はてな村の村民たちよ。 きみたちは熊に年四回の誕生日があるのを知っているか。 知らないのなら、それはそれでかまわない。 なにもかも知り尽くすなど、所詮できるわけもないことだからな。 熊の年四回については、春休みの自由研究で調べてもらうことにして、今日は我輩の年三回の誕生日について、説明しよう。 吾輩は、平均的人間とは言いようもないマリリンモンロー・ノータリーンな人間ではあるが、そうは言っても、ただの凡百の人間に過ぎない。 生まれたときには誕生日は一つしかなかった。 とはいえ、江戸時代以前には、日本人には各人固有の誕生日など実質的になかったのだから、ゼロと比べれば無限大の祝福とともに生まれてきたのだと言っても、ばちは当たるまい。 その我輩が、二つ目の誕生日を手に入れたのは、m.x.に登録した日のことだ。 m.x.に限らぬが、ネット上のサービスというものは、いつも相手の寝首をかこうと、虎視眈々と狙っているおそろしい忍者のような存在だ。 けっしてぞんざいに扱うべき代物ではない。 もちろんきみたちも、個人情報の保持には、十分注意を払っていることだろう。 そして、凡百の人間にすぎない我輩ではあるが、m.x.のようなサービスに戸籍上の誕生日を素直に伝える必要がないことくらいは分かっておった。 そこで吾輩は、新しい誕生日を手に入れることになったのだ。 この方法を使えば、人はいくらでも誕生日を増やしていけるわけだが、何が楽しくて、わざわざネット上のサービスに登録するごとに、誕生日を増やしていこうなどと思うだろうか、いやない。 そうそう、我輩の第三の誕生日のできあがった理由は、また別の事情なんよ。 あれは45歳になる年の、たぶん初夏の頃のことだったと思います。 当時、精神福祉の界隈で働いていたぼくの先輩が、自分のうちに音楽スタジオみたいなスペースを作っちゃったんですよね。 で、先輩の音楽仲間にまぜてもらってたぼくは、そのスタジオで初ソロライブをやることになっちゃったんです。 で、そのときのライブのタイトルを、「45ライブ」としたわけです。 そのとき見に来てくれたお客さんは、せいぜい二十人くらいだったのですが、それなりの玄人肌の方も見に来てくださって、何かを感じてくださったようだったのに気をよくして、ぼくはよし、ここはもう一発、きちんとしたライブハウスでやってやるぞ、と怪気炎を上げました。 とはいっても、ぼくのようないい加減な人間が、本当にちゃんとしたライブハウスでやるのは、ちょっとばかし、大変なことです。 そこで、たまたま知り合いが二人も常連で出ているハコで、しかも、誰でも簡単に出させてもらえる、東京は高円寺の無力無禅寺に出ることにしたのです。 そのときのライブの日取りが、「45ライブ」のちょうど半年後だったもので、今度は「45.5ライブ」と銘打ったわけです。 このときは、ぼくが勤めていた精神の作業所に通っている、うら若き女の子が二人見に来てくれたし、「45ライブ」の仕掛け人の先輩も見に来てくれて「那賀乃さんはこういうライブハウスでやるのが、ホントに似合うねぇー」と言ってくれたり、これまた、充実の経験が持てました。 とまあ、そんなわけで、我輩には、年に三回の誕生日があるわけなんよ。 んでもって、きのうは、「.5」の誕生日だったんよ。 えー、以上で、熊と我輩の誕生日の話はおしまいです。 んでもって、熊の名はパディントンです。 ほいじゃー、またねーーっ。 [那賀乃とし兵衛(ながのとしべえ) 2017.03.20 ネパール・ルンビニ]

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はてな村のみなさん。 そして、超時空・電網怪海につどうすべてのみなさん。 今日はわたくし、ぷちウェブ作家那賀乃とし兵衛の52.5歳の誕生日なんです。 みんなで歌ってください、はっぴばーすでー、とーゆー、って。 灯油はいりませんが、ガスコンロ用のガス缶ならご寄付も受け付けております。 インドではなかなか手に入らないんです。 今はネパールのルンビニにいますから、あともう少しでカトマンズまでたどり着けば、手頃な値段で手に入るはずなんですけど。 いつもの通りのとっ散らかった文章で申し訳ありませんが、お時間ある方は何も期待せずにお付き合いください。 今日のテーマは、一応「人生において仕事とは何か」です。 それに対する、アルコール依存と軽い鬱のけがあるぼくの結論は、 「働かなくたって別にいいじゃん」 です。 ぼくは働くのがきらいなんです そういえば勤労の義務ってあったよね 物乞いの権利だって、ありだと思う ポストモダンなぼくたちの憂鬱 実感に裏打ちされた楽観 医療と福祉について ぼくの昨日、今日、明日 ぼくは働くのがきらいなんです ぼくは賃仕事というものがきらいです。 お金をもらうために働きたくなんかないんです。 何を子どもみたいなことを言ってるのか、と思われるかもしれません。 でも、シッダールタさんだって言ってるじゃないですか。 自分は見返りのための説教はしないし、畑を耕しもしないんだって。 彼は賃仕事なんか一度もしたことがないはずですよね。 王子様として生まれて何不自由なく暮らして、やがて出家して乞食坊主として一生を終えたんですから。 もちろんぼくには、シッダルタさんのような魂の器はありません。 