ニートの夢、ブッダの夢
はてなのweblogサービスを利用なさっているみなさん、こんにちわ。
みなさんは、はてな匿名ダイアリーというサービスはご存知でしょうか。
匿名のサービスとしては、蝶有名な巨大掲示板の 2 チャンネルというものがありますが、あちらはかなり癖があり、ぼくのようなシロウトにはやや縁遠く感じられる存在です。
それに比べると、はてなの匿名ダイアリーは、だいぶライトなタッチでありまして、書き込みをしたことこそありませんけれども、ブックマーク経由で知った記事をたまに読むことがあり、日本の社会環境の中では、こうした匿名サービスにも一定の役割があるものだよなぁ、と感慨に耽る今日このごろです。
というわけで、今日ははてな匿名ダイアリーの
[ニート日記]ニートが夢から覚めたとき
という記事について、つらつらと書いてみることにいたします。
今日の結論は、
「ブッダの夢、最高。呼吸と体の感覚を見るだけで、幸せが手に入るんだもん」
です。
- 「大学を出れば何とかなる」というニートの夢
- 重い「想い」を吐き出して、悲観から楽観へ
- 心のもつれを解くために体を動かす
- ふたたびのニートの夢、そしてブッダの夢
- 「ブッダの夢」は、とある王子の苦悩から生まれた
- ブッダの教えた「苦しみを越えるシンプルな方法」
- 正しく見るためのシンプルな瞑想法、ヴィパッサナー
- ぼくたちは、いかに「ありのまま」を見ていないか
- 呼吸と体の感覚を見るだけで、なぜ「真理」に到達できるのか
- ブッダの夢ふたたび
「大学を出れば何とかなる」というニートの夢
上記の匿名ダイアリーの記事では、現在、三十路目前で、ずっと在宅で引きこもり浪人をされてきた青年が、
「大学に入りさえすれば明るい未来が開ける」という夢を見続けてきたが、現実を直視したとき、浪人や留年が 2 年以上になってしまうと就職に不利であるという定説からすれば、十年も引きこもりをつづけた自分が、どんな大学のどんな学部を卒業しようが「まともな職につけるはずがない」、「大学さえ出ればなんとかなる」などという夢を見るのはもうやめて、「就職を考えたほうがいいのだろうか」
といった内容を書いてらっしゃいます。
ところで、匿名ダイアリーは英語では「アノニマスダイアリー」ということになっており、こちらの中三文字を取って、「マスダ=増田」というのを、記事の書き手の呼称として使う習いになっていますが、こちらの増田さんを、当記事では「三十路目前」というところから「もくぜん」さんと呼ぶことにします。
このもくぜんさんの記事に対して、29歳で大学三年の別の方が、
現在29歳で大学3年生の者です。将来のことを不安に思うお気持ち、よくわか.. で、
「20代後半から30代で大学に入りなおす人間は意外に多いし、大学には相談できる職員やカウンセラーもいるので、必ずしも就職のためではなく、経験の幅を増やすためにも大学に行くことをすすめる」
という内容の記事を書いてらっしゃいます。
こちらの方には「就職しなければならない」というようなこだわりは一切感じられず、まったく健全かつ楽観的な方ですので、「けんぜん」さんと呼ぶことにしましょう。
もくぜんさんの「悲観」に対し、けんぜんさんの「楽観」のほうが生きる力に満ち溢れているのは明らかですが、もくぜんさんタイプの方がけんぜんさんタイプの楽観を身につけるためには、何が必要なのでしょうか。
また、「健全な楽観」に価値があるのは明らかですが、「病的な悲観」にはなんの価値もないのでしょうか。
根拠のない「楽観」と、人生に対する「投げやり」な態度、そして、油断すると頭をもたげてくる「うつ的気分」とともに、ニート的半世紀を生きてきた年寄りとして、その辺りのことについて、考察を続けることにしましょう。
重い「想い」を吐き出して、悲観から楽観へ
もくぜんさんは記事中、
まったく自信を無くし、食欲がなくなり、悪寒と冷や汗、夜は眠れず朝は早く目が覚めます。
無意味かもしれないと思いながら机に向かいます。不安で真っ黒の頭は計算ミスを繰り返すばかり。
こみあげる吐き気と闘いながら机に向かいます。
と絶望的な不安感と壮絶なまでの闘いを繰り広げながら、勉強をし続ける様子をつづっています。
読んでいるこちらまで思わず緊張してしまい、胃のあたりに軽いむかつきを感じるほどです。
