作家になりたいと、いくらかでも思っているあなたなら、村上春樹の成功について、まったく知らないということはありえないでしょう。

彼が「なぜ世界中でこれほどまでに読まれているのか」という理由を、合理的に説明することなどできるわけありませんが、春樹が「なぜこんなに成功することができたのか」を少しばかり考えてみることは、あなたが作家になる可能性をきっと高くしてくれることでしょう。

そして、もののついでではありますが、世間で取りざたされるように、春樹がノーベル文学賞をとる可能性があるのかどうかについても、せっかくだから一緒に考えてみようじゃありませんか。

村上春樹の出発点は、外国作家のパクリだった?

第22回群像新人賞を受賞したデビュー作「風の歌を聴け」と、受賞第一作の「1973年のピンボール」が、全体を断章で構成する形式の点で、アメリカの作家カート・ヴォネガットの模倣であることはよく知られた事実です。

おまけに「風の歌を聴け」では、デレク・ハートフィールドなる架空の作家を登場させています。

これもヴォネガットが自作にキルゴア・トラウトというSF作家を登場させていることの模倣あり、ここまでいくと「バクリ」という言葉も使いたくなります。

当時の群像新人賞の選考委員は、佐々木基一、佐多稲子、島尾敏雄、丸谷才一、吉行淳之介の諸氏で、
村上春樹 第二十二回群像新人文学賞
というページに選評が載っているので読んでみると、アメリカ文学の影響を強く受けてはいるが独創性が高いということで、満場一致の受賞となったことが分かります。

この「模倣」の問題は本人も気にしていたと考えられ、長らくこの二作は2015年になるまで、海外での翻訳出版はされていませんでした。

ようやく英訳が出た村上春樹氏の初期作品に世界が熱中! | クーリエ・ジャポン
という記事には、

デビュー作『風の歌を聴け』と二作目の長編小説『1973年のピンボール』については、長い間、日本国外で英訳が刊行されていなかった。村上氏自身が「未熟な作品だと思っていたから」だという。

と、2015年になってようやく海外での出版がなされた事情を説明しています。

多くの作家がはじめは優れた作家の模倣から始めるのですから、春樹の作品がアメリカ文学の模倣から始まっていたとしても、何も悪いことはありません。

みなさんが作家を目指して小説を書くのならば、好きな作家をいくらでも真似してみればいいでしょう。

ただし、プロフェッショナルとして作家になりたいのならば、そこに模倣以上の何かを生み出さなければならないことは言うまでもありません。

作家になりたかった *わけではない* からこそ。

村上春樹という作家のおもしろいところは、彼は別に作家になりたかったわけではない、というところにあると思います。

千駄ヶ谷でジャズ喫茶をしていた春樹は、野球の観戦中にふと小説を書いてみようと思い立ち、そして実際に書き始め、じっくりと書き上げた作品を新人賞に応募したところ、これが一発で見事に受賞してしまったのです。

それが1979年、30歳の年です。

こんなことは普通の人間に起こることではありません。

しかも同じようにして自然に淡々と書き続けた結果、5作目の長編「ノルウェイの森」は、上下巻合わせて430万部の大ベストセラーとなります。

1987年、38歳で押しも押されぬ有名作家となったわけです。

真似しようと思っても真似のしようがない人生の軌跡ですが、作家になりたいあなたがここで学ぶべきことは、あなたが本当に書くことが好きならば、春樹のようにはなれなくても、自分なりの方法で書き続けていくことで、自分なりの形を作ることはできるはずだ、ということです。

春樹自身も、デビュー作と二作目の形式からは離れて、新しいスタイルで本格的な長編を書くことで、「これこそ村上春樹だ」と言える作風を確立していきました。

あなたもプロになれるかどうかとは関わりなく、書くことが好きで、書き続けることができれば、自分らしい作風を確立し、数は少なくても読者を獲得することもできるでしょう。

