ここはタイ。 人が「微笑みの」とか枕詞をつけて呼んだりする国。 つい先頃まで首都バンコクでは流血の事態が続いていたけれど、 田舎街にいるぼくにはそれほどの実感もなく。 何かを表現したい、という煩悩がまだ残っている。 あの人やこの人の weblog を読んでいたら、また、そんな「悪い」虫が 騒ぎだして。 かといって書きたいことが何かあるのかというと、そういうわけでもない。 書いて、誰かに認めてもらいたいのだ。 誰かにぼくの存在を肯定してもらいたいのだ。 子どものころから続く承認の不在感を、文章を書くことで解消できるのでは ないかという、さして現実味のない願望充足的欲求。すなわち煩悩。 しかしながら。 書き始める前は、書き出してさえしまえば言葉がそれなりに湧いて くるのではと思っていたのだが、実際にはそうでもない。 だからもうこのへんでやめてしまってもいいのだ。 けれど、もう少し書き続けようという、悪あがきの上塗りの屋上屋。 ところで。 この文章は psp に赤外線キーボードをつないで書いていて、 それには人様の作ったメモ帳ソフトに赤外線キーボードを ハンドリングするライブラリをつぎはぎ改造した自作ソフトを 使っているのだが、書いた文章を psp から直接ネットに投げることが 残念ながらできない。 それで、この文章は micro sd 経由で nokia の e51 に持っていき、 そこからネットに転送するのだが、シフトjis から utf へコード変換する 必要がある上そのときなぜか一部文字化けまでするので、手作業で直しも しなければならない。 ……というような手間暇をかけてまでネット上で公開する価値がこの文章に あるのかというと。 無論そこまでの価値はない。 ないのは分っているが、そこを敢えてやるのが今日の気分なのだ。 あるいは、それをやろうと思っている以上、そのこと自体に確かに 価値がある。文章の価値のほうはおいといて、ですよ。 実を言えば、この文章どころか古今東西すべての文章に特別な 価値などないとぼくは思ってるし、人間の存在自体も同様で、 以下すべて同様。 そうした、生きるということ自体に積極的な意味がないという価値観の中で、 なお生きることを許され、許されてる以上せっかくだからそれを 味わうことにしてみようかという、消極的な命の歓び。 まあ、だいたいそんなことが書きたかったような気がするし、 これ以上書きたいことが特別あるわけでもないし、そろそろこの文章も 終わりにしよう。 タイの安宿のねっとりとした空気を味わいながら。

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悟りの三原則

一、完全に悟ることはできない。 二、完全に悟ったとしても、それを完全に伝えることはできない。 三、完全に伝えられたとしても、全ての人に伝えることはできない。

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カート・ヴォネガット「国のない男」によると、マルクスが宗教を共産主義と相容れないものとして否定した、 というのは後世の人の誤解のようだ。 以下、引用。 スターリンの教会破壊や現在の中国での教会破壊についてだが、この種類の宗教弾圧はカール・マルクスの 次の言葉が原因になっているらしい。つまり「宗教は民衆のアヘンである」というやつ。 マルクスがこう書いたのは 1884 年、アヘンおよびアヘン誘導体がだれもが手に入れることのできる唯一の 効果的な鎮痛剤だった頃のことだ。マルクス自身もアヘンを使用していて、その場限りであっても苦痛を やわらげてくれるアヘンに感謝していたという。 マルクスは客観的な事実を述べているのであって、宗教がいいとか悪いとかいう話をしているわけではない。 宗教は、経済的、あるいは社会的な困難に対する鎮痛剤になりうるということだ。 つまり、宗教を否定しているわけではない。 まあこれは、誤解というよりは、スターリンやそれに類する人が、マルクスの言葉を自分に都合よくねじ曲げて その解釈を流布したということだろうけど。

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「欲望と消費 トレンドはいかにして形づくられるか」スチュアート&エリザベス・イーウェン、 小沢瑞穂訳、晶文社1988 ぼくたちは、ぼくたちの生きる社会を「資本主義」社会として受け止めているのだろうか。 それとも「消費主義」? あるいは「浪費主義」? それはある意味「広告主義」の社会なのかもしれない。 十五世紀半ばのヨーロッパに始まる印刷の歴史から説き起こし、現代におけるメディアの意味を 解読するこの本は、三十年近く前に出版されたにも関わらず、インターネット全盛の今という時代を 客観的に見ようとするものには必読の書といっても大げさではないだろう。

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

物好きな物書き

宇宙のど真ん中