今日は、
・精神科の「隔離と薬漬け」の末に亡くなった、38歳男性と両親の無念(佐藤 光展) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
という記事を受けて、日本の精神医療について書きます。
日本の精神医療は必要以上の投薬をしているのではないか、という疑問を述べるたともに、その現状を踏まえた上での精神医療とのつきあい方を考えます。
ストレス過多の現代社会では、不眠やうつなどの症状で医療のお世話になることも多いかと思いますので、「ひょっとして診察してもらったほうがいいのかな」と思っている方や、身近に精神医療を受けている方がいる皆さんのご参考になれば幸いです。
日本の「危険」な精神医療 なぜ日本の精神医療は患者を「薬漬け」にするのか 「薬漬け」にされずに、精神医療を利用するために この記事を書く力を下さったはてな村の皆さまへ 「日本の精神医療」は時代遅れで危険なのか? 日本の「危険」な精神医療 ・精神科の「隔離と薬漬け」の末に亡くなった、38歳男性と両親の無念(佐藤 光展) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
という記事では、38歳の自閉症の男性が、国立病院機構が運営する広島県の精神科病院で4ヵ月半の入院治療を行なったのち、退院直後に突然死したケースが紹介されています。
「治療」という名のもとに、 「監禁」した上で 「薬物漬け」にして健康を害した結果 死亡に至った、 といっても決して言い過ぎではないような「医療事故」が、現在の日本社会で起きているなどということは、すぐには信じがたいことかもしれませんが、これはまったくの事実なのです。
ぼくは精神障害者の方のための作業所やグループホームに勤務した経験があるので、多剤投与が原因の一つになっているだろうと考えられる悪性症候群で亡くなった知り合いもいます。
また命には関わらないまでも、うつの治療で抗うつ薬を服用した結果、躁転して入院せざるを得なくなったと考えられる知人もいます。
こうした問題は、日本の精神科医の多くが、薬物治療について十分な知識を持たないままに、安易に多量・多剤の薬物投与を行なっていることが原因となっている可能性があります。
なぜ日本の精神医療は患者を「薬漬け」にするのか あなたが仕事のストレスから不眠に悩み、毎日の生活がうまく回らなくなって、思い切って心療内科を受診したとしましょう。
ある程度の問診を受けた上で、医者は睡眠導入剤を処方してくれ、二週間なりひと月なり眠剤を飲んだ結果、不眠が改善し、眠剤に頼らずに眠れるようになったならば、あなたの「不眠」という症状は、「心の風邪」という程度のもので済んだことになります。
風邪もこじらせれば肺炎になる、などという言い方をしますが、「不眠をこじらせてうつにならなくてよかった」というところです。
けれどもこれは「幸いなケース」に過ぎません。
不眠に対して眠剤を処方することは、症状を抑えることにしかなりませんから、原因のストレスが改善しなかった場合、眠剤が手放せないことになりますし、あるいは不眠が軽くなったことでさらに仕事が増えるなどして、ストレスが強いものになれば、眠剤を増やさなければならない事態にもなりえます。
*1
風邪ならばとりあえず症状を抑えるだけの対症療法でも、それが自然治癒力を助けて、風邪が治ってしまえば何の問題もありませんが、このように不眠は風邪と同じには考えられない場合も多いのです。
ところが日本の精神医療は、薬物による対症療法以外の診療をほとんどしてくれません。
これには医者の「利益」が保険点数制度によっており、処方箋を書くことが、医者の「仕事」の大きな部分を占めることや、保険料として製薬会社に流れる大きな資金が関係しています。
つまり、お医者の先生は決して患者を「薬漬け」にしようと思っているわけではないでしょうが、
対症療法としての薬物治療と、 それを支える処方箋優先の保険点数制度、 という日本の現状では、結果として「薬漬け」が蔓延しやすいわけです。
「薬漬け」にされずに、精神医療を利用するために 不眠に悩んで心療内科を受診する方の多くは、眠剤によって対症療法を行ない、一時的なストレスさえ乗り切れば問題ないかもしれません。
けれどもうつの症状が強く、休息が必要なケースなのに、抗うつ剤で調子を「上げる」ことで現状を維持しようとすると、薬物性の躁状態になる場合もあるので注意が必要です。
抗うつ剤の使用でテンションが高くなりすぎたり、イライラしやすくなったりしたら、まずは主治医とよく相談するのがいいでしょう。
向精神薬はさまざまな副作用が出る場合がありますので、不快な副作用があれば、これも主治医に相談するのが基本です。
ただし、医者の中には、患者の訴えを十分に聞く余裕のない方もいますので、主治医があなたの訴えを聞く耳をあまりにも持たない場合は、セカンドオピニオンを求めるなり、ネットや書籍で情報を調べるなりした上で、自己判断により減薬するというやり方もあります。
このとき注意が必要なのは、ネット上には向精神薬の投薬自体を否定するような極論も多々見受けられる点です。
理想としては、薬物に頼らずに心理的なサポートのみによって心の病を治療することも可能かもしれませんが、現実にはそのように十分なサポートを受けることは難しいでしょう。
長い間、多剤・多量の投薬を受けていたのに、向精神薬は害しかないと思い込んで、急激に断薬をすれば、離脱症状に苦しむことになりますし、最悪の場合は、命にも関わる事故にもつながりかねません。
