ネギさんのこちらの記事、
政治:昔取った杵柄 - ネギ式
を見て、卓見だなと思いました。

日本の人は全体主義を好きか、というと、必ずしもそうではなく、たんに
「全体主義を(再)構築するためのノウハウが蓄積されている」
から、それを選んでしまうのだろう、という説です。

「昔とった杵柄」というわけです。

今回はこのネギさん説に触発されて、日本の将来についてつらつら考えてみようと思います。

ドイツはどこが日本と違うのか

ネギさんの説を簡単にまとめると、

  • 日本の統治者は「全体主義」のノウハウを持っている
  • しかし、日本の国民は「全体主義」を避けるノウハウを持っていない
  • したがって日本は「全体主義」化する

ということになります。

そのとき、たとえば、ドイツは日本とどう違うのか、ということを考えることには意味があるでしょう。

ドイツは敗戦によってナチスについて十分に反省したのに、日本が戦前の「全体主義」について十分反省することがなかった、というような話をよく聞きます。

これはどうしてなのでしょうか?

ひとつには、第一次世界大戦から20-30年というスパンでナチスが台頭したことが重要と思われます。

ナチスの台頭は、第一次大戦の敗戦について過大な補償を求められたことによるドイツの経済的な疲弊が背景にありました。

そして財界もナチスに相乗りしたことで、第二次世界大戦が開戦し、ユダヤの虐殺という異常事態が起こったわけです。

このとき、「三度目の正直」的な意味合いもあり、陸続きのヨーロッパの中での戦後を考えたとき、ドイツがナチス時代の行動について十分な反省をしたのは、実にまっとうなことと言えるでしょう。

対して、わが日本はと言えば、欧米の植民地政策を真似て、中国大陸に進出したときに、後発の「異民族」国家であるがゆえに、「不当」な扱いを受けることになり、やがて英米の「策略」にはまって「太平洋戦争開戦」に至った経緯もあり、「無謀かつ無茶苦茶」な戦争をした、という自覚はあったにしても、自分たちのやり方に対してあまり反省をしなかったのは、ある意味で当然なのかもしれません。

昭和の高度経済成長期に育ったぼくは、

『「敗戦」を機に、一夜にして日本は変わった』

かのような「神話」を聞かされたものですが、実のところ、そのとき変わったのは、ごく表面的なものにすぎなかったようです。

それまでは「鬼畜米英」と言っていたものが、「アメリカの腰巾着」を装いながら、「いつかアメリカを見返す大国になってやる」という野望を抱くことになり、それを今まさに「実現」しようとしているのが、「安倍政権」ということになりましょうか。

どうにも残念な国ニッポン

さて、安倍さん率いるニッポンは、いずれ憲法の改変をはかり、緊急事態条項を組み入れることで、「全体主義化」の総仕上げに至る見込みがかなり高まってきました。

けれでも、そのような「全体主義体制」を作ったからといって、誰もニッポンを尊敬してくれるわけではありませんし、戦前の日本が欧米列強から除け者にされたような状況を再現するのが関の山でしょう。

このような先行き不透明な日本において、国民に取りうる選択肢は限られています。

とにかく、自分の正しいと思うように生きること。自分の暮らしを大切にすること。弱いものに援助の手を差し出すこと。

自分が生きていくだけでも大変なことだとは思いますが、その中でも、自分の信じる価値観を大切にすることが、生きる意味につながるものと思います。

「こうしなければいけない」というような硬い「思い込み」からではなく、自由で柔らかい考え方を心がけることによって、一日一日にゆとりを持っていきたいものだと思うのです。

てなところで、この記事はおしまいになります。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