みなさん、「魔法少女まどか☆マギカ」は見たことありますか?

魔法少女ものなのに深夜枠の放送で、可愛い絵柄なのにダーク・ファンタジーでメルヘン・ホラーで、なんとも言えない魅力のあるアニメですよね。

この作品に関連して、はてな匿名ダイアリーに、
所詮大乗仏教である『まどマギ』でマミさんに自力救済ルートはない
というおもしろい記事が投稿されていましたので、今日はこれを肴に宗教論ごっこをしてみようかと思います。

結論を先に言うと、

「人のいうことなんかあんまり気にしないで、自分なりの世界観を創り上げていくほうが楽しいと思うよ」

てな話です。

で、本日のお品書きはこんな感じ。

7,000字もありますので、お暇なときにお楽しみくださーい。
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阿弥陀様に全部おまかせするのって、楽なようで結構むずかしかったりします。

この記事では、「まどかマギカ」のストーリーや世界設定について細かく説明はしません。

とりあえず、主人公まどかの立場を大乗仏教の阿弥陀如来に例える解釈が一般になされている、ということだけ了解しておいていただければ、十分です。

この作品に登場する魔法少女たちは、世界を守るために苦悩しながら闘うことになるのですが、阿弥陀如来としてまどかを信じることによって、最終的には救われることになるという枠組みの解釈です。

これについて元記事の匿名ダイアリーを書いた匿名さんは、

その阿弥陀様が現れるまでの次元・時間においては、魔法少女は絶望して発狂し続けるのです。

というように「否定的」な説明をしていますが、ここはちょっと違うかもな、と思います。

最後に阿弥陀如来の救いを知らない世界においては、確かにその通りでしょう。

けれども、いずれ阿弥陀如来がやってきて救いが訪れるのだということを、きちんと信ずることができたときには、同じ過酷な状況の中で闘い続けるにもかかわらず、その状況に絶望せず、その状況の中で発狂したりせず、自分の役割を果たすことができるようになるはずだからです。

というわけで、みなさんもご自分の人生の真っ只中で、理不尽で不条理な状況に落ち入ってしまったときには、とりあえずは、阿弥陀様や法華経にすべてを預けるのもいいかもしれません。

まあ、なかなかすべてを預け切るわけにはいきませんし、エゴの猿知恵でもってじたばた足掻いてしまうのが、私たち衆生というものではありますけれども(笑)。

かといって、初期仏教の修行主義は、分かりやすいけどストイックすぎて、なかなかついていけませんです。

さて、「まどマギ」の世界では、最終的な救いが登場人物には明らかになっていないことから、匿名さんは登場人物のマミさんに対する説明の形で、セールスマンよろしく、初期仏教の瞑想修行の売り込みをはかる文章を展開していて、これがなかなか読ませます。

初期仏教であればマミさんは自力救済が可能です。
今日は初期仏教のご紹介のためにこちらにあがらせていただきました。
マミさんへのご提案と言う形で
初期仏教の効能と素晴らしさをみなさんに知っていただきたいと思います。

この口上、大変気に入りました(笑)。

このあと、五つの戒律を守り、慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想を実践することで、他力によらない自力の救済が可能なのだという説明が続きます。

件の記事にはヴィパッサナーという言葉はでてきませんが、一日二時間の瞑想を進めていることから、ヴィパッサナーによる呼吸と身体感覚を対象にした瞑想を念頭においているものと推測されます。

しかしながら、このヴィパッサナー瞑想による自己救済も、誰にでも開かれたものであり明快で分かりやすいものであるとは言え、誰にでも簡単に実践できるものではありません。

ぼくもヴィパッサナーに関しては、この七年来ほそぼそと練習を続けてはいますが、何しろなかなかストイックなものですから、「救済」といえるようなレベルには簡単には辿りつけないことを実感しています。

もちろん、練習をすれば、したなりのメリットはありますから、そういうストイックさが合う方には、悪くない方法論ではあります。

でも、やっぱり、合う人は少ないだろうなぁ。
おまけに日本の社会の中では、ちょっとカルトっぽく見えちゃうだろうし。

なお、ヴィパッサナーについては、別サイトに書いた記事がありますので、興味のある方はご一読くささい。

[マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想について・蝶入門編]

キリスト教やイスラム教はよく知らないけど、やっぱりそれぞれに正しいに違いありません。

さて、パクス・アメリカーナな合州国を頂点とする世界秩序が力を持つ現代の政治情勢の中で、「キリスト教社会とイスラム教社会の対立」のようなものが、ぼくたちの生活をおびやかしているかのような言説をあちこちで見かけることも多いのではないかと思います。

