ハルオサンにならってアドセンスを外そうかと思ったけどやっぱりやめた話 - あるいは、人はなぜわざわざネット上に文章を書くのか
はてな村のみなさん、おはようさんです。
みなさん、ハルオサンのことは、ご存知でしょうか。
「警察官をやめさせられた話」で彗星のごとくデビューし、その控えめながらも、ところどころにブラックユーモアを感じさせる独特の筆致と、へたうまで、なんとも味のあるイラストで大人気のブロガーさんです。
もし、ご存知でなかったら、まずはこちらの二本の記事を読んでみてください。社会派で心理サスペンス感ばっちりの、読み応えのある記事ですよ。
・警察官をクビになった話その① - 警察官クビになってからブログ
・警察官をやめさせられた話②完結編 - 警察官クビになってからブログ
さて、そのハルオサンが、
・最近ブログで飯を食べている事について - 警察官クビになってからブログ
という記事を書いてらっしゃいます。
ハルオサンは、ブログに広告を貼ったりはしていないのですが、他サイトへのコラム執筆や記事投稿で、月10万円ほどの収入があるというんですね。
うーん、これは凄い...... 。
それでちょっと考えてみることにしました。
今日はそんなような話です。
ぼくはなんでネット上に記事を投稿しているのか
ぼくはもともと「作家になれたらいいな」というような感じの、いい加減で曖昧な願望にもとづいて文章を書き続けてきた人間です。
その昔、「奇想天外」というSF小説の雑誌で、新井素子さんという作家が17歳でデビューしたのを見て、彼女より四つ年下だったぼくは、
「あと、四年のうちにデビューできたらいいな」
と間抜けにも考えました。
考えるだけで、ロクに書きもしませんでしたから、デビューもへったくれもないのですが、仲間と同人誌ごっこはしていたので、ほそぼそながらコラムのようなものは、書き続けていました。
そんなようなものが、形を変えながら続いてきて、今ここに書いているようなものにつながってきているわけなので、じゃあ、それはどういうことなのか、というと、
「自己承認欲求」
の一つの形なんだろうな、と思うのです。
ほかの人はどうなんだろう?
ほかのみなさんが、どういう気持ちからネット上で文章を書いているか、というのは、当然、人それぞれに決まっています。
そうではあるのですが、すごく一般化したところでくくってみたとき、
「自己承認欲求」
みたいなことが、一つ重要な要素としてあるとは、思うんですね。
もちろん中には特別な方がいらして、
- 純粋にお金もうけのためにやっていて、
- そのお金は自分の楽しみだけのために使っていて、
- 一切まわりの人のことは気にしていない
というような場合もあろうかとは思います。
けれども、それはホントに特殊なケースで、仮にお金のためが目的でも、
お金を稼げる自分を人に認めてもらいたい、とか、
お金を稼いで周りの人のために使って、関係性をよくしたい、とか
自分と周りの人との関係性というものが、多くの場合大切なものだろうと、思うのです。
ですから、それは「承認欲求」というよりは、「コミュニケーションの欲求」といったほうがいいかもしれせん。
仮に人に見せない「日記」のようなものであるとしても、書き言葉として表現する以上、「過去や未来の自分との対話」として、そこではコミュニケーションが行なわれているのだと思います。
そして、相手に伝わるかどうか以前に、言葉として表現すること自体にコミュニケーションの意味があり、それは、心の中のもつれやもやもやに形を与えることで、人の内的欲求を解決するものなのだと思うのです。
それで、広告を貼るのってどうなんだろう?
さて、ここで唐突に「広告」の話になるのですが、ハルオサンは、
自由にブログというものを突き詰めていきたい。
から広告は貼らないのだ、と書いています。
実にいさぎよいですよね。
そのあまりのいさぎよさに、
「ぼくもみならってアドセンスはずそうかなー」
と思ってしまいました。
でも、ぼくはヘタレなので、はずさずにそのままにしておきます。
このページは蝶閑古鳥なので、あってもなくても似たようなものですが、宝くじに夢をかける一庶民、みたいな感じで(笑)。
そのくせぼくは、
「記事を読むときに広告があるとうるさいんだよなー」
とか、勝手なことを思ってます。
かように人間というものは、勝手な生き物であり、矛盾した多数の欲求を抱えているわけであります。
でもまあ、それも人間、あれも人間。
人間、結局なんでもありですよね。
人に迷惑さえかけなければ、何をやっても自由だし、思わぬ所で人に迷惑をかけてしまったら、そのときはちゃんと謝ればいいのだし、とにかく自分の人生の責任は、自分で取るしかないという、当たり前の話なのです。
それにしても、広告とかページビューとか考えると、いろいろ余計なことを考えて好きに書けなくなる、というのは確かにあります。
ですから、あまりそういう二次的なことにとらわれないで、自分が書きたいものはなんなのか、自分が楽しく書けるものはなんなのか、そういう基本的な欲求にもとづいて、今後も書いていけたらなーと思うのでありました。
というわけで、特にまとまらないまま、今日の記事はこのへんで終わりにします。
最後にハルオサンの記事を紹介しておきましょう。
こちらの記事では「ブラック企業」よりもひどい、労働者使い捨ての会社のことを「寿命換金所」と呼んでいます。すばらしいセンス。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