いつの間に「保育園児は文字を書いてはいけない」という法律ができたんですかね? あるいは全体主義へとまっしぐらなニッポンで、それでもへこたれずに生きるために
保育園の先生が子どもたちに「字を書いてはいけない」と教えている、という話をネットで見て、
- えー、ほんとにーっ!
と思いました。
もちろん
- 「保育園児は文字を書いてはいけない」という法律
などというものは存在しません。
とはいえ、大人の都合によって、子どもたちにそういう「奇妙な思想」が吹き込まれるのは、あまり気持ちのよいものではありませんので、今日はこれを出発点として、日本の社会のあり方について、少しばかり考えてみることにします。
「嘘」をつく「先生」たちと、どうつき合うか
保育園の先生が子どもたちに「字を書いてはいけない」と教えている、という話は、fellfield さんの
・文字を書いてもいい - ツンドラ
という記事で見かけました。
fellfield さんが、子どもを保育園に送っていったところ、子どもの友だちがやってきて、
「保育園ではまだ文字を書いちゃいけないんだよ!」と詰め寄ってきた
というのです。
少しの間、どうやってその子に言葉をかけようかと考えてから、fellfield さんが、
「書いてもいいんだよーだ。パパがいいって言ってるんだから、いいんだよ」
と言うと、友だちの態度は和らぎ、その場の緊張状態は収まった、という話です。
その保育園では、
「文字を書くことを禁止はしない」「子どもの成長段階にはまだ早いので、積極的に教えたりはしない」
ということになっているのですが、実際には先生たちは「書いてはいけない」と指導をしているらしいのです。
たびたび子どもが「先生に書いちゃダメって言われた」と言っている。そのたびに妻が「書いてもいいんだよ、先生がそんなこと言う訳ないよ」と言うのだけれど、僕はただシンプルに「先生が嘘をついている」と思う。子どもが先生に言われたというなら、きっと、先生は言ったのだろう。そして当然ながら、先生たちの嘘は、子どもたちも見聞きしてしまうことになる。
fellfield さんのお子さんは保育園の年長さんで、その年頃になれば、子どもによっては、十分「大人のずるさ」も分かってくるのですから、fellfieldさんは、わざわざ「ずるい大人」に物申すことはせず、
今後また何かあれば、他人に禁じられたものを「やっていいよ」と解いてあげたり、他人に強制されたものを「やらなくていいよ」と解いてあげる役割を果たしていこうとは考えている。いつか子どもが自分自身で「これはやる」「これはやらない」と決められるようになるまで、あと何年かはそうしようと思っている。
という、とてもバランスの取れたスタンスで構えてらっしゃいます。
いいお父さんだなー、と感心する次第です。
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本音と建前が「見え見え」の社会で
ぼく自身が幼稚園に通っていたときの話なのですが、園庭にブランコが2つだけあって、遊び時間には多くの子どもたちがブランコに乗りたくて、列を作って待っています。
気の強い、世渡り上手な女の子と、その子分のようなもう一人の女の子がそのブランコを占領していて、それに対して先生が
「〇〇ちゃん、ちゃんと順番で代わってあげるのよー」
と声をかけます。
すると、女の子たちは、
「今、乗ったばかりでーす」
と元気な声で返事をして、いつまでもブランコに乗り続けるのです。
そのとき自分が感じた気持ちは、とても言葉になるようなものではありませんでしたが、今大人の立場から振り返ってみれば、
- 女の子たちは平気で嘘をついている。それなのに
- 先生は形式的に注意するだけで、女の子の嘘を容認している。つまり
- この世界にはそれまで信じていたような形での正義というものは存在しない
ということを、ぼくはそのとき初めて知ったのでしょう。
「嘘はついてはいけない」と言っておきながら、「嘘をついている人」をそのまま黙認し、あるいは自分自身が平気で「嘘」をつく。
そういう大人がいることを、子どもたちは間近に見て育っていくのですから、子どもがやがて大人になり、世渡りの術を身につけていくときに、嘘も方便とばかりに、自分に都合のいいことを言うようになり、あげくの果てには総理大臣までが嘘をつき放題の国になってしまったことも、もう本当にどうしようもない、人間の愚かさに対しては打つ手がないとしか言いようがないなと、両手を挙げて降参したくもなるところではありませんか。
建前ではいくらでもきれいなことを言っておいて、やってることは強欲な嘘っぱちのことばかりでも、そのおこぼれに預かるためなのか、締め付けの強いムラ社会で寄らば大樹の陰ということなのか、とにかくその「腐った本音」の持ち主である「先生」たちをよいしょして作り上げることができたのが、国民をどうやってこき使うかに知恵をしぼる、この素晴らしい戦後自由主義の経済優先国家ニッポンというわけなのです。
それでもへこたれずに生きるために、オフグリッドな人生を構想する
現状のニッポンという国家は、最悪のサイクルに落ち入っているといっても言い過ぎではない状況にありますから、国外逃亡が可能なセンスの持ち主は、沈没寸前の泥船はさっさと見限って、どこかに安住の地を探したほうがいいのではないか、とすら思いますが、なかなかそうもできないのが現実というものでしょう。
そうであれば日本の中で、機能不全を起こしているシステムから、できるだけ自分のあり方を切り離した形で人生を構想することが大切になります。
たとえば電力の問題ひとつ取っても、日本は旧態依然とした「原子力依存システム」にしがみつこうとしているのですから、その流れに一石を投じるためには、通常の「送電システム=グリッド」を使うことをやめて、太陽光パネルなどを使った「オフグリッド」の生活を始める、といった先進的なあり方が望まれます。
あるいは、大企業に頼らない、小さな経済圏の創出や、種子産業に支配されない有機的な小規模農業のあり方にも、もっと関心が持たれるべきでしょう。
こうした「大規模システム=グリッド」に頼らない新しい「オフグリッド」な生き方というものは、一朝一夕に実現するものではありませんが、今日本の各地で、あるいは世界中でも、小さな動きは立ち上がり、さまざまな活動をしている人たちがいます。
メディアに流れる情報は、国家規模のきなくさい抗争の話であり、大企業に都合のよいバイアスのかけられたニュースということにどうしてもなってしまいますが、きちんと目を見開いていればそうした中にも、人類の未来を見据えて、戦争のない差別のない格差のない社会を目指す、真摯な人々の姿を見出すこともできるでしょう。
現時点でのマジョリティの「どうしようもなさ」を嘆いても、攻撃しても、それは残念ながら、ぼくたちの未来を明るく照らす力にはなかなかなりえません。
そうではなく、現に存在する、あるいは今芽を出そうとしている、明日への希望を作り出す力に注目し、それを育てていくことこそが、今を生きるぼくたちが、自分たちの子どもたちの世代へと、この社会を譲り渡していくために、何よりも大切なことではないでしょうか。
ほとんど具体的なことが書けないままですが、だいぶ長くなりましたので、この記事はこの辺で終わることにします。
それではみなさん、ナマステジーっ♬