processkamakiri氏の「自己意識の不変神話」とそのコメントを読んで、
意識について考えたことを書いてみる。
ぼくは、長い間じぶんというものは連続して存在していると、
無反省に思って生きていた。
しかし、少し仔細に実情を見てみれば、人は一瞬一瞬変化を
続けているわけだし、それどころか、過去の記憶に基づいて
今を認識し、未来を推察している以上、直(じか)の認識としては<今>以外ありえないのだから、連続もへったくれもなくなってしまう。
そこをつきつめると社会的な暮らしが成り立たなくなって
しまいがちなので、我々はいろいろな詰め物をして、
なんとか日々を生きることになる。
とりあえず、今日と似た昨日の自分を想定し、その自分が明日も
続くと想定し... 世界についても同様。
と、そのように自分というものを想定したとき、意識という作業を
行なっている、移ろいやすい自分より深いところに、無意識と呼ばれるような、
普段自分では意識していないシステムがあることに気づくことになる。
そこのところをウパニシャドではアートマンと呼んだのかなと思うし、
仏教ではそれはもはや「我」ではないとして無我を言ったのかなと思う。
お釈迦さんが、無我を言い、輪廻について語らず、日々の暮らしについてのみ
指針を指し示したことは当時としては画期的なことであったのだろうけど、
どういうわけかぼくの実感としては、真我としてのアートマン、それと
一体としての宇宙原理ブラーフマン、というほうが分りやすく気持ちよい。
お釈迦さんのいう涅槃は、僕には寂しすぎるということかもしれない。
このページは、文章の練習がてら、そのときどきに思ったことなどを
適当に書いているのだが、もっともらしく、まとまったものを書こうと
思うあまり、つい滞りがちになってしまったりしている。
今日もここに何を書こうかと考えて、ああ、めんどくさいなあ、
やめちゃってもいいんだよな、などと思う自分がいたのだが、
なぜそうなるのか、という気持ちの動きの部分を少し書いてみる
ことにする。
これが文章の練習であるのなら、とにかく少しずつでも書いていった
ほうがいいわけだが、あれこれ言い分けして書かないですませる
自分がいるわけで、それはたぶんある種の不安感から生まれてくる
感覚なのかなと思っている。
文章を書く、書いたものを誰か読んでいるのか、読んでいても
くだらないと思っているのではないか、いや、誰かは面白がって
いるかもしれないが、だからといって、それが何になるのか。
書くことが、ただの時間つぶしにしかならないのなら、
酒でも飲んでだらだら本を読んでいるほうが楽でいいじゃないか。
それはまったくそのとおりなのだ。まったくそのとおりなのだけど、
それでも書きたいと思う自分もいる。ところがそれは、おおむね
誰かに褒められたいとか、あわよくばそれで金が稼ぎたいとか、
そういうつまらない欲求から来ているにすぎなくて、自分の心の
奥底に書きたいという情熱のかけらも感じられない。
そのとき、書いても認められないのではないかという不安や、
情熱の不在という自分のあり方に対する不安のようなものが
邪魔をして、ぼくは書くという、ときに喜びにつながる作業を、
簡単にあきらめてしまう。
認められなくても書きつづけるひともいるし、情熱という言葉とは
違う動機で書きつづけるひともいる。
不安とともに書きつづけるひとも、たぶん大勢いるのだろう。
簡単にあきらめ、あきらめてはまた思い直し、なんとか今まで
書いてきた。そしてたぶんこれからも書きつづけることになる。
不安とともに少しの興奮を感じる -- だいたいそんなふうな
今日のわたしです。
言葉の力について考えてみた。
話す言葉で考えると、言葉は音であり、エネルギーを持っている。
そして、ある人の口によって発せられた音は、別の人の耳に働きかけ、
その人の神経系の状態に影響を与える。
というわけで、ある人の発した言葉は、別の人に物理的に働きかける。
それが言葉の基本的な力だ。
ところで、言葉には意味というものが伴うと考えられていて、
