動物と一緒に生活してますか?
それとも植物を育てていますか?
今日は子どもの頃の生き物とのつき合いを、思い出して書いてみます。
1970年代の東京・世田谷の、小学生時代の話です。 お祭りの縁日で金魚すくいをして、黒い金魚をうちに持って帰ったことがあります。
うちの玄関の脇に水槽がおいてあって、その中で他の何匹かの赤い金魚と一緒に黒い金魚も飼っていたのですが、ぼくは持って帰っただけでロクに世話はしませんでした。
母が餌をやってくれていたはずです。
特に気をつけて見ていたわけでもないのですが、それでもその黒い金魚は自分のものだと思っていました。
そのうち、ほかの赤い金魚は死んでしまったのに、黒金魚だけは生き延びていたこともあり、うっすらと愛着のようなものがあったのだと思います。
次の年か、二三年後か、お祭りで弟が金魚をすくってきました。
そしてその金魚を同じ水槽に入れたところ、黒い金魚も含めて全滅してしまいました。
自分で世話をしていたわけでもないのに、自分の大切なものが失われてしまったような気がして、子どもっぽい不満を感じたのをよく覚えています。
* * *
インコを飼っていたのは、たぶん弟がほしがって、それにつられてぼくも買ってもらったのでしょう。
緑っぽいインコと水色の入ったインコがいましたが、どっちがぼくのでどっちが弟のだったか思い出せません。
金魚と違ってインコは手に乗せたり手で抱えたりできるので、動物との触れ合いという意味では、一段深いものを感じます。
手の中のインコに、命のもろさを感じたことを思い出します。
インコの場合は、餌やりだけでなく、糞の始末などもそれなりにやる必要がありますが、これもぼくや弟はやらず、母任せでした。
二匹のインコがどうなったのか、はっきりと覚えていませんが、逃げてしまったのがいたような気がするし、死んでしまって庭に埋めたのもいたような気がします。
なんとなく一緒の時間を過ごしただけで、可愛がるというような思いは持てない子どもだったのです。
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* * *
鉢植えでひいらぎを育てていたことがあります。
育ったうちは小さいながら和風の庭があったので、そこに実生で生えていたものを、自分で気に入ってか、母の真似をしてか、鉢植えにしてみたのでしょう。
育てていたなどというと、きちんと気にかけて、水やりや植え替えなどやっていたみたいですが、たぶん夏休みにでもひと月ほどは水やりをして、そのあとは放ったらかしで枯らしてしまったのではないかと思います。
十センチかそこらの小さな実生のひいらぎに、濃い緑の独特の反り返りかたをしたとげのある葉が生えている様子がとても印象に残っています。
* * *
こんなわけですので、生き物の世話をすることで何かを学んだというわけではありませんし、生き物とのつき合いを通して情緒が育てられたというほどのこともないのですが、ここに書いたような小さな経験が、大人になってから自然環境に興味を持って、雑草の名前や、食べられる山野草を覚えてみたりすることにつながっていったような気がします。
みなさんの生き物とのつき合いはどんなものでしょうか。
こうして子どもの頃のことを思い出してみるというのも、たまには楽しいものですね。
てなわけで今回はこの辺で。
それではみなさんナマステジーっ♬
初期仏教の瞑想法であるヴィパッサナの練習を始めてから、そろそろ八年になります。
昨日までは西インドのプシュカルで、十日間の合宿コースにボランティアとして参加していました。
ぼくが練習しているのは、ビルマ生まれのインド人ゴエンカさんという人のやり方で、呼吸と体の感覚を丁寧に見ていくだけの単純明快な瞑想法です。
単純明快ではありますが、十日のコースではこれを朝から晩まで十時間あまりも練習することが推奨されていますので、実際に実行するとなると、これは本当に難しいことです。
ところでみなさんは、自分の人生が「もう少し楽しいものになったらな」とか、「もっと自分の思い通りに生きたいな」とか、そんなことを考えるときがないでしょうか。
つまり、
「自分の人生を変えたい!」
と思うときのことです。
ぼくは今年五十五になりましたが、もう三十年以上も自分の人生をなんとか変えようとして、切れ切れで散発的な努力を重ねてきました。
そうして最近気がついたのは、
「自分は今の人生に満足していない、なんとかこの人生を変えたい」
と思うときというのは、人生の最大のチャンスだということです。
このとき「変えたい」という強い気持ちは、必ずしも必要ありません。
「変わったら楽しいのにな」
というくらいの淡い期待でもいいのです。
変化を求める気持ちが起きたときにこそ、変化を実現するための第一歩を踏み出すことができます。
逆に言えば、自分がその気にならない限り、いくら人に尻を叩かれたって、人間変わることなんてできません。
そして変化を求める気持ちが起こったときに、
「変化に向けて正しい一歩を踏み出せるかどうか」、
これこそが重要なポイントです。
