四十肩というのだろうか、左の肩の背中側が筋を違えた感じでかなり痛い。
腕を上げるのはさして痛くないのだが、寝床についてしまうと寝返りを
打つのが一苦労だし、また起き上がるときに痛みを予期しながら、
それに耐えねばならないのが、なかなかしんどい。
この二、三年の間に何度か似たような経験をしているので、やはり歳のせいか
とは思うのだが、いやはや、ふだん多少なりと体に意識を向けているつもりで
いるものの、そうは簡単に体が言うことを聞いてくれるわけではないようだ。
しかし、こうやって症状としてでてきてはじめて、日々の暮らしの中で少しずつ
溜まってきている<何か>を意識できるということはありがたいことで、それが<何か>ははっきりしないまでも、今感じる痛みとそこからくる不便さを大切に
して、<何か>が左肩のあたりでひっかかっているんだなあと、その感じを頭の
片隅に置いて、一日一日を重ねていきたいと思うのである。
体のことに意識を向けるようになったきっかけの一つに、
竹内敏晴の「からだとことばのレッスン」を読んだことがある。
この人は演劇・教育系の人なのだが、この本に書いてあるワークのまねをして
体の力を抜いてみようとしたところ、これが、全く抜けない。
首から肩にかけての緊張を、自分ではどうすることもできないのだ。
そんなことがあってから、ヨガの本を読んだり、たまたま知り合いに気功を
すこし教わったりして、気が向くと体を動かすようになった。
毎日やっているわけでもないし、きちんと教わったこともないから、あくまで
ヨガもどき、気功もどきにすぎないのだけど、そうやって体を動かして体に
意識が向くようになることで、少しばかり生きるのが楽になったような気がする。
呼吸に意識を向けることもそうだけれど、体に注意を払って、まずはその緊張に
気づくこと。
心も頭も体とともにあるわけだから、まずはその緊張に気づいて
それをほぐしていくこと。
習慣となってしまっている考え方や感じ方にしばられて、なんだか窮屈に感じるとき、
それを変えていくためには、体のほうから入っていくのも、なかなか有効な手段だと
思うのです。
「働かないって、ワクワクしない?」アーニー・J・ゼリンスキー(ヴォイス)
この本はアメリカ的な文脈で書かれているから、自由時間をこそ、
たのしく生きましょう的な物言いになっていて、そこんとこはぼくの
趣味とあわないんだけれど、フルタイムで働いて「安定した暮らし」を
するのがそんなに素敵なことだろうか、という投げかけとしては、
確かにそのとおりと言いたくなる。
なにしろぼく、働くのは嫌いなもんで。
いやしかし、最近はこの手の「生きかた」についての本、ほんとに
おおいですね。
http://www.eleutheria.com/vquest/vindex.html 文化人類学者あがりの「呪術師」カルロス・カスタネダに関するページ。
色が派手でやや読みづらいが詳しい。
カスタネダのドン・ファンシリーズはいろいろあれど、一冊ということなら、これを。
「未知の次元―呪術師ドン・ファンとの対話」
http://en.wikipedia.org/wiki/R._D._Laing R・D・レインは英国はスコットランド出身の精神科医。英語のページで失礼。
http://laingsociety.org/ こちらに公式ホームページ発見。
一冊読むなら、読みやすさも含めこれ。
「レインわが半生―精神医学への道」
http://www.suanmokkh.org/ おしゃかさんの関連ということで、タイのお寺です。これも英語。
おしゃかさんの言葉にたぶん一番近い仏典の口語訳。
わたしの場合、お経とはこういうものだったのかと目からうろこが落ちました。
「ブッダの真理のことば・ブッダの感興のことば―ダンマパダ・ウダーナヴァルガ 」(1984年)
一日一日を気持ちよく生きていきたいのなら、
一瞬一瞬、自分が何をしているかにまで
きちんと気を払えるようになれたら最高。
その域に達することのできる人は少ないだろうけど、
どこまでできるかはともかく、目標はいくら高く持っても
悪いことないですよね。
で、その第一歩が深く息をすること。
そして体の力を抜くこと。
深くゆっくり息をする練習を続ければ、自分の体や
まわりの世界に注意深く気を払うことができるようになるし、
自分の体の緊張にも気づくようになるから、体の力を抜いて、
楽な姿勢をとることもできるようになる。
緊張しすぎてたら、できることもできなくなるし、
気持ちよくやってけませんもんね。
深く息をして、体の力を抜いて、いま自分がなにをやっているかに
注意を払ってみましょうか。
この世はまぼろしで、しかも完璧で、
しなければならないことなんて何もない上に人はみな自由に生きているとすれば、
ぼくらが生きていく上で、一体なにが問題になるというのだろう?
一つの答えは、そう、問題なんて何もない、ということだ。
ぼくが、あなたが、そして多くの人が、「まいったな、こいつは問題だ」
と思うからこそ、そこに問題が生まれるのであって、「ふむ、確かに少し
困りはするが、なに、こんなことは大したことじゃない、別に問題と
いうほどのことじゃない」と思ってしまえば、問題など消え失せてしまうって
わけだ。
そんなに簡単にいくわけないよと、あなたは思うだろうか?
たしかにこれを実行するのは難しいだろう。問題なんて何もないと
思えるようになるまでには、十年単位の時間がかかるかもしれない。
けれど、考え方自体は上に書いたとおりで、全く単純明快なことなのだ。
別の角度から眺めてみると、問題が生まれてくるのは、とかくままならぬ
ことが多いこの世の中で、所詮ままならぬと分ってしかるべきことを、
どうしてこうもままならぬのかと、無駄に嘆き苦しむからだ、という
こともできる。
このことは、お釈迦さんが言っていることと半分は重なるが、欲望のままに
生きて、欲望を膨れあがるにまかせれば、いずれどこかで満たされぬ
苦しみという問題がやってくるのは当たり前なのであって、初めから足るを
知ってさえいれば、問題は生まれてこないわけだ。
あるいは、欲望のままに生きるとしても、それが適うときもあれば適わぬ
ときもあるのだから、適ったときには「ああ、良かった」と喜び、
適わなかったならば「これは残念」と思うくらいのあっさりした心持ちで
いれば、これもまた問題の生まれる余地はほとんどない。
いずれにしても肝心なのは、自分の心の手綱をどうとるか、である。
仮に上に書いた話をもっともだと思ったとしても、それを実行しようと
すれば、様々な心の乱れがあなたを邪魔することになるだろう。
その心の乱れすら問題としないようになるためには、とにかく時間をかけて
気長にやるしかない。
で、ぼくの場合どうなのかって?
問題なんてない、とすっぱり言い切れるかといったら...
まったく覚束ない、というのが実情です、はい。