なぜブロガーH氏は殺されなければならなかったのか - 批判と侮辱の心理学
2018年6月24日、福岡市で開催されたネット関係のセミナーで、講師のHさん(41歳)が殺害されるという事件が起こりました。
警察の調べなどから、容疑者のTさん(42歳)はHさんと面識はなかったにも関わらず、ネット上での言葉のやりとりによるトラブルから、犯行に及んだものと見られています。
この記事では、亡くなったHさんのご冥福を祈るとともに、わたしたちが日々何気なく使っている言葉の持つ、危険性と可能性について考え、この不幸な事件から何を学ぶべきなのか、書いてみたいと思います。
(なお、事件の当事者お二人の名前については、ネット上での通称の頭文字を使うことで、プライバシーに配慮させていただきます)
- 罵詈雑言と通報とアカウント凍結。そして事件は起こった。
- 正当な批判なのか、感情的な非難なのか。からかって笑いものにすることはどこまで許されるのか?
- 閲覧数、視聴率、稼いでナンボ。そして、ストレスの発散が逆にストレスを生み出す悪循環。
- 罪なき人の死を悼み、罪を犯した人の更生を願う。
罵詈雑言と通報とアカウント凍結。そして事件は起こった。
ネット上の情報によりますと、容疑者のTさんは自分の意見と合わない記事を見つけては、相手に対する罵詈雑言を頻繁に投げつけていたようです。
こうした行為はネット上での発言のルールにもとるものですし、Hさんをはじめ、Tさんからの「被害」を受けていた方々は、ネットサービスの運営会社に「問題」を通報し、その結果Tさんのアカウントは凍結され、Tさんは新しいアカウントを作っては「暴言」を繰り返すといういたちごっこになっていた模様です。
この経緯だけを見れば、殺害されたHさんの行動にはまったく問題がなく、容疑者であるTさんが「逆恨み」した挙句、一方的に「犯行」に及んだようにも思えますが、本当にそういう判断で問題の本質が見えてくるのか、もう少し細かく状況を見てみましょう。
正当な批判なのか、感情的な非難なのか。からかって笑いものにすることはどこまで許されるのか?
ネット上で暴言を繰り返すことはほめられる行為ではありません。
それをたしなめることは、大いに意味のあることでしょう。
けれども、暴言を「批判」する時点で「批判者」は相手の恨みを買う危険を犯しているのだということを十分認識する必要があります。
まして感情的に「非難」するとなれば、喧嘩を売っているのと区別はありません。
またストレートな批判や非難でなく、「からかい」の表現としておちょくるというやり方も、度が過ぎればやはり同じことです。
お釈迦さまこと、ゴータマ・シッダルタさんが「言葉には気をつけなさい。人を傷つけるような言葉は慎みなさい」と言ったのは、実にもっともなことです。
ネット上の正義のために暴言をいさめているのだ、という大義があったとしても、余計ないさかいを引き起こすような言葉使いは避けた方が安全というものではないでしょうか。
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閲覧数、視聴率、稼いでナンボ。そして、ストレスの発散が逆にストレスを生み出す悪循環。
Hさんはネットウォッチャーと称して、ネット上の有名人をネタにおもしろおかしくからかう記事を提供して、人気を集めていました。
今回の事件に関して、「からかい」の対象になっていたネット有名人のはあちゅう氏やイケダハヤト氏は、からかわれていたことの不快感よりは「同業者」として同情する由のコメントを発しています。
ネットに書いた言葉を理由に殺されるとなれば、いくら命があっても足りませんから、同情するのも無理のないことです。
しかしながら、今回のような「事件」に至らなくても、「書き込まれた言葉」を原因にしてさまざまな軋轢が日々起こっていることは事実です。
ネットやテレビで幅を効かせる「閲覧数・視聴率第一主義」やそれを支える「稼いでナンボ」という行きすぎた経済主義のあり方を、この辺で少し見直してみる必要があるのではないでしょうか。
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Hさんの2018年5月2日付けの記事がTさんの犯行のきっかけになったのではないかと取り沙汰されていますが、記事の内容は「暴言を投げつけるTさんを通報して凍結してもらった」というものです。
この記事に事件後につけられたブックマークコメントを見ると、多くの方はここでのHさんの発言には特に問題はないのに、そのために殺されてしまったとは、と思っていることが分かります。
けれども、事件前についたコメントをよく読むと、わざわざTさんを名指しで記事を書くことの危険性を指摘しているものがありますし、その他の多くのコメントはTさんからすれば「笑いものにされている」としか受け取りようのないものです。
Hさんはネット上でのやりとりの経験が長く、Tさんをおちょくるようなコメントが多数つくことを予測していたでしょうから、殺意を引き起こすことまでは想像できなかったとしても、逆恨みを買う危険性は予想ができたはずです。
とすれば、「人を笑いものにしようが何をしようが、とにかくブックマークをたくさんつけてもらって閲覧数を稼ぐ」というような安直な方法論が今回の悲劇を招いた可能性について、ネット上で発言をするみなさんは、十分考慮するべきでしょう。
また、ブックマークコメントでお気楽・お気軽に人を否定し、笑いものにしてストレス発散している方々にも、自分の何気ない一言が、巡り巡って社会の緊張度を上げ、かえって自分に大きなストレスとして降りかかってきているのではないかということに、少しばかり想像を巡らせていただけたらなあと、勝手なお願いをさせていただきたくもなる次第なのです。
罪なき人の死を悼み、罪を犯した人の更生を願う。
人の気持ちを逆撫でし、逆恨みを買うような言葉をネット上で書いたからといって、それを理由にその人を殺していいということには、もちろんなりません。
人を傷つけるような言葉は慎むべきと考えますが、そのような言葉をすべて法律で取り締まることはできませんし、H氏の発言にはその意味では罪はなかったと言えるでしょう。
H氏のご冥福を心から祈ります。
同時に人を殺すという、大変重い罪を犯すところにまで追い込まれてしまったTさんについても、自分が犯した罪を冷静に振り返り、その罪を償うことができるよう、お祈りしたいと思います。
ネット上でどんなにバカにされたとしても、それを理由に人を殺すことは許されません。
けれども、相談できる人もなく、孤独のうちに追い詰められていただろうTさんの心情を考えれば、一方的に彼を責めるだけでは問題の解決につながらないのではないかと思わざるをえません。
今回のような悲劇的な事件が繰り返されないためには、まず第一に、わたしたちネット上で発言するものが、人を傷つけかねない言葉を安易に発することがないよう十分注意する必要があります。
そしてネット上で、それが「暴言」でしかなくても、なんらかの発言をすることでかろうじて精神のバランスを取っているような人たちの存在を考えるとき、不愉快ならば距離を取り、許容範囲内であれば優しい言葉をかけるというような、自分なりの対処法というものを考えていきたいものだと思うのです。
双方が落ち着いて議論できる土壌があれば、論理的な批判は大変有益なものになりえます。
けれども残念なことに、ネット上では多くの場合、批判はすぐ非難となり侮辱となり、際限のない喧嘩を生むだけです。
そうした人間の心理をよく理解した上で、ネットという文明の利器を賢く利用していきたいものではありませんか。
てなことで、最後までご精読ありがとうございました。
それではみなさん、ナマステジーっ♪