みなさん、おはようございます。
今日は「蝶科学的ぷちブッダ論」をやり倒そうと思います。

ブッダことゴータマ・シッダルタさんは、フロイトを超え、アインシュタインにも迫る天才だった、というトンデモ論議です。

夜中たわしさんが、こちら
http://www.tawashix.com/entry/yamataikokuHaDokodesuka
で、鯨 統一郎さんの「邪馬台国はどこですか?」という一風変わった推理小説を紹介してます。

なお、この本のブッダに関するエピソードについて、がんがんネタバレさせちゃいますので、よろしく。


たわしさんによれば、

一応「歴史ミステリ小説」という謳い文句なんですが、内容はバーで4人が歴史談義をしているだけというもの。会話の内容は突拍子もなく面白いんですが、バーで殺人事件が起こるわけもなく、話をしているだけで終わります。

とのこと。

ぼくは読んでません。

けど、歴史トンデモ話を、会話形式で楽しめる人だったら、おもしろいんじゃないかな。

さて、ぼくがそそられたのは、「悟りを開いたのはいつですか?」という最初のエピソード。ブッダは悟りを開いていなかったという説です。

この説自体は、科学的な観点から考えれば、多くの人が思いつくことだと思いますが、ネットで内容を検索してみたところ、話のディテールがなかなか凝っています。

そこで、今回は、この「お話」の説を叩き台に、ブッダとはどんな人だったのかを検討してみることにします。
ただし、何ぶん、もとネタの「お話」を読んでいませんので、記述があいまいになるところも出てきますが、そこはご愛嬌ということで。

シッダルタは商人の息子だったって、ほんとかね。

ここから先、「悟った者」を意味するブッダという言葉の代わりにシッダルタというお釈迦さんの本名を使います。

そして、のっけから曖昧論理でもうしわけありませんが、この商人の息子説の詳細が分かりません。

ここは勝手に、シッダルタの本当の父は、釈迦族の王ではなく、別に本当の父がいて、その父が商人だった、そしてその商人との不義の結果、母マーヤーが産んだのがシッダルタだった、と解釈させていただきます。

たわしさんのところにも一部引用されていますが、「母マーヤーが、天から六本の牙を持つ白い象が降りてきて、お腹の中に入る夢を見たときに、シッダルタを授かり、母の右脇の下から生まれた」という不思議な伝説があります。

これを神話学的に解釈すると、シッダルタは、実際には、父王の子どもではなかった、という読みが出てきます。

つまり、現実にはありえないような不可思議な記述は、世間的には公にしがたい事実を「婉曲的」に表現したものである可能性があるわけです。

イエスさんが、処女懐胎という、現代的観点からすればありえない出自を持つこととも、たいへん似ており、考慮に値する説だと思われます。

このことと、母マーヤーがシッダルタの出産後すぐに亡くなってしまったことが、シッダルタのこの世に対する苦悩の大きな部分を産み、のちのシッダルタの出家につながるものになるのではないでしょうか。

奥さんのヤショーダラ姫が産んだ息子ラーフラは、不義の息子で、それが出家の原因だったのかしら。

このことと関連して、シッダルタは性的に不能だった、という説が述べられているようです。

不能だったかどうかは分かりませんが、シッダルタが性的な快楽にたいした興味を持たなかったことは、出家した、という事実からして明らかなことに思えます。

また、不能かどうかはともかく、性的関係に興味を持てなかったシッダルタが、妻を性的に満足させることができず、その結果、妻が不義の子を持ったということも、ありそうな話です。

そして、自分自身が不義の子であり、さらにまた、妻も不義の結果、子をみごもる、ということが、シッダルタの出家の直接のきっかけになったということも、実にありそうな話です。

ちなみに、このラーフラというシッダルタの子は、妻ヤショーダラがシッダルタの出家前にみごもったにも関わらず、出家の五年後に生まれたという不思議な伝説が残っています。このことも、ラーフラが不義の子であったことの傍証となると思われます。