もちろん「何が正しい一歩なのか」は人によっても、時期によっても違ってきますから、それを見極める力を自分の中に育てることも大切なことです。
とはいえ、誰にとっても踏み出すべき一歩の方向性として、間違いなく大切なことがあります。
例えば、
「意志の力を育てること」
です。
なんでもかんでも意志の力で克服できるとか、努力すれば必ず成果が上がるとか、そういう話ではありません。
好きなことをやる場合にだって、物事の準備をし、何かをやりとげ、充実した時間を送るためには、そこには必ず意志の働きがあります。
人生を変えたいと思うのならば、意志の力を育てることは必須の条件といってもいいでしょう。
そこで意志の力を育てるために、この記事でみなさんにおすすめしたいのは、
「鼻から三回ゆっくり深呼吸をすること」 です。
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「鼻から深呼吸? それが変化を求める気持ちや意志の力とどう関係があるの?」と思われたでしょうか。
しかし、最近の心理学の研究では、
自分を変えるためには習慣を変える必要があり、 そのためには実際に何か行動を起こす必要がある ことが報告されています。
そしてその行動を起こす力こそが、意志の力なのです。
つまり「自分を変え、習慣を変え、意志の力を育てる」ためには、新しい行動を実際に起こすことが必要であり、
「鼻から三回ゆっくりと深呼吸すること」
はそのための打ってつけの練習になります。
「人生を変える」などと大上段に構えると、どうにも手に負えないものにも思えてしまいますが、「実際に変えること」こそが出発点としての大切な一歩になりますから、その一歩めは
「気がついたときに三回深呼吸すること」 といった実に簡単なことでかまわないのです。
だまされたつもりになって、まずは今これを読むのを一旦やめて、三回深呼吸をしてみてください。
今日はエルビスさんからのリクエストでインドの宗教の話です。
まず、バラモン教は初期のヒンズー教という理解でいいようです。
ヒンズー教は、インドの宗教の総称的なもので宗派により様々に異なるのですが、ここでは仏教と比べるために、アドヴァイタというインドの世界観を取り上げることにします。
アドヴァイタは不二一元論と訳されますが、この世界全体がブラフマーと呼ばれる単一の実在の現れであるという考え方です。
月も太陽も、あなたもわたしも、すべてはブラフマーという神あるいは宇宙原理の現れなのだと考えるのです。
そして現れているものは、いわば幻なのだとします。
ブラフマーがたまたまその形を取っているだけで、そこには物事の本質はないと考えるのです。
するとぼくたちが普段自分だと思っているものも幻にすぎないことになります。
このとき自分というものを詳細に見ていくと、自分の心の奥底に不変の実体が見えてきて、それが宇宙原理であるブラフマーと一つのものであると気がつく。
心の奥底の実体を真我=アートマンと呼び、ブラフマーとアートマンは一つのものであると捉えるのです。
これを梵我一如と言います。
(ここで、梵=ブラフマー、我=アートマン、となります)
アドヴァイタ派のお坊さんは、この梵我一如の境地を目指して修行することになります。
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仏教はどうかというと、この世界は法=ダルマによって成り立っていると考えます。
そしてこの世界に現れているものはすべて無常であると説きます。
また、普段自分と思っているものは、不変でもなければ、自分以外のものと必ずしも区別できるものではなく、それは自分と呼べないと説き、これを無我と言います。
また無常で無我であるこの世のものに執着することから苦しみが生まれるので、執着を捨てれば涅槃の境地に至り、すべての苦しみから逃れられると説きます。
仏教のお坊さんは、もともとはこの涅槃の境地を目指して修行を積むわけです。
ここでアドヴァイタと仏教を並べて考えると、
ブラフマー≒法(ダルマ) この世は幻≒無常 真我≒涅槃 という対応が見て取れます。
真我≒涅槃という部分は、それぞれの立場の方からすれば、「まったく違う」と言われてしまうところかもしれません。
けれども「あらゆる欲求を超越している」という意味では、真我も涅槃も同じですし、仏教で無我というのはいわゆるエゴを自分と同一視することを戒めているのであって、この世界や自分の心を意識している「存在」自体を否定するものではありません。
仏教では修行に関係ないものについては語らないという伝統がありますから、真我については語っていないだけだとも考えられ、涅槃の境地ではすべての欲求から離れて意識が法そのものを具現するのだ、と考えれば、涅槃即法、法即涅槃であり、結局は梵我一如と同じことを言っているように思えます。
ということで、表面的にはいろいろな違いがあるものの、根本的な世界観としては、ヒンズー教も仏教もほとんど一緒といっていいほどに似てるんじゃないですか、というお話でした。
それではみなさん、ナマステジーっ♫
ニッポンの毎日、息苦しくありませんか?
