絶対あきらめない。だけど、がんばったりもしない。
言葉が生きてるのは知ってる?
ぼくはこの言葉が、誰かに届くことを信じて書いている。
だって、言葉は生き物なんだから。
この十本の指先から生まれた、確かに命を持つ不思議な生き物たちが、今きみの心に働きかけているのが、ぼくには見えるんだ。
そして同時に、こうして生まれるせっかくの命も、きみ以外の多くのヒトたちにとっては、ただの雑音でしかなくて、わざわざ注意を払うほどの価値を持たないことだって、よーく分かってるのさ。
だからこれは、ほかの誰に宛てたわけでもない、ただ、きみだけのために綴られた〈孤独の伝言〉ってわけなんだ。
あきらめないって、どういうことだと思う?
母の生暖かいはずの、なのにどうしてだか冷たさしか憶えていない腹の中をなんとか抜け出して、自分で選んだわけでもないこの世界に産み落とされちまってからというもの半世紀、ぼくは毎日毎日、刻一刻と、何かをあきらめながら生きてきた。
だからぼくは、あきらめないなんて考え方は、自分には縁のないものだとずっと思ってたんだよ。
だけど、不思議なもんでね。
本当はぼくは、ちっともあきらめてなんかいなかったんだ。
子どもの頃からずっと、この世界のどこかに、どんなものかは分からないけれど、確かにヒミツが隠されてるはずだって、そう意識して思ってたわけじゃないんだけど、ぼくはやっぱり知ってたんだな。
そんなだから、毎日毎日、何もかもをあきらめて生きてきたのに、そのヒミツのことだけは、ずっと心の奥底の、自分にすら触れることのできない、不思議なおもちゃ箱の中に、こっそりしまいこんで大切にしてきてたらしいのさ。
それでぼくは、世間のヒトたちの言う「あきらめない」なんて言葉には、ちっとも感心しなかったけれど、自分にとって本当に大切なものをあきらめないことの意味だけは、ずーっと知ってたってわけ。
で、ぼくは言いたいのさ。
もしきみが、人生につきものの「あれもやったほうがいい、これもやったほうがいい」みたいな、世間から吹き込まれる価値観にうんざりして、そんなことはめんどくさいだけのことだから、何もかもあきらめて不完全燃焼の日々を生きて、それで自分の人生はオーケーなんだと思っているとしたら、
- 「おめでとう! きみの人生はもう一山越えれば、ゴールに到着します!!」
ってね。
だって、きみはすべてをあきらめちゃったんでしょ?
ってことは、ぼくの場合とおんなじで、大切なものはこっそり心の奥にしまって、決してあきらめずに守っているはずだからね。
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がんばりすぎてないって、自信を持って言える?
きみはすべてをあきらめてるんだから、何かをがんばったりはしてないはずだ。
ヒトの目を気にして、それに合わせるためにがんばるなんて、ばかばかしいことだし、大体さぁ、そういうのがうまくできないから、何もかもあきらめる羽目になったんだもんなー。
というわけで、当然きみは何かをがんばったりはしない。そして、すべてをあきらめちゃっていて、わざわざエネルギーを費やしてやることなんてありゃしないんだから、淡々と自分のペースで生きてるはずだ。
まわりのヒトたちからは、「自由に生きてていいよねー」みたいなことを言われたりしてね。
それなのに、どうしてこんなに自分の人生はがんじがらめで、息つく時間が足りなくて、無気力・無意欲・ウツ一歩手前の低空飛行を続けなくちゃならないのか、それがぼくらの人生の課題っていうわけさ。
でもそれも、見方を変えれば当たり前の話って気がしてくるはずさ。
ぼくらは決してがんばったりはしない。
にもかかわらず、それとはまったく裏腹に、きみは実は、この一瞬一瞬をがんばってるんだって言われたら、つまり、今までずっとがんばり続けてきたんだって、そう言われたらどう思う?
ヒトっていう生き物はさ、自分のことは自分で分かってる、自分の決めた道を自分は歩いてるって、たいてい思ってるはずだよね。
だけどほんとは、自分のことなんてこれっぽっちも分かってないかもしれないじゃない?
