みなさん、おはようございます。
ぷちウェブ作家のとし兵衛です。

昨日、ゴエンカさん方式のヴィパッサナの瞑想コース10日間の旅を無事終え、西インドはラジャスタン州、砂漠のほとりの聖地プシュカルの街に戻ってきました。

10日間のコースを受けるのはこれで三回目になるのですが、今回はとてもすばらしい10日になりました。

頭がすっきりしすぎて、この瞑想の話を書かずにはおれない、という感じです(笑)。

というわけで、この記事では、ヴィパッサナ瞑想の簡単な紹介と、その話からいろいろと展開して、最後は昨夜みた夢の話を書いてみます。

瞑想にもいろいろあります。ヴィパッサナにもいろいろあります。

瞑想と言っても、特に関心のない方は、「なんか、座禅みたいなやつ?」
くらいの捉え方かもしれませんが、まあ、それは、大雑把に言うと、当たってます。でも、細かく言えば、いろんな瞑想法があります。

マントラと言って、呪文(真言とも言いますね)を唱えたり、神さまの姿や、いろいろな情景を頭の中で思い浮かべたり......。

けれども、初期仏教として実践されたヴィパッサナと呼ばれる瞑想法は、そういうことはしません。

基本的に、自分の呼吸と体の様子を意識するだけのものです。

ヴィパッサナと呼ばれるものの中にも、いろいろな流儀があって、呼吸だけ意識するものや、自分の動作を意識するとき、その動作を言葉で確認するもの(息を吸っているときは、「息を吸っている」と頭の中、言葉で確認し、息を吐いているときは、「息を吐いている」と頭の中で確認する)などなど、です。

日本では、この言葉で確認する、ラベリングのやり方が比較的知られているかもしれません。

さて、ぼくがやっているのは、ヴィッパサナの中でも、インドのS. N. ゴエンカさんがやってらっしゃる方式で、これは「自然な呼吸を観察し、体に起こる感覚を観察する」ということが基本になっています。

この単純明快な観察を続けることで、自分の体と心の仕組みを体験を通して理解し、ひいてはこの世界の法則を理解し、その法則にかなった、健康で意義ある生活を送れるようになることが、この瞑想法の目的ということになります。

「自分の人生は、まずまず楽しいし、苦労してまでそれを変える必要はないよ」という方は、それでよいと思うのですが、「なんか、今ひとつ人生が楽しくない。多少たいへんなことでも、もっとすっきり生きるために何かをやってみたい」という人には、おすすめの瞑想法です。

☆なお、次の本に、ゴエンカさん方式のヴィパッサナー瞑想のことが詳しく書いてありますので、興味が湧いた方は、どうぞアマゾンでご覧ください。
瞑想についての、いろいろなヒントが得られると思いますよ。

ウィリアム・ハート「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法」(春秋社1999)〕

[なお、ゴエンカさん方式については、ネット上での「批判」も目にしますが、当たっているものもあり、誤解もあり、といったところです。
実際、ゴエンカさんの講話の録音を聞いてみますと、いろいろな問題点を感じます。
けれども、欠点を見て全体を否定するのは、もったいないんじゃないかなぁ。一部が悪くなってるりんごを、まるごと捨てちゃうみたいなもんで。
もちろん相性はありますから、「ゴエンカ方式は合わない」という人も当然いると思います。
ちなみに、ぼくはあくまで「半信半疑」の立場でありまして、必ずしも指導の通りにはやっていません。けれども、「ゴエンカ方式」には他の方法とは違う利点があると思っていますので、こうやって「ゴエンカ方式」をおすすめしている次第です]

瞑想、夢、変性意識

変性意識という言葉があります。altered states of conciousness の訳語で、「意識の普段とは違った状態」といったような意味です。

催眠状態や向精神性の薬物を摂った状態も「変性意識」ですし、瞑想も「変性意識」、また夢を見ているときの意識も「変性意識」です。

......というように、この「変性意識」という言葉は、『「普通の意識」があって、それとは違った意識がある』ということを意味しているわけですが、「普通の意識」って、なんなんでしょうね?

