52.5歳からのグッバイワーク
はてな村のみなさん。
そして、超時空・電網怪海につどうすべてのみなさん。
今日はわたくし、ぷちウェブ作家那賀乃とし兵衛の52.5歳の誕生日なんです。
みんなで歌ってください、はっぴばーすでー、とーゆー、って。
灯油はいりませんが、ガスコンロ用のガス缶ならご寄付も受け付けております。
インドではなかなか手に入らないんです。
今はネパールのルンビニにいますから、あともう少しでカトマンズまでたどり着けば、手頃な値段で手に入るはずなんですけど。
いつもの通りのとっ散らかった文章で申し訳ありませんが、お時間ある方は何も期待せずにお付き合いください。
今日のテーマは、一応「人生において仕事とは何か」です。
それに対する、アルコール依存と軽い鬱のけがあるぼくの結論は、
「働かなくたって別にいいじゃん」
です。
ぼくは働くのがきらいなんです
ぼくは賃仕事というものがきらいです。
お金をもらうために働きたくなんかないんです。
何を子どもみたいなことを言ってるのか、と思われるかもしれません。
でも、シッダールタさんだって言ってるじゃないですか。
自分は見返りのための説教はしないし、畑を耕しもしないんだって。
彼は賃仕事なんか一度もしたことがないはずですよね。
王子様として生まれて何不自由なく暮らして、やがて出家して乞食坊主として一生を終えたんですから。
もちろんぼくには、シッダルタさんのような魂の器はありません。
そして、彼のようなストイックさの持ち合わせもない。
ですから、ぼくは今のところ乞食坊主としては生きていないし、たぶん将来もそういう生き方はできないでしょう。
インドには、サドゥーと呼ばれ、路上で暮らす乞食坊主の人たちがいっぱいいます。
すごいことだと思います。
ぼくにはとても真似はできません。
それなのに、ぼくは仕事なんかしたくないって、だだをこねてるわけです。
仕事をするのが当たり前、という健全な価値観をお持ちの方からすれば、どうにも手に負えないロクデナシということにもなりましょう。
さてそれで、その健全な価値観っていうのは、どんなものなんでしょうかね。
そういえば勤労の義務ってあったよね
わが日本国憲法は、世界中の国々の憲法の中でも、最高に平和的で民主的なものの一つですが、その中に勤労の義務ということが書かれています。
まったく健全な価値観です。
でも、勤労の義務と言っても、利子生活が禁止されてる訳じゃないし、どっちかっていうと、働ける方はどうぞ働いてください、ってことなんじゃないですかね。
日本の社会にありがちな、働かない人間は人非人、みたいな考えって、マゾヒスティックに転倒しちゃいませんか。あげくに死ぬほど働いて、ほんとに死人が出る社会って、なんかおかしくないですか。
物乞いの権利だって、ありだと思う
それから、勤労の義務と対をなすかのように、軽犯罪法では、乞食をすることが禁じられてるんですよね。
福祉という仕組みがきちんと機能していれば、そういう法体系も理解はできます。
けれども一方で、イヴァン・イリイチのように、人間にはもともと物乞いをする権利があるんだ、って主張する思想家もいます。
ぼくはこの意見に共感します。
物乞いをする権利というものがなかったら、シッダルタの悟りはなかったでしょうから、仏教というものは存在しえなかったでしょう。
ぼくは別に、仏教最高っ、て思ってるわけじゃないですけど、物乞いが禁じられてしまって、仏教も存在できないような世界は、窮屈すぎて住みたくないなと思うんです。
ポストモダンなぼくたちの憂鬱
憂鬱って文字、字画が多くて、ほんとに重苦しいですよね。
重苦しいことは忘れて、実感に裏打ちされた楽観の話でもしたいところですが、まだそこまでたどり着きません。
工業化された社会で衣食住に困らないぼくたちは、健全な社会の一員である限りは、そこそこ困らずに生きていけるのですが、なんらかの意味でそこからはみ出して、漏れだしてしまうと、得体の知れない不安を感じながら生きていかざるを得なくなったりするんですね。
ポストモダンの憂鬱ってのは、なんかそんなような話です。
ちゃんと社会の一員としてやってらっしゃるみなさんは、ほんとに立派だとぼくは思ってます。
それは、僕の場合、自分が社会の一員として「ちゃんとやってない」自覚があるからこそです。
けれども「ちゃんとやってない」自分はだめな人間なのか、というと、「別にだめじゃないです、これも一つの生き方です」と胸を張って言いたいと思ってます。
不安や憂鬱に負ける必要なんてないんです。
常識にしばられて、自分の首まで締める必要なんて、これっぽっちもありません。
もちろん、働けるということは素晴らしいことです。
けれどそれと同様に、働かないで生きることだって、十分素晴らしいことなんです。
実感に裏打ちされた楽観
ぼくにはアルコール依存と軽い鬱のけがあります。
けれども、今は医者にはかかっていませんし、「障害」があるとまでは言えない、曖昧な立場の人間です。
ここに書いているようなことは、そうですね、かれこれ四半世紀ほどは折りにふれ考え続けている話なんですが、この数年ヴィパッサナー瞑想をするようになって、ようやく頭で考えるだけでなく、体で感じる実感としての理解が芽生えてきたところです。
世間の人は、働けと言うでしょう。
働ける人は働いてもいいんです。
でも、どうしても働きたくなかったら、そして、働くのが苦しくて苦しくてたまらないのなら、無理をしてまで働く必要はないんです。
そのとき、働かない人間になんの価値があるのかと、思ってしまうかもしれません。
でも、この世に生きているということ自体が、あなたの命に価値があることの証明なんです。
このことさえ覚えておけば、あとのことは時間が解決してくれます。
あなたの命には確かに価値があるんです。だから今まで生きてこれたんです。今感じている苦しみから、逃げ出さずに向かい合う勇気を持ってください。
そうすれば、その苦しみがあなたに何かを伝えようとしていることが分かってくるはずです。
あなたが、その苦しみを受け入れ、乗り越えていくことができるように、心からお祈りします。
そして、そうした苦しみを一つ乗り越えるごとに、あなたの中には、実感に裏打ちされた楽観が確実に育っていくはずです。
医療と福祉について
日本の精神医療の水準を考えると、安易に医療をすすめたくもないのですが、人生がどうにもならなくなったり、死ぬことを考えてしまうようなときには、医療も救いになりえます。
ただし、おどかすわけではありませんが、医療にかかってかえってこじらす可能性もありますので、あらかじめ信頼できる人に相談ができればそれが一番ですし、ネット上で情報を集めておくことも役に立つと思います。
医療だけでなく、福祉的な制度についても同様です。
ぼくの昨日、今日、明日
昨日までのぼくは、自分の生きる価値に自信がなく、まだまだあやふやな自分を抱えて、もがき続ける人間でした。
今日これを書いて、頭の中、心の中でもやもやとしていたものに、少しだけ目鼻がついて、自分の命の価値も、その分だけはしっかりと信頼できるようになりました。
明日からも当分の間は、仕事もしないまま、自分と向き合い、ただ生きてあることの価値を知るために、文章をつづっていこうと思います。
長い文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。
それでは、みなさん、またねーー。