「問題は」とハンプティ・ダンプティが言いました「僕と言葉のうちのどちらが相手の主人になるかということ、それだけさ」
ハンプティ・ダンプティ - Wikipedia ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」おもしろいですよね。
「鏡の国」に出てくる、このハンプティ・ダンプティの、一見奇妙に思えるセリフにヒントを得て、今日は言葉が持つ「呪文」としての性質を、「21世紀的」な視点から考えてみようと思います。
ここで「21世紀的な視点」というのは、「コンピュータが暮らしの中に入り込んだ文脈の中で」という程度の意味です。
*1
プログラミング言語も言葉なの? 「呪文の実現」としてのコンピュータ言語 ぼくたちが毎日使っている「呪文」のこと コトノハ 2.0 、あるいは言葉を「呪文」として使いこなす方法 プログラミング言語も言葉なの? みなさんはプログラミング言語を使ったことがありますか?
プログラミング言語というのは、コンピュータに何かをやらせるために、命令を組み立てるための「言語」ですよね。
これはぼくたちが日常使っている「言葉」とはちょっと違います。
「日常言語」は、「命令」だけで成り立ってるわけじゃないですもんね。
けれども、プログラミング言語も「人間が機械に指令を与える=人間と機械がコミュニケートする」ためのものなのだ、と考えれば、「言葉」の一つとして捉えることができるでしょう。
ここではまず、プログラミング言語というのがどんなものなのかを、ごく初歩的な部分だけ、紹介します。
たとえば、python というプログラミング言語があって、これには、print という命令があります(「命令」ではなくて「関数」というんですけど)。
そこで、
print(1+2+3) と、pythonに指示してやると、
6 という結果を表示してくれるわけです。
(print といっても印刷するわけではなく、画面に表示するんですね)
これだけだと、計算機を使うなり、手で計算するなりしても特に変わりませんが、仮に学校の宿題で、
「1 から100までの数の自乗(ある数同士を二回かける)のを計算してきなさい」
という宿題が出たら、どうでしょうか。
計算機を使うにしても、これをいちいち、
1x1, 2x2, 3x3 ....
と100までやるのは大変ですよね。
コンピュータだったら簡単にできそうです。
これをpythonでやるには、
for i in range(1,101): print(i*i} という「呪文」を使ってやることになります。
ここで、
「for 〜」は「〜の間くりかえす」 「range(1,101)」は「1から100まで」(指定するのは101なんですけど、100までになります) 「*」は掛け算 を表していて、結果として、
「i という変数が 1 から100になるまで、i x i の結果を表示しなさい」
という「呪文」を表すことになるわけです。
お仕事で excel をお使いの方などは、こういったタイプの「呪文」が使えると、手作業をコンピュータにまかせられて便利なことは、よくご存知のことと思います。
「呪文の実現」としてのコンピュータ言語 さて、コンピュータというのは融通が効かないものですから、先ほどの「呪文」は、単語を一つ、記号一つ、打ち間違えても、せっかくの「命令」は実行されなくなってしまいます。
「ひらけー、ゴマ」と言えば、秘密の扉が開くのに、「ひらけー、コマ」では開いてくれないのと、これはよく似ています。
みなさん、こんにちわー。
以前の記事、
・新卒で「プログラマ」として入社した一部上場精密機器メーカーを、ぼくが2年足らずで辞めた「理由」: #00 販売実習をやめたいと言ったら上司に呼び出された話 - *魂の次元*
では、入社時の新人研修で、販売実習があり、あまりに向かないので「やめたい」と上司に相談したものの、「丸め込まれて」やめられなかった話を書きました。
今日は、少し話をさかのぼって、どうしてぼくがその会社に勤めることになったかを書いてみます。 ぼくは東京の大学でコンピュータの勉強をしていたのですが、コンピュータや勉強が大好き、というほどのことはありませんでした。
それで、学部四年のとき、修士課程に進むかどうか迷ったのですが、同じ研究室の修士二年の先輩で、いい感じの方がいて、自分もあんなふうにやれたらなあ、みたいな「雰囲気だけ」の気持ちで、修士に進む方向で考えてみました。
とりあえず内部推薦の制度があったので、それに申し込み、また、大学院の入試も受けることにしましたが、実のところ、大学の成績は特によいわけではなく「内部推薦は通ったらもうけもの」くらいのいい加減さで、しかも入試に向けての勉強などもまったくしていませんでした。
それで、内部推薦の面接のときのことなのですが、ぼくの所属していた研究室の先生が、こんなことを聞くんですね。
「きみは成績がずいぶん悪いけれど、これはどういうことかね?」
いやー、身も蓋もない、サイコーの質問じゃないですか!!
しどろもどろに何を答えたものか、さっぱり覚えていませんし、ほかに何を聞かれたのかもすっかり忘れてしまいましたが、当然推薦は受からず、そのうち、大学院の入試の日付が迫ってきました。
自分がそのとき、何をどう考えたのかは、あまりよく覚えていないのですが、結論だけははっきりしていて、
「やっぱ入試はやーめた」
と思って、誰にも相談せず、一人勝手に就職することに決めました。
ぼくは実家が世田谷なので、渋谷あたりが行動範囲だったのですが、たまたま渋谷の本屋で高校のときからの友だちとばったり出くわしたので、
「いやー、おれ、大学院受けるのやめようと思って」
とか軽い調子で話したら、その友だちは、
「それはやっぱり受けといたほうがいいんじゃない?」
と親身に忠告してくれたのですが、ぼくは人の話が耳に入らないほうなので、「そんなこと言われてもなー」と思ったくらいのもので、結局そのことは誰にも告げないまま、入試当日ばっくれてしまったのです。
あとから研究室の同級生に、「先生かなり怒ってたよ」とか聞きましたが、別になんとも思いませんでしたから、ぼくという人間の「非社会性」が知れるというものです。
* * *
さて、これで大学院に行く道は断たれましたから、就職口を考えなければなりません。
この頃ぼくは、高校時代の同級生が先輩とともに立ち上げたソフトウェアハウスでプログラマのアルバイトをしておりました。
某通信関係大手の研究所の孫受けで、マルチウィンドウ端末*1用のソフトウェア開発環境をコーディングする仕事で、ぼくはそのシステムにエディタのソースコードを埋め込むのを担当しました。
で、そのソフトウェアハウスをやっている友だちが、
「きみはうちに就職する気はないか? プログラマとしてのきみの能力はまだまだだが、十分将来性はある。今うちの会社は小さいから、きみが来てくれるかどうかは、うちにとっては大きな問題だ。
さあ、どうだ、来てくれるのか、来てはもらえないのか。
はっきり答えてもらおうじゃないか!