けれども、もくぜんさんは、こうして自分の様子や気持ちを素直に表現し、ネット上で助言を求めることができました。
また、ネット上にはもくぜんさんに共感し、暖かい言葉をかけ、助言をしてくださる方々も多数おります。
しんどい気持ちを手放し、暖かい気持ちをまわりから受け取ったもくぜんさんは、現在の状況を肯定的に受け止めることができるようになり、夜間や放送大学などにも視野を広げて「大学を目指してもいいのかな」と前向きな気持ちになります。
そして、その前向きな気持ちが家族にも伝わったのでしょう。記事の追記にこのようにあります。
どういう風の吹き回しか今日は母と焼き鳥屋へ行きました。酒の席は生まれて初めてのことです。
酒が入って口が軽くなったので腹を割っていろいろ話しました。今までこのように話したことはありませんでした。
私はずっと何も言わない家族を、腫れ物に触わるような扱いをされているのだと疎外感を感じていました。
干渉すれば反発してやる気を失うと思ってずっと見守ってくれていたそうです。
こうしてお母さんとお互いの気持ちを話すことができたもくぜんさんは、思い込みの「孤独」から解放されて「健全な楽観」に着地します。
やっと勉強ができるようになったのだから続けてほしいというのが母の希望です。
今日はぐっすり眠れそうです。まったく勉強しなかったけれどいい一日でした。
自分の気持を、まず、ネット上で表現し、そのことがご家族との対話につながり、もくぜんさんがその悩みに解決の糸口を見いだせたことを、我がことのように嬉しく思います。
心のもつれを解くために体を動かす
もくぜんさんは、自分の置かれた状況を客観視し、その状況の中での自分の気持ちを表現し、それがご家族との対話につながって、心理的なもつれを解くことができたわけですが、記事中には、このようなことが現実に起こる前に、彼の中で起きた注目すべき変化がしるされています。
それは、彼がこの三年間、日記をつけていることと、二年前から運動を始めたことです。
日記をつけることによって、状況を客観視すること、気持ちを表現することができたのが、今回の記事を書くことにつながったことは、容易に理解できます。
同時に、運動を始めたことによって、うつ的な気分が改善されたことも、間違いないことと思われます。
もくぜんさんは、「はじめは家で筋トレをし、それを日記に記録」していたのですが、「そのうち週に何回か外を走れるようになり」ます。
そして、「走れる距離とスピードが面白いように伸びていき、自信をつけた」といいます。
こうやって体を動かすことで、精神状況が改善した結果、勉強時間も増やすことができました。一か月前、インターバルタイマーをつかって時間を管理したところ、一日 2 - 3 時間だった勉強時間が 8 時間まで伸びたというのです。
家にこもっていると悲観的な気分の悪循環が起こりやすいところを、外に出て走ることで、環境も変えることもでき、その上で体を動かすことが、脳内伝達物質のセロトニンの分泌にもつながり、やる気が出て、大幅な勉強時間の増加が実現したのでしょう。
もくぜんさんの場合は、筋トレとランニングが大きな役割を果たしましたが、ストレッチやヨガもいいでしょうし、人によっては水泳がいいかもしれません。また、瞑想や呼吸法も役に立ちます。
なんらかの悩みを抱えていらっしゃる方には、どんな方法が自分に合うのか、いろいろと試してみることをおすすめします。
ふたたびのニートの夢、そしてブッダの夢
もくぜんさんは、一日に八時間も勉強をできるようになったというわけですが、このような努力というのは、なまけもので、会社社会不適応なぼくの場合、想像もできないことで、素直にすごいな、と思います。
この生真面目さがあれば、もくぜんさんは、自分のやりたい仕事を見つけて、仕事を通じて立派な社会生活を送ることも、十分可能なように思えます。
つまり、自分を客観視することで、一旦はついえた夢に、もくぜんさんは再び命を吹きこむことができたのです。
三十を過ぎて大学を出るということは、決して遅すぎるとは限らず、もくぜんさんは「大学を出て、立派な仕事につき、立派な人生を送る」という夢を実現する可能性が十分にあります。
けれども、その道は決して平坦なものではないでしょう。
その道中で、またつまづいてしまうかもしれません。