けれども、「キリスト教 v.s. イスラム教 - 地球大の決闘」みたいな話って、かなりうそ臭いですよね。

石油やらの資源や、経済的な利害絡みのことが問題の根本にあるのに、そうした論点をすり替えてる印象をかなり強く感じます。

もちろん人間は、集団ごとに帰属意識を持って、その間ですぐ戦争ごっこを始めちゃうような存在ですので、それが実際問題「キリスト教 v.s. イスラム教」のように見えてしまうのも現実です。

とはいえ、歴史的に考えれば、イスラム圏でも異教徒はちゃんとそこに住んで経済活動をすることも認められていたわけですし、原理主義者ばかりがイスラム教徒ではありません。

むしろ西側社会が資金提供してイスラム原理主義者を育てた側面も大きい。

......というような話をしていると、限りなく話が明後日の方向にそれていってしまうので、この辺でやめときましょう。

今言いたいのはこういうことです。

「まどマギ」のマミさんが、突如マザー・テレサの善行に打たれて、貧しい人々の看取りをしながら、そのかたわら、魔法少女として戦うことも設定としてありえますよね。(かなりの無茶振り)

あるいは、イスラム教の神秘主義スーフィズムに目覚め、回転舞踏をしながら魔女と戦うというのは、どうでしょうか。(同程度に無茶振り)

いずれにせよ、魔法少女としての宗教的背景がどうであれ、

「きちんと信ずるものがあれば、困難な状況にも打ち勝つことができる」

はずっていう、まあ、ありきたりで凡庸な話になっちゃいますけどね。

神道の「祓って浄めれば全部オッケー」ってのも悪かない。

さてここで、我が大和の国ニッポンの神道は果たして、どうなんでしょうか。

って、もっともらしく論ずることができるほど知ってるわけでもないので、聞きかじりの断片的な知識から書くだけですけど、ぼくの哲学的先輩に聞いたところによると、

「神道って、教義と言えるようなものは、『祓い給い、清め給え』しかないんだよねぇ」

ですって。

アニミズムと伝説に毛を生やし、文書として一つにまとめたのが、古事記であり日本書紀であり、それがのちに天皇を神と仰ぐ国家神道になるんでしょうから、教義の部分はもっぱら仏教から借りる形で済ませて、神道独自の部分は「祓って浄めて」それだけでオッケーだったってことでしょうかね。

余計な理論建てがないのは、かえってすっきりしてていい気もします。

魔法少女の皆さまにおかれましては、近年のあやまった復古主義的全体主義には巻き込まれないように、それだけ注意していただければ、神道を心のよりどころにするのも、大いに結構なことかと存じます。

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なお、なんでもありでおおらかな感じのヒンズー教の梵我一如あたりが今のお気に入りです。

さて、日本でも「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という言葉は割と知られていると思います。

ぼくはずっとこの言葉を、禅とか仏教のもののように思っていたのですが、違いました。

仏教の生まれる母体となった、インドのヒンズー教の言葉ですね。

(この辺のことは、明治のころ、西田幾多郎さんが書いた「善の研究」による影響が大きいようです)

仏教では「無我」ということをいいますが、ぼくたちが俗世において悩みの主体ととらえている「自分=自我」というものについて、それをよくよく細かく観察していくと、そんなものは存在しないことが分かるのだ、と説きます。

そして、そうした「この世の真理」を体得することで、仏教では「悟り」への道を歩んでいくわけです。

これに対して、ヒンズー教で説かれるのが「梵我一如」という考えで、「梵(梵天=ブラフマー=宇宙)」と「我(真我=アートマン=自我が落ちたときに現れる本当の自己)」は実は一体であり、その一体の境地を知ることが究極の悟りである、というものです。

仏教の無我と裏表の関係といってもいいものだと思います。

(実際歴史上、仏教思想とヒンズー教の思想は互いに影響を与え合いながら発展しました)

お釈迦さまことゴータマ・シッダルタさんは修行オタクだったので、仲間の修行者に対して先輩として、

「きみたち、こんなふうに修行すると悟りが得られるぞ」

とオタクらしい熱心さで修行法を解いたわけですが、ヒンズー教の場合は、もちろん流派にもよりますので、厳しい修行をする流儀もありますが、かなりおおらかな系統もたくさんあって、修行なんてしなくても、

「『真理』に対する想いさえしっかりしていれば、運がよけりゃ悟りがやってくるよ」

みたいな感じだったりもします。

まあ、大乗仏教というのは、ヒンズー教への先祖返り的な側面もあり、「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」などの、唱えていれば救われるという方式も、ヒンズー教の人が、「オーム・ナマ・シバーヤ」などとシバ神を称えることで真理に近づき、悟りの恩恵に預かろうとするのと、似たようなものですよね。