日本の将来に不安を感じているのでしたら、とにかく一度海外の空気を吸ってみることをおすすめします。
この記事では、渡航先としてインドのメリット、デメリットを考えてみます。
どうしてインドなの? インドの最大の魅力は「異世界感」にあり! とはいえインドに向かない人もいます。 英語できないんだけど大丈夫? 最後に、ぼくのインド初体験の話 どうしてインドなの? 渡航先としてインドを選ぶ大きなメリットは、180日滞在可能な長期ビザが簡単に取れることと、滞在費が安いことです。
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宿の値段は街によっても違いますが、一泊千円くらいで泊まれるところも割とあります。
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食費は現地の人と一緒の屋台や食堂なら、一食百円以下で済ませることもできます。
本当に最低限の生活費を考えると、ひと月五万円も見れば大丈夫なことになります。
あとは観光や贅沢品に、あなたがどれくらいお金をかけるか次第です。
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インドの最大の魅力は「異世界感」にあり! 初めて海外へ行く人にとっては、タイを始めとする東南アジアの国々も十分にエキゾチックではあります。
けれどもインドは異世界感が更に強烈です。
道端で寝ている人も多く、貧富の差も歴然としていますし、街なかに牛糞がぼたぼた落ちていたり、聖なる牛だけでなく、山羊、ロバ、馬も見かけます
中世と現代が混沌として入り交ざっているのです。
東南アジアの人々は集団志向な点では日本ともかなり共通する部分があるのですが、インドは個人志向が強く、慣れないうちは押しの強さに違和感を抱くかもしれません。
そしてインドはとても宗教的な土地柄です。どんな街でもヒンズー教のお寺、イスラム教のモスクなどがよく目に入ってきますし、その文化は一見日本とは大きく違って見えるものの、インドで生まれた仏教が共通項としてあることから、輪廻などの考え方などについては、日本人から見てもあまり違和感はない部分もあります。
中近東ほど遠くはないけれども、イラン・ペルシア系の文化も渾然一体となっている北インドの文化、そしてそのさらに北にはヒマラヤの文化があり、また南にはドラヴィダの文化がありと、多様性に溢れる異世界感がインド最大の魅力なのです。
とはいえインドに向かない人もいます。 とはいえ、インドは初めて海外に行く人にとっては、やや難易度が高い国かもしれません。
日本の便利で清潔な暮らしに慣れたあなたは、インドの不衛生な街や、買い物の値段交渉で音を上げてしまうかもしれません。
ですから、あなたが日本の生活水準に普通に満足しているのでしたら、むしろ欧米に行ってみたらいいでしょうし、もう少し違う世界が見たいという場合でも、タイやマレーシアなど、日本から行きやすく、文化的にも比較的近い国から行って見るほうが安全かもしれません。
けれども、もう日本の暮らしに飽き飽きしていて、
「一発がつんとショックがほしいんだ」
というくらいの意気込みがあるあなたならば、インド行きはあなたの人生を変えてくれることになるかもしれません。
英語できないんだけど大丈夫? あなたがまったく英語ができない場合は、多少の準備は必要かもしれません。
けれども、中には「全然といっていいほど英語ができない」のに平気で旅行している人もいますし、とにかく気にしすぎないことです。
言葉に頼らなくても、ジェスチャーが得意なら、それだけでもかなりなんとかなります。
言葉の不自由さも楽しんでしまうくらいの気持ちで、新しい経験を味わってほしいと思います。
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仏教では「無我」を説きます。
ふだん自分と思っているものは、よくよく吟味すると、独立し ていて、恒常的に「自分」と呼べるようなものではない、というわけです。
ですから「ぼく」が考えたり、感じたりしていることも「ぼくの考え」、「ぼくの感覚」ではなく、客観的な表現をすれば「この体に起こっている考え・感覚」ということになります。
ヴィパッサナーと呼ばれる初期仏教の瞑想を練習していると、このような「理解」が体験的なレベルで生まれてきます。
ある程度まとまった時間、瞑想の練習をしていると、「さっき浮かんだ考えも、今感じてる感覚も、大空に浮かぶ雲のようなもので、ただやってきては去っていくもので、それが自分だと思う必要はないんだな」というような実感が生まれるわけです。
瞑想というものによって、自分に対するとらわれに気づき、そこから離れる自由に生きる可能性を生み出すような「実感としての理解」が得られることは、このこと一つを取っても十分に興味深いものです。
けれども、さらに瞑想が深まると、世界に対する「統一的な理解」というものが生まれてくる場合があります。
いわゆる「悟り」体験です。
「悟り」が降りてくると、
「『この世界』のすべてが分かってしまう」
ので、とても大きな満足感が得られます。
「世界が分かる」というのは、仏教の教えが個々に体験的に理解されるだけでなく、世界全体を説明する原理としての、仏教的な世界観に間違いがない、と確信が、体感として得られるということです。
ただし、ここで気をつけないといけないことが二点あります。
一つは、理解を得た『この世界』というのは「自分がその時点で把握できている世界」でしかないということです。
『世界』が完全に分かった! と思っても、その『世界』の外にまだ理解していない世界があることに気がつく必要があります。
もう一つは深い瞑想状態で得られた理解は、瞑想のレベルが浅くなって普段の意識に戻ると、夢の体験のように、遠くなって、おぼろなものになってしまうということです。
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ゴエンカさん方式の10日間の合宿コースなどで、集中的に瞑想の練習をすると、こうした「プチ悟り」が訪れる場合がありますし、ぼくも実際そういう体験を何度もしてきました。
するとその度ごとに、理解できる『世界』の大きさが広がっていくわけです。
その結果、
「これは凄い、今度こそ悟ったぞ!」
