今日もインターネット密林(ジャングル)にお集いのみなさま、元気にやってますかー。 ところで、あなたは、ひょっとして、 働かないのは「悪いことだ」 と、思ってませんか? そう思って「いけない理由」もないのですが、どちらかと言えば、窮屈な考え方じゃないかなあ、と思いまして。 というわけで、今回は、政治学者・栗原康さんの著書「はたらかないで、たらふく食べたい」をネタにさせていただき、このページでは何度も現れるテーマ「働かなくてもいいじゃん」の変奏曲をお送りします。 「はたらかないで、たらふく食べたい」を書いた栗原康さんは、大杉栄や伊藤野枝の評伝を書いている政治学の研究者です。 東北芸術工科大学で非常勤講師をしてらっしゃるのですが、これはいわばアルバイトに近い仕事ですよね。 いわゆる定職についていないわけです。 そして、定職にもつかず、実家で好きなように勉強し、好きなように本を書き、稼ぎは少ないけれども、自由に生きている。 そうした彼の「自由な生き方」をこちらの本に書かれているわけです。 * * * まあ、「プチブルの高等遊民」といってしまえば、それまでなのですが、そして、ぼく自身が「プチブル高等遊民の失敗事例」みたいなものでありますから、「そういう非生産的なあほうは大概にしなさい」という声がどこかから聞こえてきそうな感じです。 でありますが、というよりは、ですからこそ、 「プチブル高等遊民」でもいいじゃないですか とアジの開き直り的に私は主張したいのです。 * * * 栗原さんのインタビューがこちらにあります。 ・【訊いてみた】いま最注目の政治学者、栗原康さんに訊いてみた【前編】 | ひき☆スタ - ひきこもりから『社会』にメッセージを。 インタビューで、「はたらかないで、たらふく食べたい。これがあたらしい格言だ」という言葉について、どうしたらそんなふうに強く思えるか、と聞かれています。 それに対する栗原さんの答えは、もともと強く言えていたわけではない、というものです。 大学院博士課程を満期退学後、五年ほどほぼ仕事がなく、週にひとコマだけ非常勤講師をしていて、年収10万、という時期があったそうです。 月収10万、じゃありませんよ、年収10万です、年収!! そして、実家にいて、好きなように本を読んだり、ものを書いたりしていたわけですから、親や近所の人や親戚から当然いろいろ言われます。 特に最初のうちは親から相当いろいろ言われたため、栗原さんは「とにかく謝る、土下座する」という技を身につけた、というんですね。 栗原さんの言葉を引用します。 なにか言われたら、とりあえず謝る。土下座して、「もうちょっとしたら稼げるようになるから、もうちょっと、もうちょっと」なんて言いながら、お小遣とかもらったりして。案外それを何年間も続けていくと、親もだんだん折れてくるんですよ。 だから、最初から強かったわけじゃなくて、謝ればいけるぞと、少しずつ思えるようになっていったんです。それを続けていたら、やりたいことがあるからお金にならなくてもやるぞといったふうに、開き直れるようになって、そしてそのほうが意外と楽だなと思えるようになりました。 恥ずかしながら、この私も、五十を過ぎた身で、ロクに収入がないままインド辺りを漂っている人間ですから、日本に帰国する旅費にもこと欠いて、母親に無心するような人生を送っています。 しかし、老齢の母に無心することを「悪いことだ」と思うのか、それとも、そうやってお金を送金してもらうことを「ありがたいことだ」と思えるのか、これは人生の分かれ目になるものだと思います。 ぼくは自分のことを、五十になっても独り立ちのできない「情けない」人間だ、と思うのと同時に、そんな「情けない」人間を支えてくれている母をはじめとする様々な人たちに対して、本当にありがたく思うのです。 昭和の文豪・太宰治は、結婚してからもなお、実家の長兄からの仕送りによって生計を立てていました。 太宰が「仕送り」によってようやく生計を立てていたことを「悪いことだ」としか思えなかっただろうことは想像に難くありません。 芸術というものは、得てしてそのような「困難と苦悩」の中から生まれてくるのでしょうから、それはそれで仕方のないことでしょう。 けれども、世の中には、「社会の多数派」の流れには乗れない人間というものが必ずいるわけで、そうした少数者の居場所があるほうが、社会全体としても健全なもののように思えます。 「社会的」にダメ、と言われる人間が「本当にダメ」なのかどうかを、少し考えてみたほうがいいのではないかと、思うのです。 * * * 栗原さんは、そうやって実家に暮らし、好きな読書と文筆を続けることで、現在では八冊の著書を出し、ご両親との関係も落ち着き、それなりに安定した生活をしているようです。 