さあ、さあ、さあ!!」
というような文面ではありませんでしたが、かなり熱気のあるお誘いのお手紙をもらいました。
しかし、ぼくは薄情な人間で、友だちの会社に就職するつもりは全くなかったので、あっさり断りました。
どこかの会社の下請けで何かをやる、というようなタイプの仕事には興味がなかったのです。
こんな選り好みをしていたら、仕事なんてできないよなあと、今は思いますけどね。
それで結局どうしたかというと、修士の人たちの就職活動におまけでついていって、某精密機器メーカーの中央研究所の見学に行っていたぼくは、
「ぼくはそもそも会社勤めがしたいわけじゃないし、この機会を逃したら、大企業に勤める機会なんてないだろう。社会経験としてあの会社に入れてもらって、中央研究所で働かせてもらおう。まあ二年くらいが目処かな」
とまったく自己本位に勝手なことを考えました。
(会社側の立場で働いているみなさん、ごみんね、許してねっ)
世間知らずの自己中心的な人間にのみに可能な、「妄想感」溢れる考えとしかいいようがありませんが、ここでも幸いなことに、当時はバブルの全盛期で引く手あまたの時代でしたから、形式的な集団面接を一回受けるだけで、簡単に内定は出ました。
今の時代、就職を決めるのも大変で、就職してからもさらに大変なみなさんのことを考えると、全く申し訳ないようなものですが、そういう時代の、そういう人間の話ですので、どうかご寛恕いただけたらと思います。
* * *
とまあ、そんなようなことで、就職先は簡単に決まってしまいました。
とはいえ、人生そんなに甘くないのは当たり前のことで、配属先の希望には「中央研究所」と書いたものの、いつの時点で分かったのか、忘れてしまいましたが、そうは問屋が卸すはずもなく、レーザープリンタのファームウェアを開発する部署に配属されることが分かったときは、一人がっくりとうなだれたものです。
ぼくのようなただ「世間知らず」なだけの脳天気な人間の場合、一人がっかりするくらいですみましたが、今のようなご時世ですと注意が必要です。
「世の中」のことが分かっていない「生真面目」な人は、就職先を間違うと体や心を壊したり、ひどい場合には「死」に至る場合もありえますので、若い皆さんには、よくよく注意をしていただきたく思います。
というようなところで、今回の記事はおしまいとさせていただきます。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
*1:なんていっても今の人にはなんだかさっぱり分かりませんよね。
はてな村のみなさん、こんにちわ。
別サイトにしてありますが、ぼくはこんな「怪しい」記事も書いてます。
・瞑想で、無限の時間を、あなたのものに。 - 24 時間の瞑想術
瞑想が深まると、「今」という瞬間が「永遠」になるので、無限の時間が得られる、という趣旨です。
この記事では少し違った角度から、瞑想で無限の時間を得られるのか、ということを考えてみます。
科学的といっても割と数学的な話で、時間が連続なら、一分間も永遠も同等と見なせるから、やっぱり無限が手に入っちゃうよね、というような話です。
0から1までと、0から無限までは、数学的には一緒、という話 でも、時間ってほんとに連続なの? 知覚・認識の最小時間はどうなの? 時間は連続で、一秒の中に無限が見れるのは分かった。でも、認識や近くの限界を考えたら、無限なんてとても無理じゃない? 0から1までと、0から無限までは、数学的には一緒、という話 さてみなさん、0から無限までの数を考えてみてください。
0、1、2、という自然数だけじゃなくて、0.1, 0.01, 0.001 というような少数も含めての話です。
割り切れない少数、1/3 とか 1/7 とか、そういうのも全部含め、さらには、平方根とか円周率とか自然対数とか、分数でも表せないような数も含めます。
そうやって、作り上げた数、実数というのは、連続で切れ目のないものになります。
この連続な実数の観点から見ると、0から1までと、0から無限までは、同じ濃度を持っていて、それぞれの数に一対一の対応をつけることができるんですね。
ですから無限(ここで言っているのは、数学的には非可算の無限ということになります)という、人間には非常につかみ難い概念を考えるとき、0から無限、ということを考える必要はなくて、0から1までのことを考えれば十分ということになります。
これを時間にあてはめたとき、人の一生は有限ですけれども、その中に無限を見出すことが可能になりますし、もっと言えば、一分、一秒の中にも無限を見出すことが可能になるわけです。
以上、ぼくは数学、あまり得じゃないので、かなり雑な話です。おかしなところがあったらごめんなさい。
でも、時間ってほんとに連続なの? 現代の物理学では、時間は不連続なものとして扱われるようです。
量子力学的な世界観では、観測の限界というものがあり、これ以上短い時間については観測できない、という限界があるんです。
プランク時間と言って、wikipedia によると、
5.39116(13) × 10 ^ −4 4 秒
となっています。
( 「^」 はべき乗の意味。小数点以下0が44個続く、めっちゃ短い時間ということです)
けれども、これは物理的な観測限界の話であって、ぼくたち人間が知覚・認識できるレベルとはかけ離れた世界の話です。
ですから、ここでの議論としては、時間は連続として扱って差し支えないでしょう。
知覚・認識の最小時間はどうなの? 知覚については、聴覚、触覚、視覚の順で長くなって、0.0045〜0.03秒程度、
認識できる時間の最小単位は脳内の神経振動によって決まり、0.03秒程度、
脳内で感覚情報は3秒単位でまとめられているため、「現在」として意識されるのは、3秒単位、
という研究結果があるようです。
この辺の話は、こちらのページに詳しく書いてあります。
・知覚の時間錯覚効果:日々の覚え書き
時間は連続で、一秒の中に無限が見れるのは分かった。でも、認識や近くの限界を考えたら、無限なんてとても無理じゃない? 前節で「現在意識」は3秒単位という話を書きましたが、ぼくたちは1秒、2秒、3秒、と数えられるんだから、ある知覚情報のまとまりとしては、3秒というのが意味をなすのでしょうが、実際にはもっと短い単位で時間を認識していることは間違いないでしょう。