と思うのですが、やっぱりその意識状態を保つことはできなくて、コースを終えて日常の暮らしに戻り、しばらくしてみると、普段の平凡な意識状態に戻っていることに気づくわけです。
とまあ、今平凡な意識状態でこれを書いていて思うのは、
「ここまで理解できたオレってやっぱ凄いんじゃね?」
ってことです。
もう少し正確に言えば、
「このような理解がこの体に降りてきているとは、この世界の仕組みはなんと玄妙なものだろう!」
ということになります。
もちろんぼくの理解のレベルなど、まだまだ浅いものですから、ここではなるべく客観的に、我を離れた視点から書こうとしてはいますが、どうにも自慢話になってしまっている面についてはご容赦いただきたいと思います。
仏教で説かれる無常・苦・無我や、苦を滅する方法について、個々の体験的な理解が得られ、また世界全体についての統一的理解すら生まれうることは、ヴィパッサナー瞑想の最大の醍醐味だと思います。
しかしながら、その過程においては「オレ悟ったぞ」的な「大きな勘違い」が起きてしまうことも多々あるわけで、これはまったくダサくてかっこ悪いことです。
けれども、そのダサさ、かっこ悪さに気づくことができれば、更なる瞑想の深みへと足を進めていくこともできるわけで、ぼく自身もここに書いたようなことによく気をつけた上で瞑想の練習を続けていきたいと思いますし、これを読んでくださっている皆さんにも何らかな参考にしていただけましたら幸いです。
なお、念のため申し添えれば、瞑想によって得られる体験はまったく人それぞれです。
ここに書いたような経験がないからといって、瞑想がうまくいっていないということにはなりません。
瞑想がうまくいっているかどうかは、日常生活の中で、快不快や、怒り・悲しみなどの感情に振り回されることが少なくなっているか、といったことが目安になります。
「悟り体験」を目的として瞑想をするようなことは、瞑想の進歩を妨げることにつながりかねませんので、くれぐれもご注意ください。
てなところで、この記事はおしまいです。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
☆ヴィパッサナー瞑想にまつわる初期仏教の考え方については、こちらの本がおすすめです!
「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法」(1999 春秋社)
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日本のみなさん、お元気ですかー?
今ぼくは西インドはラジャスタン州のプシュカルという小さな街にいます。
今日は「インドって、どんな国なの?」という疑問に、思いつくまま答えていこうと思います。
インドと言えばカレーとナン、ではありますが。 宿の値段 インドの人は、何を着てどんな家に住んでるの? インドの住居と「裸足の文化」 インドと言えばカレーとナン、ではありますが。 インドと言えばカレー、インド・カレーと言えばナン。
日本の方ならばそう思うのは当然でしょう。
実際インドに行ってレストランで料理を頼めば、そのすべてがカレーであるといっても大げさでないくらいです。
で、そのカレーと一緒に食べる平たい半発酵パンがナンなのですが、これはインドではそれほどメジャーな食べ物ではありません。
もちろん、ちょっとしたレストランに行けばナンは食べられるのですが、地方による違いも大きいし、同じ平焼きのパンでもチャパティやロティと呼ばれる無発酵のパンのほうが普通に食べられています。
そして同じ小麦粉でも、平たい揚げパンのプーリーやチョレも人気です。
インドの揚げ物と言えばスナックのサモサが有名ですが、ほかにもカチョリやパコラなどいろいろな種類の揚げ物が楽しめます。
ただしかなり辛いことも多いので、辛いものが苦手な人は要注意です。
また細長いインディカ米のご飯もよく食べられますし、南インドに行くと米粉を使ったドーサ、イドリ、ウパマ、ウタパムなどいろいろな料理があります。
揚げ物も粉物も、カレー的なソース、あるいは汁と一緒に食べることが多いのか、インド的と言えますね。
宿の値段 ぼくが今泊まってる一人部屋は、一泊250ルピー、400円ほどです。トイレ・水シャワー付きでこの値段は、インドの中でもたぶん最安値の部類です。
日本の快適な宿と比べてしまうと、人によっては「うーむ」と考えてしまうかもしれませんが、慣れてしまえば不足はあまり感じません。
ただし、ベッドは体育館のマットのようなものが敷いてあって、それがちょっと湿気た感じなのでそのままだとやや体が冷えるため、毛布を借りてマットの上に敷いてしのいでいます。
街によっては一泊千円〜千五百円くらいかかる場合も多く、宿代をどう節約するかで生活費が大きく変わってきますね。
月単位で借りてしまえば、もっと節約できるはずですが、完全に定住しているわけではないので、今のところそんな感じで宿住まいを続けてます。
インドの人は、何を着てどんな家に住んでるの? インドという国は、日本からは想像の難しい階層社会です。
もちろん日本にだって階層はあるわけですが、インドではそれが本当に極端だし、あからさまです。
そんなインド社会について、インドの人はこんな服を着て、こんな家に住んでます、というように簡単に紹介はできないのですが、そこは無理を承知の上で、ぼくが知っているところを断片的に書いてみます。
プシュカルという街は小さいながらも有名なヒンズーの聖地なので、たくさんインドの方が巡礼に来ます。
周りのラジャスタン州から来る人たちは、素朴な昔ながらの暮らしをしている人が多いのでしょう、女も男も伝統的な民族衣装を着ています。
女性は色鮮やかなサリー、男性は白いだぶっとした上下です。
一方、同じインドの人でもデリーなど大きな街から来る人たちは洋風のモダンな服装で、その意味では日本や欧米と変わることはありません。
全体的な印象としては、ある程度大きな街でも女性はサリーやパンジャビ・ドレスなどの民族的な服装が多く、男性は洋風の人が多いですね。
日本でも和服は女性のものという印象がありますが、インドでは普段着として使われている点が大きく違うところです。
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インドの住居と「裸足の文化」 さて、インドの人はどんな家に住んでいるのでしょうか?