しかしながら、収入の方は、世間的にいって十分な額があるわけではなく、 いまお金になることをやらないでいると、率直にあまえているとか、遊んでいるとか言われたり、いい歳をしてお金もかせげていないのに恋愛とかをすると、無責任なやつとか言われるのが現状だとおもいます。だからこそ、あえてわがままになりきって、おもうぞんぶん遊びたい、モテたい、楽しみたい、うまいものが食いたいって、声をあらげてみたいなと。 本日発売!『はたらかないで、たらふく食べたい』刊行記念・栗原康インタビュー 後編 | タバブックス と大胆にもおっしゃっています。 今の日本社会は、景気が悪いと言われ続けていますが、決して社会全体が貧しいわけではありませんから、 「お金を稼がなくても、人生を楽しみたい」 という主張も当然ありうるでしょう。 また、お金を稼ぐのが当たり前だと思い込まされて、お金を稼ぐのが立派な人、そして、お金を稼いでないのは「人としておかしい」と思われてしまうところが、今の経済社会の怖いところだともおっしゃっています。 OECDの報告によると、日本におけるニート*1は170万人、推計32万人が引きこもり状態であるとも言われます。 そうした若者たちが、社会からの圧力で、「働いていない自分は人としておかしい」と思い込んでいるとしたら、これほど不幸なことはありません。 「働いていない」のはちっとも悪いことではありません。働きたいと思うような職場が少ない、日本の労働環境のほうがむしろ問題でしょう。 働かないでも食べるのに困らないのならば、無理に働く必要はないではありませんか。 そして、 たぶん、いまおなじような境遇にいる人たちって、けっこうたくさんいますよね。そのうち、一人でも二人でもいいんです。この本をつうじて、だれかがすこしでも生きやすくなってくれたら、自分ももっともっとわがままに生きてやるんだって、そうおもってもらえたらいいなとおもっています。 と、菅原さんもおっしゃる通り、必ずしもお金を稼ぐということにとらわれる必要はありません。 ここでの「わがまま」というのは、「好き勝手にすればいい」ということとは違うでしょう。 きちんと自分の欲求に忠実に生きて、自分の好きなことを自分の責任の中で行なえば、道は開けるものだよ、というメッセージだと思います。 多くの人が、社会に広い目を向けて、様々な関心を持ち、自分が思うような生き方ができるようにお祈りして、この記事はおしまいにします。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬

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カラパイアという「不思議科学系」のサイトがあります。 そちらにこんな記事が出ていました。 ・多次元にもほどがある。人間の脳は最大11次元の構造を持つ可能性(代数的位相幾何学) : カラパイア 従来の数学をまったく新しいやり方で用いて、脳の構造を覗き込んだ神経科学者がいる。そして明らかになったのは、脳は最大11次元で動作する多次元幾何構造を持つということだ。 というのですから、何やら神秘的でおもしろそうな話に思えますが、さて、その実際はというと......。 この研究はスイスが主導するブルー・ブレイン・プロジェクトの一環として行なわれたもので、スーパーコンピュータを用いて、脳の機能を解明しようとするものです。 そこで使われた数学的手法は「代数的位相幾何学」だ*1というのですが、これは「グラフ理論」といったほうが適切でしょう。 そこで使われた数学的手法は「代数的位相幾何学」*2なのですが、ここでは「グラフ理論」と考えたほうが分かりやすいので、その範囲で説明します。 この研究では、 「ラットの脳の新皮質に11次元の動的な構造が見つかった」 というのですが、このときの「次元」は、「グラフ理論」においての「次元」を意味しますから、 「最大12個の神経細胞同士のすべてが互いにつながっている動的な構造が、ラットの脳の新皮質で見つかった」 という話であり、超弦理論や超重力理論の 10次元や11次元といった話とはまったく関係がありませんし、みなさんの頭の中で、高次元の不可思議な幾何学体が生成・消滅を繰り返して、人間の意識という神秘的現象が発生することが分かった、というわけでもありません。 あくまでも、「『わりと複雑なネットワーク』が脳の中で活動している」ことがコンピュータモデルで確かめられたといった程度の話です。 * * * 上記の表現で「11次元の構造」なのに「12個の神経細胞」と書いてあるので、おや? と思われた方もいるでしょう。 