processkamakiri氏の「自己意識の不変神話」とそのコメントを読んで、
意識について考えたことを書いてみる。


ぼくは、長い間じぶんというものは連続して存在していると、
無反省に思って生きていた。


しかし、少し仔細に実情を見てみれば、人は一瞬一瞬変化を
続けているわけだし、それどころか、過去の記憶に基づいて
今を認識し、未来を推察している以上、直(じか)の認識としては<今>以外ありえないのだから、連続もへったくれもなくなってしまう。


そこをつきつめると社会的な暮らしが成り立たなくなって
しまいがちなので、我々はいろいろな詰め物をして、
なんとか日々を生きることになる。


とりあえず、今日と似た昨日の自分を想定し、その自分が明日も
続くと想定し... 世界についても同様。


と、そのように自分というものを想定したとき、意識という作業を
行なっている、移ろいやすい自分より深いところに、無意識と呼ばれるような、
普段自分では意識していないシステムがあることに気づくことになる。


そこのところをウパニシャドではアートマンと呼んだのかなと思うし、
仏教ではそれはもはや「我」ではないとして無我を言ったのかなと思う。


お釈迦さんが、無我を言い、輪廻について語らず、日々の暮らしについてのみ
指針を指し示したことは当時としては画期的なことであったのだろうけど、
どういうわけかぼくの実感としては、真我としてのアートマン、それと
一体としての宇宙原理ブラーフマン、というほうが分りやすく気持ちよい。


お釈迦さんのいう涅槃は、僕には寂しすぎるということかもしれない。