あるいは、もくぜんさんは、幸運にも、もう二度とつまづくことなく、幸せな人生を送ることができるかもしれません。
けれども、もくぜんさん以外の、なんらかの思い込みにとらわれ、出口を見つけられずに、日々を鬱々と送っている方々は、どうしたらいいのでしょうか。
この問題には、簡単な答えはありません。
けれども、「仕事をすることで社会的に立派に生きなければならない」という思い込みを変えることができれば、「無為に生きること」の「罪悪感」を逃れ、「価値のない自分」を責め続けるという悪循環からは解放される可能性が出てきます。
次節以降では、そのことを「ブッダの夢」として、説明してみることにします。
「ブッダの夢」は、とある王子の苦悩から生まれた
日本ではお釈迦さまとして知られるゴータマ・ブッダ・シッダルは、2600年ほど前に、現在のネパール・ルンビニで生まれた王子さまです。
シッダルタが説いた教えを、ごく簡単に説明すると、
「思い込みを変えることで人生を楽に生きることができる」
ということになりますが、まずは、シッダルタについて簡単に説明しましょう。
王子として生まれ、何不自由なく育ち、お后もめとったのに、29歳でシッダルタは出家してしまいます。
物質的には恵まれて育ち、そのまま王位を継承すれば、「社会的」には申し分ない人生を送れたにも関わらず、妻を捨て、子を捨て出家してしまったシッダルタは、人知れぬ悩みを抱えていたに違いありません。
伝承を頼りに推測すると、シッダルタは、父王の実際の子どもではなかった可能性があり、また、シッダルタを生んだ直後に、実の母は亡くなってしまい、継母に育てられたことも、シッダルタの苦悩を大きくしたものと思われます。
さて、出家したシッダルタは、乞食坊主として他人からの施しを頼りに修行を続けます。
そして多年の修行の末に、やがて「悟り」を得て、「悟りを得た人=ブッダ」として知られるようになり、その後は「この世の苦しみを乗り越える方法」を多くの人に説き続けて、長い一生を送ることになります。
この「苦しみを乗り越える方法」を世の中に広く伝えることが「ブッダの夢」ということになります。
つまり、「シッダルタの苦悩」が「ブッダの悟り」を生み、その悟りが「ブッダの夢≒仏教」として日本にまで伝わり、われわれ日本人にも恩恵をもたらしているわけです。
「シッダルタの苦悩」は見方によっては「病的かつ悲観的」なものとも言えますが、それが「仏教」という人類史の上でも重要な「思想・宗教」を生んだのですから、「病的な悲観」にも価値があることは明らかと言えましょう。
ブッダの教えた「苦しみを越えるシンプルな方法」
では、ブッダの教えた「苦しみを越える方法」とはどんなものなのでしょうか。
四諦として知られる「苦集滅道」というのが、その基本の教えになりますので、順に見ていくことにします。
まず、「苦」というのは、生きていく上では「悩み≒苦しみ」がつきまとう、という当たり前の事実の確認です。
次の「集」は、「苦」が生まれる原因のことで、「何かにしがみつくことが悩みを生み出す」という話です。
そして「滅」は、「苦」を滅するにはどうしたらよいか、という方法の話で、「しがみつくことをやめれば、悩みはなくなる」ことを意味します。
最後の「道」は、「苦を滅するための実際の方法」のことで、ここでは八正道として知られる八つの心がけが説かれます。
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、そして正定の八つのことなのですが、この八つの心がけを守ることで、「苦しみを乗り越えることができる」というわけです。
このようにして苦しみを乗り越えることが「悟り」であり、その悟りの境地を「涅槃」とブッダは呼んだのです。
ここではこの八つについて細かい説明はしません。
八つも守らなければならないとなると、必ずしもシンプルとは言えませんからね。
代わりに、ブッダの教えの核心である「正しく見るための瞑想法」を紹介します。
次節で紹介するこの瞑想法を、まずは寝る前に五分間ほど練習することで、あなたは「思い込みを変えて人生を楽に生きる」ための第一歩を踏み出すことになるのです。
正しく見るためのシンプルな瞑想法、ヴィパッサナー
ここではインドのゴエンカさんの瞑想センターで学ぶことができる、ゴエンカさん方式のヴィパッサナー瞑想を簡略化したものを紹介します。