ある人が言葉を聞くと、その人の頭の中にはその言葉の意味が
浮かぶ、というふうに考えられている。
さて、言葉と意味の結びつきは人それぞれなので、ある人が
なにげなく発した言葉が、別の人に強烈な怒りを引き起こすことも
あるし、あるいは、ある力のある人が発したさりげない言葉が、
相手に強烈な呪縛を与える、といったようなことも日々起こっている。
このようなことを考えれば、言葉が持つこうした力を言霊(ことだま)と
呼び神秘的な力を持つと考えることは間違ったこととはいえない、
という以上に、理解のしやすさからいって十分役に立つものと思える。
というような文脈において、すべての言葉は呪文であり、呪いであり、
寿ぎ(ことほぎ)である。
人の呪文に縛られず、人を呪文で縛ることなく、この世界の流れの中、
自由に泳いでいければ理想である。
縁があって先日、マックス・ストローム氏(http://www.maxstrom.com/)の
ヨーガ教室に一日参加した。
ヨーガは本を見て真似する程度のことしか経験がないのに、
ヨーガの先生向け、五日間のコースの一日目に参加することに
なってしまったので、十分にその良さを味わうことができたかは
疑問なのだけれど、ぱらぱら見させてもらったテキストには
いいことが書いてあったし、二十人ほどの先生たちと一緒に
ヨーガの形を真似るのはなかなか楽しかった。
フェルデンクライスもそうだけれど、体をしっかり動かすのは
やっぱり気持ちいい。
最近ボーリングやテニスをやる機会もあったが、そういうのもまたいい。
どうせなら、もう少し日常的に体を動かしたいところ。
三週間ほどタイに行ってきた。
行って何日かは、もう慣れてしまったタイに面白みを
感じられずにいた。
振り返ってみると、初めての街に行き、落ち着かない気持ちでいた
せいだったようだ。
三週間のタイで、気持ちを落ち着けることができたので、
日本に帰った今、前より少し、とらわれる気持ちが減ったように思う。
何かをしなくちゃならないからするのではなく、
何かがどうしてもしたいからするのでもなく、
それでもどこかでは、しなくちゃとか、したいとか思いながら、
してもいいし、しなくてもいい、ただ淡々と生きていけば
いいんだと確認しながら、自分の体を大切にし、自分の気持ちを
大切にし、一瞬一瞬を大切にしながら日々を暮らす。
言うほど簡単にできるものではないけれど、とりあえず今これを
書いている瞬間は、気持ちのいい落ち着きの中にいる。
こうやって、少しずつでもとらわれを減らしていければ、
ぼくの人生は、たぶん、それくらいでいいや、なんて感じで。
ロアンナさんはアメリカの先住民族のひとつ、ホピの
メディスンウーマンである。
日本風にいえば、伝統的な民間療法の治療家ということに
なろうか。
東京の練馬駅から歩いてすぐのところに OHANA CAFE という店がある。
そこでロアンナさんが話をするというので聞きに行った。
OHANA CAFE は初めて行ったが、自然食レストランといった風の店で、
六時半から話が始まるというところ、着いたのは五分かそこら
前のことだった。
二階への階段を上っていくと、店の入り口の前に、褐色の肌の小柄な
女性と、こちらには背を向け立っている白い肌の背の高い女性がいた。
二人は何か話していたのだが、小柄な女性がロアンナさんだと思って、
彼女の視線がこちらにきた機会をとらえ微笑みかけると、向こうも
微笑みで応えてくれた。
あとのことは今はうまくかけない。
その場に来ていた人に対して、その場となった建物に対して、
そしてその場を作った太鼓に対して、彼女は感謝を言葉として
伝えていた。(あすぃくゎり)
そして彼女の素朴な太鼓と力強い謡い。
話が終わったあと、列の最後で、彼女に清めの水をかけてもらい、
体を力強くなでてもらうことで気を流してもらい、軽く、でも
しっかりと抱きしめてもらうことで、ぼくの中の何かがほどけた。
たぶん、そんなようなこと。
今は言葉にするのは、このくらいにしておく。(くぉっくゎい)
[注]この項は、一見からだとは関係ないと思われるかもしれないが、