グラフ理論で扱うのは、「頂点」と「頂点と頂点を結ぶ辺」を扱います。 (なお、この研究では、辺に向きがある有向グラフを基本的に扱っています) 頂点が3つのとき、すべての頂点を互いに結ぶと、三角形ができます。 このように、「すべての頂点が互いに結ばれたグラフ」を「クリーク」と呼びます。 頂点の数を n とすると、クリークの次元は n - 1 となります。 3つの頂点のクリークの次元は、3 - 1 = 2 です。これは三角形が2次元の構造であることを意味します。 頂点が4つの場合はどうでしょうか。 この場合は、三角形を四枚貼り合わせた四面体の形になります。 頂点は4つなので、そこから1引いて、3次元になります。確かに、四面体は3次元の構造になっています。 この研究中の実験では、31,000 の神経細胞を含むラットの大脳新皮質から得られたデータ・モデルを用いました。 そのモデル上で、8,000万の3次元クリークが発生する中、6次元から7次元までのクリークが恒常的に現れ、最大11次元のものまで発生した例があった、ということです。 このような高次のクリークについては、今まで、生物学的な神経ネットワークとしても、人工的なニューラルネットワークとしても知られていなかったとのことです。 このような高次のクリークが作る動的構造から、実際にどのようにして脳の様々な認識機能を生まれてくるのかは、今のところ分かりませんが、大脳新皮質の神経細胞の連絡に、このような動的構造が存在することが実験的に示されたことは、脳の機能の解明に向けて一歩前進したことになりましょう。 * * * というわけで、11次元といっても、別に「神秘的」な話ではなかったのですが、脳の神経細胞レベルの機能の解明は、まだこの程度だったのか、と逆に驚かされました。 まだまだ、これからの機能解明が楽しみですね。 なお、元記事、 ・The human brain can create structures in up to 11 dimensions - ScienceAlert には、ちゃんと、この研究でいっている「次元」が、「縦・横・高さ」の「次元」とは異なることが書いてあるんですけど、なぜか、カラパイアさんの記事ではその説明がなくなってしまっています。 そして、カラパイア版のこちらの部分。 同チームは、代数的位相幾何学(形状の変化にかかわらず、物体や空間の特徴を記述する数学)を用いて、神経細胞集合が”クリーク(小集団)”に接続されており、クリークの中の神経細胞の数が高次元幾何的オブジェクトとしてのサイズを決めることを突き止めた。 この部分はちょっと誤解があって、前にも説明したように、

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ネギさんのこちらの記事、 ・政治:昔取った杵柄 - ネギ式 を見て、卓見だなと思いました。 日本の人は全体主義を好きか、というと、必ずしもそうではなく、たんに 「全体主義を(再)構築するためのノウハウが蓄積されている」 から、それを選んでしまうのだろう、という説です。 「昔とった杵柄」というわけです。 今回はこのネギさん説に触発されて、日本の将来についてつらつら考えてみようと思います。 ドイツはどこが日本と違うのか どうにも残念な国ニッポン ドイツはどこが日本と違うのか ネギさんの説を簡単にまとめると、 日本の統治者は「全体主義」のノウハウを持っている しかし、日本の国民は「全体主義」を避けるノウハウを持っていない したがって日本は「全体主義」化する ということになります。 そのとき、たとえば、ドイツは日本とどう違うのか、ということを考えることには意味があるでしょう。 ドイツは敗戦によってナチスについて十分に反省したのに、日本が戦前の「全体主義」について十分反省することがなかった、というような話をよく聞きます。 これはどうしてなのでしょうか? ひとつには、第一次世界大戦から20-30年というスパンでナチスが台頭したことが重要と思われます。 ナチスの台頭は、第一次大戦の敗戦について過大な補償を求められたことによるドイツの経済的な疲弊が背景にありました。 そして財界もナチスに相乗りしたことで、第二次世界大戦が開戦し、ユダヤの虐殺という異常事態が起こったわけです。 このとき、「三度目の正直」的な意味合いもあり、陸続きのヨーロッパの中での戦後を考えたとき、ドイツがナチス時代の行動について十分な反省をしたのは、実にまっとうなことと言えるでしょう。 