というわけで、ゴータマさん流の、中道とは言え、十分ストイックで厳しい修行方式にはついていけないぼくのような人間の場合、大乗やヒンズー教との折衷的な立場を自分なりの「中道」とし、気の向くまま、苦しくない程度に練習を続けることで、

少しでも「悟り」に近づけたらラッキー

みたいな気分で日々を生きているのが、今のぼくには合っているという話でした。

最後に、宗教というくくりに限らない、哲学的というべきか、科学も含めた世界観の話

これを読んでいる多くのみなさんは、宗教なんて、それほど関心がない方が多いかもしれません。

ぼくはもうじき53になりますが、25のときに会社をやめて、ゴータマさんの生誕地であるネパールのルンビニに行くまでは、自分を仏教徒だなどと思ったことはなかったし、宗教にも特に関心はありませんでした。

今では初期仏教の瞑想法であるヴィパッサナーを気が向くと練習していますけれど、積極的な意味で自分が仏教徒であるとは思ってないし、宗教というものがどちらかと言うと、教団との結びつきにおいて考えられていることからすると、無宗教といってもいいような考え方を持っています。

けれども、この世の法則という意味で考えたとき、「神」というものは存在しているとしか言いようがないと思いますし、仏教ではそれを「法」と呼ぶと考えれば、「法」に従わざるをえないという意味では「法に帰依している」わけですから、仏教徒の一種だと、言って言えないことはありません。

試しに名前をつけてみれば、

「ぼくは一法教の信者でーす」

みたいなことになるかもしれません。

そして、この「神」とか「法」とかをどう考えるかは、まったく人それぞれだとは思いますが、

「この世界はどういうところで、そこでどう生きていけばいいのか」

ということについて、誰もがなんらかの「感覚」を持って生きているに違いないわけですから、それぞれの人が、それぞれの人なりの

「じぶん教」の信者である

ということもできるのではないでしょうか。

もちろん、これをわざわざ宗教と考える必要もありませんから、

「人はみな、それぞれ独自の世界観を持って生きている」

と言ったほうがいいかもしれません。

そして、この「世界観」というものがそれぞれに「独自」のものであることをきちんと意識することが、とても大切なことではないかと思うのです。

しかしながら、実際にはぼくたちは

  • 相手が同じ世界観を持っていることを期待し、
  • 同じ世界観を持つように考えを押しつけ、
  • 同じ世界観を持たないものを切り捨てる

というようなことをしてしまいがちです。

ヒトが集団の中で生きてきた歴史を考えれば、それはそれで当たり前の、避けがたいことではあります。

けれども、地球の表面の相当部分が平らフラットにのされてしまって、コミュニティごとに共有していたはずのそれぞれの世界観は絶滅の危機に落ち入り、

「世界観なんて一つのほうがいいじゃないか」

と言わんばかりの言説が大流行りの21世紀だからこそ、「世界観の独自性」を大切にすることには大きな意味があるし、

  • まわりの大合唱なんて気にせずに
  • きちんと自分の世界観を育て上げること

は、人生を充実させ、楽しく生きることにもつながると思うのです。

こんなふうに書いているぼくは一体何者なのかといえば、自我の根拠のぐらぐらとした、アルコール依存気味のメンヘラ未満な人間にすぎません。

人の視線を気にしながら、自分の居場所をなんとかちまちまと作って、ようやく生き伸びてきたようなものです。

そんな人間ではありますが、若い頃からのSFファンとして、「エヴァンゲリオン」のインパクトを経て「まどマギ」の斬新さをみるとき、そうしたエンターテイメントの作り手の方々の「世界観の独自性」こそが、ぼくたちの生きる今という鬱陶しい時代に、新たな息吹を吹き込んでくれていることを感じますし、その作り手のメッセージを、受け手のぼくら一人ひとりが咀嚼し、消化して血肉としたときはじめて、この絶望の世界に「のぞみ」が蘇り、闇夜の彼方に「ひかり」が見えてくるのではないかと思うのです。

というわけでみなさん、楽しみながら「あなたの世界観」を育ててください。

それぞれに独自の世界観を育てながら、ときには喧嘩もあるかもしれませんが、互いの価値観を認め合って、長いようで短い人生を過ごすことができたら、楽しいじゃないですか。

てなところで、今日も蝶長文に最後までおつき合いいただき、ありがとうございました。

それでは、みなさん、ナマステジーっ♬

追記: id:yuki_2021さんより、ブックマークにてコメントいただきました。

沖縄の先祖崇拝は何があっても「ウガン不足」(拝みが足りない)で片付ける。

これもまた、シンプルでいいっすね。
朝夕に肝を磨いて浮世を渡りましょうっ。
ほいでは、またやーさい!!