ゲンミツ派とザッパ派の仁義なき戦い、あるいは、普通の人は「普通」という言葉を *普通* どう使うんですかね?
はいさい、みなさん、お元気ですかー。
おまきざるさんの、
・普通とは何か? - おまきざるの自由研究
という記事がおもしろかったので、今日はちょっと相乗りさせてもらいます。
人が使う「普通」が分からない、おまきざるさんのモヤモヤ
おまきざるさんが書いているのは、
- ネットで見かけた記事に「普通の人」と書いてあるのだけれど、
- そこでの「普通」の意味が分からない、
- あるいは「普通」の使い方がおかしい気がして、
- モヤモヤした、
といった話です。
そして、
一言で表現するならば,「普通」とは自分の観測範囲内でのマジョリティなのかもしれません.
という形で「普通」という言葉を説明してくれていて、これには納得です。
その説明にたどり着く過程では、
何が「普通」なのかは時代によって,そして自分を取り巻く環境によって変わります.
と述べ、その例として、
「普通コンビニで薪が売っているか」
という話を上げてるんですよ。
コンビニで薪が?
いや、そんなもの、「普通」売ってないですよね。
と、東京原住民のぼくなどは思うわけですが、なんとノルウェーには日本のコンビニ・サークルKがあり、そこでは薪が売っているというのです。
さすがノルウェー!
......と思わず称賛したくなるところですが、そのあとに更に驚きの報告が続きます。
Aさん「えっ、薪? そんなん仙台のコンビニじゃ普通に売ってるよ」
Bさん「てことは仙台はノルウェーだった!?」
......みたいな話で、これには大笑いしました。
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あなたは「普通」という言葉を定義して使いますか? ゲンミツ派とザッパ派の話
そうして、モヤモヤに端を発したおまきざるさんの考察は、
- 「普通」という言葉を定義しないで使う場合、読者がそれぞれにイメージを浮かべるのでコメントが集まりやすい。
- 逆に「普通とはこうだ」と定義すると、「自分はそう思わない」という異論が出やすい。
- 記事中で定義をしないで「普通」という言葉を使うのは、コメントを誘うためのあざとい手法である。
- と同時に、そうした記事は「普通」とは何かを考えるよいきっかけにもなりうる。
という結論に至るのですが、ここはちょっと「はてな?」と思いました。
「普通」とは何かを考えるよいきっかけになる、という最後の結論はいいのですが、「普通の人」という言葉を使った方に、そんな「あざとい」意図があったようには思えないんですよね。
もちろん、これはぼくの解釈にすぎませんから、間違っているかもしれません。
けれども、ここで読者の皆さんにうかがいたいのは、
「普通」という言葉をいちいち「定義」してから使いますかね?
ってことなんです。
科学派であり論理派であろう、おまきざるさんにとっては、記事内容のゲンミツさが大事でしょうから、「普通」を「定義」することは、*普通* のことなんだろうと思います。
また、おまきざるさんの記事にブックマークでコメントをつけている方々も、おおむね似た意見をお持ちのようですから、こうした立場をゲンミツ派と呼ぶことにしましょう。
しかしながら、おまきざるさんが「モヤモヤ」した大もとの記事の一つである
・普通の人がお金のことについて勉強しておくべきこと - ゆとりずむ
を書いたらくからちゃさんからすれば、
「えっ、『普通』を『定義』してから使うってどういうこと? 『定義』ってなんだっけ!?」
みたいな感じではないでしょうか?
(勝手な解釈ですので違ってたら、らくからちゃさん、ごめんなさい)
そして、こちらのらくかちゃさんの記事についたブックマーク・コメントを見る限り、やはり誰も
「普通とは何ぞや?」
などいうことは、これっぽっちも気にしていないようにお見受けします。
どちらかといえば感覚派であろう、らくからちゃさんにとっては、
「言葉をいちいち定義してから使う」なんて *普通* ありえない
んじゃないでしょうか?
そして、そこにコメントを残している方々もおおむね、「いちいち定義なんてしないでいいよ」と、たぶん大雑把に思ってるでしょうから、こちらはザッパ派と呼ばせてもらうことにしましょう。
なお、ザッパ派というのは、その語感が大変気に入ったために、この言葉を使っているだけであり、ぼくは「大雑把」が悪いことだとはまったく思っていません。文脈から明らかだとは思いますが、念のため、お断りしておきます。
この項の最後に。
らくからちゃさんの記事における「普通」という言葉は、「多くの人」といった程度に読みかえ、記事のタイトル自体を
「多くの人に知っておいてほしいお金の話」
くらいに読みかえれば、まずまず妥当な内容の記事ではないかと思います。
もしもあなたが、元のタイトルのつけ方自体が「あざとい」じゃないか、というご意見ならば、はい、確かにちょっとあざといなと、ぼくも思います。
ですが、「普通」という言葉の使い方について言えば、いたって *普通* だよなぁ、と思うわけなのでした。
ゲンミツ派とザッパ派の仁義なき戦い、あるいは無駄な争いはやめるが勝ち
とまあ、そんなわけで、ぼくはどっちかというとザッパ派なもんで、ゲンミツ派の人たちが、
「おれたち、ゲンミツで正しいんだもんね」
みたいなことを書いているのをみると、ついからかいたくなっちゃうのが悪い癖なんですが、はてなの場合、いわゆる理系の人が多いからでしょうか、ゲンミツ派の方々がザッパ派の人たちに「かみつく」ような場面に出くわすことも割と多い気がします。
でも、こういう「争い」って
「労多くして益少なし」
ではないでしょうか。
それぞれが別の立場で、別の表現をしているにすぎないし、ネット上には実質「無限」といっていい表現のための空間があるんですから、「相手方の記事」にブックマークがいっぱいついて目に入ってくるのがうるさいからといって、まあ、うるさいのは分かりますけど、そんなの気にしなけゃいいだけのことじゃないですか?
みなさん、もっとスルーする力をつけてもいいのでは??
そんなことを言いながら、こうやってわざわざ「相手方」にちょっかいを出すような記事を書いている自分の趣味の悪さも承知の上ではありますが、まあ、この記事は別に誰かの「悪口」を書いているわけではなくって、あくまで、
- ゲンミツ派とザッパ派という、別々の種族が存在するということと、
- ゲンミツ派とザッパ派は住み分けて、共存することが望ましい
という意見を表明しているのだということで、ご勘弁願います。
ちなみに、「仁義なき戦い」の菅原文太、かっこいいですよね。
「なめたらいかんぜよ」っていうセリフも素敵(あっ、これは「極道の妻たち」か)。
てなわけで、今日のところはこの辺で終わりにします。
それでは、みなさん、らた・まいしゅうーっ♬
(ややスネークマンショー風)