この方式は、
- まず、呼吸をよく見る
- 次に、全身の感覚を順番に見ていく
というだけのまったくシンプルな瞑想法です。
本格的な瞑想としては、いわゆる座禅の形で座を組んで座り、目を閉じて一時間以上座り続けるのですが、まずは、寝る前に寝床の中で、五分ほどでいいので、リラックスして呼吸を観察してみるといいでしょう。
はじめのうちは呼吸に意識を向け続けるのは難しいはずです。息を吸う感覚、息を吐く感覚を注意してよく見るのですが、じき意識がそれて何か考えごとをしている自分に気づくことでしょう。
それはまったく自然なことなので、失敗した、とか思う必要はなく、考えごとをしている自分に気がついたら、呼吸に意識をもどせばいいのです。
また、五分という時間にこだわる必要もなく、リラックスして眠くなったら、そのまま眠ってしまってもいいのです。
昼間の緊張が続いて寝つきがわるい方もいると思いますが、瞑想の練習をしていると余計な緊張が取れて、睡眠の質が改善される方も多数いらっしゃいます。
これも瞑想の効用の一つです。
こうして五分の瞑想が楽にできるようになったら、徐々に時間を増やしていったり、朝目が覚めたあとにも瞑想をしたり、座禅の形でやってみたりと、練習を深めていくことができます。
また、呼吸だけでなく、体の感覚を、頭のてっぺんから、足のつま先まで、順番に見ていく練習に進むこともできます。
ちなみにゴエンカさんの瞑想センターでは、一日に朝と夕の二回、一時間ずつの瞑想をすることをすすめています。
瞑想をすることで、睡眠の質が改善され、睡眠時間が短くなることや、作業の効率が上がって時間に余裕が持てるようになることから、一日二時間の瞑想も無理なくできるという説明です。
(ぼくは飽きっぽい人間なので、そこまでの実践はできていませんけれども)
このゴエンカさん方式のヴィパッサナーについては、もう少し詳しい説明を、
マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想について・蝶入門編 - 24 時間の瞑想術
という記事で書いていますので、よろしければどうぞ。
また、
「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法」
という本もおすすめです。
ぼくたちは、いかに「ありのまま」を見ていないか
上に説明したヴィパッサナーという瞑想法ですが、そのヴィパッサナーという言葉は、インドの言葉で「ものごとをありのままに見る=正しく見る」ということを意味します。
どうして「ただ呼吸を見るだけ」、「ただ体の感覚を見るだけ」のことが「正しく見る」ことになるのでしょうか。
それは普段ぼくたちが、「思い込みの色眼鏡」を通して世界を見ていて、決して「ありのまま」には世界を見ていないからです。
たとえば、あなたが評判のいいレストランに行って、素敵な料理を食べたとしましょう。店の雰囲気もよく、店員も礼儀正しく、店内の調度も申し分ありません。
見目も麗しい幾皿もの料理を平らげて、一緒に行ったみんなも満足そうです。
相応の会計を支払いながらあなたは思います、
「この店の料理はまったく最高の味だな」と。
しかし、そのときあなたは、本当に料理を味わって、料理そのものがおいしかったと思っているのでしょうか。それとも、ただ雰囲気に酔っているだけなのでしょうか。
もちろん世の中には、店の雰囲気や評判に惑わされずに、きちんと料理を味わい、自分にとってそれがおいしいかどうかを判断できる方もいらっしゃいます。
ですが、少なくともぼくには、そういう客観的な判断ができる自信はありません。
というのも、ぼくは、次のようなおもしろい経験をしたことがあるからです。
もう 15 年以上も前のことですが、ボランティアとして精神障害を持つ方のための作業所に行っていたことがあります。
そこでは週に一回、夕食会をやっていて、その夕食会に初めて参加したとき、その作業所の職員の方が、「これ、どうぞ」と言って、黒っぽい炭酸の飲み物をすすめてくださったのです。
ぼくはふだんは甘いものは飲まない人間なのですが、せっかくすすめてもらったのだからと思い、その「コーラ」を一口飲んでみました。
すると、その「コーラ」は甘くなく、いわく言いがたい不思議な味がしました。
