人が、たとえば weblog に何かを書くということによって、表現をするとき、
その人なりの表現の意味というものはもちろんある。
それは、単なる暇つぶしかもしれないし、知人に近況を知らせているのかもしれないし、
あるいは、孤独な独白(ひとりごと)ではあるにしても その人にとって必要不可欠な
切羽詰まった心情の吐露なのかもしれない。
そうした個人的な側面とは少し距離をおき、いくぶん抽象化したところで考えてみると、
文章にしろ写真にしろ、表現と呼ばれるものが何か特殊なものだ考える必要は必ずしもなく、
表現というものも人が生きるという形態の中でおこなっている様々なほかの活動と
特に代わりはないと考えることができるし、その表現の意味として伝言という機能を
想定することができる。
つまり、意識しているか していないかは さておき、人の活動はすべて表現であり、
その表現は伝言であると考えても構わないわけだ。
この世界で人間がやっていることは伝言ゲームなのだと考えるとすっきりすることに、
しばらく前に気がついた。
言葉を使ってする活動だけでなく、動作であれ心理的な状態であれ、人は表現し、
それを見た人は反応を返し、そのようにしてなにがしかのメッセージがやりとりされ、
そこに現れたパターンというものは、進化論的な意味合いで、生き残ったり、数を
増やしたり、死に絶えたり、という歴史を辿っていく。
まったく同じものが伝わっていくわけではない。遺伝子が変異するように、伝言が
聞き間違えられるように、なんらかの意味で生き残りやすいものが、変化しながら
伝わっていくのだ。
そんなこんなで、ぼくは今日も伝言ゲームを続ける。
そこに特別な意味があるわけではない。自分なりの心の落ち着きを求めて、
あれやこれやと試してみているだけのことだ。
近所の macdonald でバロックの音楽が流れる中、ぼくなりに言葉の流れを
調節してみているだけのことだ。
ディーノ・ブッツァーティ「神を見た犬」関口英子訳、光文社文庫2007
みさなん、お元気でお過ごしでしょうか。
この本については前にもちょっと書いたけど、また読み直したので感想を追加します。
ブッツァーティは独特の味わいの幻想的ないし寓話的短篇を書いたイタリアの人だけど、
「呪われた背広」は星新一とも似た感触の話。
料金を請求しない奇妙な仕立て屋が作った背広。その背広を着てポケットに手を入れると
一万リラ札が一枚ずつ、いくらでも出てくる。
ところがそこで手に入れた額だけ、世間では不幸な事件が起こる...
人間の愚かさを笑うブラックユーモアが効いた作品です。
さて、とっても苦いブラックであったり、どうにも救いがなかったりといった作品が多い
ブッツァーティ
なのだけど、「驕らぬ心」はニヤニヤしながら読んでいたのに最後の場面では思わず泣いて
しまいました。
ちょっと長めにストーリーを紹介。
都会で隠遁生活をする修道士のもとに、ある日若い司祭が告解に来て言う。
高慢の罪を犯したというのだ。
修道士が詳しく聞くと、若い司祭は「司祭さま」と呼ばれる度になんともいえない
喜びを感じてしまうのだという。
修道士はまさかこんなこととはと思いながらもその敬虔で純真な司祭に赦し(ゆるし)を
与える。
三、四年が経ち、またその司祭が修道士のもとに訪れる。今度は前よりももっとひどい
状態だと言い、「司教さま」と呼ばれる度に喜びを感じてしまうのだという。
修道士は、この男は哀れな愚者でまわりの人間からからかわれているに違いないと
思い、再び赦しを与える。
それからまた十年。同じ司祭が修道士のもとへ。修道士はまだ同じことで悩んでいるのかと
尋ねる。すると司祭はもっと情けない状態だと言う。「大司教猊下」と呼ばれる度に
喜びを感じてしまうのだと。
お人好しのこの司祭は年をとるにつれて愚直になり、まわりの皆が調子に乗って彼のことを
からかっているに違いない、修道士はそう思い、三度(みたび)司祭に赦しを与える。
やがてある日、老いさらばえた修道士は、死が間近に迫ったことを知り、ぜひヴァチカンに
行って聖ピエトロ寺院や法王さまのお姿が一目見たいと思う。
そして、ヴァチカンに行った修道士が見たものは...
ぼくとしては、「おもしろくて、しかもいい話」海外短篇部門第一位の栄誉をこの短篇に
与えたいと思います。
ヴォネガット、カフカ、カルヴィーノ、ボルヘス、そんな作家が好きなあなたに
お薦めしておきます。
それではみなさん、また来週*1!
*1:「来週」という表現に特別な意味はありません(笑)。
一週間に一度くらいは更新したいと思っている。
だが、今日は特に書くことが思いつかない。
書くことがない、と書くのは最後の手。
この weblog ではそこまではしない方針でいたのだが、
その場の気持ちに任せ宗旨替えをすることになった。
あからさまに言ってしまえば、すべての表現は所詮
暇つぶしにすぎない。
タチの悪い人の便所の落書きのごときも、才能ある人の読んで面白い言葉も、
何もかもがこどもの遊びに毛が生えたものでしかないし、
逆に言えばどんなものであれ、そこに輝きを見出すならば、
それはその人にとっての宝物になる。
ここに叩き出された言葉が誰かの宝になると思うほどには自惚れていないが、
こうやって人目に晒すからには、どなたかの暇つぶしとして役に立つこともあろう。
少なくともすでに、僕自身の暇つぶしにはなっている。
それ以上何を望むべきか。
ラーマクリシュナさんはインド・ベンガルで十九世紀という時代を生きた人。
今その人の伝記「インドの光」(田中 嫺玉、中公文庫 1991)を読んでるのだが、
認識の高みに登った人の物語を読むのは楽しい。
ぼくの印象では、この人は、お釈迦さんやイエスさん、あるいはムハンマドさんに
匹敵する人物だと思うのだが、生きた時代が現代に近いぶん、人間味が感じられて、
つまりそれは伝承による神格化が進んでいないということなんだけれど、そこらあたりで
あらためて感じたのは、悟るとか、神を見るとか、神の声を聞くとかいうのは、
おぼろに感じるところから、かなりはっきり分かるところまで、様々な拡がりがあるに
違いなくて、それは終わりのない道行きだから、完全に 悟るとか神を知るとか、
そういう状態は所詮ないってことなんだよね、たぶん。
そういうわけで、ぼくも、どこまで行けるかしらないけど、ぼちぼち道を歩いていこうかなと、
元気のあるときは思っとるんですよ、はい。
# ところで この本は、amazon でみるとなかなかいいお値段がついてます。
# ぼくは職場が都内なので、相互貸出で隣の区の図書館のを借りました。
# 東京都は図書館横断検索というのがあってとっても便利です。
豚インフルエンザの起源はどこにありや、などとおぼろげに考えていたところ、工場労働者氏の記事が目に入った。
今回の豚インフルエンザのような感染症が世に現る原因の一つとして、多国籍企業による畜産の工業化といったようなトピックが挙げられるようで、いやはや、不可思議な世の中になってきたものである。
☆こんな記事も書いています。
・「科学万能主義」のみなさんは「牛乳有害説」なんて鼻で笑うでしょうけど、やっぱり牛乳は有害なんとちゃう? - *魂の次元*