ぼくは造物主としての万能の神というものは信じない。
そうした神を信じている人のことを否定するつもりはないし、この宇宙を
つらぬく非人格的な法則を神と呼んでいいのなら、ぼくは神を信じる。
なぜそうなるか、というと、人間に理解出来るような、人格としての
万能の神がいると考える、どうもヘンなことになる気がするのだ。
つまり、絶対的な善をなす、万能の神がこの世を創ったのだとすると、
神の言葉を信じない人々も、悪逆非道の限りをつくす人々も、神の造った、
神の御心にかなう存在ということになる。そうとしかぼくには思えないし、
だとすれば、そのとき、その神という存在は悪魔とどう違うのだろうか。
万能のその存在がこの世に悪を放置しているのだとすれば、その存在の
名前は神より悪魔の方がふさわしいようにぼくは思ってしまう。
となれば、悪魔が支配するこの世は地獄であり、地獄であるにも
かかわらず、こんなに美しく、こんなに喜びがこの世には溢れているのだから、
とりあえず生きつづけるのも悪くない。
そんなふうに考えてしまうぼくは、ちょっとひねくれているのだろうか。
processkamakiri氏の記事とコメントを読んで上のようなことを考えた。
藤田西湖「最後の忍者 どろんろん」新風舎2004
1900年生まれ、甲賀流忍術14世を名乗る藤田西湖の回想録はまったく
波瀾万丈である。
甲賀流13世の祖父から忍術を習い、三峯山で山伏の修行をする、
透視能力を身につけ、生き神様に祭り上げられ、十五年戦争では
満州事変の調査をし、果ては蒋介石の暗殺を命じられる...
どこからどこまでが事実かはさておいて、カスタネダやトム・ブラウンと
肩を並べる、滅法おもしろく示唆に富む物語として読んだ。
ジェフリー・K・ザイグ、W・マイケル・ムニオン「ミルトン・エリクソン―その生涯と治療技法」
理論にもとづいたいかなる心理療法も誤っていると思います。
なぜなら、人はみなそれぞれ違うのですから。(ミルトン・エリクソン)
前項でもちらりと触れた精神療法家ミルトン・エリクソンに関する本である。
上にも引用した通り、根源的(ラディカル)な物言いをする人だ。
ぼくの理解ではエリクソンは、カスタネダとレインの間にぴたりとはまる。
催眠の研究で名を成し、治療技法を理論化せず、一人一人にあつらえた形で
実践し、その方法論を伝えることで、この世界に積極的な生き方を残して
いった人だと感じる。
カスタネダは呪術指向なので、ややもすればうさんくさく見られる。
レインは社会に対する見方が絶望的過ぎるきらいがある。
この二人をつなぐ、科学的でありながら、人間の社会性を見据えた、
しかも生きることに積極的なエリクソンが面白い輝きで見えてくる。
エリクソンは、17歳のときポリオを患い、聴力と視力以外のほとんどすべてを
失うことになる。そこから立ち直った彼は、人間の生命力とは何かを痛いほど
実感したことだろう。そして、その力強い生命力を伝えていくことに人生の
一つの意義を見出したにちがいない。
彼から学ぶべきことは多いと感じるが、はてさて私のようなチャランポランな
人間にどれほどのことができるのやら?
Ψインドの古くからの考え方で、人というものは真の自分を知らずにいる、
それを知れば即、悟りである、というような考えがある。
Ψその真の自分をアートマンという。
Ψ日本語に訳すときは真我とする。
Ψインドで真我に当たる言葉にはプルシアという言葉もあり、時代やら
何やらで変わってくるようだが、だいたい同じ概念をさすようだ。
Ψカスタネダの書く世界で言えば、ナワールに相当するものと言えば
当たらずとも遠からず、だろう。
Ψ人が生れ落ちて以来、日々身につけてきた、言葉でできた装い、
それを剥がしたところに、もともとの自分がいる。
Ψ言葉では表しようのない、言葉で表そうとすると逃げていってしまう
奇妙な存在。
Ψ「ミルトン・エリクソン―その生涯と治療技法」を読んで、エリクソンが
自分の精神療法を理論化しなかったことを知ったのだが、
彼はこうした言葉の硬直性をきらったのだろうな、と思った。
Ψまとまったものを書くよりは、日々の感覚を並べていくことを先にしてみようと
思うに至った。
Ψ一人の人間が一体どれほどまとりを持っているかと言えば、たいてい大したまとまりなど
ない。内部矛盾の集積、つぎはぎ細工の進行形、つまりはそんなもんだ。
Ψだから、まとまりのことは気にするのはやめた。切れ切れの断片でいいから、
切れ切れなるままに書き記すことにする。
Ψ年末に飲み過ぎて以来、胃腸の調子が悪い。悪いのは承知の上で酒を飲み続け、
タバコを吸い続けているので、一向によくならない。
Ψというか今日はさらに悪い。で、タバコは吸わないでいる。
Ψ酒を飲まずにいられるか、それが問題だ。
Ψ人はなぜ生きていけるのか、時に不思議に思う。死ぬのが怖いから、と思うときも
あるし、そういう場合もあるのは確かだが、多くの場合は、もう少し積極的な
理由があるのだろう。なんだか毎日がつまらないにしても、気休め程度でしか