ですからもしも自己判断で減薬する場合には、いきなり断薬すしたりせず、徐々に減らしていくことが必要ですし、なるべくなら主治医には減薬していることを正直に報告したほうが安全です。
なお、ぼく自身は医師や薬剤師の資格を持つものではありませんので、ここに書いたことを皆さんが参考にしたとしても、その結果については、残念ながらなんらかの責任を持つことはできません。
しかしながら、現に「無責任」な一部の医者によって「医療事故」が起こり続けていることも事実ですので、ご用心のうえで受診することをおすすめする次第です。
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女性は演技がうまいといいます。
これは恋愛の駆け引きにおいて、えてして男はナイーブかつ直情的であり、女性の計算高さには敵わないことを言うのでしょう。
男は男で会社の上司に心にもないお世辞を言いもするわけで、この手の演技がうまい人ももちろんいます。
このように、女でも男でも意図的に、あるいは反射的に上手に演技をする人もいるわけですが、自分は演技なんてしないからな、と思うあなたの場合はどうでしょうか。
社会の中で生きるとき、本音ばかりは言っていられないのですから、多かれ少なかれ立て前を使い分けもするでしょう。
意識もせずに自然に立て前を話しているとき、あなたは上手に演技をしていることになります。
必要に応じて立て前を使うことは、決して悪いとは言えませんが、そちらばかりが目立つようになってしまったら本末転倒というもの。
人生の全体が演技の塊にならないように、自分の気持ちを大切にして、日々を生きたいものではありませんか。
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社会学者の宮台真司氏が、「言葉の自動機械」になってしまった現代人について警鐘を鳴らしています。
あまりにも周囲の目を気にしすぎるわたしたち日本人は、現状を客観的に観察し、「承認欲求を超える」自由な生き方を手にすることができるのでしょうか。
あなたも「言葉の自動機械」? 自動機械化から逃れるためには「観察」することが必要 「承認欲求を超える」自由な生き方って何? あなたも「言葉の自動機械」? 「言葉の自動機械」とは耳慣れない言葉ですが、これは社会学者の宮台真司氏の使う言葉で、現代の人間が無意識的に刷り込まれた言葉の構造にしたがって自動的に行動するあり方を批判的に表したものです。
自分が自動機械だと言われたら、あなたはどう感じるでしょうか。
「自分は自由な存在で、行動だって自由に決めている。機械呼ばわりされるおぼえはない」そんなふうに思いますか?
もしあなたが自信を持ってそう言えるのならば、この記事でこれから書くことは、あなた以外の多数派の人の話ということになります。
でも多くのみなさんは、あなたが多数派に属するか、少数派に属するかに関わらず、自分が周りの意見に大きく影響されていること自体は否定ができないはずです。
たとえばネットで流れるニュースを見たとき、あなたの心の中で起きる反応は反射的なものであり、自動的なものです。
そこで感じたことにもとづいて「スキ」をしたり、シェアしたりするとき、あなたは自動的に反応しているのではなく、それをするべきかしないほうがよいか、一つ一つ判断しながら行動しているでしょうか。
誰もが自由意志にもとづいて行動しているのは間違いがないとしても、このように自分の行動を確かめていくことによって、人間の習慣的な行動の多くが自動機械化していることも、また確かな事実であることが分かってくるはずです。
行動を自動的に行なえるようになることには、大きなメリットもあります。
たとえば車の運転は、多くの人にとったかなり難しいことであり、習い始めにはたくさんのことを意識しなければできません。
ところが練習と経験を重ねることによって、初めは意識しなければできなかったことが、無意識にできるように自動化されて、いとも簡単に運転ができるようになるわけです。
問題は自動機械化した行動が、時代の変化によって役に立たなくなったときです。
日本人は自分が属する集団を優先することで、敗戦から素早く立ち直り、経済的な発展をとげることができましたが、この集団優先という自動機械が今や機能不全を起こしています。
機能不全を起こした自動機械化を正すには、一体どうしたらいいのでしょうか。
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自動機械化から逃れるためには「観察」することが必要 宮台氏は、無意識的に行なわれる自動機械的な行動は、意識的に観察することによって是正することができるのだと言っています。
つまり自動的に行なわれる行動を変えるためには、まず自分が無意識のうちに何をやっているかに気づかなければなりません。
自分の行動を観察することがすべての出発点となります。
宮台氏はラカンの思想などを援用して、自己観察による意識の高次化を言うのですが、ここでは瞑想による自己観察をおすすめしたいと思います。
映画監督の想田和弘氏はスリランカの僧侶スマナサーラ氏の『怒らないこと』という著作を「わが人生最高の10冊」の一冊めに挙げています。*1
自動反応的な感情で誰もが悩まされるものとして、怒りは一番大きなものでしょう。
