先日来、匿名ダイアリーの記事
30過ぎて100万も貯金が無い奴は信用できない
がにぎやかに取りざたされているのが、気になっておりました。

ネット上での議論というものは得てして、

「あの話はおかしい」

とか

「おれの話を聞け」

とかいうことになってしまって、そういうやり取り自体はおおむね「不毛」なのですが、そうした「不毛な荒野」にも幾粒かの真実の種が埋まっていたりするのも、普通にあることです。

というわけで、今日のメニューはこんな感じです。

いい大人が100万円貯金してないなんて、ありえないよね

匿名さんの主張は、「30すぎて貯金が100万円ない人間は信用できない」ということで、

「なるほど、そうですか。信用できないんですねー。うんうん」

と聞くしかないようなお話です。

人間、どんな主義主張を持とうと自由ですから、これをお読みのあなたにも、

「こういう人間だけは信用できない」

というような思いがきっとあるだろうと思います。

ただ、多くの「良識的」な人間は、そういうことをわざわざ声高にネットで主張はしない、というだけのことですよね。

でもさあ、貯金なんて一銭もなくても、生きていけるじゃん

上の匿名さんの記事に対して、ポジ熊さんという方が、
貯金100万円どころか借金もろもろ3,000万弱ある - ポジ熊の人生記
という記事を書いてらっしゃいます。

「貯金はあったほうがいいけれど、ないからと言って、責めるような話じゃない」

というような内容です。

いたってまっとうな意見なのですが、ぼくとしては、ひとつ気になる一節があります。

ギャンブル癖などは、個人的に改善できる浪費だと思います。次いでソーシャルゲームの課金や暴飲暴食でしょうか。ここらへんは、見直すのも悪くないですよ。

ここでポジ熊さんが「浪費」といっているものは、過剰なストレスに対する防衛反応としては、ごく自然なものなんですよね。

自然なものだけれど、度を過ぎると、「依存症」と呼ばれる状態になって、社会的な生活が破綻します。

注意が必要なところですし、同情の余地は大いにあります。決して責めるべきではないし、責めたからといって解決するものではありません。

そして、ギャンブル依存やソシャゲ依存で生活が「破綻」したとしても、日本は「先進的」な福祉国家であり、「法律」にのっとった救済の仕組みがありますから、貯金なんてなくても、健康で文化的な最低限度の生活が「保障」されています。

とすれば、事情があってもなくても、貯金を持つか持たないかは、個人の自由の範囲だと言えるのではないでしょうか。

ついでに、「最低限度の生活」がなぜ保障されているのか、ということについて一言。

「最低限度の生活」を保障するために「生活保護」という制度があって、病気などで働けなくなっても、安心して暮らすことができるのですが、これは決して「お涙頂戴」の慈善事業ではありません。

そうではなくて、この制度は、仕事につくことができず、生活に困った人が犯罪に走ったりすることで、社会的な安定が崩れることを防ぐために、社会の安全を保障する制度としてあるものです。

ですから、「お金に困った人を自分たちの税金で食わせてやってる」などと思うのは、多分に「曲がった」考え方です。

実際には、自分たちの「社会の安全を守るため」に必要な経費だからこそ、税金でまかなう価値があるのです。

てゆーか、みんな常識にしばられすぎなんとちゃうん?

匿名さんは、100万円貯金がない人を切り捨て、ポジ熊さんは浪費癖のある人を切り捨てます。

誰がどんな考えを持とうが、各人の自由ですから、否定はしません。

でも、

「100万円の貯金がなくなったら誰にも相手にしてもらえない」

とか、

「依存症になったら人生おしまいだ」

とかいうのって、人生観としてすごく窮屈じゃありませんかね?