微妙につながっているので、[体で遊ぶ]に置く。
昨日、知り合いの芝居の稽古に行った。
芝居の稽古といっても、それらしいことはほとんどしない。
フェルデンクライスをやって、音楽を聴いてそれに合わせて自由に踊る。
大体いつもそれくらい。
昨日はフェルデンクライスで首の力を抜くのをやった。
仰向けになって、自分の手を額の上に置いて、頭を左右に転がす。
同じように人に転がしてもらう。
また仰向けになって自分で転がす。
次はうつ伏せになって。
それをやったおかげで首から力が抜けてよかったのだが、
稽古を終わって飲み会に行ったのがどうもまずかった。
ある程度飲んで帰り道、なんとなく首に引っかかりを感じる。
それで、すこしポキポキ鳴らしたりして、でも、そのときはまだ
問題なかった。
それが、家に帰って寝たあと、夜中トイレに起きたら首が妙に痛い。
ふとんに横になるが首が痛くて仕方がない。
あれこれ姿勢を変えるがどうにも痛い。
いつも枕を使わないので、毛布を丸めて枕代わりにし、
右を下にして寝ると比較的いい。
でも、しばらくすると痛くなるので、また別の姿勢を探す。
などということをやっていたので、今日は寝不足。
一日コンピュータに向かって仕事をしたので、首の痛みは増してる感じ。
とまあ、そんなわけですので、こんな風になる人はそんなに多くはないと思いますが、
なにごともやりすぎは禁物です。
お酒の飲みすぎにも気をつけましょう!!
ああ、あしたになって少しは良くなってるといいなあ......
スターリンの教会破壊や現在の中国での教会破壊についてだが、
この種類の宗教弾圧はカール・マルクスの次の言葉が原因に
なっているらしい。
つまり「宗教は民衆のアヘンである」というやつ。
マルクスがこう書いたのは1844年、アヘンおよびアヘン誘導体が
だれもが手に入れることのできる唯一の効果的な鎮静剤だった頃の
ことだ。マルクス自身もアヘンを使用していて、その場限りで
あっても苦痛をやわらげてくれるアヘンに感謝していたという。
マルクスは客観的な事実を述べているのであって、
宗教がいいとか悪いとかいう話をしているのではない。
宗教は、経済的、あるいは社会的な困難に対する鎮痛剤になりうる
ということだ。
つまり、宗教を否定しているわけではない。
---カート・ヴォネガット「国のない男」(金原瑞人訳、nhk出版 2007、p.24) より
最近あらためて思うのは、たぶん、やはり、この世界は完璧なのであって、
それがわからないのは、こちらの意識が十分磨かれていないからなんじゃない
かなぁということ。
フツーの人間らしさから言ったら、戦争はいけないとか、
逆に、偽悪的になれば、人を食い物にして何が悪いとか、
そんなふうな気持ちになったりするわけだけど、そういう、
それぞれの多様性を飲み込んで、ここに実現している世界の凄さ、
恐ろしさ、それを恐れず、嫌がらずに見たならば、とにかく今は
これなんだし、それでよいとしか言えないわけだし、
もし、あしたを言うならば、あしたの別の風を楽しもう
としか言えないことになるはずだし、あしたをこうしようと
思うのはたぶんそれでいいんだろうけど、あしたがそうならない
からと言って嘆くのはやっぱり愚か者という気がする。
いや、もちろん、愚か者でいいんだよ。
おいらもじゅうぶんおろかもんだし。
さて、人生においてさまざまな困難に出会うことは
避けがたい。
困難に出くわしたとき、悲しみに襲われたり、
怒りが湧き上がったり、気持ちの波にさらわれる
こともありがちなこと。
そしてその気持ちの波にさらわれたことで
さらに自分の気持ちが落ち込むことも、
人によっては自然の成り行き。
けれど、このいずれの局面もがまったく自然なことであって、
それぞれの局面を否定せず受け止めればいいことに気づき、
それを受け止められない自分を許し、ゆっくりと変わってゆく
自分を待つことができれば、そして、その先にやってくる
真実の恐怖と向かい合うだけの力を蓄えることができるならば、
ひとは自由への道を歩き続けることができるだろう。