そして、瞑想の練習を深めていくことで、とても短い時間感覚の中で、自分の体の中にさまざまな反応が連鎖的に起こっていることが、だんだん分かってきます。
もちろん知覚の限界はありますから、それ以下の時間単位については、知りようがないのですが、瞑想によって「無駄な思考」が減ることによって、
脳内で無数に同時進行している「計算」が自分に与える影響を、以前よりも精密に「認識」することができるようになり、結果として、同じ1秒の「密度」が何倍にも感じられるようになるんですね。
そのとき、「現実の知覚の最小時間がどうか」ということではなく、「実感としての最小時間」はいくらでも小さくなっていきます。
それを数学的に「無限」というわけにはいかないでしょうが、
「練習次第で、時間の最小単位は『いくらでも小さくできる』し、
時間の密度は『いくらでも濃密にできる』」
のですから、普通にいうところの「無限」と考えることができるだろうと、いうことなのです。
だいぶ雑な議論ですので、うまく説明できたか不安なところですが、以上で、「瞑想をすることで無限の時間が手に入る」という命題の証明の概略とさせていただきます。
ちなみに、みなさんが瞑想の練習をして「無限の時間」を手に入れたとしても、その時間を「無限のお金」を稼ぐために使ったりしたら、だめですよ。
瞑想は心の浄化のためにあります。
瞑想の副次的効果として「無限の時間」が手に入った場合は、利己心を捨て、生きとし生けるもののために、その時間を使ってくださいね。
それが、仏の慈悲心であります。
てなわけで、おあとがよろしいようで。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
はてなブックマークでたまたまこちらの記事を見かけました。
・日本に、この人がいて、本当に良かった。 | milieu(ミリュー)
塩谷舞さんという女性の運営する個人メディア milieu の記事なのですが、デザインも内容もプロフェッショナルで素晴らしい。
その記事は、高木正勝さんのインタビュー記事で、高木さんは細田守監督のアニメ映画「おおかみこどもの雨と雪」や「バケモノの子」の劇中音楽を担当した方なので、ご存じの方も多いかと思います。
塩谷さんは、記事の冒頭で、milieu というサイトを、
「社会的に意義のある記事を、広く届けなければいけない」とか
「記事を読んでくださる相手の時間を、1秒たりとも無駄にしてはいけない」とか
そんな勝手な責任感により、一所懸命にやってます。
と書いてらっしゃり、それを見てぼくは、ニッポン社会のあまりの「忙しさ」と「頑張り加減」にちょっと驚いてしまいました。
というわけで今日は、塩谷さんの記事を題材にさせていただき、「ニッポンの消耗」について考えてみたいと思います。
高木正勝の純粋欲求にしたがった「遊び」が「仕事」になる生き方 「遊びを仕事に」できないなら「仕事を遊びに」しよう 「人の時間を1秒たりともムダにしない」から「人と一緒の時間をたとえ1秒でも大切にする」生き方へ 高木正勝の純粋欲求にしたがった「遊び」が「仕事」になる生き方 塩谷さんのこの記事は、『「全力でがんばる」症候群』にかかりやすい日本人に向けた、いわば「解毒剤」として書かれています。
高木正勝さんは、2009年のNewsweek日本版で「世界が尊敬する日本人100人」の1人に選ばれるほどの音楽家にして映像作家ですが、彼は京都との県境に近い兵庫県の山深い里、丹波篠山に住んでいます。
古民家を直して住んでいる高木さんの家で、人間型のカリンバをはじき、太鼓を叩く塩谷さんの様子は、彼女の記事で見ていただくとして、ここでは、彼女が使う「純粋欲求」という言葉を拾ってみます。
昨年、京都岡崎音楽祭2016「 OKAZAKI LOOPS 」での高木さんの演奏が『「純粋欲求」で成り立っていることに感動した』ことが今回の取材につながったと塩谷さんは言います。
そのときの演奏では、お客さんみんなが立ち上がり、西洋的なスタンディングオベーションとは違う、祭りのような状態で、「自分のズタボロな精神の穴にいのちが注がれる」感覚だったというのです。
それに答えて、高木さん自身が「あのときは、すごかったなぁ」と言っているので、それはいつもとは違った、演者と観客が一体となる「最高」の状態だったに違いありません。
ぼくもこちらのビデオを見ましたが、素朴さの中に心を動かされる何かが響いてきて、その場の雰囲気が伝わってくる、なかなかいい映像だと思います。
・高木正勝 大山咲み「めぐみ」/ Takagi Masakatsu 'Megumi' - YouTube
インタビューは、時として「仕事」に押しつぶされそうになる塩谷さんが、「仕事」から距離を取って「遊び」を「仕事」にしている高木さんの、その「最高」の状態を生み出すための「魔法」について聞き出すような展開になっています。
僕は、もうちょっとはみ出していくものが好きやねんな。歌が好きな人と一緒にいて「楽しくなってきたから、歌おう!」とはじまって、どんどん、どんどんその中だけで魔法が起こっていって、その場があって、そこに参加してる人がいて、自分も参加して。踊りだしたりとか。
と高木さんは言います。
この「魔法」を起こすのが、塩谷さんのいう「純粋欲求」ということであり、高木さんが「純粋欲求」によって生まれ、形になったものを「作品」として発表している様子がインタビューからうかがわれます。
「遊びを仕事に」できないなら「仕事を遊びに」しよう 「純粋欲求」にかなった活動をして、それが「仕事」として評価されるのは、最高のことでしょう。
けれども、それは誰もができるものではありません。
となれば、収入を得るために仕事をする必要があります。
その「仕事」の重圧に押しつぶされないためには、どうしたらいいのでしょうか。
一つの方法は、「仕事」を「遊び」にすることです。
「仕事」を生真面目に考えすぎていませんか?
あまり真面目になりすぎず、「仕事」を「ゲーム」としてとらえたらどうでしょうか?