といっても、自分の家に呼んでくれるような親しい友だちがいるわけではなく、宿以外の普通の家に招かれたことは数えるくらいしかありません。
そんなぼくにもはっきり言えるのは、「インドは裸足の文化だ」ということです。
日本は家に上がるとき「靴をぬぐ」文化ですよね。
そして欧米は「土足」の文化。
それに対してインドの基本は裸足の文化です。
もちろんインドの人だって靴くらい履きます。たいていの人はサンダル履きですが。
そして靴やサンダルは「不浄のもの」という考えが強固にあります。
ですからお寺などに入るときは靴は脱がないといけません。
ここは日本と一緒です。
みなさん、すでにご存知のことと思いますが、はてなブログで、もうじき個人の営利利用が可能になります。
・2019年10月1日より、はてなブログの個人営利利用を許諾します - はてなブログ開発ブログ
今までも副次的な収入ならば問題なかったのですが、今後は収益を主目的にしたブログも可能になるわけです。
そこで今日は、はてなブログのこの方針変更を踏まえて、
なぜ人はブログに記事を書くのか、そして、 記事を書くとき報酬はそれにどう影響するのか、 をつらつらと論じてみようと思います。
「優れたコンテンツを生み出す原資として収益は不可欠なもの」だって? SNSの登場で、誰もが気軽に情報発信できる時代になった。 そうは言ってもお金もほしい。ぼくも本音はそんなとこです、笑。 「優れたコンテンツを生み出す原資として収益は不可欠なもの」だって? さて、はてなからの個人営利利用解禁のお知らせには次のように書かれています。
近年ではアフィリエイト広告掲載の意義が広く認知され、個人が収益を意識してブログを運営することは一般的なものとして浸透しており、優れたコンテンツを生み出す原資として収益は不可欠なものとも考えられるようになっています。
「優れたコンテンツを生み出す原資として収益は不可欠なものとも考えられるようになっています」なんてのは、ウィキペディアなら
「誰によって?」
と書かれてしまいそうな文章です。
このことについてid:fujipon さんが
・[:title]
という記事で、
これに関しては、半分賛成、半分反対、という感じなんですよ。
僕はけっこう長い間ブログをやっていて、Google AdsenseやAmazonである程度の収入を得ています。
そこで実感しているのは、「人は、一度定期的に収入を得てしまうと、それを失うことのストレスが大きい」ということなんですよ。
と書いています。
要は「収益があることはブログを継続する動機になる」ということです。
けれども、同時に
なまじっか「稼げる」「これまでの収入を失いたくない」ために、検索順位だけは高い、クリックした人をムカつかせるコンテンツが粗製乱造されていく。
といった悪影響についても懸念されています。
つまり、ブログから得られる収入は
「毒にも薬にもなる」
というわけです。
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SNSの登場で、誰もが気軽に情報発信できる時代になった。 fujiponさんは、こうも書いています。
ブログやSNSが起こした、いちばん大きな「革命」というのは「それでお金が稼げるようになったこと」ではなくて、「お金にならない個人の言葉や文章が、多くの人に読まれる可能性ができたこと」なんですよ。
これは本当にそうですよね。
スマホが普及し、フェイスブックやツイッターがごく普通に使われるようになって、ネットに書くことの敷居は実に低いものになりました。
ブログも含めて、無名の一個人が情報を発信して、それを不特定多数の人に読んでもらえる可能性があり、またたとえ多くの人には届かなくても、現実の世界では知り合えないような人と交流ができるという事実には、あなたの人生を根本から変えてしまいかねない潜在力があります。
収入などにこだわらず、楽しく記事を書いていきたいものではありませんか。
そうは言ってもお金もほしい。ぼくも本音はそんなとこです、笑。 ネット上に言葉を紡ぎ、人とやりとりをし、あるいは作品を発表する。
その理由は人それぞれでしょう。
お金を稼ぐために情報発信する人を否定するわけにもいきません。
みなさん、マズローの欲求5段階説はご存知ですか?