この感情の自動機械から逃れるには、抑えようとしてもうまくいきません。とにかく観察することが必要なのです。自分が起こっているときに、呼吸を観察し、体に起こる感覚を観察し、心の中で湧き上がる思考や感情を観察できるようになったら、あなたはあと一歩で怒りのコントロールに成功するところまで来ているのです。
普段から呼吸に意識を向ける練習を少しずつ重ねていけば、自分を客観的に観察することができるようになり、自動機械的な行動に悩まされることもだんだんと減っていくことになります。
☆呼吸から始める瞑想法についてはこちらの記事もどうぞ。
たった三回の深呼吸で、マインドフルで充実した日々があなたのものに! - *魂の次元*
「承認欲求を超える」自由な生き方って何? 宮台氏は、物質的な豊かさが飽和し、経済成長が望めない現代の日本においては、sns上でのコミュニケーションに典型的に見られる「承認欲求満たし」という行動様式が問題となっていることを指摘します。
社会的な閉塞感が大きなストレスとしてのしかかる中、ネット上では「承認欲求」をベースにした「相互承認ゲーム」や「相互否定ゲーム」が無間地獄のように繰り返されています。
この状況から抜け出すために「俺ってやっぱダメだな」と自分を笑い飛ばすことを彼はすすめます。
才能や成果を喧伝する社会の中で、あえて自分の「ダメさ」を認めることは、勇気のいることですが、そこで一歩踏み出すことが、社会の圧力が押しつけてくる息苦しさから逃れることにつながるわけです。
宮台氏は「世の中は無意味だ、でもそこそこ楽しい」という考え方ができれば生きていくことができるのだと言います。
*2
これにならって言えば、
「ダメだってかまわない、そこそこ楽しく生きられれば」
ということができるでしょう。
ぼくたちは周りの評価を気にしすぎるあまりに「承認欲求満たし」のゲームにはまり込み、ありもしないゴールを目指して、目の前にぶら下げられた透明のニンジンを追いかけて走り続けます。
けれどもそれが社会から気がつかないうちに刷り込まれて作り上げてしまった「無意識の自動機械」のなせる技なのだと知ることさえできれば、あなたはその「泥沼のゲーム」の土俵から降りることもできるようになるのです。
人類の過去と未来を「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」の二冊で書き切ったイスラエル人の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏が、毎日二時間の瞑想を欠かさないヴィパッサナー瞑想の実践者であることはご存知でしょうか。
この記事ではハラリ氏の体験と言葉を通して、ヴィパッサナー瞑想の持つ大きな可能性を紹介します。
瞑想は迷信? それともカルト? 瞑想で身につく第一の力は「注意力」 二つ目は、物語と現実を見分ける力 21世紀で一番重要な資源は「注意力」である ハラリ氏の瞑想実践は、毎日二時間、毎年30-60日の長期コースも 瞑想は迷信? それともカルト? ハラリ氏はもともとは瞑想に関心はなく、迷信かカルトだと考えていました。
それが変わったのは、オクスフォード大学で博士課程の勉強をしていたときのことです。
中のよい友だちにヴィパッサナー瞑想をすすめられたのですが、初めは断っていました。けれど一年にも渡ってすすめてくれるので、試しにやってみたのだそうです。
すると彼が受けた瞑想のコースにはまったく神秘主義的な要素がなく、まったく実際的な指示があるだけなのでとても驚いてしまったのだそうです。
その瞑想のやり方はどんなもので、どんな効果があったのでしょうか。
瞑想で身につく第一の力は「注意力」 ハラリ氏は、ヴィパッサナー瞑想に出会っていなかったら、「サピエンス全史」を書くことはなく、今でも中世の軍隊の歴史を研究するだけで精一杯だったろうと語っています。
その彼が、瞑想によって身につく第一の力として上げているのが「注意力」です。
ハラリ氏が実践している瞑想法では、まず自分の呼吸に意識の焦点を当てる練習をします。
そして呼吸に意識を向けることに慣れたら、次に全身の感覚を頭のてっぺんから足のつま先まで順番に観察していきます。
こうして呼吸と体の感覚を対象にして観察を続けることで、意識の焦点をコントロールする力を養い、注意力を高めることになるのです。
呼吸のように身近で分かりやすいものに対して焦点を当てる練習を続けることによって、もっと重要なものに焦点を当てることができるようになるのだと言います。
歴史を研究するとき、無数のディテールの中で何が大切なのかを常に意識し続けるのは難しいことです。あるいは、現代社会について考えるとき、日々起こり続ける膨大な事件の中で何が重要かを判断するのも簡単ではありません。
溢れ返る情報の中で迷子にならず、大切なことがらにきちんと焦点を当て続ける技術を養うために、瞑想は非常に役立っているのだとハラリ氏は言っています。
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二つ目は、物語と現実を見分ける力 瞑想によって身につくもうひとつの大きな力が、物語と現実を見分ける力です。
人間が現実だと思っているもののうち、99%までが心が作り上げたお話にすぎないのだとハラリ氏は言います。
ハラリ氏が実践しているゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想では、基本的に呼吸と体の感覚を観察することしかしません。
