人が、たとえば weblog に何かを書くということによって、表現をするとき、
その人なりの表現の意味というものはもちろんある。


それは、単なる暇つぶしかもしれないし、知人に近況を知らせているのかもしれないし、
あるいは、孤独な独白(ひとりごと)ではあるにしても その人にとって必要不可欠な
切羽詰まった心情の吐露なのかもしれない。


そうした個人的な側面とは少し距離をおき、いくぶん抽象化したところで考えてみると、
文章にしろ写真にしろ、表現と呼ばれるものが何か特殊なものだ考える必要は必ずしもなく、
表現というものも人が生きるという形態の中でおこなっている様々なほかの活動と
特に代わりはないと考えることができるし、その表現の意味として伝言という機能を
想定することができる。


つまり、意識しているか していないかは さておき、人の活動はすべて表現であり、
その表現は伝言であると考えても構わないわけだ。


この世界で人間がやっていることは伝言ゲームなのだと考えるとすっきりすることに、
しばらく前に気がついた。
言葉を使ってする活動だけでなく、動作であれ心理的な状態であれ、人は表現し、
それを見た人は反応を返し、そのようにしてなにがしかのメッセージがやりとりされ、
そこに現れたパターンというものは、進化論的な意味合いで、生き残ったり、数を
増やしたり、死に絶えたり、という歴史を辿っていく。
まったく同じものが伝わっていくわけではない。遺伝子が変異するように、伝言が
聞き間違えられるように、なんらかの意味で生き残りやすいものが、変化しながら
伝わっていくのだ。


そんなこんなで、ぼくは今日も伝言ゲームを続ける。
そこに特別な意味があるわけではない。自分なりの心の落ち着きを求めて、
あれやこれやと試してみているだけのことだ。
近所の macdonald でバロックの音楽が流れる中、ぼくなりに言葉の流れを
調節してみているだけのことだ。