現にぼくは、貯金ゼロで住所不定・無職ですし、アルコール依存でクリニックに通った経験もありますけど、とりあえず元気に生きてます。

インドあたりをぶらぶらしてて、ひと月三万とかで暮らしてる仙人系の人間ですから、日本の一般的なみなさんの生活とはかけ離れてはいますけど。

で、かけ離れた立場だからこそ言うんですが、日本ってかなり「均質的」な社会で、その中でも「似たような」人間同士で付き合うから、「常識」の幅も狭くなりがちだと思うんですよね。

自分の「常識」の限界を見直すためにも、少し違う「世界」を見たほうが、

「人生楽になるんじゃないのかなー」

などと、お節介なこととは知りながら、思ってしまう私なのでした。

50すぎで貯金ゼロでも、社会的な「信用」くらい持ってる話 (ただし、ささやかな信用だよ)

お金も地位も名誉もなくても、信頼できる友人を持てるのは当たり前すぎる話です。

芥川の「杜子春」じゃありませんが、お金がなくなって去っていくような関係の人は、友だちとは言えませんからね。

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それで、ここで書く「信用」というのは、経済的な話でして、簡単に言っちゃえばクレジットカードのことです。

クレジットカードというものは、社会的な「信用」がなければ作ることができません。

そしてそれは「貯金が100万あるかどうか」とは関係がありません。

カード会社も商売ですから、とにかく毎月使ってもらって、毎月払ってもらえればいいわけです。

基本的には「毎月安定した収入」があることが前提です。

でも、それは「建て前」というやつでして、

「毎月使って、毎月払う」

ほうが重要なわけです。

ですから、ぼくの場合、毎月の安定した収入はありませんが、クレジットカードを持っていてキャッシングもできます。

最低限の与信枠しかありませんが、ぼくのような仙人系にとっては十分すぎる額です。

日本にほとんど帰ることなく、長い海外生活をする場合、カードでキャシングができるのは、ほんとに助かります。

与えられた枠の中で、きちんと支払いをしている限り、この「信用」がなくなることはないでしょう。

というわけで、これがぼくの持つささやかな「信用」の話でした。

不毛な議論に三本の毛を生やす方法

世の中には「不毛な議論」などにこれっぽっちも興味を惹かれない、というような健全な精神の方もいらっしゃるのだと思いますが、ぼくのような自己評価の低い人間は、そんなものに関わってもいいことないよと、分かっていても、ついつい「議論」の中身をあれこれつつき回して、あーでもない、こーでもない、と考えて、うっかりすると相手を否定するようなことを書きたくなってしまったりします。

でも、「相手の否定」は最悪手です。

たとえ相手が「悪魔」のような考えを述べていたとしても、

「悪魔には悪魔の事情があるもんねぇ。いろいろ大変でしょうねー、うんうん」

と聞き流すくらいの鷹揚さが大切です。

そうして、「悪魔」の話をきちんと聞いたあとでなら、こちらがいくら「鬼」の立場から何かを言おうが、それはそれでこちらの自由というものです。

ただし、もう一度書きますが、相手の否定はしないこと。

あくまで、「自分はこう思う」という範囲にとどめることです。

議論とか、表現の自由とか、民主主義とかいうものについて、世に広くひろまっている誤解があります。

それは、

「相手を否定して、自分の正しさを説明するのが議論だ」

というものです。

もちろん、これはぼくの主観的な意見です。

なにしろ、数学の公理系や、物理の定番の理論ならいざ知らず、「1+1=2」とか「地球は太陽の周りを回ってる」とかいう一見科学的な常識にしたって、みんなただの主観的な意見にすぎません。

ですから、ここはお釈迦さまの立場をみならおうじゃありませんか。

  • 人とは議論しない。
  • すなわち人の意見を否定したりしない。
  • ただ、自分の意見を述べるだけにとどめる。

これがぼくの「不毛の議論に三本の毛を生やす方法」です。

長々しい文章に、最後までおつき合いいただきありがとうございました。

てなわけで、みなさん、ナマステジーっ♬

※なお、この記事は
ブロガー対決。「人間対熊」個人の選択と、貯金の有無。喝だっ! - Saruの進化は止まらない!!
を見て、「よし、いっちょ書いてやるか」と重い腰を上げて筆を取ったものです。
きっかけを与えていただいたSaruさんには、深く感謝する所存です。