ぼくたちの「普通の意識」は数々の思い込みによって成り立ってるんじゃないでしょうか。

とすると、これって「洗脳」されている状態とそんなに変わらないことで、「催眠状態」にあるってことになっちゃうんですよね。

でも、これは別に悪いことではありません。社会生活を円滑に行なうためには、ルールというものが必要で、ルールに従うためには、いちいち、「この行動はしてもいいのか、悪いのか」などと考えていたら大変なことになってしまいます。

そこで、たとえば、「人のものを盗ってはいけない」という「思い込み」を持つことで、ぼくたちは、社会生活を円滑に送っていけるようにしているのです。

ちょっと分かりにくいでしょうか?

「思い込み」と「判断」の違い

「人のものを盗ってはいけない」というのは「思い込み」だ、というのは、ちょっと変じゃないか、と思われた方がいるだろうと思いますので、そこのところを少し説明します。

もちろん多くの方は、「人のものを盗るのは、その人に害を与えることになるからいけないのだ」と論理的、倫理的な判断をした上で、そのことに納得した上で、そのようなルールにしたがっていらっしゃることでしょう。

けれども、「人のものを盗る」ということ自体は、どのようにして判断すればいいのでしょうか。

つまり、『こうするのが「盗る」ということ』であり、『こうするのは「盗る」ことにはならない』という区別するための方法です。

野山に行って、木になっている柿を取って食べたとします。
これは「盗った」ことになるのでしょうか、どうでしょうか。

法律にしたがっていえば、これは人の土地にあるものを「盗った」のだということになるでしょう。

ですが、それは日本での話であり、スウェーデンの法律では「盗った」ことにはならないのだと、聞いたことがあります。

すると、ぼくたちはいつでも法律にしたがって生きているのだから、それが「判断」の結果ということであり、したがってそれは「思い込み」なんかじゃない、ということになるのでしょうか。

けれども、「法律にしたがわなければならない」というのが、そもそも「思い込み」にすぎないのではないでしょうか。

世界的に有名な多国籍企業はみんな、「法律にしたがって」活動しているのでしょうか。

法律の網の目をかいくぐり、灰色の活動をすることで利益を増やしている企業は、少なくないのではないでしょうか。

「判断の停止」と「思い込み」

このように考えていくと、何が善で何が悪なのか、だんだん分からなくなってきますし、実のところ切りがなくなってしまいます。

そこでぼくたちは、一旦「判断を停止」して、『とにかく「ものを盗る」のは悪いのだ、だからやめよう』と「思い込む」ことにしてしまうのです。

しかし、これを誠実に実行するためには、一旦「停止」した「判断」を必要に応じて、きちんと考える必要があるのですが、そこがまた、普通には難しい。

難しいので、裁判所に任せるのですが、裁判所がいつも正しいとは限りません。

「裁判所はいつも正しい」と思っている人がいるとしたら、それはやはり「思い込み」と言わざるをえないのではないでしょうか。

「思い込み」を解きほぐしたいあなたへ

とまあ、話が大風呂敷になってしまいましたが、ぼくたちの「普通の意識」は、かなりの部分が「思い込み」で成り立っていて、「普通」のはずの意識が実は「変性状態」にあるのだ、というのがここで言いたいことです。

吉本隆明さんの「共同幻想」というような考え方とも似ていると言えましょう。

そのとき、この「幻想」とか「思い込み」を解きほぐす道具として、瞑想が役に立つ、というのが、不真面目ながらもヴィパッサナを実践してきての、今のぼくの実感ということになります。