そして、彼のようなストイックさの持ち合わせもない。 ですから、ぼくは今のところ乞食坊主としては生きていないし、たぶん将来もそういう生き方はできないでしょう。 インドには、サドゥーと呼ばれ、路上で暮らす乞食坊主の人たちがいっぱいいます。 すごいことだと思います。 ぼくにはとても真似はできません。 それなのに、ぼくは仕事なんかしたくないって、だだをこねてるわけです。 仕事をするのが当たり前、という健全な価値観をお持ちの方からすれば、どうにも手に負えないロクデナシということにもなりましょう。 さてそれで、その健全な価値観っていうのは、どんなものなんでしょうかね。 そういえば勤労の義務ってあったよね わが日本国憲法は、世界中の国々の憲法の中でも、最高に平和的で民主的なものの一つですが、その中に勤労の義務ということが書かれています。 まったく健全な価値観です。 でも、勤労の義務と言っても、利子生活が禁止されてる訳じゃないし、どっちかっていうと、働ける方はどうぞ働いてください、ってことなんじゃないですかね。 日本の社会にありがちな、働かない人間は人非人、みたいな考えって、マゾヒスティックに転倒しちゃいませんか。あげくに死ぬほど働いて、ほんとに死人が出る社会って、なんかおかしくないですか。 物乞いの権利だって、ありだと思う それから、勤労の義務と対をなすかのように、軽犯罪法では、乞食をすることが禁じられてるんですよね。 福祉という仕組みがきちんと機能していれば、そういう法体系も理解はできます。 けれども一方で、イヴァン・イリイチのように、人間にはもともと物乞いをする権利があるんだ、って主張する思想家もいます。 ぼくはこの意見に共感します。 物乞いをする権利というものがなかったら、シッダルタの悟りはなかったでしょうから、仏教というものは存在しえなかったでしょう。 ぼくは別に、仏教最高っ、て思ってるわけじゃないですけど、物乞いが禁じられてしまって、仏教も存在できないような世界は、窮屈すぎて住みたくないなと思うんです。 ポストモダンなぼくたちの憂鬱 憂鬱って文字、字画が多くて、ほんとに重苦しいですよね。 重苦しいことは忘れて、実感に裏打ちされた楽観の話でもしたいところですが、まだそこまでたどり着きません。 工業化された社会で衣食住に困らないぼくたちは、健全な社会の一員である限りは、そこそこ困らずに生きていけるのですが、なんらかの意味でそこからはみ出して、漏れだしてしまうと、得体の知れない不安を感じながら生きていかざるを得なくなったりするんですね。 ポストモダンの憂鬱ってのは、なんかそんなような話です。 ちゃんと社会の一員としてやってらっしゃるみなさんは、ほんとに立派だとぼくは思ってます。 それは、僕の場合、自分が社会の一員として「ちゃんとやってない」自覚があるからこそです。 けれども「ちゃんとやってない」自分はだめな人間なのか、というと、「別にだめじゃないです、これも一つの生き方です」と胸を張って言いたいと思ってます。 不安や憂鬱に負ける必要なんてないんです。 常識にしばられて、自分の首まで締める必要なんて、これっぽっちもありません。 もちろん、働けるということは素晴らしいことです。 けれどそれと同様に、働かないで生きることだって、十分素晴らしいことなんです。 実感に裏打ちされた楽観 ぼくにはアルコール依存と軽い鬱のけがあります。 けれども、今は医者にはかかっていませんし、「障害」があるとまでは言えない、曖昧な立場の人間です。 ここに書いているようなことは、そうですね、かれこれ四半世紀ほどは折りにふれ考え続けている話なんですが、この数年ヴィパッサナー瞑想をするようになって、ようやく頭で考えるだけでなく、体で感じる実感としての理解が芽生えてきたところです。 世間の人は、働けと言うでしょう。 働ける人は働いてもいいんです。 でも、どうしても働きたくなかったら、そして、働くのが苦しくて苦しくてたまらないのなら、無理をしてまで働く必要はないんです。 そのとき、働かない人間になんの価値があるのかと、思ってしまうかもしれません。 でも、この世に生きているということ自体が、あなたの命に価値があることの証明なんです。 このことさえ覚えておけば、あとのことは時間が解決してくれます。

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こちらの記事 ムスリムの子は給食をどう食べているのか - お母さんが超大変 - めんどくさいとやらないブログ…だった に、「ムスリム(イスラム教の信者)の方が学校給食に合わせること」の苦労話が紹介されています。 理想は、給食がハラル(ムスリムの方が食べられる食事)に対応することだと思いますが、現実にはいろいろと難しいのでしょうね。 それにしても、この件について、ネット上で見受けられる意見には、信教の自由についての理解がないものも多く、その「排外的」な口調には「不穏」な空気も感じてしまいます。 上記の記事のブックマークコメントで、id:maruXさんが「日本は宗教に寛容じゃなくて宗教に無神経って言ってた人がいた」と書いていますが、この言葉には深くうなづきました。 