横光利一の「欧洲紀行」を読んでいる。

1936年のベルリン・オリンピックの取材がてら、船でフランスに渡り、ヨーロッパ各国を見聞し、シベリア鉄道で帰国の途、内モンゴルの満州里に到着するまでの思索的な紀行文である。


横光利一は短編「機械」がサルトルからも賞賛を受けるほどの実力の持ち主だが、八紘一宇を素朴に信じ、戦時体制に率先して協力したことが大きな原因なのだろう、今ではほとんど忘れ去られた昭和の作家である。

状況からほどよくその身を切り離して観察する横光の書くヨーロッパは、世界がまだ広かった頃に、半年ほどの見聞でその狭さを実感してしまった男の、怜悧な頭脳の働きを映し出していて興味深い。

例えばこんな具合である。

 外国から帰ると馬鹿になるという説は、日本人の間では常識である。しかし、これではたしかに、馬鹿になるよりしようがない。

 人間が地上を完全に一人で廻ってみたということは、古往今来絶無なのだ。世界の話というものからよせ集めた知力が、つまりわれわれの知っている論理である。この誰もの信じている論理からどれほど多くのことが洩れているか。否、むしろ、洩れているものの方が、知っているものよりどれほど多いか。こういうことに気附いたとき、この者は馬鹿になる。これは懐疑主義というがごとき、言語心理学的な間延びのした知的なものではない。

 万国共通の論理というものがある。これも同様に人間の不完全性から押し上げて来た電流のようなものだ。その証拠にこれが絶えず変るのは、知性の極がどこにあるのか分らぬという危険さを示したことだ。全く何も分らなくなった安全さ――この頭からばかり弁証法という知力が出て来た。私はヨーロッパを廻って来た人で、おのれが賢明になったと信じる人の頭を疑う。

「欧洲紀行」には幾人かの自殺者の名が出てくるが、そのうちの一人に牧野信一がいる。

横光は門司港を2月22日に出港しているが、牧野の自殺は3月24日。

2歳歳上の作家が39歳で首をくくって死んだのをフランスへと向かう船上で知って、横光は何を思ったことだろう。

その牧野信一についてネットで検索したところ、下記のページに遭遇。

以下、松岡正剛の千夜千冊1056夜・牧野信一「ニューロン・淡雪」の回(https://1000ya.isis.ne.jp/1056.html)より引用。

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 哲学と芸術を分岐点に衝突すると、自由が欠ける。そこでやむなく自分を3つに分けた。Aの自分は黄金の吊籠が上下する呑気な芸術家である。Bはストア派の血をうけて聖人の下僕たらんとする者である。Cはピサの斜塔にいて金属球の落下を測るあの科学者の弟子である。
 これが牧野信一の『吊籠と月光』の発端だ。こういう三分三身法を思いついた「僕」は嬉しさに雀踊りをしながらインディアン・ガウンを羽織って、この三者の絡みぐあいをこれから見ていこうという小説なのだ。まったくもって奇天烈だ。
 劈頭に「マキノ氏像」という彫像が出てきて、これについては自分も始末に思案しているのだが、そのためには馬のゼーロンの勇気を借りなくてはいけないというふうに始まるのが、『ゼーロン』である。これまたとんでもない発想だ。
 本書には12篇の作品と随筆が収録されているのだが、どれもがこんなぐあいで、その大半は昭和2年から7年までのわずかな期間に綴られた。実はその前の大正期のものは、もっと変なのだ。

(中略)

 かつて三島由紀夫は中央公論社の「日本の文学」に内田百閒・稲垣足穂とともに牧野信一を収録して、それまでにまったく顧みられることが少なかった3人の比類のない才能を評価しようとした。
 さすがに三島の編集力は冴えていて、たちまち百閒も足穂も浮上して世間を驚かせた。三島はそのあと自害した。ところが牧野信一ばかりは三島をもってしても蘇生させられなかったのである。

北インドの聖地ハリドワルで、新型コロナの時代の幕開けに遭遇し、その地にとどまったまま早1年が過ぎた。疫病がほどほどに蔓延する中、12年に一度の大祭クンブメラが、規模こそだいぶ縮小されたものの、もうじき始まる。1年前の人影の絶えた街の静寂が幻のように、街は活気を取り戻している。

そんな状況に身を置いて、昭和の昔の日本の、まだ敗戦を知らぬ時代の人々の暮らしに思いを馳せながら、読書にいそしむ日々である。

☆この記事で紹介した本

横光利一『欧洲紀行』 (2006 講談社文芸文庫)
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横光 利一『機械・春は馬車に乗って』 (1969 新潮文庫)
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牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』 (1990 岩波文庫)
https://amzn.to/39iKFVB

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