ディーノ・ブッツァーティ「神を見た犬」関口英子訳、光文社文庫2007


みさなん、お元気でお過ごしでしょうか。


この本については前にもちょっと書いたけど、また読み直したので感想を追加します。


ブッツァーティは独特の味わいの幻想的ないし寓話的短篇を書いたイタリアの人だけど、
「呪われた背広」は星新一とも似た感触の話。
料金を請求しない奇妙な仕立て屋が作った背広。その背広を着てポケットに手を入れると
一万リラ札が一枚ずつ、いくらでも出てくる。
ところがそこで手に入れた額だけ、世間では不幸な事件が起こる...
人間の愚かさを笑うブラックユーモアが効いた作品です。


さて、とっても苦いブラックであったり、どうにも救いがなかったりといった作品が多い
ブッツァーティ
なのだけど、「驕らぬ心」はニヤニヤしながら読んでいたのに最後の場面では思わず泣いて
しまいました。
ちょっと長めにストーリーを紹介。


都会で隠遁生活をする修道士のもとに、ある日若い司祭が告解に来て言う。
高慢の罪を犯したというのだ。
修道士が詳しく聞くと、若い司祭は「司祭さま」と呼ばれる度になんともいえない
喜びを感じてしまうのだという。
修道士はまさかこんなこととはと思いながらもその敬虔で純真な司祭に赦し(ゆるし)を
与える。
三、四年が経ち、またその司祭が修道士のもとに訪れる。今度は前よりももっとひどい
状態だと言い、「司教さま」と呼ばれる度に喜びを感じてしまうのだという。
修道士は、この男は哀れな愚者でまわりの人間からからかわれているに違いないと
思い、再び赦しを与える。
それからまた十年。同じ司祭が修道士のもとへ。修道士はまだ同じことで悩んでいるのかと
尋ねる。すると司祭はもっと情けない状態だと言う。「大司教猊下」と呼ばれる度に
喜びを感じてしまうのだと。
お人好しのこの司祭は年をとるにつれて愚直になり、まわりの皆が調子に乗って彼のことを
からかっているに違いない、修道士はそう思い、三度(みたび)司祭に赦しを与える。
やがてある日、老いさらばえた修道士は、死が間近に迫ったことを知り、ぜひヴァチカンに
行って聖ピエトロ寺院や法王さまのお姿が一目見たいと思う。
そして、ヴァチカンに行った修道士が見たものは...


ぼくとしては、「おもしろくて、しかもいい話」海外短篇部門第一位の栄誉をこの短篇に
与えたいと思います。
ヴォネガットカフカカルヴィーノボルヘス、そんな作家が好きなあなたに
お薦めしておきます。


それではみなさん、また来週*1

*1:「来週」という表現に特別な意味はありません(笑)。