日本のように集団主義が社会全体を覆っているような国では、「給食を食べない」ということ自体が「排除」や「差別」の原因になりかねませんから、ムスリムの方に対して、「給食は食べず、給食費を払わなければいい」というのは、十分な答えとは言いがたいでしょう。 また、「アレルギー対応は命にも関わる健康上の問題であり、信教の問題とは比べられない」という意見もありますが、信教の自由も憲法で保障されている以上、学校給食についても、健康上による個別対応だけでなく、ハラル食についても個別の対応を考えることは、当然必要なことと思います。今すぐには無理だとしても。 「親の妄信のせいで子どもが食事を取れないのは子どもに対する虐待である」という意見も、個人のご意見としては尊重しますが、信教の自由も、宗教の価値もご存じないままに、文化の多様性をばっさり切り捨てるそのきっぱりとした態度には、安倍政権に象徴される日本の「総天然色全体主義」がくっきり現れすぎていて、悲しさとおかしさと怒りがないまぜになった、奇妙な感情が沸き上がってまいります。 なお、id:isshokuさんの、『クルアーンには「無理ならしゃーない」(意訳)って書いてあると聞いた』という件についてですが、ハラルのみを食べるということは、別に無理なことではありませんから、経験なムスリムの方がわざわざハラル以外の食事をすることを避けるのは当然でしょう。 たとえば、料理に大麻草を使う地域もありますが、知らずにそういう料理を食べさせられて、大麻に酔ってしまったら、多くの日本の方は不快に思うのではないでしょうか。 そうした地域で、日本の方が大麻草の入った料理を食べないように気をつけるのは、ごく自然なことではないでしょうか。 異文化を考えるときには、相手の立場に立たされた自分を、よく考えてみることが必要ではないかと思います。 てなことで、日本に比べると、圧倒的に文化が多様なインドより、那賀乃とし兵衛がお送りしました。 それでは、またーー。

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四ヶ月ほどの長逗留をして、すっかり住み慣れた西インドは砂漠のほとり、プシュカルの街をあとにし、今日、昼過ぎの列車で、インド東部のヴァラナシに向かいます。 16時間ほどの列車の旅となります。 ヴァラナシは、ガンジス川に沿って沐浴場が連なっており、信仰心篤いインドの人たちが、聖なる川の水で体を清めている姿が、日常の中に溶けこむ街です。 久しぶりのヴァラナシが、その迷路のような細い路地が、どんな顔をして迎えてくれるのか、今から楽しみです。 ...... ということもあり、しばらくこちらの更新は、お休みさせていただくかもしれません。 で、昨日書いた鍋料理の話とは、特に関係もありませんが、インドの鍋のある風景、ということで、写真を一枚 。 プシュカルのお菓子屋さんでは、こんなふうに店先で、揚げ物をしている光景をよく見かけます。写真のさつま揚げのようなものを、シロップ漬けにして、あまーくしたものが、プシュカル名物なのだそうです。 ぼくは甘いものが苦手なので、食べたことがないのですけど。 てなことで、今日はこの辺で。 ほいでは、みなさん、またーー。

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今日はマミー(id:mamichansan)さんのリクエストにお答えし、インドに鍋料理はあるのか、という疑問にお答えしようと思います。 結論から言うと、ないようです(あっさり)。 インドにはヒマラヤの山岳地帯のように相当冬の厳しい地域もありますが、残念ながら、寒い冬に心もぽかぽか温まる、鍋料理の文化は伝搬・発達しなかったものと思われます。 以下、インドに鍋料理が存在しない理由を、極めていい加減に、考察します。 さて、鍋料理の起源はどこにあるのか。 これをまず、特に資料にはよらず、勝手に臆測しますと、やっぱりこれは、中国がかなり怪しいでしょう。 鉄鍋は中国じゃないかなぁ、かなり間違いなく。中国のことはよく知らないので、どこの地方とかいうのは、やめておきますけども。 中国には火鍋という、見るからに辛そうで、食べたらほんとに辛い、真っ赤なとうがらし鍋があります。しかも油ぎとぎと。これは鉄鍋。 むかし中国の雲南省の街で、これを食べたところ、辛いのは得意なので問題なかったのですが、油にやられて食べてすぐに腹を下したことがあります。 海外旅行の際、水や氷に気をつけろ、と言われますが、ぼくの経験では、油が断然あぶないです。 そして、土鍋もいいですよね。日本で鍋といえば、まずは土鍋でしょうか。いや、そんなことはないか、地方によるでしょうね、たぶん。 中国では砂鍋といいます。これは、一人用の小さな鍋をよく食べました。随分前なので何が入っていたかよく思い出せませんが、とにかくやすくておいしかったことだけが記憶に残っております。 とまあ、勝手に鍋の起源は中国と決めたところで、韓国、日本には順調に鍋料理が伝わり、また、タイ、マレーシアなどでも砂鍋はよく見かけます。 しゃぶしゃぶの鍋も使ってますよね。 しかし、どうしてインドに鍋は伝わらなかったのでしょうか。 ちなみに、ヒマラヤの北側チベットには、ギャコックという鍋があるようです。きのこのだしということで、日本人好みかも。 