そうして自分自身の感覚を見続けることによって、不快感や怒りなどの感情も体の感覚としてとらえられることを経験を通して学びます。
そうして感覚にもとづいて自分の心の動きを確かめられるようになると、この世界について自分が現実だと思っていたことの多くが、実際には物語でありフィクションでしかなかったことが分かってくるのです。
わたしたちの人間のほとんどが、宗教的な物語やナショナリズムの物語、あるいは流行りの経済の物語などに飲み込まれ、それが現実であると錯覚してしまいます。
その錯覚に気がつき、現実をありのままに見るために、ヴィパッサナー瞑想が役に立つというわけです。
そしてハラリ氏は、自分の歴史家としての仕事は、人類が数千年に渡る歴史を通して作り出してきた物語と現実との違いを明らかにすることにあるのだと言うのです。
21世紀で一番重要な資源は「注意力」である 意識の焦点をどこに向けるかをコントロールすることこそが瞑想の技術であるとハラリ氏は考えています。
この「注意力(attention)」をきちんと重要なものに向けなければなりません。何が重要かといえば、現実こそが重要なものです。
そして現実の中でも分かりやすい呼吸から始めることで、間違いなく注意力を養い、物語と現実を見分ける力をつけることができるのです。
言葉によるコミュニケーションを身につけ、やがて書物を生み出し、新聞やテレビというマスメディアが発達し、インターネットが登場しスマートフォンが普及することによって、わたしたちの注意力は「社会的な物語」に吸い寄せられ、呑み込まれてしまうようになりました。
この「注意力」という有限な資源をメディアとテクノロジーに無条件に手渡してしまうことなく、自分できちんと手綱を取ることは、あなたが人生をよく生きるために大きな意味を持つはずです。
「注意力」を自分でしっかりコントロールし、社会が作り出す「巨大な物語」とは距離を取って、感情的になることなく、現実をありのままに見ることは極めて難しいことです。
この難事業をやり遂げるためにヴィパッサナー瞑想は大いに役立ってくれるはずです。
ハラリ氏の瞑想実践は、毎日二時間、毎年30-60日の長期コースも ハラリ氏が実践するゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想は、初めての人でも朝から晩まで座りっぱなしで、10日間の合宿期間中、先生への質問以外は無言で、夕方一時間の講話を聞く以外は、読み書きもできないという、かなりシリアスなコースです。(外部との連絡も緊急時以外はできません)
ゴエンカ式の実践者は、朝と晩にそれぞれ一時間の瞑想をするようにすすめられており、ハラリ氏も2000年に初めてコースを受講して以来ずった続けているとのことです。
また、ゴエンカ式では、初心者向けの10日コース以外に、20日・
「死にたいなら一人で死んでくれよって、そういう人は。何で弱い子供のところに飛び込んでんだって。信じられないですね」*1
とある落語家の方がテレビで発した言葉です。
「ひとりでしね」なんて言ってほしくなかった。
「ひとりでしね」と言わないで! 「弱いものいじめ」なんか吹っ飛ばせ 「ひとりでしね」と言わないで! こういう言葉を、発言力のある方がメディアで発することは、絶対にやめてほしい。
また、ネット上での個人的な発言であっても、感情のままに発信する前に、少し立ち止まってほしい。
心からそう願います。
弱い立場にある人が追い詰められて、自暴自棄になったりしてほしくないのです。
川崎市登戸で起きた連続殺傷事件の犯人に向けて、こういう発言をしたくなる気持ちは分かります。
襲われた子どもたちやその親の気持ちを考えれば、犯人にこう言いたくなるのは当然でしょう。
けれども、こういう大事件を引き起こす少数の例外的な人の陰には、決して少なくない数の引きこもりの人たちがいて、「ひとりでしね」という言葉は、そういう人たちの心に突き刺さります。
また日本は自殺が多い社会でもあります。「ひとりでしね」という言葉は、一人で悩んでいる人に対して、周りに迷惑をかけるくらいなら自殺しろというメッセージにもなってしまうでしょう。
そして病的な心理状態にある人に対しては、こういた言葉が更なる凶行を煽る可能性があることもきちんと考える必要があるでしょう。*2
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「弱いものいじめ」なんか吹っ飛ばせ メディアやネットには、社会的弱者を安易に批判する言葉が溢れかえっています。
本当はそうした「弱いものいじめ」の言葉は誰のためにもならないから、そんな言葉はなくなったほうがいい。
けれども現実はむしろ逆で、多分これからも「弱いものいじめ」はむしろ増えていくでしょう。
だから「弱いものいじめ」なんて気にするのはやまてしまえばいいのです。
「ひとりでしね」なんて言葉は聞き流してしまえばいいのです。
人間には生きている限り可能性があるのだし、生きているだけで大いに意味があるのです。
ひょっとしてあなたは、自分なんか生きていることに何の意味があるんだろうと思っているかもしれません。
でも生きてる意味なんて、誰にもありはしないのです。
お金があろうと地位があろうと、恋人がいようと家族があろうと、そんなものはみんな社会的な形式にすぎません。どんなに社会的にうまくやっていても、それだけでは決して生きている意味にはならないのです。