生真面目になりすぎて緊張して、いつもピリピリした気を放っていたら、うまくいくものもうまくいかなくなり、周りの人にも悪い影響が出かねません。
「ゲーム」だと思って、ゆったり構えることができれば、あなた自身も周りの人もリラックスして失敗が減り、却って仕事もはかどるのではないでしょうか。
「人の時間を1秒たりともムダにしない」から「人と一緒の時間をたとえ1秒でも大切にする」生き方へ weblog の指南術をネットで見ていると、
「せっかく訪れてくれた読者の貴重な時間をムダにしてはいけない」
というようなことが、よく書いてあります。
weblog運営の方法論として、それはそれで「正しい」考え方だとは思うのですが、人生に「ムダ」はつきものですよね。
というか、もしあなたの人生に「ムダ」とか「遊び」とかがなかったら、窮屈すぎてつらくないですか?
仕事でも同じことです。
わざわざムダなことをする必要はありませんが、どんなに忙しい仕事でも、大抵なんらかの「隙間」時間はあるはずです。
そういう「隙間」の時間に、「遊び心」をもって自分の「仕事」を振り返り、こんなのはただの「ゲーム」にすぎないんだ、と思えたら、張り詰めた心に、少しの余裕が生まれると思うのです。
スーパーのレジの仕事をしている方などを見ると、本当に「人の時間を1秒たりとも無駄にしない」ために、「必死」で仕事をしていますから、頭が下がります。
けれども、中にはそういう仕事を「余裕で」こなしてる人もいるんですよね。
これは「才能」の問題もあるかもしれませんが、どちらかと言えば「気持ち」の問題だと思います。
「必死で」こなしてらっしゃるみなさんには本当に申し訳ないのですが、「余裕で」こなしてる方に当たった方が、お客の立場としては気が楽です。
「結果」優先で考えるとどうしても、「ムダにするな」というような話になりがちです。
でも、人生で大切なのは「結果」だけじゃないですよね。
「過程」も大切ですし、その「過程」を楽しむことができれば、結局それが「結果」につながってくるのではないでしょうか。
だから、「あなたの時間を1秒たりともムダにしない」ように頑張るより、
「あなたとこうしてやりとりをする時間がたとえ1秒であっても、それを大切にして、意味のある、楽しめる時間にする」
ことを心がけたほうがいいんじゃないかなって思うんです。
はてな村の皆さん、おはようさん。
はてな匿名ダイアリーの記事
・働かざる者はどのくらい食えるべきなの?
を題材に、頑張らない人生の話を書きます。
ぼくの考えは「頑張らなくても生活保護水準で食えるのは当然」です。
そして、頑張りすぎてるみなさんに、「もう頑張るのはやめたら?」という提案です。
なお、匿名ダイアリーについては、こちらで説明してますので、ご存じない方はどうぞ。
・ニートの夢、ブッダの夢 - *魂の次元*
すなお君の問題提起 - 頑張らない人のほうが、頑張ってる人より食えてたらヘン 「引き篭もってネトゲ三昧」は許される水準? 頑張ってる人が報われない社会 富裕層を敵視しても、頑張ってる人が報われる世界は訪れない 「長いものには巻かれろ」の社会で一人ひとりにできること あなたは「横並びゲーム」から降りられますか 今日から頑張らない - 長いものに巻かれずに生きていくということ すなお君の問題提起 - 頑張らない人のほうが、頑張ってる人より食えてたらヘン 件の匿名ダイアリーの記事を書いた方を、ここではすなお君と呼ぶことにします。
「アリとキリギリス」の寓話を素直に受け止めて、
頑張らないと生きていけないってのが共通認識だと思っていた。
とおっしゃっているからです。
すなお君は、「頑張れない」人が生きていけない社会には疑問を感じながらも、
「頑張らない人が頑張ってる人以上に食えるとしたらなんかすごい変。努力が報われるところにやりがいがある、それが自然だと感じる。
ということを問題提起した上で、
「じゃあ、頑張らない人には、どのくらいの水準が保障されるべきなのか?」
と問いかけています。
「引き篭もってネトゲ三昧」は許される水準? すなお君は、「生活保護水準」が保障されるのは当然で、その先の具体的な話がしたかった、と書いており、
・はてなブックマーク - 働かざる者はどのくらい食えるべきなの?
では『「引き篭もってネトゲ三昧」くらいは許されるべき』というコメントがあり、この意見には星が45ついていて、賛同者がたくさんいます。
これはこれで、まったく結構なことなのですが、どなたかのブックマークコメントにもあったように、保障された収入の中で何をするかは、まったく「個人の自由」ですから、具体的にどういう内容が保障されるかについては「議論して合意を得る」というような性質のものではないと考えます。
収入を節約して貯めたお金で、「飲み屋で豪遊」しようが、「海外旅行」をしようが、それは本人の自由のはずです。
生活保護だから、「車を持ってはいけない」とか「決められた家賃以上の物件に住んではいけない」というような現状での運用に、むしろ疑問を感じます。
頑張ってる人が報われない社会 すなお君が提起している問題のうち、
「頑張って働いている人のほうが、働かないで生活保護を受けている人よりも収入が少ない場合がある」
というところが、重要なポイントに思えます。
しかし、すなお君の話の進め方では、
「だから生活保護の人間はつましく生きろ」
とかいうほうに流れがいってしまいがちです。
すなお君自身は、ほんとに素直な方なので、そういうつもりはないようですが、「素直」であるということは「社会の流れ」に流されているということであり、それはある意味、
『「統治者」に都合のよい考えに慣らされている』
ということでもあります。
ですから、ここではむしろ
「頑張っている人も頑張らない人も報われる社会」
を構想したほうがいいじゃないか、と思うのです。
富裕層を敵視しても、頑張ってる人が報われる世界は訪れない 資本主義的な「弱肉強食」の社会に対して、社会主義的な「平等」な社会というのは、アンチテーゼとしては当然ありうるのですが、戦後72年間の日本と世界の情勢を振り返ってみると、「富裕層」を「敵視」するような形での「共産主義思想」はすでに破産しているように思われます。
富裕層からきちんと税金を取り、国民全体の福祉を充実することで、社会全体の安定をはかる社会民主主義的な施策は、今後の日本にも当然必要ですが、そうした施策が「富裕層」に対する「敵視」から生まれてくるとは思えません。
国民一人ひとりが「長いものには巻かれろ」で、「お上には楯突かない」生き方をしているのですから、いくら「お上」を「批判」しても、鬱憤は晴れるでしょうが、現実に対して大きな影響力を持ち得ないことは、近頃の安倍政権のあり方とそれに対する批判を見ていれば明らかではないでしょうか。
「長いものには巻かれろ」の社会で一人ひとりにできること ブックマークにつけられたこのコメント
フランスで売れ残り食品をフードバンクに提供させる法律ができたらしいけど、日本でまだ食べられるのに捨てられる食品ロス(コンビニ廃棄とか賞「味」期限切れとか)は年間632万トンでニート3500万人は養える計算です
http://b.hatena.ne.jp/entry/339683827/comment/mcgomez には、83の星がついています。
