火事と喧嘩は「はてな」の華か、あるいは、すべての繊細な魂に安らぎあれ
はてな村のみなさん、おはようございます。
この記事では、はてな村の「火事=炎上」と「喧嘩=議論」について、思い浮かんだことなど、つらつら書こうと思ったのですが、「火事」については結局書かずに終わってます。看板倒れでごめんなさい。
ちなみに今日の話から教訓を引き出すとしたら、
- あなたの何気ない言葉が、人を深く傷つけることもある
- あなたの言葉で誰かが「怒って」しまったら、そのときはきちんと相手の話を聞こう
- 相手の考えに誤解があれば、誤解をとくように説明をしよう
- 相手の考えがおかしくても、そして、誤解をとくごとができなくても、「相手が不愉快になるような言葉」を発したことについては謝ろう
てな感じになるかもしれません。
いつもと違って、「である」体の文章で書きますので、よろしくお願いしまーす。
口は災いのもと
発端
「とにかくページビューが稼ぎたい」
そんな気持ちを抱えながら、どういう記事を書こうか、考えていた。
「炎上 対策」というキーワードが浮かんだので、検索してみた。
企業向けの炎上対策のページがトップだったので覗いてみると、
① 重要な情報のやり取りをしない
(中略)
SNSでやりとりする情報は、基本的には「すべて公になってしまう」と考えましょう。
とあるので、思わず笑ってしまった。
「いやそれ、*基本的に* じゃなくて、*すべて公* に決まってるじゃん!!」
この記事をネタにすれば、「お笑い」かつ「実用」の炎上対策記事が書けるなとは思ったが、自分のブログの現状を考えると、「炎上一般」ではなく、ここに「はてな」をからめたほうがいいように思えた。
「炎上 対策 はてな」で検索し直してみた。
「踊るバイエイター」という奇妙な人物
六番目に踊るバイエイター氏の記事があった。
ブログ関係で検索していると、この人の記事にはよく出くわす。ちょっと変わった人だが、内容はそれなりにしっかりしているので、今までにも何本か記事を読んだことがある。
タイトルにある、はてな「ブックマークの『深い闇』」という言葉に惹かれて、その記事を読んでみた。
はてなユーザーが「炎上商法」にはまりやすい理由と、それをしないほうがいい理由が丁寧に書かれていて、なるほどと思ったのだが、その記事には「はてな村における『喧嘩』」をまとめた記事へのリンクが貼られていた。
人間というものが繰り広げる、埒もないやりとりに対する野次馬的な関心は人並みにあるが、いちいちそれを覗き見していても切りがない。
けれども、そのまとめ記事のタイトルに「自由に書くことは難しい」とあったため、ぼくはそのパンドラ・リンクをクリックしてしまったのだ。
ぼくたちはみんな自由、つまり喧嘩するのも自由
いささか趣味の悪い話
人の喧嘩の記録を掘り返すのは趣味の悪いことだろうか。
それをネタとしてだけ扱うのなら、お世辞にも趣味のいいこととは言いがたい。
現にぼくはそれをネタにしているのだから、いささか趣味の悪い人間の一人にすぎない。
けれども、ぼくには一つの信念がある。
それは「すべての人間は自由である」ということで。
この文章を続けて読むのも読まないのも、あなたの自由だし、読んだ結果、批判をするのも自由。
そして、過去のでき事から何かを学ぶのは、まったく悪いことじゃない。
ということで、とあるネット上で起きた「議論という名の喧嘩」について書くことにする。
「安易な」批判から喧嘩は始まった
ある人物が、あるタイプのブログを「批判」する内容の記事を書いたのだという。
この人のことは批判くんと呼ぼう。
個人の雑記ブログが、普段とは関係のないスキャンダラスな時事ネタの記事を、ページビューを稼ぐためだけに入れてくるのはいかがなものか、という趣旨のことが、その記事には書かれている。
「自分はこう思いました」という感想としては、この主張に何もおかしな点はない。
けれども、その記事では、そうしたブログを書いている人について、「余計なお世話」的批評の言葉が並べられ、したり顔で先輩ぶった「助言」がなされており、「仲間向け」のひとり言的記事にすぎないとは言え、読む人が読めば不愉快な内容だった。
もちろん、何を書いたって自由だ。批評でも助言でも好きにすればいい。その内容をわざわざ否定するまでもない。
だが、それに「かみつく」人が出てきたとしても、いた仕方のないことだとは思う。
「狂犬」があらわれた