ここで、インドにおける中華料理の影響を考えますと、イギリスの植民地化と関係があるのか、はたまたチベット、ネパールなどを経由してのことなのか、インドの屋台料理には、やきそば、やきめし、そしてそれらの餡かけなどといった中華風の料理はわりと普通にあるんですよね。 見た目に騙されて、普通の焼きそばのつもりで食べると、唐辛子味で辛くて食べられない、といったこともありうるので、要注意ですが。 また、モモというチベット、ネパール風の、中華まんじゅう、ないし、餃子的な食べ物も見かけます。 きのう、ひさしぶりにモモを食べました。大きさや質感は小籠包に近いでしょうか。ベジタリアンで具は野菜だけのものを、唐辛子の辛いタレでおいしくいただきました。 ところで、そもそも、鍋とはいったいどういう食べ物なのかを考えますと。 じっくり考えだすとめんどくさくなるので、簡単に結論だけでいきますが、鍋料理とは、大鍋でみんなと食べる、具と汁、その汁にご飯や麺を入れて楽しむのも嬉しい食べ物、とでもしておきましょう。 このとき、インドにおける対抗馬はといえば。 カレーです。 日本人からしたら、インドにはカレーしかない、とすら思われている、究極のインド料理。 ちなみにカレーというのは、南インドはタミル語でカリーというのが汁料理のことなんですね。 インドの食堂では、こうした汁っぽい料理を、小分けできるように区切られた大皿(ターリーと呼びます)に何種類か乗っけて、チャパティやナン、そしてご飯と一緒に食べます。このセットの定食自体もターリーと呼びます。そして給仕さんがお代りを追加で持ってきてくれたりするのも普通です。 とまあ、そういう食堂では、鍋料理はちょっと馴染まない。屋台でもまあ無理。家でそんな外来のものを食べるわけもない。 というような事情で、ターリーと呼ばれる大皿料理にはばまれて、さすがの鍋将軍も天竺へと攻め入ることには、たたらを踏む結果になったものと思われます。 ですから、カレー鍋が食べたい方は、間違ってカレーの本家・インドにいらっしゃったりせず、どうか鍋の元祖・日本で探して召し上がってください。 以上、今回は、なけなしの食への好奇心を振り絞って、インドの鍋事情を考察してみました。 それでは、みなさん、またねーー。

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みなさん、おはようございます。 今日は「蝶科学的ぷちブッダ論」をやり倒そうと思います。 ブッダことゴータマ・シッダルタさんは、フロイトを超え、アインシュタインにも迫る天才だった、というトンデモ論議です。 夜中たわしさんが、こちら http://www.tawashix.com/entry/yamataikokuHaDokodesuka で、鯨 統一郎さんの「邪馬台国はどこですか?」という一風変わった推理小説を紹介してます。 なお、この本のブッダに関するエピソードについて、がんがんネタバレさせちゃいますので、よろしく。 たわしさんによれば、 一応「歴史ミステリ小説」という謳い文句なんですが、内容はバーで4人が歴史談義をしているだけというもの。会話の内容は突拍子もなく面白いんですが、バーで殺人事件が起こるわけもなく、話をしているだけで終わります。 とのこと。 ぼくは読んでません。 けど、歴史トンデモ話を、会話形式で楽しめる人だったら、おもしろいんじゃないかな。 さて、ぼくがそそられたのは、「悟りを開いたのはいつですか?」という最初のエピソード。ブッダは悟りを開いていなかったという説です。 この説自体は、科学的な観点から考えれば、多くの人が思いつくことだと思いますが、ネットで内容を検索してみたところ、話のディテールがなかなか凝っています。 そこで、今回は、この「お話」の説を叩き台に、ブッダとはどんな人だったのかを検討してみることにします。 ただし、何ぶん、もとネタの「お話」を読んでいませんので、記述があいまいになるところも出てきますが、そこはご愛嬌ということで。 シッダルタは商人の息子だったって、ほんとかね。 奥さんのヤショーダラ姫が産んだ息子ラーフラは、不義の息子で、それが出家の原因だったのかしら。 悟りを開いてからも、いろいろな誘惑を受けて悩み、座禅を続けたの? それって悟ってないじゃん。 フロイトを超え、アインシュタインにも迫る「ブッダの天才」 シッダルタは商人の息子だったって、ほんとかね。 ここから先、「悟った者」を意味するブッダという言葉の代わりにシッダルタというお釈迦さんの本名を使います。 そして、のっけから曖昧論理でもうしわけありませんが、この商人の息子説の詳細が分かりません。 ここは勝手に、シッダルタの本当の父は、釈迦族の王ではなく、別に本当の父がいて、その父が商人だった、そしてその商人との不義の結果、母マーヤーが産んだのがシッダルタだった、と解釈させていただきます。 たわしさんのところにも一部引用されていますが、「母マーヤーが、天から六本の牙を持つ白い象が降りてきて、お腹の中に入る夢を見たときに、シッダルタを授かり、母の右脇の下から生まれた」という不思議な伝説があります。 これを神話学的に解釈すると、シッダルタは、実際には、父王の子どもではなかった、という読みが出てきます。 つまり、現実にはありえないような不可思議な記述は、世間的には公にしがたい事実を「婉曲的」に表現したものである可能性があるわけです。 