この計算の妥当性はぼくには分かりませんが、現代の高度消費社会というものが、さまざまな「無駄」の上になりたっており、その「無駄」を減らすことで、いろいろな問題を解決できる可能性があるのは確かでしょう。
しかし、日本の現状の政治・経済体制の中で、フランスと同じ施策が行なわれうるかというと、そこはまた難しいところでしょう。
難しくても、その実現のために努力していくことは当然ですが、それが実現されないからといって、ただ政府を責めているだけでも仕方がありません。
そのとき、ぼくらにやるべきなのは、「長いものには巻かれろ」の社会の中で、けれども自分は「長いものには巻かれずに生きていく」ということのように思うのです。
あなたは「横並びゲーム」から降りられますか こんなことを書いているぼく自身は何者かというと、五十を過ぎて定職にもつかず、インドあたりをふらふらしているだけの、「生産活動ゲーム」にはほとんど何も貢献していない「穀潰し」人間です。
[2019.05.16 更新]
みなさん、こんにちわ。
GIGAZINE のこちらの記事、
・「瞑想」で生じるデメリット「魔境」について科学的な調査が始まる - GIGAZINE
タイトルはやや大げさですが、瞑想のデメリットの一つとしても考えられる魔境についての研究を紹介しています。
この記事では瞑想と魔境について、ぼくの経験もまじえて書いてみます。
瞑想であなたも魔境に入れるのか 深い瞑想に「魔境」はつきもの そして、魔境のその先 瞑想であなたも魔境に入れるのか 「魔境」というのは禅の用語で、いわゆる「幻覚」や「自我肥大的妄想」のたぐいを表すことばなんですが、アメリカでは日本から入った禅が、マインドフルネス・ブームの前からかなり普及して実践されているもんで、そのまま「makyo」という言葉が使われてるというのが、面白いですね。
(wikipedia にもちゃんと乗ってます。・Makyo - Wikipedia)
GIGAZINE で紹介されている研究は、「魔境」とは言っても、瞑想にともなう様々な「不快な副作用」についての心理学的調査で、60人の西洋の瞑想実践者に聞き取り調査をして、「魔境」の特徴を調べたものです。
60人の中には初心者も含まれているものの、ほとんどの人が一万時間以上の瞑想をしているベテランとのこと。毎日二時間やっていたとしても、13年以上以上の経験があることになりますから、初心者で「魔境」を経験する人は少ないのかもしれません。
そういえば、映画作家の森達也氏が、自分の体験として、しばらく座禅会に通っているうちに、「視界がぐにゃりと歪んだ」ということを書いており、そのことをお坊さんに相談すると、「きみは座禅が向いてないようだからやめたほうがいい」と言われたそうです。
(この話は、オウムに関するドキュメンタリー映画「A」の続編「A2」の撮影日誌に出ていた話のはずです。記憶がおぼろなので、もし違ってたらごめんなさい)
このように、瞑想の初心者でも「敏感」な人は、「魔境」に落ちいる可能性はありますので、ご注意ください。
深い瞑想に「魔境」はつきもの さて、件の研究では、60人の瞑想者から、59種類の「魔境」が確認されたとのことで、それを
「認知的」「知覚的」「感情的」「身体的」「意識的(モティベーションに関わるもの)」「自覚的」「社会的」
の七種に分類したそうです。
報告された「魔境=不快な感覚」には、
「不安」「恐怖」「意図しない痙攣」「不眠」「感情が自分のものとして感じられない」「光と音に対する過敏症」「時空のゆがみ」「吐き気」「幻覚」「いらつき」「過去のトラウマの再体験」
*1
などが含まれ、比較的、症状の軽度な「一時的」なものから、効果が継続する「持続的」な重度なものまであったとのことです。
一日10分くらいまでの軽い瞑想では、こうした「魔境」経験はあまり起こらないでしょうが、毎日一時間もする人ならば、多くの人がなんらかのこうした経験をお持ちなのではないでしょうか。
ぼくも十日間合宿の瞑想コースでは、「これが永遠というものかー」とか思ったことがあります。
また、もともと緊張しやすいタイプだったのですが、瞑想をすることで体に対する感覚が敏感になったことが合わさり、このところ始終「腰の緊張」を意識せざるを得ないはめになり、結構精神的にきつい状態になっています。これを受け止めてきちんと瞑想を自分のものにしようと目下健闘中です。
(現在は落ち着いています。2019.5.16記)
瞑想には、心の中のもつれを解いてくれる効果がありますが、心の底に沈殿していた「問題」が浮上してくることにより、このような一時的な「悪化」も起こります。
このとき周りからの支えがないと、一人で乗り切るのはきつい場合もありますので、一人で深い瞑想を試みる場合は、その辺りのことをしっかり覚悟しておくことが必要です。
そして、魔境のその先 GIGAZINEの記事で紹介された研究は、聞き取り調査による体験者の経験にもとづいて「魔境」の経験を調べたものですが、LSD・マリファナ・シロシビンなどの幻覚剤を使った脳神経科学的な研究も欧米では盛んです。
LSDのような強い幻覚剤ではバッドトリップと呼ばれる「魔境」体験がつきもの。ぼくも法律で規制がかかる前の2000年頃にはマジックマッシュルームという幻覚作用を持つきのこを摂って恐ろしい「妖怪」世界を経験しました。
このような幻覚作用を持つ向精神性物質による変性意識と、瞑想による変性意識との比較研究も今後ますます盛んになっていくと思われます。
仏教的な瞑想では、こうした「魔境」をただ心が創りだした「幻」であるとして、それを何か重要なことであると見ることをせず、また異常なものとして恐れて追い払うこともしない、「いつでも平常心」であることを理想とします。
2,500年前にお釈迦さまが考案した瞑想法が形を変え、マインドフルネスと名前を変えてビジネス界でももてはやされる今日このごろですが、科学的な技術の進歩によって、
「ようやく西洋の先端が、東洋の叡智に追いついてきた」 といってもいいのではないでしょうか。
というところで、今日は、ゴエンカさん方式ヴィパッサナー瞑想を練習中のわたくしが、瞑想と魔境について大風呂敷を広げさせていただきました。
どうやら、おあとがよろしいようで。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
☆こちらの記事もよろしければ、どうぞ。(別サイトの記事です)
・ネットで瞑想の危険性を調べているあなたへ - 24 時間の瞑想術
・魂の次元: 不思議なきのこを科学する - そして瞑想と悟りへ
*1:この部分GIGAZINEの訳が原文と少し違うので訳し直しています。原文: feelings of anxiety and fear, involuntary twitching, insomnia, a sense of complete detachment from one’s emotions, hypersensitivity to light or sound, distortion in time and space, nausea, hallucinations, irritability, and the re-experiencing of past traumas
はてな村のみなさん、おはようさんです。
さて、あなたはアルコール、好きな方ですかー?