自分で決めた道を歩いてるつもりが、自分の無意識が敷いた線路を歩いてるだけかもしれないじゃない?
そんなふうに考えたことはないかな?
この世界って、案外そんなふうに回ってるんじゃないのかな?
そういうふうに仮定してみれば、納得いくと思うんだよね。
がんばってないつもりでいたけど、実はすんごくがんばってた。
がんばってない振りをするために、死ぬほどがんばってた。
だから、それ以外のことをする余裕なんて、とてもじゃないけど、ありゃしなかった。
そんなじゃ疲れちゃって、人並みのことなんてできるわけないよ。まずはそのがんばり過ぎをやめて、そこに無駄に使ってたエネルギーを蓄えられるようにして、きちんと自分自身のために使えるようにしないとね...... 。
あきらめと頑張りの間で振り子は揺れ続けるのかもね。
まあ、そういうわけで、あれこれ何かれと、十本の指が動くままに書いてきたけど、偉そうに何か言える身分じゃないのはよく分かってるよ。
でも、丸っきりダメなぼくという人間だからこそ言えることもあるわけでね。
それはつまり、全然ダメな人間でも、案外幸せになれるってことなんだ。
五十を過ぎて定職にもつかず、結婚はしてるけど子どもはいなくて、インドやらタイやらをぶらぶらしてるだけの穀潰し。
それがぼくの現状さ。
日本で真面目に働いてるみんなの目には、ぼくはそんな存在にしか映らないだろうね。
でもさ、キリギリスはキリギリスなりに生きるしかないじゃない?
もしもキリギリスが「アリの人生は素晴らしい!」って思ったからって、アリのように生きられるかなぁ?
そんなの無理に決まってるじゃない。
冬には人生を終えるのが運命だとしても、夏の間には精一杯歌うのがキリギリスの生き方ってもんでしょ?
逆も同じことだよ。
アリとして幸せに生きてるのに、「お前の人生は歌もなくてつまらん、歌を歌え」って言ったって、それもやっぱりできない相談。
キリギリスはキリギリスとして、アリの生き方を尊重しながら、自分の人生を生きる。アリはアリで、同じこと。
きみがキリギリスならば、アリのようには働けないとあきらめて当然だし、アリのようにがんばる必要なんてさらさらない。
にもかかわらず、きみはがんばり続けてきたんだし、決してあきらめずに生きてきた。
こうやって言葉で説明してると矛盾だらけに見えるかもしれないけど、生きるってことは結局、そういう矛盾を解き続けるってことなんじゃないのかな。
それでだよ、世界のヒミツっていうやつは、どうやらその辺にありそうだなってことが、ようやく見えてきた気がしてるんだ。
分かってるヒトには、当たり前の話かもしれないね。
でもその当たり前ってのがクセモノで、この世界にはアタリマエなんてものは本当はないんだ。
だからこそ、分からないままに、ずっとあきらめ続けてきたきみに「おめでとう」って言うのさ。
「もう一山越えればゴール」とはいっても、次の一山を越えるのは、多分とんでもなく大変なことになるだろうね。
だけど、ここまでがんばってこれたきみなら、ひょっとして越えられるかもしれない。
そして、もし越えられなかったとしても、そんなこと気にする必要はないんだ。
あきらめと頑張りの間で、揺れ続ける振り子として生きること。
そこにこそ人生の意味はきっとあるんだ。
とすれば、峠を越えられるかどうかなんて、どうだっていい話じゃないか。
峠を越えられようが、られまいが、ただその道を歩いていくことにこそ人生の意味はあるんじゃないのかな。
きみが歩く、峠を目指す山道で、もしぼくのことを見かけたら、きみのその右手を天高く上げて、元気よく左右に振ってくれよ。
そしたらぼくは、両手を頭の上にまっすぐ伸ばして、五十センチは跳び上がって、きみの人生を祝福するさ。
それが、たまたま少しだけ先を歩く者からの、久遠の道行くきみへの手向けの花なんだ。
### 2018.03.12 dim, tokyo, setegaya ###
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