ビジネスの世界でも有名な話ですし、5段階説は聞いたことががなくても、「承認欲求」という言葉は聞いたことがある方も多いでしょう。
アメリカの心理学者アブラハム・マズローの説では、人間の欲求には次のような段階があり、
自己実現欲求 承認欲求 社会的欲求 安全欲求 生理的欲求 の5つが、下から順に満たされていく必要がある、ということになっています。
ところが、このよく知られた説に対して、
マズローの着想は時代遅れであり「もはやアカデミックな心理学の世界では真面目に取り上げられてはいない」 と真っ向から否定する意見があるのですね。*1
マズローの説については、ふろむださんのこちらの記事でも、「マズローの思想には価値があるが、科学的には根拠がない」という意味のことが述べられています。
・ネットに時間を使いすぎると人生が破壊される。人生を根底から豊かで納得のいくものにしてくれる良書25冊を紹介 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ
さて、本当のところマズローの説は、もはや時代遅れの無意味な仮説なのでしょうか。もう少し詳しく見ていくことにしましょう。
マズロー説に科学的根拠はあるの? 進化心理学からの「反論」、自己実現よりも「結婚して子孫繁栄」が重要? とはいえ、「自己実現」もやっぱり重要。マズローのピラミッドは永遠です! マズロー説に科学的根拠はあるの? 冒頭で紹介したマズローの欲求5段階説を否定する言葉は、ウィキペディアのアブラハム・マズローの「批判」という項目から引用したものです。
ここでもう一度該当箇所を全文引用すると、
2006年には、Christina Hoff SommersとSally Satelが経験的実証の欠如により、マズローの着想は時代遅れであり「もはやアカデミックな心理学の世界では真面目に取り上げられてはいない」と断言した。
ということです。
これは英文ページからの引き写しで、そちらを見ると、Christina Hoff Sommers, Sally L. Satel の "One Nation Under Therapy" からの引用であることが分かります。
*2
これだけでは、「ある本がマズローをディスってるだけじゃん」という感じですが、
・Maslow's hierarchy of needs - Wikipedia
のCriticismの項を見ると、「検証可能なデータに基づいていない」ことや、「文化による違いを考慮していない」などの批判があることが分かります。
一方、
・Abraham Maslow - Wikipedia
のCriticismの項には、イリノイ大学のEd Diener と Louis Tayの研究で、123ヶ国、60,865名についての調査で、文化の違いによらずマズローの説が当てはまることが確認できたことが書いてあります。
つまりマズローの説にもそれなりの科学的根拠はあるのです。
マズローの説に限らず、心理学上の仮説というものは、どのような調査をするかで結果が違ってくることが起こります。
たとえば、心理学の話としては有名な「マシュマロ実験」についても、
「幼児期の我慢強さは、成長してからの学業成績や社会的成功に大きく影響する」 というスタンフォード大学での研究結果に対して、
「幼児期の我慢強さが直接成長してからの結果に影響するのではなく、家庭の経済環境が両者に大きく影響するのだ」 という別の研究結果が存在します。
(つまり、経済的に恵まれた家庭の子どもは、マシュマロを我慢する力が強いし、成長してからの学業成績が優れ、社会的成功も大きくなる、ということ。我慢と成功が直接関連しているわけではない)
ですから、心理学上の「事実」については、様々な条件次第で結果が変わってしまうことを理解した上で、「事実」というよりは一つの「研究結果」であり、
ニー仏さんこと魚川祐司氏が、こんな記事を書いてらっしゃいます。
・「自己肯定」という自己否定|ニー仏|note
「人の評価ばかり気にしてはいけませんよ。まず自分で自分を肯定できないと、人生なかなかうまくいきませんから」というような言い方で、自己肯定感の大切さが述べられているのを、あなたもどこかで見かけたことがあるのではないでしょうか。
確かに自己肯定感は重要です。
けれども自己肯定感が足りずに困っている人の中には、ある種繊細な人たちがいて、その人たちは「自分の否定的な面をよく分かっているからこそ、人に言われたからといって簡単には自己肯定感を高めることはできない」とニー仏さんは言うのです。
この記事では「自己肯定感を高めるためには信仰の力が役立つことがある」というニー仏さんの主張を確認した上で、「信仰」の一つの表れとも言える瞑想について、「自己肯定感を高めるために瞑想は使えるか」ということを考えてみることにします。
自己否定をこじらせて、自己肯定ができないあなたへ 自己肯定感を努力で育てるには時間が必要。でも「信仰」の力を借りられれば? なぜ瞑想で自己肯定感を高められるのか? 自己否定をこじらせて、自己肯定ができないあなたへ ニー仏さんはこう言います。
自分の否定的な面を誰よりも自分自身が認識しているからこそ「自己肯定感」がもてないのに、その自分が「自分で自分を肯定する」などというのはまさに自己否定そのものではないか