ないにしても楽しみ、喜び、笑いといった気持ちの良さがある。
Ψそれは分った上で自分の体をいじめる。もっと体を大切にして、毎日を気持ち
よく送ったっていいのにと、われながら思うのだが、どうも今はそういうところ
まで辿りついていないようだ。
Ψあなたはどうですか。毎日たのしいですか。
Ψ体いじめを続けながらも、なんとか楽しみを見つけながらぼくは生きてます。
カルロス・カスタネダの書く中米の呪術的世界観では、
人間の認識の領域をトナールとナワールに分けて考える。
トナールは言葉で切り分けられた世界、
ナワールは言葉で切り分けられない世界である。
この世に生れ落ちた瞬間から、わたしたちは外界との接触、
特に周りの人間から言葉をかけられることを通して、
言葉で世界を切り分ける能力を発達させていき、
逆に言葉以前の世界を見る力を失っていく。
ふつう現実と呼ばれるものは呪術師にとっては記述でしかない、
という台詞が出てくるのだが、こういう思考法を続けていると
徐々にそういう見方ができるようになってくるもので、まあ、
こうして書いたものは所詮ことばにすぎないのだけれど、書くことで
ある程度、方向付けができる部分もあるので、とにかくこうして
ぼくはだらだらと書いてみるのだ。
さあ、これを書き終わったら頭を空っぽにしてみよう。
そうして、少しでもナワールの領分に近づいてみよう。
[追記]カスタネダを読んだことのない方には、まずは
「呪師に成る ― イクストランへの旅」をお薦め します。
ドン・フアンものの三作目ですが、十分独立した作品として読めます。
岡本太郎「今日の芸術」光文社1999
ぼくにとって岡本太郎は大阪万博の太陽の塔であり、あるいは
「グラスの底に顔があったっていいじゃないか」である。
彼の作品がどう評価されているのか知らないし、それほど好みというわけでもない。
けれど、彼の「芸術はバクハツだ!」という言葉の力強さには惹かれる。
「今日の芸術」が世に出たのは1954年、遠い昔の話。
1999年に再刊され、横尾忠則が序文を、赤瀬川原平が解説を書いている。
時代の流れが感じられて面白い。
この本を、1911年生まれで1929年にパリに渡った岡本の、1954年における
文明論として読むと、工業化された今の社会の中でぼくらが楽しく生きていくには
どんなやり方があるのか、そんなことを改めて考えたくなってくる。
芸術の<新しさ>に対する思い入れで書かれているから、新しければいいの? とか、
芸術じゃなくてスポーツでも疎外された自分を取り戻せるよね、とか思ってしまう
部分もあるのだけど、つい冷めた見方ばかりしてしまうぼくとしては、伝わってくる
熱い思い、特に第一章の「なぜ、芸術があるのか」には、なかなか心地よい波動を
感じたのであります。
なお、tade氏のページにこの本からの引用あります。
テッド・チャン「あなたの人生の物語」早川書房2003
テッド・チャンの名前はしばらく前から気になっていたのだけれど
元sfファンの身でしかなく、最近はロクに小説も読まないものだから、
わざわざ読もうとはせず放っておいた。
それが夏に横浜でワールドコンがあった関係で旧友のst氏と会う機会が
あったものだから、テッド・チャンはどうかと聞いてみたところ
「あれはおもしろいよ」と。
というような経緯でようやく読んだわけだが、なかなかおもしろい。
この本に収められた八篇のうち、特におもしろいと思ったのは二つ。
一つは表題作の「あなたの人生の物語」。
異星人との接触を扱ったものだが、世界、特に時間の認識の描き方が
秀逸で、ある意味、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」を思い出させる。
もう一つは「顔の美醜について--ドキュメンタリー」。
こちらは近未来において美的な認識を技術的にコントロールできるように
なったときの社会的な様相を書いたもので、ハインラインの「光あれ」を
思い出した。
各編の出来不出来は感じるし、人それぞれ好みもあるだろうけれど、
全体的に哲学的・科学的な思考実験の楽しさを思い出させてくれて、
楽しく読むことの出来た一冊である。
なお、こちらにワールドコンのときのインタビューの映像あり。
苛立ちや怒りの感情を自分がどんなときに感じるかを考えてみたところ、
おおむね二つのパタンがあるなと思った。
ひとつは自分より愚かに思える他者が自分の気に入らない事をしたとき。
なんだこのバカヤローと思う。
もうひとつは自分よりいい境遇にあると思える人間が自慢そうに
しているとき。
いい気になりやがってと思う。
どちらもこっちの勝手な判断に基づく身勝手な怒りである。
相手がなぜそうしているかにもう少し思いをめぐらせて、こうした
愚かな苛立ちや怒りを減らしたいものである。
できれば、すべてを笑い飛ばして。
以上、「グラッサー博士の選択理論―幸せな人間関係を築くために」を
ネタにした勉強会をやったあと考えたこと。