みなさん、こんにちわ。

今日は、カメキチさんのこちらの記事、
2017.12.13 業 - kame710のブログ
を読んで、「業」というものについて考えたことを書きます。

重さの違いはあっても、「業」は誰もが背負うもの、かな。

カメキチさんは、こう書いてらっしゃいます。

「残酷」としか思えぬ事件の詳細を知ると、そう思ってはいけないと心で打ち消そうとしても、ごくごく…一部ではあっても「業」にとりつかれたような生き方をする人間が確かに存在する、と認めざるをえなくなる(どなたか、それはまちがっていると言ってください!)。

重い「業」にとり憑かれた人は、確かにいると思います。

でも、重さは違っても、みんなそれぞれに「業」を背負ってるんじゃないですかね。

「過去生のカルマ」というものがあるかどうかはともかくとして、生まれや育ちの中で、いろいろな影響を受けて、今のぼくたちの人生があるとき、その過去の影響が「業」というものではないでしょうか。

で、「業」という言葉は、「だから仕方のないもの」、みたいな「あきらめ」をともなって語られることが多い気がしますが、そこはちょっと違うんじゃないかと思うんですよね。

カルマを落とす人生哲学としての仏教

ぼくはここ数年、初期仏教のヴィパッサナー瞑想をやっているもので、仏教の世界観、人生観というものをぼちぼち勉強しているのですが、「業=カルマ」に当たるものとして、「サンカーラ≒反応」という言葉が使われます。

日々の暮らしの中で、いいことや悪いことが起きたとき、それに喜んだり、悲しんだりという「反応」をすることが、心の中に「サンカーラ」を溜め込み、それが人の心をもつれさせていく、といった考え方です。

「業」というものは、結局、今までの人生の中で無意識的に作り上げてしまった「反応の集積物」でしかないので、瞑想をすることによって、日々の暮らしの中で生じる一つひとつの「反応」が、やってきては、やがて消えていくのを、観察してやることによって、「サンカーラ」のもつれを心の中に溜め込むという悪いくせをなくしてやれば、いずれすべての「反応の集積物」である「業」というものも、きれいに洗い流すことができる、というのが、仏教的な悟りへと至る道のあらましなんですね。

話は簡単、けど、実践は難しい。それが人生でしょうか。

ぼくたちはつい、人の悪いところを見て、「あの政治家が悪いから」とか「どの政治家もろくでもない」とか、批判することで満足してしまうようなところがあります。

けれども、人のことを言うより前に、自分の行ないを直したほうがいいよ、というのが仏教的な人生観です。

そして、自分の心が落ち着いたものになれば、周りの人にもよい影響を与えられるって話なんです。

まあ、そうはいっても、長い人生の中で背負ってしまった「業」を、はい今日でみんな放り出しちゃいましょう、というわけにもいきませんので、ぼちぼち自分のあり方を見つめなおしていく以外に方法はありません。

まずはゆっくり深呼吸をして、体に入ってる余計な力を抜いてみるところから。

いつの間にか背負ってしまった重たい荷物を、日々少しずつ下ろしていくことができれば、ふと気がついたときには、身も心も軽々となって、毎日を気持よく暮らしている自分に気づくことになるかもしれませんよ。

こちらに瞑想についての記事も書いてますので、気が向いたらご覧ください。

・[medoninf.hatenablog.com/entry/2017/05/01/170457:title]

てなことでみなさん、ナマステジーっ♬

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