対して、わが日本はと言えば、欧米の植民地政策を真似て、中国大陸に進出したときに、後発の「異民族」国家であるがゆえに、「不当」な扱いを受けることになり、やがて英米の「策略」にはまって「太平洋戦争開戦」に至った経緯もあり、「無謀かつ無茶苦茶」な戦争をした、という自覚はあったにしても、自分たちのやり方に対してあまり反省をしなかったのは、ある意味で当然なのかもしれません。 昭和の高度経済成長期に育ったぼくは、 『「敗戦」を機に、一夜にして日本は変わった』 かのような「神話」を聞かされたものですが、実のところ、そのとき変わったのは、ごく表面的なものにすぎなかったようです。 それまでは「鬼畜米英」と言っていたものが、「アメリカの腰巾着」を装いながら、「いつかアメリカを見返す大国になってやる」という野望を抱くことになり、それを今まさに「実現」しようとしているのが、「安倍政権」ということになりましょうか。 どうにも残念な国ニッポン さて、安倍さん率いるニッポンは、いずれ憲法の改変をはかり、緊急事態条項を組み入れることで、「全体主義化」の総仕上げに至る見込みがかなり高まってきました。 けれでも、そのような「全体主義体制」を作ったからといって、誰もニッポンを尊敬してくれるわけではありませんし、戦前の日本が欧米列強から除け者にされたような状況を再現するのが関の山でしょう。 このような先行き不透明な日本において、国民に取りうる選択肢は限られています。 とにかく、自分の正しいと思うように生きること。自分の暮らしを大切にすること。弱いものに援助の手を差し出すこと。 自分が生きていくだけでも大変なことだとは思いますが、その中でも、自分の信じる価値観を大切にすることが、生きる意味につながるものと思います。 「こうしなければいけない」というような硬い「思い込み」からではなく、自由で柔らかい考え方を心がけることによって、一日一日にゆとりを持っていきたいものだと思うのです。 てなところで、この記事はおしまいになります。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬

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前回の記事、 ・最近のニッポンに何かとうんざりしている皆さんへ - いかにして「うんざり」を昇華させるか - *魂の次元* に対してid:ad2217 さんより、次のようなコメントをいただきました。 投票はしてるけどね。関係ないように見えるだろうが、進化だって種間の競争よりも種内の競争が重要に思えるわけで。 「うんざり」してても、ちゃんと投票してる ad2217 さんは、すばらしいっ。 そして、「種間の競争より種内の競争」というお題をいただいてしまいました。 このお題はちょっと難しいので、勝手に話をずらさせていただいて、「競争も大事やけど、協調も大切なんとちゃう?」というような話を書いてみようと思います。 繰り返し「囚人のジレンマ」ゲームと「協調」戦略 それなのになぜ、人は裏切り合いを続けるのか 「親分・子分」の関係を越えるために 繰り返し「囚人のジレンマ」ゲームと「協調」戦略 世の中には「ゲーム理論」というものがありまして、この場合、ゲームと言っても人生自体をゲームに見立てたような話なんですがね。 で、「囚人のジレンマ」というのは、二人のプレーヤが、相手と「協調するか」、「裏切るか」の2つの選択肢があるときに、強調し合ったほうがお互いにいい結果が出るのに、「合理的に考える」と裏切り合わざるをえないというけったいなシチュエーションを設定して「ジレンマ」と呼ぶものなわけです。 詳しい話は囚人のジレンマ - Wikipediaをご覧ください。 裏切り合わざるをえない、と書きましたが、実は、この「囚人のジレンマ」を一回限りでなく、繰り返してずっと続ける場合は、必ずしも「裏切り」続けることが「最適」な行動になるわけではなく、 相手が裏切ったら、裏切り、相手が協調したら、自分も協調する、 というような形で、「協調」することは有効であることが、実験的に知られています。 (1984年にロバート・アクセルロッドによって行われたものです) それなのになぜ、人は裏切り合いを続けるのか まったく残念なことではありますが、「共謀罪法」のようなものが成立することは、現実の社会において「裏切り合い」が続いていることの証左としか言いようがありません。 これについては、「繰り返し囚人のジレンマ」ゲームに関しても新しい知見があり、「主人と奴隷」のようにプレイヤに役割分化があり、「主人と奴隷」の関係をよしとするグループ化があるときには、「主人から奴隷への裏切り」、「奴隷から主人への服従」、「自分のグループ以外への裏切り」が有効な戦略であることが、示されています。 (https://ja.m.wikipedia.org/wiki/主人と奴隷 およびhttps://www.wired.com/2004/10/new-tack-wins-prisoners-dilemma/を参照ください) このようにグループ化によって「協調戦略」が無効化される可能性は、アクセルロッドの著書「つきあい方の科学」でも、指摘されていたことですが、それがコンピュータによる実験でも示されたところに、現在の科学的な知見をきちんと見ることの重要性を感じます。 ちなみに、この「主人と奴隷」という言い方は、ちょっと強すぎるかと思うのですが、「親分と子分」的な考え方は、現実の日本で、普通にあることではないでしょうか。 「親分が言ってるんだから、仕方がない」、「難しくて分からないから親分の言うとおりにしよう」、そんな考え方を、ぼくたちはついつい、してしまいがちではないでしょうか? 「親分・子分」の関係を越えるために 大抵の場合は、「親分」の言うとおりにしていればいいのが現実かもしれません。 けれども、ある「限界点」を越えるとき、「親分」にしたがってはならない場合がありえると思うのです。 そのとき必要なのは、いつもは「自分たち」ではない人との「協調」です。 自民や公明を支持するみなさんの中にも、『「共謀罪法」はまずい』と思ってらっしゃるかたは、少なくないはずです。 「共謀罪法」自体はもう成立してしまいましたが、憲法を改変することにより、「戒厳令」を自在に実行できるようにしてしまおうという危険な「流れ」があります。 こうした「憲法の改変」を、今の流れのままに許してしまうのかどうかということは、日本の未来に、「極めて大きな影響」を与えると思われます。 ですから、今の日本の与党を支える、自民・公明の支持者の方にこそ、お願いしたいのです。 「現行の憲法」を改変することは、欧米の「独善的グローバリズム」に利することでしかありません。 「日本の民主主義」的なあり方を守り、欧米の「独善的なグローバリズム」に対抗するためには、どうか、「現行の憲法」を守ってほしいのです。 ......と、いうわけで、なんだか話が随分よれてるような気もしますが、まあ、いいことにしましょう。 言いたいことは、「親分・子分の関係」にも限度があるよ、「長いものに巻かれろ」も大概にしといたほうがいいんじゃないの、ってな話です。 そして、これを逆向きに言わせてもらいますと、 与党嫌いのみなさま、喧嘩を売ってるだけでは、ニッポンの流れは変わりませんよ。 与党の中にも、あなたの志を理解してくれる方々がいるはずです。 それを「く○みそ」で全部ゴミ箱に捨ててたら、やっぱり支持は得られないんじゃないかなー。 「流れ」を作るには、「協調」が必要なんじゃないかなーー。 そんなことを思って、つらつらと書かせていただきました。 てなところで、この記事はおしまいになります。 ほいでは、みなさん、ナマステジーっ♪

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前回の記事、 ・共謀罪法という名の「凶暴」な法律について考えてみたよ - *魂の次元* に対してid:ad2217 さんより、次のようなコメントをいただきました。 国民と独立して政府が存在するわけではないので、政府にうんざりする時には同時に、国民にもうんざりしてしまうんですよ。 確かに、政府の現状にはいい加減「うんざり」させられますし、政府を「支持している」国民の「多数派」のみなさんに対しても「うんざり」したくなる気持ちは分かります。 けれども、その「うんざり」感こそが、現政権を支えてしまっているのではないか。 そして、その「うんざり」を、現状を変えるためのエネルギーに昇華することはできないのか。 今日はそんなことをつらつらと考えてみます。 「政治不信」こそが「うんざり政権」の支持基盤ですので、ぜひ選挙には行きましょう 選挙に行っても変わらない現実を前に、とにかく動いてみよう あらためて、「政府」や「国民」にうんざりしてしまうあなたに 「政治不信」こそが「うんざり政権」の支持基盤ですので、ぜひ選挙には行きましょう ニッポンの政府、国会、司法、官僚、財界、メディア、教育機関、その他もろもろのあり方に、良識あるみなさんが「うんざり」しているだろうことは、想像にかたくありません。 とはいえ、ニッポンが曲がりなりにも「民主主義国家」を標榜している以上、こうした現状を変えていくためには、政治のあり方を変える、というのが、一つの王道としてありましょう。 