2018年9月7日、九州大学の法学部で憲法を学んだ男性(Aさんとします)が、九州大学箱崎キャンパスの研究室に放火して自殺するという悲しい事件が起きました。

Aさんは経済的な困窮が原因で、自死を選ぶ結果になったものと思われますが、他に道はなかったのか、また、今後このような事件が起きないようにするために、わたしたち一人ひとりに何ができるのかを考えてみたいと思います。

中卒で自衛官、そして九大の法学部へ。Aさんの人生を想像する。

フリーランスライターのみわよしこさんの記事、
九大箱崎キャンパス放火・自殺事件~「貧困」という切り口から見えてくるもの(みわよしこ) - 個人 - Yahoo!ニュース
が、Aさんについて比較的詳しく伝えています。

Aさんは中学を卒業して自衛隊に入隊していることから、家庭環境にも恵まれなかったことが想像されます。

1998年、26歳のときに九州大学大学院の修士課程に進学し、その後博士課程に進みますが、博士論文の提出はせず、2010年、38歳で退学。

ドイツ語は堪能で、県内の二つの大学で非常勤講師を務た経験があり、教授の研究補助もしていたといいます。*1

2015年以降は、一人で大学の研究室を使用していたが、顔を出すのは夜間のみのため、ほかの院生との接触はなかったとのこと。

こうした孤立した状況の中、職を失い、アルバイトをするものの研究との両立が難しくなり、住居も失ってしまいました。

寝泊まりしていた研究室が大学の移転のため使えなくなることが引き金となって、今回の事件を起こすことになってしまったと考えられます。

大学での研究といった環境に縁のない方から見れば、

  • 「どんな仕事でも自分にできることをやって、真っ当に生きればいいのに」

と思われるかもしれませんが、苦労した人生の中でやっとつかみかけた「研究職」という夢があきらめきれず、孤独な思考の中で、絶望的な道筋しか見えなくなってしまったAさんの気持ちを考えると、どうにもやり切れない想いが残ります。

これ以上の悲劇を防ぐために。制度の利用と人生の枠組みの切り替えが重要

みわさんは、Aさんが奨学金の返済で経済的に困窮したのではないかと指摘し、生活保護を受給すれば、奨学金の返済も猶予されるので、生活の立て直しが可能だったはずだと述べています。

Aさんが経済的に困難な状況にあったことは明らかですから、生活保護を受給する権利があったこともまた当然です。

問題は、権利があっても「生活保護を受けたくない」と思う場合があることと、行政が生活保護の出し渋りをする可能性があることでしょう。

Aさんの場合は、結果として自死を選んでしまったわけですから、医療機関を受診すれば、うつ病などの診断がなされ、そうすれば、生活保護の受給も問題なくできたはずです。

「生活保護を受けたくない」のと同様に、「精神の病気として診断されたくない」という気持ちもありえますが、「自死を考えざるを得ない状態」に至る前に、誰か相談する人はいなかったのか、そして医療機関の受診をすすめてくれる人はいなかったのかと考えると、Aさんが孤立していたことが今回の悲劇を産んだ大きな要因だったと思えてなりません。

孤立してしまった人を助けることは、現実問題として大変むずかしいことでしょう。

Aさんについては、残念ながらなんらかの助けを得られた可能性は低いように思えますが、Aさんほどではないまでも、経済的な困難を抱えて将来に希望を持てないでいる方は多数いらっしゃることでしょう。

病理専門医かつ科学・技術政策ウォッチャーの榎木英介さんの記事、
九大「オーバードクター」の死にみる「夢のソフトランディング」の重要性(榎木英介) - 個人 - Yahoo!ニュース
では、Aさんの事件を取り上げて、「夢のソフトランディング」の重要性が説かれています。

Aさんは「研究職に就く」という「夢」に取り憑かれてしまったために、悲劇の最期を迎えてしまいました。

けれども、彼の才能を活かす道は研究職以外にもあったはずです。

榎木さんは、

いわゆる「プロボノ」として、専門性を地域社会の問題解決に役立てる

ことをすすめています。

NPOなどの市民活動が活発に行なわれている今の社会では、Aさんの憲法など法律に関わる専門的な知識は大いに役立ったはずです。

市民活動といった対人的な行動が苦手な人であっても、ネットを通じて情報を発信するなど、ほかにもいろいろなやり方が考えられるでしょう。

緊急避難的な生活保護や医療制度の利用を考えるとともに、人生設計自体を旧来型の単線的なものではなく、複線的な枠組みで捉える柔軟性を持つことで、悲観的な視野狭窄に落ち入ることなく、充実した人生を送ることが可能なはずです。