つまり「自己否定している自分を肯定しても、自己否定しか出てこない」というわけです。
これに対して「見方を変えて、否定的な面を否定と感じないようにする」という対処法が一般にすすめられるのですが、自己肯定ができずに困っている人たちの中でも繊細なタイプの人は、「見方を変えたくらいでは、否定的な面を無視することはできない」ので、そうした対処法は役に立たないというのです。
確かに論理のレベルでは「否定の肯定」は「否定」にしかなりません。
また、言葉のレベルで「あなたが否定しているものは否定する必要のないものですよ」と言われても、「ああ、そうですね、否定はもうやめます」という具合に簡単にはいかないでしょう。
例えばあなたが、自分のやることをすぐ人と比べてしまい、周りの優秀な人よりもできない自分が気になってしょうがないととします。
このことが自己肯定感を持てない大きな理由になっているとすれば、これを一発で治すような対処法は確かにありません。
「人と比べて自分をダメだと思う」というような「こじれた自己否定」を持っている場合は、「その自己否定する自分を受け入れて、その上で自己否定のクセを手放しましょう」と言われたって、「そんなこと、どうすればできるのよ?」と思ってしまうのも当然です。
自己肯定感を努力で育てるには時間が必要。でも「信仰」の力を借りられれば? 「こじれた自己否定」であっても、根気よく時間をかけてつき合えば、自己努力によって悪いクセを減らし、自己肯定感を育てることは可能です。
自分を人と比べているのに気がついたとき、そして人と比べて自分はダメだと思ってしまったときに、そのことを「またやってるな」と確認し、否定しないことが大切です。
初めのうちは「またやってる、これじゃダメだ」と否定してしまうかもしれませんが大丈夫、「自己否定してる自分を、また否定しちゃったな」ともう一段引いて構えればいいのです。
「自己否定を否定」せず、「自己否定を肯定」することに慣れていくと、そもそもの「自己否定」は次第に薄れて消えていくことになります。
初めはぴんとこないかもしれませんが、実際に時間をかけてやってみれば納得がいくはずですので、気が向いたらぜひ試してみてください。
けれども、「そんなことに時間はかけてられないよ」という人もいるでしょう。
そういう人でも、もし「信仰心」があれば、というのがニー仏さんの主張の一つなのです。
つまり、自己肯定の場合は、「自分で主体的に肯定する」必要があるために、古い否定のパターンに邪魔されてなかなかうまく自己肯定できる状態になりにくいのですが、「信仰心」があれば、自分ではない「超越的絶対者」の肯定に頼ることができるため、劇的な効果を得られることもしばしばだ、というのです。
しかし残念ながら、こうした信仰心は「自己否定こじらせ組」のぼくたちが獲得することはかなり難しいものでしょう。
そのとき、「自己努力」と「信仰心」の中間的とも言えるやり方として、瞑想という実践法があなたの役に立つかもしれません。
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なぜ瞑想で自己肯定感を高められるのか? ニー仏さんは
・なぜ瞑想をするのか――「無心」が開く生のモードについて|ニー仏|note
というご自分の記事をあげて、自己肯定感を持つためのもう一つのルートとして、瞑想をすすめています。(こちらは有料記事ですが、自己肯定感と関連する一部を引用・紹介させていただきます。座禅や瞑想によって経験しうる「無心」と呼ばれる意識状態について、丁寧に説明されていますので、ご関心のある方には是非ご一読をおすすめします)
ただしそこには、「瞑想はこの世における具体的な問題を直接的に解決する手段ではない」という留保をつけてらっしゃいます。
つまり、
自己肯定感を高めるために瞑想をするのは邪道、 ということになります。
ではなぜニー仏さんは、自己否定してしまう人に瞑想をすすめているのかというと、
自己否定で悩んでいる人ならば、生きている以上は逃れられない「終わりのない不満足」に対する究極の解決法としての瞑想に関心があるはずだ、 ということになります。
つまり瞑想は、「個々の具体的な問題」を解決するためではなく、「説明しがたい生きづらさ」や「生きることの無意味さ」といった『人生そのもののに伴う構造問題』の解決策として役に立つものなのです。
確かに瞑想は、自己肯定感を高めるというような目的のためにするべきものではありません。
けれども、ゴータマ・ブッダが「苦」と呼んだ「人生における終わりのない不満足」に終止符を打つことを目指して、あなたが瞑想の練習を続けるとすれば、やがてあなたは「以前のようには自分を否定することがなくなった自分」に気がつくことになるでしょう。
というのも瞑想を通してあなたは、自分が無意識にしていること(たとえば、自分と人を比べて、自分はダメだと否定すること)にはっきり気づくようになり、また気づいても、それを否定しないあり方を体験を通して学ぶからです。
京都に拠点を置く短歌結社「塔短歌会」が2019.8.24に行なった「現代短歌シンポジウム IN KYOTO」にて、作家の高橋源一郎氏が講演されています。*1
