げられてはいない」

と真っ向から否定する意見があるのですね。*1

マズローの説については、ふろむださんのこちらの記事でも、「マズローの思想には価値があるが、科学的には根拠がない」という意味のことが述べられています。
ネットに時間を使いすぎると人生が破壊される。人生を根底から豊かで納得のいくものにしてくれる良書25冊を紹介 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ

さて、本当のところマズローの説は、もはや時代遅れの無意味な仮説なのでしょうか。もう少し詳しく見ていくことにしましょう。

マズロー説に科学的根拠はあるの?

冒頭で紹介したマズローの欲求5段階説を否定する言葉は、ウィキペディアのアブラハム・マズローの「批判」という項目から引用したものです。

ここでもう一度該当箇所を全文引用すると、

2006年には、Christina Hoff SommersとSally Satelが経験的実証の欠如により、マズローの着想は時代遅れであり「もはやアカデミックな心理学の世界では真面目に取り上げられてはいない」と断言した。

ということです。

これは英文ページからの引き写しで、そちらを見ると、Christina Hoff Sommers, Sally L. Satel の "One Nation Under Therapy" からの引用であることが分かります。
*2

これだけでは、「ある本がマズローをディスってるだけじゃん」という感じですが、
Maslow's hierarchy of needs - Wikipedia
のCriticismの項を見ると、「検証可能なデータに基づいていない」ことや、「文化による違いを考慮していない」などの批判があることが分かります。

一方、
Abraham Maslow - Wikipedia
のCriticismの項には、イリノイ大学のEd Diener と Louis Tayの研究で、123ヶ国、60,865名についての調査で、文化の違いによらずマズローの説が当てはまることが確認できたことが書いてあります。

つまりマズローの説にもそれなりの科学的根拠はあるのです。

マズローの説に限らず、心理学上の仮説というものは、どのような調査をするかで結果が違ってくることが起こります。

たとえば、心理学の話としては有名な「マシュマロ実験」についても、

  • 「幼児期の我慢強さは、成長してからの学業成績や社会的成功に大きく影響する」

というスタンフォード大学での研究結果に対して、

  • 「幼児期の我慢強さが直接成長してからの結果に影響するのではなく、家庭の経済環境が両者に大きく影響するのだ」

という別の研究結果が存在します。
(つまり、経済的に恵まれた家庭の子どもは、マシュマロを我慢する力が強いし、成長してからの学業成績が優れ、社会的成功も大きくなる、ということ。我慢と成功が直接関連しているわけではない)

ですから、心理学上の「事実」については、様々な条件次第で結果が変わってしまうことを理解した上で、「事実」というよりは一つの「研究結果」であり、

  • 調査による裏づけはあっても「仮説」にすぎないのだ、

くらいに考えたほうが間違いがないかもしれません。

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進化心理学からの「反論」、自己実現よりも「結婚して子孫繁栄」が重要?

さてマズローという心理学者は人間性心理学と呼ばれる分野を開拓した人です。

病者の心理学である精神分析、平均的な人間の心理学である行動主義心理学に対し、優れた人間の心を研究する心理学として、「人間性心理学」を提唱し、自己実現の欲求という高次の欲求を5段階の頂点に置いたのです。

これに対して、現代の進化心理学の立場から異論を唱えているのがダグラス・ケンリックです。

進化心理学では、人間の心理を進化に必要な適応戦略の面から考えるのが特徴です。

ケンリックはマズローの欲求5段階説の最初の4段は認めた上で、一番上の自己実現の欲求を取り去ります。

自己実現欲求は心理学的には重要であっも、人類という種にとっては明白な機能を持つ欲求とは言えないというのです。

そしてその代わりに進化心理学の視点から、子孫の繁栄に関わる「親族養育・配偶者保持・配偶者獲得」の3つを4段階の上に置いて次のようにします。
(用語の違いがあるため、かっこ内にマズローの用語を置きます)

