はてな友だちのマミーさんが、
富士山を見て感じること。 - こたつ猫の森
という記事で、「富士山を見ると恥ずかしく感じる」というおもしろい現象について書いてらっしゃいます。

今日はこの不思議な現象について、私見を述べてみたいと思います。

マミーさんは件の記事で、「富士山を見るとどうにも恥ずかしく思うのだが、一体これはどういう心境なのだろうか」との問いを投げかけています。

これに対するぼくの仮説は、
「偶像を知ったあとで、実物を知ったときの違和感が、時によって恥ずかしさとなって現れる」
というものです。

もう少し説明すると、

  • 実物より前に富士山の「理想化」ないし「戯画化」された「偶像・絵」を知っている。
  • そのあとで、実物を知る。
  • 「絵」と「実物」の「ギャップ」あるいは逆に「特徴がうまくつかまれている点」に違和感を感じる。
  • この「違和感」について、日本人はいろいろなことを「恥」としてとらえることから、実物が「俗っぽい絵」(銭湯の壁のタイル絵など) に似すぎている点が「恥ずかしさ」として感じられる。
  • ここで感じる「恥ずかしさ」は、実物に「もっとかっこよくなければ、あかんやろ」みたいな気持ちの表れ、ということになりましょうか。

マミーさんの記事では、太宰治が「富嶽百景」( http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/270_14914.html ) で「どうにも注文どほりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった」と書いていることや、絵本作家の長谷川義史氏がテレビで富士山に対して「恥ずかしい」を連発していたことを傍証に、この「富士山恥ずかしい症候群」がマミーさん固有のものではなく、普遍的なものであることを示唆しております。

そして、このとき、

  • マミーさんは大阪の方、
  • 太宰は青森の人 (ですよね) 、
  • 長谷川氏も大阪の方、

というところに、「実物より先に偶像を知っている」という共通性が見出されます。

また、似たような現象として、
キンモクセイの香りをトイレのにおいとして知っている子どもが、実物のにおいを知ったときに感じる『花がトイレのにおいをハナつ』ことに対する違和感」
というものが知られております。

なお、これに関しては、「金木犀は恥ずかしい」といった文豪がいるかどうか今のところ不明ですので、今後の研究が待たれるところです。

ちなみにこれを書いているぼくは東京生まれの世田谷原住民であります。

幼少の頃、幼稚園に行く道すがら、冬の晴れた日には坂の上から、遠くに雪をかぶった小さな富士山を友だちのお母さんが指差すのを見て、「あー、今日は富士山が見えるなーー」などとぼーっと思ったりしながら育ちました。

でありますので、太宰が、

東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。しかも左のはうに、肩が傾いて心細く、船尾のはうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる。

と書いたりするのに対して、
「あらまあ、太宰さん、そいつは大変ね、さぞかし苦しい人生だったことでしょう」
と同情こそすれ、内容についてはまったく共感するところはなく、

東京から見る富士は、どうにもちつぽけではありながらも、わたしにとっては日本の原風景とも言えるやうな存在であつた

というような感想が浮かんできますね、ぼくの実感としては。

富士山については、ほかにもいろいろ思い浮かぶ挿話や感興がありますが、それについてはまたいつか書くかも、ということにして、今日はこの辺でおしまいにしようと思います。

てなことで、みなさん、ナマステジーっ。