なぜここで「狂犬」があらわれることになったかの説明は省く。
人生には不条理な事態がつきものだ。
不条理なことに「狂犬」があらわれたのだと考えてほしい。
とにかく「狂犬」はあらわれて、批判くんに噛みついたのだ。
しかし、人のことを「狂犬」呼ばわりするのは礼儀にもとる。
批判くんから見れば、その人物は「狂犬」にしかすぎないだろうが、その人物には人物なりの、感情もあれば意図もある。
ここでは情熱くんと呼ぶことにする。情熱が溢れすぎて「狂犬」と間違われたからだ。
とにかく、情熱くんは批判くんに噛みついた。
その内容はといえば、批判くんの文章を勝手に添削したり、内容にいちゃもんをつけたりするような、まったく喧嘩を売っているとしかいいようのない記事なのだが、批判くんの記事にわずかでも「不愉快さ」を感じていれば、たいへんおもしろく読めてしまうような、実にうまい文章なのだ。
噛みつかれた批判くんには同情する。
大いに動揺したであろう批判くんは、体勢を立て直し、質問し、反論するが情熱くんからはまともな返事がない。
そして批判くんは自分のブログを閉じることになるのだ。
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繊細であることと強靭であること
西と東は天と地ほども違う
ぼくの妄想では、批判くんは東京あたりの人間で、情熱くんは大阪の人間。
それが当たっているかどうかは分からないが、二人の twitter でのやりとりを見ていると、その言葉の使い方のギャップは、西と東の文化ギャップに思える。
情熱くんは西の言葉で友だちになろうと、批判くんに語りかけるのに、批判くんにはそれが過度になれなれしく、ばかにされているようにしか思えず、礼儀正しい言葉で鼻をくくったような返答をする。
情熱くんは、批判くんの言葉を「いやみ」とは理解できず、「こいつ堅苦しいやっちゃなー」くらいの理解で、仲直りできたつもりでいる。
もちろん、この解釈もぼくの妄想にすぎない。
けれどもぼくは思うのだ。
ネット上には西も東もない。データのチャンネルさえあれば、国境も関係ない。
しかし、西と東では明らかな文化の差がある。
文化の差があるにも関わらず、同じ日本語を使っているがために、「共通の理解」ができているつもりになってしまう。
その実、「理解」などこにもなく、「相互に誤解」し合っているような状況というものは、どうにも避けがたく、あちこちで頻発しているのではないか?
すべての繊細な魂に安らぎあれ
西の人の心は強靭で、東の人の心は繊細だ、などというつもりはない。
けれども、さまざまな文化背景から、一般的にそういう傾向はあるような気がする。
繊細な批判くんは、傷ついてブログを閉じた。
本当に痛ましいことだと思う。
強靭な情熱くんは、今日ものほほんと、情熱的な言葉をキーボードから叩き出していることだろう。
この一件は、説明しなかった事情によって、情熱くんの勘違いから引き起こされた悲喜劇なのだが、世の中にはこのような不条理があることを身を持って知った批判くんが、今は元気に生きているだろうことを期待する。
ネット上に公開したら、たとえあなたが「仲間内の軽口」のつもりで書いた言葉でも、いつ、誰の目に止まるか分からない*1。
その結果、どんな曲解を受けて、どんな非難をされたとしても、あなたが一人で受けて立つしかないのだ。
多くの人に記事を読んでもらおうとするのなら、その点については覚悟をしておいたほうがいい。
そして、今のあなたが繊細な心の持ち主なら、その繊細な心の周りに、強靭なバリアを作り上げたらいいと思うのだ。
せっかくの繊細な心が、がちがちの甲殻類のようになってしまっては、もったいない。
繊細な心はそのままに、その周りにバリアを作れば、どんな悪意ある攻撃からも、あなたの心を守ることができる。
もちろんそれは簡単なことじゃない。
でも簡単じゃないからこそ、人生、生きる甲斐があるってもんじゃないか。
それでぼくは祈るのだ。
すべての繊細な魂に安らぎあれ。
そして、すべての傲慢な魂にも安らぎあれ、と。
*1:みなさんは、『ブログやSNSでやりとりする情報は、基本的には「すべて公になってしまう」』なんて勘違いはしてないでしょうね。「基本的に」じゃありませんよ。「絶対的に」です。人気のない深夜の路上だからといって、裸で歩いておいて、「まさか誰かに見られると思わなかった」なんていっても通じませんからね!