  • 親族養育
  • 配偶者保持
  • 配偶者獲得
  • 地位/承認(承認欲求)
  • 協力関係(社会的欲求)
  • 自己防衛(安全欲求)
  • 緊急の生理的欲求(生理的欲求)

*3

人生において一番の欲求が、「自己実現」から「親族養育」になってしまっては、なんだか即物的すぎて納得がいかないかもしれません。

けれども、これはあくまでも「進化心理学の観点からはこうなる」という話です。

「遺伝子がいかに次代に受け継がれていくか」という進化の視点からすれば、

  • 配偶者を獲得、保持し、親族を養育していくことは、人類にとって重要な欲求である、

ということは、確かに間違ってはいないでしょう。

とはいえ、「自己実現」もやっぱり重要。マズローのピラミッドは永遠です!

進化論的に言えば、配偶者を獲得し、親族を養育することは確かに重要です。

マズローの説にはなかったこうした欲求を、人間の基本的な欲求として考えることは、社会・経済・環境といった人類規模の問題を考える場合にも間違いなく役に立ちます。

けれども、だからといって「自己実現」をトップに置くマズローの説が時代遅れのものかといえば、決してそんなことはありません。

マズローが提唱した人間性心理学は、精神分析という「負の心理学」、行動主義心理学という「平均の心理学」に対して、「正の心理学」という新しい分野を打ち立てました。

現状での進化心理学は、この観点からすると「行動主義心理学のアップデート版」ということができるでしょう。

行動主義心理学が、外側から観察可能な行動を通して「平均的な人間心理」を説明しようとしたのに対して、進化心理学は進化論的な適応・生存戦略の観点から「平均的な人間心理」を説明しようとするものだからです。

とすれば、マズローの人間性心理学と進化心理学で欲求の理解が異なるのは、「むしろ当たり前」の話であって、「どちらが正しくて、どちらが間違っている」というような話ではありません。

静岡側から見た富士山を描いた絵と、山梨側から見た富士山を描いた絵が、違っているからといって、どっちの富士山が正しくて、どっちが間違っているという人はいませんよね。

どちらから見ても富士山は富士山、立っている場所が違えば、見え方が違うというだけの話です。

マズローが研究したのは、アルバート・アインシュタインやエレノア・ルーズベルトといった傑出した人物の心理であり、いわば人類の最高水準としての欲求を「自己実現」としたわけです。

進化心理学的には「自己実現」は基本的な欲求ではなく、「親族養育」や「配偶者獲得」などほかの欲求に含まれるものとして説明しうるでしょうし、そうした考えは、例えば多数派の心理を考える必要があるマーケティングの視点からは大いに意味があるでしょう。

けれども、「人間が求めうる最高の価値」として、「自己実現」を考えることにはまた別の意味があります。

つまり「心理的に健康に生きるにはどうしたらよいか」というような疑問を考えるとき、

  • よい伴侶を探して、よい家庭を築きなさい、

という答えもありえますが、

  • 自分にできる限り最高のことをなして、自己実現をしなさい、

ということも言えるわけです。

進化心理学的な適応戦略としての欲求についても理解した上で、そうした生物的欲求と矛盾しない形での自己実現をはかることができれば、あなたの人生はさらに充実したものになるのではないでしょうか。

てなところで、この記事はおしまいです。
それではみなさん、ナマステジーっ♬

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※なお、この記事は
Ore Changさんのこちらに代表される一連の熱いツイートに刺激を受けて書いたものです。Ore Changさん、どうもありがとうございました。

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*1:参照 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BA%E3%83%AD%E3%83%BC

*2:ちなみにこの本、2005年に出ているのですが、英文ページの時点から2006年と誤記されています

*3:Kendrick 2010 では、下の2段がマズローに合わせて「自己防衛、緊急の生理的欲求」となっていますが、Kendrick 2016では、「病気回避、自己防衛」と変更されています。進化心理学の観点から検討し直したものと思われます