その味から、それが「コーラでないこと」は分かったのですが、それが何なのかは、ぼくには分からなかったのです。
そして、職員の方が振舞ってくれた飲み物が、その辺においてあった缶から「黒ビール」であることを知ったとき、いかに自分の味覚が頼りにならないものであるかを思い知らされたのです。
すでに飲んだことがあって、味も知っているはずの黒ビールが、飲んで味わっても、それが何なのか分からなかったのですから。
これでは、「おいしい」とか「おいしくない」とかいうことを、自分の感覚によってきちんと判断できるわけがありません。
実のところ、このような話は、心理学の実験でもいろいろと確認されていることですので、多くの方が、自分では気がつかないままに、「先入観」によってものごとを判断していることは、間違いのない事実といっていいでしょう。
呼吸と体の感覚を見るだけで、なぜ「真理」に到達できるのか
上に述べたように、多くの場合、ぼくたちは「先入観」によってものごとを判断しているのであって、「ありのまま」を見てはいないのです。
もちろん、それはそれで十分意味のあることであって、「先入観による判断」自体を否定する必要はありません。
ぼくたちは、この世に生まれ落ちたときには、「ありのまま」を感じる以外の方法を知りません。
それが、生まれてから三年も経つころには、十分に脳神経が発達すると同時に経験を蓄積して、「あらかじめ」の知識を使うことによって、よく知った状況においては、いちいち判断をすることなく、自動的にその場に応じた行動が取れるようになるのです。
これが「三つ子の魂、百まで」ということわざを裏づける「科学的な知見」であり、「この自動的な行動は、生き延びるために絶対的に必要である」といっても決して言い過ぎではないでしょう。
問題は、見知ったはずの状況が、自分にとって「異質」なものになり、「先入観による判断」が役に立たなくなったときに起きます。
そして、そうした状況においては、一旦「先入観」をキャンセルことが有効になり、そのために「ただ呼吸を見る」、「ただ体の感覚を見る」というシンプルな方法が役に立つことになるのです。
つまり、きちんと「自分の感覚」に立ち返ることで、ものごとを「ありのまま」に見る方法を思い出し、役に立たなくなった方法を脱ぎ捨てることで、新しい状況に対応する、新しい方法を獲得するための、柔らかい体に脱皮することができるのです。
この脱皮が、新たな「真理」へ到達するための鍵となります。
ブッダの夢ふたたび
以上、述べてきたことは、「社会的」には、決して役に立つ話ではないと思います。
勉強の仕方を教えてくれるわけではありませんし、仕事の見つけ方を教えてくれるわけでもありません。まして、仕事をせずにお金が稼げる方法を教えてくれるわけでもありません。
ニート的な価値観の追求といってもよいでしょう。
けれども、ブッダの教えは、決してそうした世俗的な欲求を否定するものではありません。
ゴータマ・ブッダその人は、王子として「物質的な富」の無意味を知った上で、「慈悲」にもとづいて「楽に生きる方法」を説いただけのことなのです。
ブッダの方法論は、突き詰めてやろうとしたときには、誰にでも簡単に実践できるようなものではありません。
けれども、その方法論のエッセンスは、誰にでも利用することができます。
なにしろ、寝る前に寝床で五分間、呼吸を見つめるだけでいいのですから。
半信半疑で、騙されたつもりで、どうか今日から、「寝る前、寝床での五分間瞑想」を始めてみてください。
一週間続ければ、何かが変わっているのに気づくはずです。
一ヶ月続ければ、「これはなかなかいいじゃないか」と、思うかもしれません。
一年続けることができれば、「五分じゃもったいない、もっと長くやろう」と思うに違いありません。
これを読んでくださっているあなたが、なんらかの意味で人生にひっかりを感じ、心のもつれに悩んでいるのでしたら、「寝るまえ寝床の五分間瞑想」は絶対役に立ちます。
苦しみの正体を見抜き、一人でも多くの人がそこから抜け出すことができるようにと慈悲心から願う、「ブッダの夢」が大きく拡がっていくことを祈って、この文章を終わりにしたいと思います。
生きとし生けるものに幸いあれ。
てなことで、それではみなさん、ナマステジーっ!!