イエスさんが、処女懐胎という、現代的観点からすればありえない出自を持つこととも、たいへん似ており、考慮に値する説だと思われます。 このことと、母マーヤーがシッダルタの出産後すぐに亡くなってしまったことが、シッダルタのこの世に対する苦悩の大きな部分を産み、のちのシッダルタの出家につながるものになるのではないでしょうか。 奥さんのヤショーダラ姫が産んだ息子ラーフラは、不義の息子で、それが出家の原因だったのかしら。 このことと関連して、シッダルタは性的に不能だった、という説が述べられているようです。 不能だったかどうかは分かりませんが、シッダルタが性的な快楽にたいした興味を持たなかったことは、出家した、という事実からして明らかなことに思えます。 また、不能かどうかはともかく、性的関係に興味を持てなかったシッダルタが、妻を性的に満足させることができず、その結果、妻が不義の子を持ったということも、ありそうな話です。 そして、自分自身が不義の子であり、さらにまた、妻も不義の結果、子をみごもる、ということが、シッダルタの出家の直接のきっかけになったということも、実にありそうな話です。 ちなみに、このラーフラというシッダルタの子は、妻ヤショーダラがシッダルタの出家前にみごもったにも関わらず、出家の五年後に生まれたという不思議な伝説が残っています。このことも、ラーフラが不義の子であったことの傍証となると思われます。 悟りを開いてからも、いろいろな誘惑を受けて悩み、座禅を続けたの? それって悟ってないじゃん。 ようやく核心の問題に辿りつきました。果たしてシッダルタは、悟りを開いたのか。開いたにせよ、開かなかったにせよ、悟りとは何なのか。 まず、この記事で「悟り」という言葉をどういう意味で使っているのかを、ざっと定義しておきましょう。 生まれてから、生きる必要のために、着々と身につけてきた「十分に検証されていない知識」を、すべて検証しなおして、間違いのない「知恵」とし、しかも、その「知恵」が頭だけのものではなく、気持ち・考え・言葉・行動のすべてが一致している状態。 これを「悟り」の定義とします、おおざっぱで恐縮ですが。 このように定義した場合、その「知恵」には「誤り」はないはずですが、あらゆる「真実」を知っているわけではないので、「悟り」を開いたあとも、「知恵」を増やし、「真実」にちかづくためには、絶え間ない努力が必要なことになります。 この考え方でいくと、かりにシッダルタが「一切皆苦」や「八正道」といった「悟り」を得たのちにも、修行をおこなっていたことは、べつに矛盾でもなんでもありません。 むしろ、「ブッダは究極の真実を知った」というような、仏典上の記述こそが「伝説」にすぎないと考えられますから、シッダルタさんが実際に言ったことというのは、「自分は完全な悟りを得た」ということではなくて、 「悟りに至りうる、すんごく確実な方法を見つけた」 というくらいのことだったのではないかと、思うのです。 フロイトを超え、アインシュタインにも迫る「ブッダの天才」 そして、このくらい控えめにシッダルタの主張を考えるとき、彼が「悟っていたかどうか」に関わらず、「悟りに至りうる現実的な方法」を、2500年前もの昔に示しえたということは、たとえていえば、フロイトを超え、アインシュタインにも迫る天才だった、といえるのではないでしょうか。 フロイトは近代科学の枠組みの中で、無意識を「再発見」しました。そのことが、現代の我々の暮らしに与えている影響には計り知れないものがあります。 けれども、フロイト自身は、その無意識の働きを、自身の歴史背景の限界から、もっぱら性的な抑圧の問題に帰着させるという、いささか狭い仮説に閉じこもることになってしまいました。その点を乗り越えるためには、ユングをはじめ、そののちの様々な研究者の力を要しました。 そのフロイトと比べたとき、西洋的な科学的概念など皆無だった時代に、それまでの宗教的実践をベースにして、フロイトと同じく「快・不快の原理」から出発しながら、呼吸を利用した無意識に至る確実な身体技法を開発し、「身体的なレベルで知恵を確立する方法」をシッダルタが示しえたことは、「奇跡的」といっていいことに思えます。 しかも、その実践法を支える世界認識が、「神を必要としない、世界の法則のみによること」は、まったく科学主義的と言えます。 また「この世界というものは、現実を作り出している微細な要素の、生成と消滅の繰り返しから成り立っている」としたところなどは、量子力学的世界観とも一致する点があり、その素朴な洞察力は、アインシュタインにも迫るものと思われるのです。 ですから、このシッダルタさんの類まれなる洞察力を前にすれば、彼が悟りを開いてたかどうか、なんてことは、はっきりいって「どーでもいー」話であって、「アインシュタインは悟りを開いてなかったから、相対性理論は認められん」という人がいないだろうことと同じで、 「シッダルタさんが畳の水練でにしろ、悟りに至りうる『相当ただしい道』を指し示してくれたこと」 に、わたしとしては、感謝感激雨あられなのでありまして、今日も昼から酔っ払いつつ、三宝に帰依する、「なんちゃって仏教徒」のとし兵衛なのでありました。 というわけで、以上、鯨 統一郎さんの「邪馬台国はどこですか?」の最初のエピソード「悟りを開いたのはいつですか?」を肴に、「蝶科学的ぷちブッダ論」を展開させていただきました。 なお、シッダルタさんの説いた、日々の暮らしにも役立つヴィパッサナ瞑想については、こちらにちょろっと書いてますので、興味のある方はご一読ください。 ☆10日間の瞑想コースで頭すっきり - *魂の次元* ほいでは、みなさん、またねーー。