ほかの人の基準で自分の人生を測るのはやめにしなければ、そして自分が現に生きているそのあり方を認めることができなければ、自分の人生の可能性を本当に信じることはできません。
生きるということは、しんどいことです。しんどいことをみんななくして、楽に生きたいと思ってもそうはできません。
しんどいことに向き合うことも必要です。
だからといって、嫌なことを我慢すればいいというものでもありません。
あまりにも嫌なことがあれば、そこからは距離を取ればいいのです。どうしようもなければ、逃げ出せばいいのです。
人の言うことに振り回されすぎず、自分なりのバランスをつかむ必要があります。
それが人生に意味を感じることにつながるのです。
社会がどんなに息苦しくても、自分なりの生きる意味を見つけることができれば、あなたの人生は輝きを失うことはないでしょう。
もし苦しくて、一人で答えが出せないでいるのなら、メッセージをください。
答えは出せなくても、一緒に考えたいと思いますので。
☆次のリンクからマシュマロの機能を使って、誰でも匿名でメッセージを送ることができます。極端にネガティブな言葉を含むメッセージは届きませんのでご注意ください。
https://marshmallow-qa.com/tosibee
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カメキチさんの記事
2019.4.30 『猫も老人も役立たずでけっこう』① - kame710のブログ
で養老孟司氏の「猫も老人も、役立たずでけっこう」という本を知りました。
物質的には十分以上に恵まれているのに、あくせく働かないと気持ちが落ち着かないわたしたちに、「もう少しのんびり過ごしたらどう?」と、猫の視点から語りかけてくれるような、養老さんの言葉が気に入りましたので、本の内容にはとらわれず、気ままに思うことをつづってみます。
無用の用 何もしない喜び 書かないことで書く 無用の用 中国の老子さん、荘子さんは、無用の用ということを言います。
役に立たないからこそいいんだ、という逆説の発想ですね。
人間のものさしで測ったら役立たずとしか言えなくても、猫の目で見ればそれこそが生きる道という養老さんの主張もここに重なります。
「材として有用だったらとっくにかられてなくなっていたであろう木が、ねじくれて役に立たないからこそ大木となり、巨大な神木として人々の役に立つことになるのだ」という荘子さんのエピソードがぼくは好きです。
しかしこれも、効率一辺倒の人が見たら、「神木に何の意味があるか、そんなものは邪魔なだけだ、かり倒してしまえ」という話になりかねません。
でもぼくは思うんです、その極端なまでの効率主義こそが、現代の享楽主義的社会の息苦しさを生み出しているんじゃないかなって。
「そんなこと考えても、何の役にも立たないさ」と切り捨ててしまわずに、忙しく過ぎていく日々の中で、一度立ち止まって、じっくり考えてみてもいい話題じゃないかなって思うわけなんです。
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何もしない喜び 忙しく働くことで充実した毎日を送っている方に対して、特別意見をするような気持ちはまったくないのですが、忙しすぎる日々の中で、「ああ、猫みたいにのんびり過ごしたい!」と思う方も少なくないのではないでしょうか。
都市化やグローバル化が進んで人間たちはひーひー言ってるのに、養老さんちの猫のまるちゃん齢15歳は、そんな世間の忙しさなんてどこ吹く風で、のんびり散歩、ゆっくり昼寝をして、悠々と老いを楽しんでいます。
ぼくはまだ五十代なかばなので、自分を年寄りとは思っていないのですが、産業社会に貢献していないことにかけては、若いころから隠居みたいな生活を送ってますし、役立たずで無用の用を地で行っている人間です。
その上に最近は瞑想の練習も楽しくなってきて、何もしないことが何よりの喜びとなってきました。
何もすることがなくても、猫は決して退屈しません。
人間だって同じようにできるはずです。
ただ頭を空っぽにして、ごろりと横になって、何を見るでもなく、ぼーっと視線を空間に漂わせることができれば、そこにはいつだって小さな幸せが漂っているのだということに、あなたもきっと気づくはずです。
イタリア語には dolce far niente という言い方があります。「無為の楽しみ」という程度の意味ですが、さすがはラテン文化のお国柄、人生の楽しみ方をよく知っているな、と思います。
書かないことで書く 何もしないことが楽しくなってくると、わざわざ文章を書くことにもさほどの意味がなくなってきます。
ネット上で文章を書いているみなさんは、なんといっても好きだから書いている、という部分が大きいと思うのですが、ぼくの場合はあまりそこのところが強くありません。
誰かに読んでもらって褒めてほしいとか、なんとかお金が稼げないだろうか、といった「邪心」で書いている部分が大きいのです。
だから、「ただ生きているだけで十分で、何もしなくてもオーケーなんだ」ということが分かってくると、書く動機が弱まってしまうんですね。
でも、ただ生きてるだけでオーケーならば、書いても書かなくても、どっちでもオーケーという話ですから、何か有用な記事を書こうという気持ちではなく、無用の記事でかまわないから、心から湧き出してくる言葉を並べてみようじゃないか、というような塩梅で、この記事はつらつらと書いてみているのです。