今の世の中では、誰にでも手の届くところに、ネットという表現媒体があります。

じぶんなりのメディアを用意して発表をし続けることで、明日を夢見るアマチュア作家たちは数知れません。

あなたが本当に書くことが好きならば、そうした人たちの仲間に加わることは、きっとあなたの人生を豊かにしてくれるに違いありません。

そして、運がよければ、あなたにもプロとしてのデビューの道が開けるかもしれないのです。

「生き方自体が作家」という春樹の天才と、それが「商品」になるという奇跡

村上春樹という作家の天才性は、「生き方自体が作家」であるということに尽きると思います。

書くことが好きで、走ることが好きで、走ることについても書いて、翻訳もして、とにかく彼は好きなことをして生きていて、それが「作家として成立」しています。

それはまったく幸運なことしか言いようがありません。やろうとしてやれることではなく、天が与えた運命としか言いようがないでしょう。

その上、彼の書くものは「商品」としても優れているのですから、これは奇跡以外の何ものでもありません。

この奇跡の秘密こそが彼の成功の秘密であるわけですが、それは彼の執筆方法が「無意識の力」を利用しているところにあるのではないでしょうか。

彼はストーリーがどのように進んでいくかを自分でも知らないまま書き進め、一旦書き終われば、すべてを打ち込み直しながら推敲していくという作業を、何度も繰り返すのだといいます。

このようにして村上春樹本人の意識すら知らないことを書いた結果が、世界の読者に受け入れられているのですから、不思議と言えば、まったく不思議なことです。

言ってみれば彼の無意識は、今の地球の時代精神とつながっているのでしょう。

もちろん彼の書くものが万人に受けるというわけではありませんから、そのとき、春樹ではないあなたが書く作品にも、出番があるわけです。

実のところ、あなたの無意識だって、今の地球の時代精神とつながっているのです。

ただしそのつながり方は、春樹ほど太いつながりではなく、ごく細いものかもしれません。

けれど、それがいかに細いものであっても、同じチャンネルでつながっている人にはあなたの表現が届くはずですし、創作を続けていく中で、そのつながりを太いものにしていくこともできるのです。

ぼくも非力ながら、こうして記事を書いていくことで、少しずつでも時代精神とのつながりというものに磨きをかけて、流れのよいものにしていこうと心がけています。

願わくば、あなたのもとに文芸の神さまが降りてきて、あなたをこの地球時代の集合無意識と太く結びつけてくれますように。

春樹がノーベル賞を取るのは、日本が戦争を始めたとき?

村上春樹がノーベル文学賞を取る可能性はどのくらいあるのでしょうか?

これについては、はっきりは分からないというのが、もちろん正直なところで、まったく神のみぞ知るということです。

けれどもここで大胆な予想をしてみましょう。

村上春樹がノーベル賞を取るのは、日本の全体主義化が進んで、日本がふたたび戦争を始めたときである、という予想です。

ノーベル文学賞に政治的な意図が込められていることは、みなさんもご存知の通りです。

ソビエトのソルジェニーツィン、中国の高行健など、政府に抗議した人物の受賞に、それなりの意図があるのは明らかですし、ミュージシャンであるボブ・ディランの受賞も、表立っては言われていなくても、その政治的な姿勢が受賞の背景にあることは否定できないでしょう。

春樹の小説が、ノーベル賞に値するものかどうかは、スウェーデンアカデミー外部の人間には判断できません。また、大江健三郎氏がノーベル賞を取ってからの期間や、日系のカズオ・イシグロ氏が受賞したことも春樹受賞には不利や要素として働く可能性があります。

そうしたことを考えると、当分の間、春樹の受賞はなさそうに思えますが、今後十年単位のスパンで考えたとき、日本が軍事大国となり、戦争を始めたときに、それを諌めるメッセージとして、村上春樹のノーベル文学賞受賞の可能性が高まると思えるのです。

以上、最後は勝手なぼくの妄想となりましたが、この記事はこの辺でおしまいにします。
それではみなさん、ナマステジーっ♬

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