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ぼくはこう見えても、ってどう見えてるか、分かったもんじゃないですが、もともとは、プログラマのはしくれだったんです。 というか、今でもandroidでdroidscriptを使って「毎日が日曜プログラマ」という感じで楽しんでますので、「元sfファン」でしかないのとは違って、「わし、現役のプログラマなんよー」と胸を張って言ってもいいくらいのものなんです。 そこで、たわしさんの記事(http://www.tawashix.com/entry/hitokuiWani)の舞軀眞(ぶくま)には、どなたかにお任せ、と書きましたが、人喰いワニさんのジレンマに、よし、きょうは挑戦してしまおうではないかと、ビールに酔った頭で考えてしまったのです。 というわけで、以下は、酔っぱらいのたわごとですので、間違いがあっても、「あらまあ、おかわいそうに」くらいに思える方だけに、読んでいただければ幸いと存じますです、はい。 さて、分九間(ぶくま)のほうで、ku__ra__geさんがおっしゃっているように、 『人喰い(行動予定, 予言) = if (行動予定 != 予言) then 「喰う」 else 人喰い(!行動予言, 予言)』 #ku__ra__geさんの「喰わない」を「!行動予言」に変えています。 としたとき、「人喰い(喰う,喰う)」の結果は、「喰う」になってしまいます。 これは単なる実装ミスですね。予定と予言が合っているときは、食べてはいけないのですから。 別の実装、というか、一番シンプルな実装はこうです。 『人喰い(行動予定, 予言) = if (行動予定 != 予言) then 「喰う」 else 「喰わない」』 この場合は「人喰い(喰う,喰う)」の結果は、「喰わない」になってしまいます。 しかし、これも実装ミスですね。「喰う」という予定なのに、「喰わない」という結果が出ているのですから。 ここまで考えてぼくが分かったのは、なーるへそ、これこそ、論理階梯の問題だったのか、ということです。 つまりですね、人間には、この問題に対して、上の二つの実装があることが理解できて、しかもそのどちらも、当初の問題の解決になっていないことが分かるわけです。 ところが、それは、いわば「コンピュータ」には理解できないわけです。 つまり、コンピュータのレベルで問題解決を与えると「間違った」プログラムしか書けない。 たわしさんが書いたような、「止まってしまう」プログラムは書けない、ということです(たぶん)。 これって、ゲーデルの不完全定理とも関係するような、結構、重要な話って気がするのですが、なにぶん酔っぱらいのおじさんが書いているたわごとにすぎませんので、おかしなところがあったら、びしびし指摘いただけたら幸いです。 てなことで、みなさん、またーーー。

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みなさん、おはようさんです。 今日はわっとさんのネタを拝借して、ちょいと書きます。 『おんな城主直虎』の「托鉢は、施す方も受ける方も、見返りを期待してするものではない」という台詞をもう一度もじって、「読者登録はする方もされる方も見返りを期待してするものではない」あるいは「ブログは見返りを期待して継続するものではない(ブログをやっていること自体を楽しめない人はブログに向いていない)」と偉そうなことを言って、締めにしたいと思います。 いやー、しみる言葉ですよね、初期仏教より伝わるヴィパッサナ瞑想を実践しているものとしては、ほんとに。 いやいや、本当はそうじゃなくて、日頃みかえりを期待しては、読者登録をしたりしなかったりしているものとしては(笑)。 ぼくの人生は不純度99%です。 残りの1%でなんとか人間性を保ち、今まで生き延びてきました。 まぁ、しかし、それはそれとして、今回の本題はわっとさんの言う「ブログには失敗こそ書くべきだ」という話です。 ぼくは今までに、「ぷち」とか「ナノ」とかいって、「バズ」の話を小さな成功のように書いていますけれども、まー、こんなのは「成功」にはふつう入らないですよね。自慢できるようなものじゃあない。 ☆ぼくのぷちバズ報告と、インドのバス旅の愉しみ - *魂の次元* ☆はてな村まであと何歩。あるいは、ナノ・バズしたの、ほんとなの - *魂の次元* 気持ちとしては淡々と事実を書いているつもりなんですが、どちらかというと恥をさらしているようなもので、こんなのも考えようによっては「失敗」のうちかなー、と思ったんです。 「成功」ではないもの、それは「失敗」である、というわけで。 そんな失敗話のついでで書きますと、ぼくは何か一つのことをきちんと続けてやるというのが苦手なんですよね。 ☆アマゾン・アフィリエイト、note.mu 、そしてアドセンスまで - ぼくのネット上小遣い稼ぎの黒歴史 - *魂の次元* こちらにも書きましたが、あちこちのサービスをつまみ食いして、どれもロクな結果が得られていないという体たらくです。 とはいえ、一つのことを継続してはできなくても、「なんとなくこの辺のこと」は続けてやってるらしいのが、ぼくの人生で、ヴィパッサナ瞑想も、途切れ途切れに六年ほどやってきて、ようやく最近、形がついてきたような次第で、ネット遊び自体は嫌いじゃないし、こっちももうしばらく適当に遊んでたら、なんかしら目鼻がついてくるのかなーー、などと思って、こんな記事を書いてます。 ある意味で、「失敗」を続けることが成功につながるかも、みたいな。 もちろん、わっとさんのような先輩が、着実に書いて、しっかり読者がついてるのを見ると、ぼくもがんばらんとなぁ、などと、うっかり思ったりもするのですが、いえいえ、それはぼくにはできない相談なんです。 わっとさんのおっしゃる通り、見返りを期待しないのが大切で、自分の気持ちのおもむくまま、自分のペースにしたがって、ただ淡々と記事を書いていく、それしかやりようはないのであります。 てなことで、今日のところはおしまい。 それではみなさん、またーー。 ☆別サイトで「あーす・じぷしー」というおもろい双子の姉妹の本の紹介を書いてます。こちらもよろしければ、どうぞ。 魂の次元: あーす・じぷしーの物語 - 「思い込み」から自由になるって、どーゆーこと?

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みなさん、おはようございます。 ぷちウェブ作家のとし兵衛です。 昨日、ゴエンカさん方式のヴィパッサナの瞑想コース10日間の旅を無事終え、西インドはラジャスタン州、砂漠のほとりの聖地プシュカルの街に戻ってきました。 10日間のコースを受けるのはこれで三回目になるのですが、今回はとてもすばらしい10日になりました。 頭がすっきりしすぎて、この瞑想の話を書かずにはおれない、という感じです(笑)。 というわけで、この記事では、ヴィパッサナ瞑想の簡単な紹介と、その話からいろいろと展開して、最後は昨夜みた夢の話を書いてみます。 瞑想にもいろいろあります。ヴィパッサナにもいろいろあります。 瞑想、夢、変性意識 「思い込み」と「判断」の違い 「判断の停止」と「思い込み」 「思い込み」を解きほぐしたいあなたへ 瞑想から夢の世界へ ぼくが見た夢、ちょっとエッチな内容あり 瞑想にもいろいろあります。ヴィパッサナにもいろいろあります。 瞑想と言っても、特に関心のない方は、「なんか、座禅みたいなやつ?」 くらいの捉え方かもしれませんが、まあ、それは、大雑把に言うと、当たってます。でも、細かく言えば、いろんな瞑想法があります。 マントラと言って、呪文(真言とも言いますね)を唱えたり、神さまの姿や、いろいろな情景を頭の中で思い浮かべたり......。 けれども、初期仏教として実践されたヴィパッサナと呼ばれる瞑想法は、そういうことはしません。 基本的に、自分の呼吸と体の様子を意識するだけのものです。 ヴィパッサナと呼ばれるものの中にも、いろいろな流儀があって、呼吸だけ意識するものや、自分の動作を意識するとき、その動作を言葉で確認するもの(息を吸っているときは、「息を吸っている」と頭の中、言葉で確認し、息を吐いているときは、「息を吐いている」と頭の中で確認する)などなど、です。 日本では、この言葉で確認する、ラベリングのやり方が比較的知られているかもしれません。 さて、ぼくがやっているのは、ヴィッパサナの中でも、インドのS. N. ゴエンカさんがやってらっしゃる方式で、これは「自然な呼吸を観察し、体に起こる感覚を観察する」ということが基本になっています。 この単純明快な観察を続けることで、自分の体と心の仕組みを体験を通して理解し、ひいてはこの世界の法則を理解し、その法則にかなった、健康で意義ある生活を送れるようになることが、この瞑想法の目的ということになります。 「自分の人生は、まずまず楽しいし、苦労してまでそれを変える必要はないよ」という方は、それでよいと思うのですが、「なんか、今ひとつ人生が楽しくない。多少たいへんなことでも、もっとすっきり生きるために何かをやってみたい」という人には、おすすめの瞑想法です。 ☆なお、次の本に、ゴエンカさん方式のヴィパッサナー瞑想のことが詳しく書いてありますので、興味が湧いた方は、どうぞアマゾンでご覧ください。 瞑想についての、いろいろなヒントが得られると思いますよ。 〔ウィリアム・ハート「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法」(春秋社1999)〕 [なお、ゴエンカさん方式については、ネット上での「批判」も目にしますが、当たっているものもあり、誤解もあり、といったところです。 実際、ゴエンカさんの講話の録音を聞いてみますと、いろいろな問題点を感じます。 けれども、欠点を見て全体を否定するのは、もったいないんじゃないかなぁ。一部が悪くなってるりんごを、まるごと捨てちゃうみたいなもんで。 もちろん相性はありますから、「ゴエンカ方式は合わない」という人も当然いると思います。 