若いころ作家になりたいなと思って、けれどもうまく文章が書けないでいるときに、「貝が貝殻を作り上げるように文章を書きたいものだ」と思ったことがあります。
養老さんちのまるちゃんのことを考えてこれを言い直すと、「猫が毛づくろいをするように文章が書きたい」ということになります。
あれこれ考えて、有用な文章を書こうとするのではなく、自分にとっての自然な所作としてただ淡々と文章をつづっていく。
そんな形でこれからも書き続けていけたらなと思っています。
てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬
☆紹介した本
養老孟司「猫も老人も、役立たずでけっこう」(2018 河出書房新社)
みなさんは瞑想やマインドフルネスに興味はあるでしょうか。
今日はインドの安宿で蚊に刺されながら、瞑想の練習がかなりいい感じでできたので、そのことを少し書いてみます。
瞑想って何なの? 簡単な瞑想のやり方 蚊に刺されていい瞑想の練習になった話 夢には夢の意味がある 瞑想って何なの? ぼくはゴエンカさん方式のヴィパッサナー瞑想を知ってから九年になり、この三年ほどは日々の暮らしの中でも、少しずつ瞑想の練習を心がけています。
瞑想と聞くと多くの人は座禅のイメージが浮かぶことでしょう。
静かに座って無念無想の境地を目指す座禅は、確かに瞑想の練習法として有効なものです。
でも座ってやるだけが瞑想ではありません。
立って座って歩いて横になって、体がどんな状態にあるときも、無念無想を体験できてこそ、瞑想の境地は深まるのです。
簡単な瞑想のやり方 ゴエンカさん方式のヴィパッサナー瞑想は実にシンプルなものです。
実際にやるのは、
自然な呼吸を入り口にして、体に起こる感覚を観察する という、ただそれだけのことです。
まずは背筋を伸ばし、楽な姿勢で座ります。鼻から自然に息を吸うと、鼻の穴を少し冷たい空気が通るのを感じることでしょう。
息を吐くときには、少し暖かい空気が鼻の穴を通り、唇の上の皮膚に当たるのを感じるかもしれません。
こうして、吸う息、吐く息とともに体に起こる感覚を、ただただ観察していきます。
これを朝起きてすぐと寝る前に、毎日五分ほど練習することができれば、あなたの人生は確実に変わり始めます。
三日や一週間では変化はあまり感じられないかもしれません。けれどもそれが二週間になり、ひと月になり、三ヶ月も経つ頃には、呼吸と体の感覚を意識することで、頭がすっきりするのが、はっきりと感じられるようになるでしょう。
そして長く続ければ続けるほど、以前には気になっていた小さな心配ごとが減っていき、また何かといらいらしていたことに対しても、前よりも落ち着いて対処できるようになっている自分に気づくことになるはずです。
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蚊に刺されていい瞑想の練習になった話 瞑想の練習をしていて、呼吸や体の感覚に意識を向けていても、ふと気がつくと、何か考えごとをしている自分に気づくことになります。
いわゆる「邪念が湧く」というやつですが、これはまったく自然な反応ですので、忌み嫌ったり、否定したりする必要はありません。
気がついたら、呼吸や体の感覚に意識を戻せばいいだけのことです。
するとまたそのうち、何か考えごとをしている自分に気がつきます。ですからまた、呼吸や体の感覚に意識を戻します。
瞑想にはいろいろなやり方がありますが、基本はこれを繰り返すだけで十分なのです。
ところでぼくは、今インドのハリドワルという街にいます。
安宿に泊まっていて、エアコンがありません。窓を開けていれば涼しくて快適な陽気なのですが、網戸がないので夜になると蚊が出ます。蚊取り線香が嫌いなので、蚊に刺されながら寝ることになります。
するとこれが非常によい瞑想の練習になるんですね。
人間の感覚というのは、気にするとかえって増幅されてしまう性質があります。これは蚊に刺されてかゆいことにも当てはまります。
だからかゆくても、それを気にすることをやめられれば、「心頭滅却火もまた涼し」というやつで、かゆさに悩まされずに眠ることだってできるはずなのです。
とはいえ、こうした感覚のコントロールは、達人の域に達して初めて可能になるものです。
「言うはやすし、行なうはかたし」で、そんなに簡単に実行できるわけもなく、おととい、昨日と蚊に悩まされながら夜を過ごすことになりました。
それでおとといは、あまりのかゆさに「うぎゃー、なんでこんなにかゆいんじゃー」という感じで、現状を否認する強い感情が湧いてしまい、眠れぬ一夜を過ごすことになったのですが、昨晩は少し違いました。
かゆいことはかゆいので、なかなかぐっすり眠れないのですが、そのかゆさを少しは受け止められるようになったようで、夢うつつの中、かゆさを感じながら、おもしろい経験をしたのです。
夢の意識の中で、蚊にさされることは「瞑想の師匠が与えてくれる練習の機会」ということになっています。
かゆくてかゆくて、なかなかそのかゆみを克服できず、瞑想の練習を続けるのが難しいのですが、なるべくそのかゆみを受け止めて、否定的な気持ちが起こらないようにしていると、意識の状態が無念無想に近づき、「ああ、このかゆさの向こう側に、確かに悟りの境地があるな」ということが実感される瞬間がやってきます。