この記事は、お酒が大好きで、つい飲み過ぎて二日酔いになっちゃうあなたに送る、二日酔い対策読本です(って大げさ)。
残念ながら即効性のある方法はありません みそ汁におろししょうがを入れて飲む ゆっくりぬるい湯に浸かる とにかく寝る そもそも二日酔いにならないためには 残念ながら即効性のある方法はありません アルコールを飲むと、体内で分解されてアセトアルデヒドになり、これがお酒の酩酊成分なのですが、たくさん飲みすぎると、二日酔いになって苦しむ原因になっちゃいますね。
あいにく、このアセトアルデヒドの効果を消すような即効性のある方法は、今のところ知られていません。
(いや、そんな方法があったら、みんな平気で飲み過ぎるようになって、却って危険かも!!)
けれども、ひどい二日酔いに対する対処法はありますので、ぼくの体験に基づいた方法を二、三書いてみましょう。
みそ汁におろししょうがを入れて飲む ぼくは、味噌をお湯に溶いて、しょうがをおろしたのを入れて飲むんですけど、インスタントのみそ汁にチューブのしょうがでもいいでしょう。
味噌もしょうがも二日酔いで荒れた胃に優しく、またしょうがは吐き気にも効果がありますので、試してみてくださいね。
それから、しじみのみそ汁がいいという説も有力ですので、お好みによりどうぞ。
そして、水分をとるのがまずは肝心ですので、味噌もしょうがもめんどうだというあなたの場合、とにかく十分な水を飲むのも当然ありです。
ゆっくりぬるい湯に浸かる この方法は時間がないと使えませんが、効果はしっかり実感できます。
はじめ、ぬるい湯に浸かり、お湯の温度をだんだん上げていくと最高です。
追い焚きができない場合、少なめにぬるい湯を張り、熱いお湯を足していったら十分いけると思います。
この方法は、かの文豪・井伏鱒二氏も使っていたもので、ほんとに効きます。
時間があるときに是非お試しください!!
とにかく寝る 起き上がるのもつらいほど頭が痛いときは、水だけ飲んで、とにかく寝ましょう。
えっ、会社に行かなきゃらない?
そんなときは、深呼吸をして瞑想です。
そして、とにかく家を出てしまえばなんとかなります。
そんなあなたの場合は、二日酔いにならない対策を考えたほうがいいですね。
そもそも二日酔いにならないためには ひと月に何度も二日酔いになってしまうほど飲んでしまうあなたは、アルコール依存症の注意信号が出ているといっていいでしょう。
本格的な依存症ではないにしても、少しお酒を控える方法を考えたほうがよい時期です。
ウコンドリンクを事前に飲むのもよいですが、あなたにおすすめの方法は、ずばりこれです。
・お酒を飲みながら、途中で水やノン・アルコール・ドリンクを飲む
アルコールを飲むと、のどが渇きますよね。
それでまた次の一杯がほしくなるんですが、それにもアルコールが入ってるんですから、これはどう考えても悪循環。
次の一杯がほしくなったときに、
「あっ、おれはアルコールがほしいんじゃなくて水分がほしいんだ」
と気づけるようになったら、完璧です。
ちなみに、ノン・アルコール・ドリンクとして、ぼくのおすすめは生グレープフルーツの炭酸割りです。
最近の居酒屋では、生グレープフルーツサワーが普通においてありますよね。
あれを焼酎抜きで出してもらうんです。
炭酸は胃を刺激することから食欲増進の効果もありますし、グレープフルーツもさっぱりしてますから、料理との相性も抜群です。
ぼくは一時期アルコールを控えていたので、お酒は飲まずに生グレープフルーツの炭酸割りだけで、友だちと居酒屋で楽しい時間を過ごしたこともあります。
というわけで、以上が二日酔いと仲良く付きあう「おじさんの知恵」でした。
なお、この記事は、モニカさんの記事、
・二日酔いで頭痛が治らなくてつらい!試してみたい5つの対処法とは? - モニカの健康情報局
にヒントを得て書きました。モニカさん、ありがとうございまーす。
てなことで、それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
はてな村のみなさん、お元気ですかぁー。
前の記事
・はてなブログ・プロで独自ドメインの設定をしたら夜も眠れなくなりそうだった話 - *魂の次元*
で、はてなブログの有料サービス・プロに申し込み、独自ドメインの設定をした話を書きました。
グーグルからの検索流入にも興味のあるはてなユーザのぼくとしては、サーチコンソールの方もアドレスをお引越しして、前のアドレスdimofsoul.hatenablog.comのデータを新しいアドレスdimofsoul.mitona.orgに受け継ぎたいところです。
かなり悩まされましたが、三日がかりで解決しましたのでご報告です。
まず、解決方法です 具体的なやり方・その一 あなたの古いアドレス、「HTMLタグ」で確認してありますか 具体的なやり方・その二 新しいアドレスは「ドメイン名プロバイダ」で確認 まず、解決方法です この記事では、要点だけ述べますので、分かりにくい場合は、こちらの記事を見るといいでしょう。
・【はてなブログ】独自ドメインの変更から変更後にやることまとめ - ハンバート友幸の庭
ドメインの取得から、独自ドメインの設定まで、分かりやすく書いてあります。ただし、サーチコンソールについては、こちらのやり方はうまくいきませんでした。