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「東京」的お気楽さから「地方」の息苦しさを想う。

こんなことを書いているぼくは今年54になりますから、46で亡くなったAさんよりも半回り上の世代ということになります。

東京生まれで、何の不自由もなく東京で育ち、東京の国立大学の理学部を出て就職しましたから、特別に研究者になろうと思ったこともありません。

おまけに大卒で就職した一部上場のメーカーも二年足らずでやめてしまい、そのあとはあれやこれやのアルバイトで食いつないできた人生ですから、Aさんのように苦労しながら真面目に勉強し、研究職を目指しつづけた人の気持ちの本当のところは到底分かりません。

ぼくは一時アルコール依存気味で不眠気味になり、神経内科のお世話になったことがあります。

その頃は精神障害の方のための作業所で働いていましたので、精神病院や
クリニックというところがどういうところかもひと通り分かっていましたが、実際に神経内科の診察を受けるには、言葉では表現しがたい「思い切り」が必要だったことを思い出します。

東京育ちの人間ですらそんなことだったのですから、福岡で研究職を目指していたAさんが、簡単にクリニックの門を叩けたとは思えませんし、そもそも自殺を考える自分が「病気」なのだという認識も多分なかったことでしょう。

ましてや「健康」なのに生活保護を受けるなど、まったくありえない選択肢だったに違いありません。

今回のAさんの事件が福岡で起こったということを聞いて、ぼくの頭に思い浮かんだのは、今年の6月に同じ福岡で起こったH氏が殺された事件です。

事件を起こしたT容疑者は、ネット上でのやりとりからH氏に恨みをいだき、面識もなかったH氏がIT関連のセミナーの講師として、東京から福岡にやってきたときに事件を起こしました。

このT容疑者は九州大学文学部出身でイスラム文明を専攻していたのだといいます。

事件当時42歳のT容疑者は、三年前まではラーメン店で正社員として働いていたものの、事件を起こしたときには無職で、孤立したひきこもりの生活をしていたのです。

AさんとTさんとでは、事件の内容も背景も異なりますが、年齢の近さと同じ九州大学卒の「エリート」であることから、この二つの事件がジクソーパズルのピースが組み合わさるように、一つながりの絵として見えてしまったのでした。

Tさんに殺されたH氏は、東京在住の匿名の有名ブロガーでした。

H氏の書く記事は決して品のよいものとは言えず、ほかの有名ブロガーを揶揄する内容で人気を稼いでいたことが、T容疑者にはことのほか不愉快だったようですが、自分の人生が思うようなものにはならないでいたことが、H氏への攻撃的感情として噴出してしまったのではないかということが、事件の背景として感じられます。

Aさんは研究職につける周りの人間と比べて自分に絶望して自死を選んだ。

一方で、T容疑者は東京で景気よくやっているH氏に逆恨み的な感情をいだいて殺人事件に及んだ。

攻撃する対象が自分か他人か、ということは大きな違いですが、Aさんが放火という非常に暴力的な形の死を選んでいることを考えると、この二つの構図の暴力性にはかなりの共通性があることになります。

T容疑者の場合も、孤立してしまったことが事件を起こす要因として大きなものなのは間違いないでしょう。

とすれば、Aさんの場合と同じく、彼の専門性を活かせるような社会の中での居場所を見つけることができれば、もっと違った人生の道が開けていたに違いありません。

ネットは居場所として機能しうる。けれども、余力があれば現実の世界にも目を向けてみよう。

この記事を読んでくださっているみなさんの中にも、現実の世界の中で居場所が見つからず、ネットの世界に居場所を求めている方がいることと思います。

有象無象の人間が出入りし、勝手なことを言い合うネット社会は、決して安全な場所とは言えませんが、プロトコルを守り、クラスタを見極めてつき合えば、十分精神的な拠り所とすることも可能です。

しかしながら、人間が精神のみに生きることはなかなかむずかしいものです。

人とのつき合いが苦手ならば、無理につき合う必要はありませんが、その苦手意識というものも、単に経験が少ないだけで、今までとは違う人間関係の中でなら、問題なくコミュニケーションを取れる可能性もあります。

ネットで見かけたイベントに参加してみたり、ネットで知り合った同じ趣味を持つ人と会ってみたり、ネットをツールとしてまた別の関係性を作ることができれば、あなたの人生は昨日までのものとは違った輝きを帯びることになるでしょう。

その一方で、ネットにさえ触れることもせず、一人の時間を大切にし、自分の中の別の時空の経験を楽しむことだって、人生の目的となりえます。

外野が放つ雑音に振り回されすぎず、かといって独善的になって外野を見下す愚にも落ち入らず、きちんと自分を中心に置いて、毎日を気持よく生きていきたいものではありませんか。

てなところで、この記事はおしまいです。
それではみなさん、ナマステジーっ♬