するとまた別のかゆみが起こって、これはまた別の師匠がくれた、別の瞑想の練習なのです。
そこでまた「あー、かゆい!」と思いながらそれを克服しようとあがいていると、そのうちふっと無念無想の状態に近づき、また悟りの境地が実感されます。
こうして行っては戻るプロセスを、夢うつつに何度も何度も繰り返し、昨晩は寝ながらにして瞑想の練習を続けていたのでした。
夢には夢の意味がある 夢の中で瞑想の練習をすることに何の意味があるのか、そう思う方もいらっしゃるでしょう。
酒をやめている友だちがいます。
ところが、朝から一缶飲んでしまって、堕落した一日を送ってしまったと書いていました。
それを見てぼくは、人生いろいろあるから、無理せずゆっくり生きていきましょうよ、と書きました。
彼はぼくのことを師匠と呼んで慕ってくれているので、じぶんが酒を飲んだことを書いたら、ぼくから叱られるに違いないと考えていたそうです。
だからぼくが書いた言葉を、観音さまのように優しい言葉でありがたい、と言ってくれました。
でも、ぼくが本当に優しい人間かというと、これは怪しい話です。
実際には大して優しくもないのに、優しいふりをすることだけがうまかったりもするからです。
とはいえ、ふりをして、形から入って、行動や考え方を変えていくのも悪くない方法です。
それで最近のぼくは、人にも自分にも優しくするよう心がけているのです。
* * *
酒をやめたいという人がいるとき、酒の害を説いて、やめなさいというのは簡単なことです。
でも酒に害があることは、やめたいと思ってる本人が、一番よく分かってるんですよね。だからそうやって道理を説いても、あまり意味はありません。
分かっていてもやめられないから、依存症というのは難しいのです。
ですから、そこでやめられない人に対して、あいつは依存症だからダメなやつだ、などと言ったりしたら、これは最悪です。
依存症をこじらせる手伝いをすることにもなりかねません。
自分はダメなやつだと思うと、その気持ちをごまかすために、さらに飲むことにもつながるからです。
依存症には、人間関係の困難を、物質や行動で置き換えるという側面があります。周りの人との関係がうまくいかないために、社会の中で生きる意味を見失うことが、依存症の大きな原因の一つになるのです。
だから、知り合いに依存症で困っている人がいたら、できる範囲でその人に優しく接してあげてください。優しくできないのなら、距離を取るのが次善の手になります。
* * *
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ここで一つ難しいのは、優しくするのは、甘やかすのとは違うということです。
酒をやめたいのにやめられないでいる人がいるとき、好きなだけ飲みなさいといって甘やかしては、その人のためにならないのは当たり前のことです。
では、実際にどのような対応を取ればいいかというと、これは場合によって違ってきますので、具体的なやり方を書くのは難しいところです。
原則としては、やめたいと思っているのにやめられないでいるとき、酒を飲んでしまったこと自体は否定はせずに、その人のやめたいという意志を確認し、その気持ちを励ましてあげることです。
あなたがその人のことをきちんと心配して、その人のやめたい気持ちと、やめられない苦しさに寄り添うことができれば、あなたはその人の力になることができるでしょう。
ただし、これはあなたの人格がしっかりとしたものであるときの話です。もしもあなたの人格が十分にしっかりしていない場合には、共依存の関係に落ち入って、かえって二人の間に困難な関係を作ることにもなりかねないので、注意が必要です。
相手に優しくすることが目的になってしまわないように、まずは自分に優しくすることで、バランスよく自分の人生を生き、周りの人にも優しくできるようになりたいものです。
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さて、実をいうと、ぼく自身が依存症圏の人間であり、最初に書いた友だちとは、一緒に酒をやめましょうと言いながら、実際にはやめることができないでいるのが、現状なのです。
自分自身が酒をやめられず、その自分の弱さにも優しく振る舞うことで、自分の体を使って人体実験をしているといってもいいかもしれません。
ここに書いたことは、見聞きしたことも含めて、自分の経験をもとにしていますので、決してただの空想ではありませんが、人間の心というものは一人一人異なるものですから、現実の誰かに対応するときには、ヒント程度にとどめて、慎重になさっていただければと思います。
ぼくの場合には、子どもの頃から、自分の欲求を抑えつけてきてしまった傾向が強いので、問題にならない程度に欲求を解放していくことで、心のもつれを解いていこうと試行錯誤している状態です。
瞑想の力も借りて、心の奥深くのもつれを解いていく作業は、難しく、痛みも伴うものですが、行きつ戻りつしながらも、少しずつ前に進んでいる実感はあるので、今回はこんな文章を書いてみました。
この小文が少しでもどなたかのお役に立てたら、望外の喜びです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
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みなさん、おはこんばんわ。