この記事では高橋氏の「過去の言葉を受け止め、編み直して未来へ届けてゆく」という言葉をヒントに、sns時代に言葉が持つ役割について考えてみます。
伝言ゲームとしての世界 過去から未来へ言葉を送り届けることが、ざわついた今の世界への反撃 文章の価値、好み、「声」 あなたの文章に「声」はありますか? 伝言ゲームとしての世界 高橋氏は、snsという新しいメディアの登場によって、現代はもっとも言葉が生産されている時代だと言います。そしてそれは同時に、もっとも言葉が聴かれていない時代なのだとも。
snsによって誰もが気軽に「声」を発することができるようになった以上、ほとんど聴かれることもなく消えていく「声」が無数に存在することも、いわば当然のことです。
高橋氏はボイスという言葉を使っていますが、書き言葉にも文体ではなく、もう少し肉体的な「声」があるというんですね。
そしてその「声」はあたかも超伝導のように永遠に届くのだそうです。
DNAが複製されて世代から世代に受け継がれていくように、過去からの「声」もリレーされて未来へと送り届けられていく。
短歌を詠む人も小説を書く人も、言葉に従事している人は、「受け取って、編み直して、送り出す」のが役割であり、義務であるというのです。
作家である高橋氏は、書き言葉についてこのように話すわけですが、ぼくたちの人生自体がある意味「伝言ゲーム」ですよね。
親や大人の話を聞いて育ち、友だちとのやりとりを通して言葉の使い方に慣れ親しみ、日頃言葉を発することで世界に働きかけていく。
幾千万の世代を越えた「伝言ゲーム」が、今のぼくたちの住む世界を作り出したというふうに考えるのも、ちょっとおもしろいのではないでしょうか。
☆高橋源一郎氏の小説はこちらがおすすめ。〈石川啄木が伝言ダイヤルにはまり田山花袋はアダルトビデオを監督する〉日本の近代文学がパロディーで学べます、笑。
「日本文学盛衰史」
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過去から未来へ言葉を送り届けることが、ざわついた今の世界への反撃 講演の中で高橋氏は、小沢一郎も安倍晋三も大嫌いだったと語ります。
けれども著作を読んでみた結果、小沢は大好きになり、安倍はかわいそうと思うようになったそうです。
本を読んでその人の「声」を聴くとき、それを簡単に否定することはできなくなるし、軽々しく悪口も言えなくなる、と言うのです。*2
そして安倍氏という人物にも共感を示した上で高橋氏は、安倍首相に代表される「ざわついた今の世界」に反撃するためにこそ、「読まれるのを待っているたくさんの本=過去の言葉」を「受け取って、編み直して、送り出す」ことが必要だというわけです。
作家として、言葉に従事する者としては、まったく正しいあり方の一つに違いありません。
過去から未来へと言葉をつないでいくことは、確かに大きな力になりえることでしょう。
さてそのとき、snsで大量生産、大量消費される言葉の渦に巻き込まれているぼくたち一般の人間には、何ができるのでしょうか。
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文章の価値、好み、「声」 さて、この記事を読んでいるみなさんは「バズり、拡散されることこそが価値である」などとは夢にも思ってはいないことでしょう。
そもそも文章の価値などというものは、「あなたにとっての」という枕言葉がつかなければ何の意味もなしません。
志賀直哉の「城の崎にて」がいくら名文だと言われても、ぼくにはあいにくピンときませんでした。死を主題とし、蜂が重要な役割を果たす点では奇妙な一致のある、内田百閒の「冥途」は大好きなのですが。
(「冥途」の朗読がこちらにあって、なかなかよい「声」で読まれていますので、ご参考まで。https://m.youtube.com/watch?v=jhdnXYbUGGs )
結局のところ「価値」というものはまったく個人的なものであり、それはある意味「好み」としか言いようのないものなのです。
つまりは、高橋氏が「反撃」という言葉を使うのも彼の好みに過ぎないのですし、彼の講演の結論として提示される「過去を未来につなぐ」という主題にしても、そこに反撃という「声」を使うことによって、今の日本について「なんとかならないものか」と思っているいる人たちの共感を引き出そうという試みによって、ある色づけが行なわれることになります。
それが「ざわついた今の世の中に反撃する」という表現に込められた高橋氏の「声」なのです。
あなたの文章に「声」はありますか? ネット上で文章を書き、情報を発信するとき、こうしなければならないというルールは基本的にはありません。
法律を無視すれば罰則が降り掛かってくるかもしれないし、うかつに他者をおとしめれば、炎上してひどい目に遭うかもしれません。けれども、それも一つの経験であって、決して否定されるだけのものではありません。
とはいえ、せっかく人目に触れるところで文章を書くのならば、一つくらいは心がけを持っていてもいいでしょう。
高橋源一郎氏のボイスという言葉をぼくなりに言い換えをして使わせてもらえば、
「声」のある文章を書こう! ということになります。