(アナリティクスを使ってサイトを確認するのが、古いアドレスのほうで、どうしてもうまくいきませんでした)
うまくいったのは、
古いアドレスは「HTMLタグ」で確認 新しいアドレスは「ドメイン名プロバイダ」で確認 というやり方です。
具体的なやり方・その一 あなたの古いアドレス、「HTMLタグ」で確認してありますか というわけで、サーチコンソールで、
anata.hatenablog.com(あなたが使っていたはてなのアドレスに読み替えてね) のデータを www.anata.com(こっちはあなたの新しい独自ドメインのアドレスに読み替えてね) に引き継ぎたい場合は、こうなります。
1.1. サーチコンソールのホームから古いアドレス anata.hatenablog.com のプロパティを選びます。
1.2. 右上の「歯車」アイコンを押して、メニューから「確認の詳細」を選びます。
1.3. 「HTMLのメタタグ」で確認できている由の表示があれば OK です。
1.4. できていない場合は、まず、確認が必要になります。「プロパティの操作」から「プロパティの確認」を選びます。
サイトの所有権の確認方法として、「HTMLファイルをアップロード」がおすすめされますが、「別の方法で確認する」のタブをクリックして、「HTMLタグ」を選びます。
1.3. すると、
〈meta name="google-site-verification" content="......." /〉 のようなコードが表示されますので、content="......." の ....... に当たる部分をコピーします。
1.4. そして、別タグではてなブログを開き、「設定」から「詳細設定」に行き、「解析ツール Google Search Console」の欄に 1.3. でコピーしたコードをペーストします。
1.5. 次に画面一番下の更新ボタンを押します。
1.6. サーチコンソールの画面に戻り、確認ボタンを押します。手順に誤りがなければ、「所有権が確認されました」のメッセージが出て、無事終了です。
具体的なやり方・その二 新しいアドレスは「ドメイン名プロバイダ」で確認 2. 古いアドレスから新しいアドレスへの変更すると同時に新しいアドレスを確認する手順です。
2.1. まず、サーチコンソールのホームから、anata.
のっけから妙な話で恐縮ですが、汚かったり、不衛生だったりするのが苦手なあなたにはインドはおすすめできません。
そんなあなたの場合は、はじめはタイくらいが無難でしょう。何より日本から近いですし、異国情緒は十二分にありますし、カレーも食べられるし、瞑想もできます。
けれども今日はタイの話じゃなくて、インドのカレーと瞑想の話です。
人生に疲れたからと言って、気軽にインドまで旅をするわけにもいかないかもしれませんが、心だけでも旅に出れば、少しは気も晴れるというものです。
タイトルに関わらず、特に入門記事にはなってませんのであしからずーーっ。
カレーの話 瞑想の話 カレーの話 ・http://dimofsoul.mitona.org/indo-no-sora-ni-sita
という記事で、インドに「カレー」や「カレー粉」はあるのか、という話を書いたら、はてなブックマークの「あわせて読みたい」の欄の
・北インドカレーと南インドカレーが全く違う理由を調べてみたらインドに行きたくなった - ソレドコ
という記事が目についたんですよ。
綺麗な写真もいっぱい使ってあり、スパイスに関する情報などもこまごまと書いてありますので、インドカレーに興味のある方はどうぞご一読を。
で、その記事では、
北インドカレーは「濃厚」で「ガラムマサラ」を使う 南インドカレーは「シャバシャバ」で「辛味」が効いている と表現しています。
そして、北インドと南インドのカレーの違いとして、インド人シェフの
「北インドは寒いからこってりしたカレーが、南インドは暑いからさっぱりしたカレーが食べたかったからなんじゃないか」
という言葉が紹介されています。
まあ、そうかもしれません。
でも、北インドの料理でも、豆のカレー(ダル)はかなり汁っぽいことも多いですし、豆のカレーでも、街によって辛かったり、そうでもなかったり、ほんとにいろいろなんですよね。
そして、北のヒンディー語圏と、南のドラヴィダ語圏では、同じヒンズー教文化とはいっても、文化的にもかなりの違いがあり、食文化もまったくといっていいほどの違いがあるんです。
しばらく前にネットを見ていたら、
「インドというのは、ヨーロッパ全体が一つの国になったくらい、州ごとの文化が違うのだ」
という表現を見かけて、なるほどなー、と思いました。
南インドのタミルナドゥ州に行ったときのことですが、現地のおじさんが話しかけてきて、
「お前はどこから来たんだ、日本か、オレはタミルだーっ、がははははっ」
とという感じなんですね。
アイデンティティがインド人じゃなくて、タミル人なんです。
というわけで、食べ物の違いは風土の違いからくるのも当然ですが、風土の違いから生む文化の違いがベースにあるんだよねー、という話でした。
日々の暮らしに疲れたら、辛いカレーでも食べて体に喝を入れるのも、いいかもしれませんよ!?
えっ、辛いものは苦手?
間違って辛いものを食べちゃったときは、ヨーグルトが効くのでお試しを!!