瞑想から夢の世界へ

ところで、なぜ社会生活のために「思い込み」が必要なのか、ということの別の説明は、ぼくたちの心と体が、意識と無意識に分断されているからなんですね。

ぼくたちの「無意識」は、おいしそうなお菓子があれば、それが誰のものかなんてことにはお構いなしに「食べてしまいたい」と思うんです。

でも、「人のお菓子」を食べてしまったら、たとえば、相手に殴られるかもしれない、それで、「人のお菓子は食べてはいけない」という「思い込み」をすることで、その危険から逃れるわけです。

そして、フロイトが近代合理主義の枠組みの中で再発見した夢の持つ「無意識性」、これがまた、ぼくたちの「意識」と「無意識」をつなぐ道具になりうるわけです。うまく使うことさえできればね。

それでですね、瞑想の10日間コースを開けて、ちょっと印象に残る夢を見たので、ここに記録を残すことにするのですが、ちょっとエッチな話題が出てきます。そういうのが苦手な方は、今回はここらでお別れ、ということで、どうかよろしくお願いします。

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ぼくが見た夢、ちょっとエッチな内容あり

瞑想で緩んだぼくの無意識が見せてくれた夢を二つ、記録のためここに残します。他人様にはたぶん大しておもしろくないでしょう。

一つ目は、今の奥さんに、昔の奥さんと関係があるものを見られそうになって、なんとかそれを見られないようにする、というもの。

ぼくは、26歳のときに結婚して、そのときの奥さんとは4年後に別れました。その後、35歳で再婚。それが今の奥さんで、もう17年を一緒に過ごしたことになります。

そんなに昔の話ですから、普通の意味で前の奥さんに気持ちを残しているというわけではないのですが、ある種の「心残り」みたいなものはありまして、連絡先は知らないのですが、ネット上で連絡を取ることは不可能ではないので、連絡を取ってみたらどうかなぁと、たまに「空想」することがあります。

そんな思いの「罪悪感」というか、気まずさが夢に現れたものと思われます。

次の夢と合わせて考えると、ぼくの人生上の重大な結ぼれが、女性関係にあり、そして、その大もとを辿ると、今回の夢では姿を表していませんが、母親との関係の問題があることが示唆されます。

さて、そこで、もうひとつ見た夢というのが、なんともAV的な夢でして、いや「的」どころじゃなくて、もろにAVです。

状況はよく分からないのですが、裸の女の子を、プロの男たちがよってたかってもて遊び、一人の男は、下のお口に指を入れてすばやく動かし、すると、じょじょじょーーと噴水のように潮が吹き上がる。それをただ見ている、というものです。

で、それを見て興奮しているか、というとそうではなくて、ただ淡々とその情景を見ているんです。

ぼくはそっちのほうはかなり淡白で、初めの奥さんと別れることになった原因の一つはその淡白さだったと思います。今の奥さんとももう長い間そちらの関係はありません。

とはいえ、目が覚めてからその夢を思い返してみて、あんなすごいことが現実にできたらいいかもなぁ、などとアホな「空想」をするほどには欲も残っています。

で、この夢を考えるとき、ぼくの「無意識」は、やはり何かそういう方面のものも求めているんだろうな、という甚だ当たり前の結論が出てくるだけなのですが、10日間も瞑想センターに籠って、朝から晩まで瞑想三昧、男女別々で、同じホールのあちら側とこちら側で座っていますから、見ようと思えば見えるんですけど、一応見てはいけないというお約束のもと、そうした厳しい修行を続けたあとで、こういう夢を見る、というところに、何か感慨深いものがあるのです。

10日間の特別な状況で、頭が蝶すっきりしたからといって、「悟り」でも得たような気になって、調子に乗ってるんじゃないよ、という無意識からのメッセージとでもいいましょうか。

というわけで、埒もない話を、今日も長々と書きました。
最後まで読んでくださった皆さん、ほんにおおきに。

てなことで、みなさん、ごきげんようーー。

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☆別サイトでも、瞑想について書いてます。こちらは簡単な瞑想のやり方です。気が向いたらご覧ください。

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