ちなみに、ぼくはあくまで「半信半疑」の立場でありまして、必ずしも指導の通りにはやっていません。けれども、「ゴエンカ方式」には他の方法とは違う利点があると思っていますので、こうやって「ゴエンカ方式」をおすすめしている次第です] 瞑想、夢、変性意識 変性意識という言葉があります。altered states of conciousness の訳語で、「意識の普段とは違った状態」といったような意味です。 催眠状態や向精神性の薬物を摂った状態も「変性意識」ですし、瞑想も「変性意識」、また夢を見ているときの意識も「変性意識」です。 ......というように、この「変性意識」という言葉は、『「普通の意識」があって、それとは違った意識がある』ということを意味しているわけですが、「普通の意識」って、なんなんでしょうね? ぼくたちの「普通の意識」は数々の思い込みによって成り立ってるんじゃないでしょうか。 とすると、これって「洗脳」されている状態とそんなに変わらないことで、「催眠状態」にあるってことになっちゃうんですよね。 でも、これは別に悪いことではありません。社会生活を円滑に行なうためには、ルールというものが必要で、ルールに従うためには、いちいち、「この行動はしてもいいのか、悪いのか」などと考えていたら大変なことになってしまいます。 そこで、たとえば、「人のものを盗ってはいけない」という「思い込み」を持つことで、ぼくたちは、社会生活を円滑に送っていけるようにしているのです。 ちょっと分かりにくいでしょうか? 「思い込み」と「判断」の違い 「人のものを盗ってはいけない」というのは「思い込み」だ、というのは、ちょっと変じゃないか、と思われた方がいるだろうと思いますので、そこのところを少し説明します。 もちろん多くの方は、「人のものを盗るのは、その人に害を与えることになるからいけないのだ」と論理的、倫理的な判断をした上で、そのことに納得した上で、そのようなルールにしたがっていらっしゃることでしょう。 けれども、「人のものを盗る」ということ自体は、どのようにして判断すればいいのでしょうか。 つまり、『こうするのが「盗る」ということ』であり、『こうするのは「盗る」ことにはならない』という区別するための方法です。 野山に行って、木になっている柿を取って食べたとします。 これは「盗った」ことになるのでしょうか、どうでしょうか。 法律にしたがっていえば、これは人の土地にあるものを「盗った」のだということになるでしょう。 ですが、それは日本での話であり、スウェーデンの法律では「盗った」ことにはならないのだと、聞いたことがあります。 すると、ぼくたちはいつでも法律にしたがって生きているのだから、それが「判断」の結果ということであり、したがってそれは「思い込み」なんかじゃない、ということになるのでしょうか。 けれども、「法律にしたがわなければならない」というのが、そもそも「思い込み」にすぎないのではないでしょうか。 世界的に有名な多国籍企業はみんな、「法律にしたがって」活動しているのでしょうか。 法律の網の目をかいくぐり、灰色の活動をすることで利益を増やしている企業は、少なくないのではないでしょうか。 「判断の停止」と「思い込み」 このように考えていくと、何が善で何が悪なのか、だんだん分からなくなってきますし、実のところ切りがなくなってしまいます。 そこでぼくたちは、一旦「判断を停止」して、『とにかく「ものを盗る」のは悪いのだ、だからやめよう』と「思い込む」ことにしてしまうのです。 しかし、これを誠実に実行するためには、一旦「停止」した「判断」を必要に応じて、きちんと考える必要があるのですが、そこがまた、普通には難しい。 難しいので、裁判所に任せるのですが、裁判所がいつも正しいとは限りません。 「裁判所はいつも正しい」と思っている人がいるとしたら、それはやはり「思い込み」と言わざるをえないのではないでしょうか。 「思い込み」を解きほぐしたいあなたへ とまあ、話が大風呂敷になってしまいましたが、ぼくたちの「普通の意識」は、かなりの部分が「思い込み」で成り立っていて、「普通」のはずの意識が実は「変性状態」にあるのだ、というのがここで言いたいことです。 吉本隆明さんの「共同幻想」というような考え方とも似ていると言えましょう。 そのとき、この「幻想」とか「思い込み」を解きほぐす道具として、瞑想が役に立つ、というのが、不真面目ながらもヴィパッサナを実践してきての、今のぼくの実感ということになります。

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昨日ゴエンカさん方式の瞑想10日間コースがいったん終わって、今は西インドはラジャスタン州、梵天さんの聖地、プシュカルの街にまたいます。 今日はそのコースで知り合った若い友だちと、半日プシュカルの近郊を散歩して、とてもいいリフレッシュになりました。 明日はまた瞑想センターに戻り、もう一度10日間のコースを受けて、今回のヴィパッサナ三昧の締めとなります。 というわけで、みなさん、お元気で。 また、10日ほど後にお目にかかりましょう♬

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

物好きな物書き

宇宙のど真ん中