今日はエルビスさんからのリクエストでインドの宗教の話です。


まず、バラモン教は初期のヒンズー教という理解でいいようです。

ヒンズー教は、インドの宗教の総称的なもので宗派により様々に異なるのですが、ここでは仏教と比べるために、アドヴァイタというインドの世界観を取り上げることにします。

アドヴァイタは不二一元論と訳されますが、この世界全体がブラフマーと呼ばれる単一の実在の現れであるという考え方です。

月も太陽も、あなたもわたしも、すべてはブラフマーという神あるいは宇宙原理の現れなのだと考えるのです。

そして現れているものは、いわば幻なのだとします。

ブラフマーがたまたまその形を取っているだけで、そこには物事の本質はないと考えるのです。

するとぼくたちが普段自分だと思っているものも幻にすぎないことになります。

このとき自分というものを詳細に見ていくと、自分の心の奥底に不変の実体が見えてきて、それが宇宙原理であるブラフマーと一つのものであると気がつく。

心の奥底の実体を真我=アートマンと呼び、ブラフマーとアートマンは一つのものであると捉えるのです。

これを梵我一如と言います。
(ここで、梵=ブラフマー、我=アートマン、となります)

アドヴァイタ派のお坊さんは、この梵我一如の境地を目指して修行することになります。

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仏教はどうかというと、この世界は法=ダルマによって成り立っていると考えます。

そしてこの世界に現れているものはすべて無常であると説きます。

また、普段自分と思っているものは、不変でもなければ、自分以外のものと必ずしも区別できるものではなく、それは自分と呼べないと説き、これを無我と言います。

また無常で無我であるこの世のものに執着することから苦しみが生まれるので、執着を捨てれば涅槃の境地に至り、すべての苦しみから逃れられると説きます。

仏教のお坊さんは、もともとはこの涅槃の境地を目指して修行を積むわけです。

ここでアドヴァイタと仏教を並べて考えると、

  • ブラフマー≒法(ダルマ)
  • この世は幻≒無常
  • 真我≒涅槃

という対応が見て取れます。

真我≒涅槃という部分は、それぞれの立場の方からすれば、「まったく違う」と言われてしまうところかもしれません。

けれども「あらゆる欲求を超越している」という意味では、真我も涅槃も同じですし、仏教で無我というのはいわゆるエゴを自分と同一視することを戒めているのであって、この世界や自分の心を意識している「存在」自体を否定するものではありません。

仏教では修行に関係ないものについては語らないという伝統がありますから、真我については語っていないだけだとも考えられ、涅槃の境地ではすべての欲求から離れて意識が法そのものを具現するのだ、と考えれば、涅槃即法、法即涅槃であり、結局は梵我一如と同じことを言っているように思えます。

ということで、表面的にはいろいろな違いがあるものの、根本的な世界観としては、ヒンズー教も仏教もほとんど一緒といっていいほどに似てるんじゃないですか、というお話でした。

それではみなさん、ナマステジーっ♫