瞑想の話 雷理さんの記事、
・「周りの人たち瞑想」のススメ - 無知の知ノート
が面白いなーと思いました。
気分が凹んだときには、周りの人たちの人生を思ってみたらいいよ
って話です。
周りのいろいろな人の人生のことを、ぼんやりとでいいからいろいろ想像してみると、
みんなも頑張ってはるし 私も頑張ろっ♪ ってなる
って気持ちになるんですって。
ぼくがやってるゴエンカさん方式のヴィパッサナー瞑想でも、慈悲(メッター)の瞑想というのがあって、これは、まず自分の幸せを祈り、次に周りの人の幸せを祈り、最後に生きているものすべての幸せを祈ります。
具体的に周りの人の人生を思うわけではないのですが、とても近いニュアンスを感じます。
瞑想の基本は、呼吸を見ること、体の感覚を見ることなどで、雑念を消していくことにあるのですが、雑念が起こること自体は自然なことなので、無理に消す必要はありません。
雑念に気づいたら、呼吸に戻る、体の感覚に戻る、ということを坦々とやっていけばいいだけなんですね。
ぼくのやってる瞑想は自己流で、相当いい加減ですから、最初の頃は、気にせず雑念に身をまかせていました。そうすると、自然と周りの人のことが頭の中に浮かんできて、その人との関係性が、それまでは気づかなかった角度から見れたりして、新たな発見があったりするんですよね。
こういうのも、副次的なものではありますけれども、瞑想の一つの効果ということになりましょう。
というわけで、わざわざインドまで来なくても、瞑想は自宅でもできますので、寝る前に寝床の中で五分間だけでも、気が向いたらやってみてください。
瞑想についてはこちらの記事
・マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想について・蝶入門編 - 24 時間の瞑想術
でも書いてますので、よろしく。
てなわけで、ちっとも「入門」になってないいい加減な記事に、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
昨日の大変あやしい記事
・http://dimofsoul.mitona.org/yatyoukinenbi
に雷理id:hentekomuraさんからコメントをいただきました。
インドの空の下 何をされてる人なのでしょう 気になりますww
というところで、今日はインドという混沌の大地にて、一体なにをしているのかについて、赤裸々な記事を書いてしまいましょう。
何もしないのが理想 このようなラチもない文章をネットで綴って小遣いが稼げるのか ここでいきなり、インドにカレーはないのか、という話をしてみます 何もしないのが理想 ・52.5歳からのグッバイワーク - *魂の次元*
という記事にも書きましたが、ぼくは働くのが嫌いです。
ですから何もしないのが理想なんです。
できるものなら、お釈迦さまのように何もかも捨て去り、乞食坊主になって瞑想三昧の暮らしをしてみたい......
と、ほんとにそのように思っているかというと、いや、無理です、ぼくにはそこまでの覚悟はありません。
今は仕事もせず、奥さんと二人、インド辺りをふらふらと漂っていますが、食べるためには少しは稼ぐ必要があります。
それで、「お小遣い程度でいいから、ネットでなんとか」というような甘い考えで文章を綴っている...... 。それが今ぼくがやっていることでしょうか。
このようなラチもない文章をネットで綴って小遣いが稼げるのか たとえば、相田ケイさんの記事
・http://www.kk3marketer.com/entry/SEO_1
などを参考にして、多くの人に読まれる記事をきちんとポイントを抑えて書いていって、やがてそれが収入につながる、というのが、weblog 上で稼ぐための真っ当な方法の一つと言えるでしょう。
ところが、このとし兵衛という人間は、「真っ当」なやり方が嫌いなんですから、話になりません。
メジャーなものに、なんの恨みがあるのか知りませんが、徹底的なマイナー好み、自分が関心を持つ「奇妙にマイナーなもの」にも需要があるはずだと信じて、おかしな記事を自分なりのスタンスで書いてみますが、なかなか多くの人には興味を持ってもらえません。
当たり前です。わざわざマイナーな話題を選んで書いているんですから。
けれども、大当たりを狙うのではなく、マイナー路線ながらも一定の読者に読んでもらえるような、そういう記事を書き続けていくということが、
できるのではないか、
いや、できるはずだ、
いやいや、できたらいいなぁーー、
みたいなことを考えながら、今日も文章の綴方の練習を続けている次第です。
ここでいきなり、インドにカレーはないのか、という話をしてみます ところでみなさん、カレーは好きですか?
カレーといえば、インドが発祥の地、ということになっていますが、日本で普通に知られている小麦粉を使ってとろみを出すタイプのやつは、あれはイギリスの人がアレンジしたものなんでしょうかね。
インドのカレーでも、さらさらっと汁っぽいものもあれば、どろどろっとしたタイプのものもありますが、小麦粉は使わないんですね。
で、そのイギリス風のカレーを日本の海軍が軍隊食として採用したのが、日本にカレーが普及するきっかけだったようです。
それで、インドにはカレーもなければ、カレー粉もない、という説について、ちょっと書いてみますが、結論から言いますと、カレーはもともと南インドの汁料理を指す言葉であり、それが転じてインド全般のスパイスの効いた料理を指すものとなった、ということになります。
北インドの主要な言語であるヒンディー語には、カレーを意味する言葉はもともとはありません。(今は英語からの借用語として普通に使われますけれども)
それで、インドにはカレーはないのだ、と言われたりするのですが、それは北インドの話。
インドを植民地としていたイギリスは、南インドのタミルナドゥ州とも深い関わりがあり、同じくイギリスの植民地だったマレーシアでは、イギリス人とともにやってきたインド系の住民が今も多いのですが、この人たちはタミルナドゥから来た人たちなんですね。
そのタミルナドゥの言葉タミル語には、そのものずばりカリーという言葉があり、これが汁料理を表す言葉なんです。
そして、カレー粉についてですが、確かにインドでは普通「カレー粉」というものはありません。しかし、スパイスミックスとして「マサラ」というものが多数あり、これがいわば「カレー粉」に相当します。
日本では「カレー」と分類される様々なインド料理のそれぞれについて、「なんとかマサラ」のような名前でスパイスミックスが売られてたりするわけです。
日本でもカレーの隠し味として使われる「ガラム・マサラ」というのも、こうしたマサラの一つというわけです。
そういうわけで、インドには「カレー粉」はないのですが、「カレー粉」に相当する「マサラ」というスパイスミックスが存在しますし、マレーシアやタイでは日本と同様の「カレー粉」が売っています。
これは華僑の人たちがマレーシア辺りでインド料理に出会い、自分たちの料理にそれを応用することによって普及したものと思われます。
タイ料理の「パッ・プー・ポン・カリー」は、カニ(プー)のカレー粉(ポン・カリー。ボン・カレーじゃないよ)炒め(パッ)であります。
カニとカレー粉? と思われるかもしれませんが、これがなかなかおいしいんですよ。
それから昔、たまたま上海で食べた刀削麺が、カレー味でおいしかったなぁ。
中華風のカレー粉使いも、よいものです。
(なお、この項は記憶だけにたより、まったく事実の検証をしておりませんので、情報に誤りがあっても、当方では一切責任を持つことができません。この情報の利用につきましては、お客様のご責任において行なっていただけるようくれぐれもお願い申し上げます。ぴんぽんぱんぽーん)
というわけで、今日はこの辺で。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