この記事では、スティーブン・キング「書くことについて」とマイクル・クライトン「トラヴェルズ --旅、心の軌跡」という二冊の本を簡単に紹介します。
「シャイニング」の原作者であるキングと、「ジュラシック・パーク」の原作者であるクライトンという、アメリカのベストセラー作家二人の舞台裏が覗けるノンフィクションの二冊です。
スティーブン・キング「書くことについて」 マイクル・クライトン「トラヴェルズ --旅、心の軌跡」 スティーブン・キング「書くことについて」 キングのこの本は、小説の書き方についてがテーマになっています。
ですから、どちらかと言えばこれは、作家志望の人向けの作品だと言えます。
けれども、前半三分の一程度は「履歴書」というタイトルで自伝的な内容がつづられていますから、作品だけでなく作家に興味を持つタイプのあなたならば、興味深く読めること間違いありません。
想像力豊かだった子どもの頃の話から始まり、売れなくても書き続けた貧乏作家時代、ベストセラー作家になってからの酒とドラッグなしには生きていけなかった苦境など、どのエピソードも心をつかみます。
後半は小説の書き方になるのですが、作家を目指す方でなくても、ここから文章術を学ぶこともできますし、また小説に限らず、人間が表現することの意味を学ぶこともできるでしょう。
そして「後書き 生きることについて」では、この本の執筆中に車に轢かれて九死に一生をとりとめた体験がつづられます。
度重なる手術の結果、再起し、執筆を再開するに至る過程は涙なしには読めませんでした。
書く力を回復したキングはこう書きます。
ものを書くのは、金を稼ぐためでも、有名になるためでも、もてるためでも、セックスの相手を見つけるためでも、友人をつくるためでもない。一言でいうなら、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。
この言葉は、「書く」ということを「生きる」という言葉に置き換えても十分に通用します。
生きるということは、金や名誉や人間関係のためにあるのではありません。あなたが人生を真摯にそして楽しく生きるとき、そのことがあなたの人生を豊かにし、周りの人の人生をも豊かにするのです。
この本を読めば、キングという作家の書くことに対する情熱が、きっとあたなの人生を豊かなものにしてくれるに違いありません。
「書くことについて」 (2013 小学館文庫) スティーヴン キング
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マイクル・クライトン「トラヴェルズ --旅、心の軌跡」 クライトンの「トラヴェルズ」は、人生という旅を描いた自伝的ノンフィクションです。
この本の最初のエピソード「解剖死体」は次のように始まります。
弓鋸(ゆみのこ)で人間の頭を切開するのは用意ではない。
これはクライトンがハーバード大学で医学生として勉強をしていた時代のエピソードなのです。
ぼくのように血を見ると背筋に悪寒が走る人間には、ちょっと読むのがつらい話が続くのですが、クライトン自身が血を見るのが苦手だというのですから、どうして医学を志したのだろうと、なんとも不思議な気持ちになります。
医学生のうちから小説で金を稼ぎ始めていたクライトンは、医学部を出たものの医師の資格は取らず、そのまま小説と映画の世界に身を投じることになるのですが、この医学部での経験は彼に取ってきわめて重要な「旅」だったのでしょう。在学中に書いた彼の出世作「アンドロメダ病原体」は、医学的なアイディアで成り立つ緊張感あふれるサスペンス小説なのです。
さて、クライトンは映画の世界ハリウッドに関わるようになったことで、スピリチュアルというもう一つ別の世界にも導かれていくことになります。
ハリウッドの女優とつき合い、その女優に霊媒を紹介され、自分が関わっていた映画が今は座礁しかかっているが、じき軌道に乗ることを予言され、その予言は的中します。
その映画「ウエストワールド」の制作がうまくいったとき、クライトンは次に何をすればいいのかが分からなくなり、深いうつ状態に落ち込んでしまいます。
そして関心の持てないまま大量の本を買い、それを読みますが、どれにも興味が湧きません。
そんな状態で彼は「ビー・ヒア・ナウ」という本に出会います。これは元ハーバード大学の心理学教授ラム・ダスが書いたスピリチュアルの古典的作品で、精神的バランスを失っていた一人のアメリカの知識人が、インドの聖者に出会うことで、新しいパースペクティブを見つけたことを語るノンフィクションです。
科学的な思考に信を置くクライトンは、ただちにインドの神秘世界に飛びつくことはしませんが、ハリウッドから距離を取り、ハワイのマウイ島に行っては、スピリチュアルに関わる本を読んで、自分を取り戻していきます。
そしてタイのバンコクを皮切りに世界中を旅し、自分の心の中を旅していく経験をこの本につづったのです。
科学的な思考を大切にしながらも、神秘主義的なものの見方にも心を開いて、自分の経験を観察していくクライトンが、肉体的にも精神的にも続ける冒険旅行は上下二巻の大冊ながら、あなたの心をきっと揺さぶることになるでしょう。
合理性や経済性が優先されがちな現代社会に息苦しさを感じているあなたには特におすすめの作品です。
「トラヴェルズ―旅、心の軌跡〈上〉」 (2000 ハヤカワ文庫NV)
note.mu に記事を書きました。
よろしければご覧ください。
note.mu