「問題は」とハンプティ・ダンプティが言いました「僕と言葉のうちのどちらが相手の主人になるかということ、それだけさ」

ハンプティ・ダンプティ - Wikipedia

ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」おもしろいですよね。

「鏡の国」に出てくる、このハンプティ・ダンプティの、一見奇妙に思えるセリフにヒントを得て、今日は言葉が持つ「呪文」としての性質を、「21世紀的」な視点から考えてみようと思います。

ここで「21世紀的な視点」というのは、「コンピュータが暮らしの中に入り込んだ文脈の中で」という程度の意味です。
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プログラミング言語も言葉なの?

みなさんはプログラミング言語を使ったことがありますか?

プログラミング言語というのは、コンピュータに何かをやらせるために、命令を組み立てるための「言語」ですよね。

これはぼくたちが日常使っている「言葉」とはちょっと違います。

「日常言語」は、「命令」だけで成り立ってるわけじゃないですもんね。

けれども、プログラミング言語も「人間が機械に指令を与える=人間と機械がコミュニケートする」ためのものなのだ、と考えれば、「言葉」の一つとして捉えることができるでしょう。

ここではまず、プログラミング言語というのがどんなものなのかを、ごく初歩的な部分だけ、紹介します。

たとえば、python というプログラミング言語があって、これには、print という命令があります(「命令」ではなくて「関数」というんですけど)。

そこで、

print(1+2+3)

と、pythonに指示してやると、

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という結果を表示してくれるわけです。
(print といっても印刷するわけではなく、画面に表示するんですね)

これだけだと、計算機を使うなり、手で計算するなりしても特に変わりませんが、仮に学校の宿題で、

「1 から100までの数の自乗(ある数同士を二回かける)のを計算してきなさい」

という宿題が出たら、どうでしょうか。

計算機を使うにしても、これをいちいち、

1x1, 2x2, 3x3 ....

と100までやるのは大変ですよね。

コンピュータだったら簡単にできそうです。

これをpythonでやるには、

for i in range(1,101):
  print(i*i}

という「呪文」を使ってやることになります。

ここで、

  • 「for 〜」は「〜の間くりかえす」
  • 「range(1,101)」は「1から100まで」(指定するのは101なんですけど、100までになります)
  • 「*」は掛け算

を表していて、結果として、

「i という変数が 1 から100になるまで、i x i の結果を表示しなさい」

という「呪文」を表すことになるわけです。

お仕事で excel をお使いの方などは、こういったタイプの「呪文」が使えると、手作業をコンピュータにまかせられて便利なことは、よくご存知のことと思います。

「呪文の実現」としてのコンピュータ言語

さて、コンピュータというのは融通が効かないものですから、先ほどの「呪文」は、単語を一つ、記号一つ、打ち間違えても、せっかくの「命令」は実行されなくなってしまいます。

「ひらけー、ゴマ」と言えば、秘密の扉が開くのに、「ひらけー、コマ」では開いてくれないのと、これはよく似ています。

「アリババと40人の盗賊」というよく知られた幻想的な物語の世界を、現実の世界において実現してくれたのがコンピュータである』

といっても言い過ぎではないくらいに、よく似ていると思います。

今の世の中には、amazon の alexa のようなシステムがあって、リビングで

「Alexa, play some music. (アレクサ、ちょっと音楽かけて)」

と言うと、実際に音楽をかけてくれるというのですから、まったく魔法的です。

alexa は今のところ英語しか解しませんので、

「ひらけー、ゴマ」

というわけにはいきませんが、近い将来にそれが実現するのは間違いのないことでしょう。

イギリスのSF作家、アーサー・C・クラークが、かつて

「十分に発達した科学は魔法と見分けがつかない」

といったのは、こういう未来の到来を見越してのことだったのでしょうね。

ぼくたちが毎日使っている「呪文」のこと

ところで、日々ぼくたちが使っている「言葉」が、実は「呪文」なのだ、と言ったら、あなたは驚かれるでしょうか?

ぼくたちは「なにげなく」言葉を発し、「なにげなく」言葉に応え、「なにげなく」言葉を無視します。

そうした言葉のやりとりが、「魔法の呪文」のやりとりだとしたら、どうでしょう?