悟りを開いてからも、いろいろな誘惑を受けて悩み、座禅を続けたの? それって悟ってないじゃん。

ようやく核心の問題に辿りつきました。果たしてシッダルタは、悟りを開いたのか。開いたにせよ、開かなかったにせよ、悟りとは何なのか。

まず、この記事で「悟り」という言葉をどういう意味で使っているのかを、ざっと定義しておきましょう。

生まれてから、生きる必要のために、着々と身につけてきた「十分に検証されていない知識」を、すべて検証しなおして、間違いのない「知恵」とし、しかも、その「知恵」が頭だけのものではなく、気持ち・考え・言葉・行動のすべてが一致している状態。

これを「悟り」の定義とします、おおざっぱで恐縮ですが。

このように定義した場合、その「知恵」には「誤り」はないはずですが、あらゆる「真実」を知っているわけではないので、「悟り」を開いたあとも、「知恵」を増やし、「真実」にちかづくためには、絶え間ない努力が必要なことになります。

この考え方でいくと、かりにシッダルタが「一切皆苦」や「八正道」といった「悟り」を得たのちにも、修行をおこなっていたことは、べつに矛盾でもなんでもありません。

むしろ、「ブッダは究極の真実を知った」というような、仏典上の記述こそが「伝説」にすぎないと考えられますから、シッダルタさんが実際に言ったことというのは、「自分は完全な悟りを得た」ということではなくて、

  • 「悟りに至りうる、すんごく確実な方法を見つけた」

というくらいのことだったのではないかと、思うのです。

フロイトを超え、アインシュタインにも迫る「ブッダの天才」

そして、このくらい控えめにシッダルタの主張を考えるとき、彼が「悟っていたかどうか」に関わらず、「悟りに至りうる現実的な方法」を、2500年前もの昔に示しえたということは、たとえていえば、フロイトを超え、アインシュタインにも迫る天才だった、といえるのではないでしょうか。

フロイトは近代科学の枠組みの中で、無意識を「再発見」しました。そのことが、現代の我々の暮らしに与えている影響には計り知れないものがあります。

けれども、フロイト自身は、その無意識の働きを、自身の歴史背景の限界から、もっぱら性的な抑圧の問題に帰着させるという、いささか狭い仮説に閉じこもることになってしまいました。その点を乗り越えるためには、ユングをはじめ、そののちの様々な研究者の力を要しました。

そのフロイトと比べたとき、西洋的な科学的概念など皆無だった時代に、それまでの宗教的実践をベースにして、フロイトと同じく「快・不快の原理」から出発しながら、呼吸を利用した無意識に至る確実な身体技法を開発し、「身体的なレベルで知恵を確立する方法」をシッダルタが示しえたことは、「奇跡的」といっていいことに思えます。

しかも、その実践法を支える世界認識が、「神を必要としない、世界の法則のみによること」は、まったく科学主義的と言えます。

また「この世界というものは、現実を作り出している微細な要素の、生成と消滅の繰り返しから成り立っている」としたところなどは、量子力学的世界観とも一致する点があり、その素朴な洞察力は、アインシュタインにも迫るものと思われるのです。

ですから、このシッダルタさんの類まれなる洞察力を前にすれば、彼が悟りを開いてたかどうか、なんてことは、はっきりいって「どーでもいー」話であって、「アインシュタインは悟りを開いてなかったから、相対性理論は認められん」という人がいないだろうことと同じで、

  • 「シッダルタさんが畳の水練でにしろ、悟りに至りうる『相当ただしい道』を指し示してくれたこと」

に、わたしとしては、感謝感激雨あられなのでありまして、今日も昼から酔っ払いつつ、三宝に帰依する、「なんちゃって仏教徒」のとし兵衛なのでありました。

というわけで、以上、鯨 統一郎さんの「邪馬台国はどこですか?」の最初のエピソード「悟りを開いたのはいつですか?」を肴に、「蝶科学的ぷちブッダ論」を展開させていただきました。

なお、シッダルタさんの説いた、日々の暮らしにも役立つヴィパッサナ瞑想については、こちらにちょろっと書いてますので、興味のある方はご一読ください。

10日間の瞑想コースで頭すっきり - *魂の次元*

ほいでは、みなさん、またねーー。