さきほどのコンピュータの例でも見ましたが、「呪文」には

「言葉を発することで、現実の世界に『影響』を与える」

という働きがあります。

「開け、ゴマ」や「コンピュータ言語」はその影響が直接的ですが、ぼくたちが日頃使っている言葉も、それほど直接的でないにしても、現実世界に影響を与えているのは確かでしょう。

言葉の持つ影響力の大きさによって、その呪文が「強い」のか「弱い」のかということは変わってきますけれども、言葉の基本的な性質として「呪文性」というものがあり、そのことを古来日本人は「言霊ことだまと呼んできたんだなあと思うわけです。

コトノハ 2.0 、あるいは言葉を「呪文」として使いこなす方法

weblog で文章を書いているあなたは、どうすれば人に伝わる言葉を綴ることができるのか、とお悩みかもしれません。

ネット上には、コピーライティングから小説作法まで、言葉に関わるあらゆる情報が溢れかえっています。

そうした「言葉の技法」は、個々には役立つものでしょうし、様々な気づきを与えてくれる場合もあるでしょう。

しかし、そうした「技法」を生かすも殺すも、その「技法」を使うときの

「心構え」次第なのだ、

ということをお伝えしたいのです。

たとえば記事のタイトルを選ぶとき、

  • 素朴に内容が分かるものにする、のか
  • 多くの人に読んでもらうために人目を引くものにする、のか
  • 自分の好みを全面に出して個性的なものにする、のか

といったことは、時と場合によるのであって、どのやり方が正解、というものではありません。

人間の世界には「いつでも効く呪文」というものはないのです。

時と場合によって、「呪文の使い分け」が必要なのです。

問題は、そうやってつけたタイトルが記事を通して、どこに読者を導くのか、ということにあります。

そして、その「導く先」というものが、「世界を成り立たせている法則」に照らしあわせたときに「理に適っているかどうか」ということこそが重要なのではないかと思うのです。

ここで「世界を成り立たせている法則」という言葉を使うとき、お釈迦さまことゴータマ・シッダルタさんの説いた「ダルマ」を念頭に置いています。

シッダルタさんの言う「因果応報」は、

「いいことをすればいい結果が得られる。悪いことをすれば悪い結果が起こる。だから悪いことはやめていいことをしたほうがいいよ」

ということですが、言葉を発することの「呪文」としての力を考えるとき、

「悪い言葉は、やめといたほうがいいよ」

ということの意味をかみしめる必要を感じるのです。

「手段は選ばず、とにかくページビューが稼げればいい」とか、「人が不愉快に思うことでもネタになればいい」というような考え方は、結局のところ、自分によい影響をもたらさないのだ、ということです。

まずは、自分がそういう「暗黒面ダークサイド」に落ちないように気をつけること、そして暗黒面に落ちてしまった人のことをとやかくいうのも、暗黒面に片足をつっこむことに他ならないと気づくこと。

そういう「心構え」こそが、21世紀のぼくたちに求められる「文章術」や「言論術」を支えることになるのではないでしょうか。

見せかけだけの「合理性ファースト」、必ずしも科学的でない「科学万能主義」の時代であるがゆえに、あえて言葉の持つ「呪文性」に意識を向ける。

「暗黒面」に落ち入ることのないように、しっかりと「心構え」を定める。

そうやって、世界の「暗黒面」ときちんと距離をとるための言葉の技法などということを考えていたら、それを「コトノハ 2.0」とでも名づけたくなるような妄想が湧いてきたもので、インドはムンバイの窓もない安宿のベッドの上、うん○座りをしたり、座を組んだりと姿勢を変えながら、つらつらと文章を綴る那賀乃とし兵衛でなのでありました。

というわけで、みなさん、暗黒面にとらわれて、「言葉があなたの主人になる」なんて事態に落ち入らないよう、気をつけてくださいね。

「人生の主人公はいつもあなた、そして言葉の主人もあなた」でいてくださいね。

今日も、長い長ーい珍妙な文章に、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

それでは、みなさん、ナマステジーっ♬

*1:おっと言葉に超過勤務をさせちゃったから、超過手当を払わないとな(笑)。