ところが残念なことに、あるいは為政者の方々には好都合なことに、ニッポン国には「政治不信」が蔓延しています。 たとえば、先日の千葉県船橋市の市長選の投票率は過去最低の 28.1% であり、市長に当選した現職の松戸徹氏は、有権者の 17% からの信任しか受けていないことになります。 今回投票しなかった有権者は、71.9% にものぼるわけで、仮にその4分の1の人が松田氏以外の人に投票した場合を考えても、結果は大いに違ってきた可能性があります。 別サイトの記事、 ・魂の次元: 政治なんてアホらしいですか? ライフネット生命の出口治明氏はこう言ってます にも書きましたが、もしあなたが現状の政治に満足していなかったら、ぜひ選挙に行って、現在の与党ではない候補者に投票してください。 ライフネット生命の出口さんによる、ヨーロッパにおける選挙の常識はこれです。 ヨーロッパの人と話をすると、選挙は学校で次のように教えられるのです。メディアが事前に選挙結果を予想しますが、その予想通りで良かったら三つ方法があります。投票に行ってその通り書く、白票を出す、棄権をする。すべて同じ結果になります。もしメディアの予想に反対なら、方法は一つしかない。行って違う人の名前を書く。これが選挙ですよと教えるのです。 日本ではこういう当たり前のことが教えられていないから、「ろくな候補者がいなかったら堂々と棄権しなさい」などと変なことを言う評論家がいたりするのです。ヨーロッパでは中学生以下のリテラシーです。 出口治明さん「日本はお金の教育をしていない」 ライフネット生命会長に聞く教養とは というわけで、以上 「政治にうんざりしているあなたにこそ、選挙に行ってほしい」 という話でした。 選挙に行っても変わらない現実を前に、とにかく動いてみよう しかしながら、ぼくがこんなところで、「みんな選挙に行こうっ」と言ったからといって、 明日から投票率がうなぎ登りに上がって、日本の政策が大幅に変わる、 わけはありませんよね。 メディアぐるみ、社会ぐるみの「出来レース」になっちゃってますから、この事態は簡単には変わりません。 そのとき、自分が投票に行くだけでは、やはり状況は変わりませんから、その他に自分ができることはないのか、ちょっとしたことでもいいので、少しずつでも動いていくことが大切でしょう。 ネット上で「うんざり」した気持ちを表現することもいいでしょう。 ネット上で共感できる人の存在を知るだけでも力になります。 けれども、そうやって表現して、仲間内でやりとりするだけで何かをした気になってしまってはもったいありません。 その「うんざり」に秘められたエネルギーをさらに昇華して、現実の行動につなげていくことが大切です。 デモやパレード、あるいは学習会に参加してみたらどうでしょうか。 そうした行動に、なんの意味があるのか、という疑問や、そんな行動をして大丈夫だろうか、というためらいも、あるかもしれません。 けれども、一歩踏み出すことで、新しい人との出会いが生まれ、他の人からエネルギーをもらうような経験も得られるかもしれません。 とにかく、現実に体を動かしてみる。そこから何かが生まれるはずです。 無理のない範囲で、一歩を踏み出してみることをおすすめします。 あらためて、「政府」や「国民」にうんざりしてしまうあなたに 限りのあるあなたの一度きりの人生ですから、わざわざ「うんざり」する人たちと付き合う必要はありません。 そういうあなたは、もう政治のことなど忘れて、自分の世界をきちんと生きればいいのです。 その代わりに、「うんざり」する現実を、ただそのまま受け止めることにすれば、いいでしょう。 多分これは、ヒトという種族の愚かさからして避けることのできない事態なのかもしれません。 あなたがあなたの世界をきちんと生きていれば、社会がどうあろうと、あなたの人生は完璧です。 ヒトが「病」を完全に克服できないのと同じで、人間の社会も「共謀罪法」のような「病んだ」法律を克服することはできないのかもしれません。 「病」を過度に恐れてもしようがありません。 あるいは、医者の宣告通りに死期を受け入れてそのまま死んでいくのも莫迦ばかしいことです。 今日も明日も、ぼくたちは自分自身で人生を選んで生きていくだけのことです。 願わくば、あなたの人生が、そして生きとし生けるものの命が、輝きに満ちたものでありますように。 てなわけで、この記事はおしまいです。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬

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みなさん、こんにちわ。 2017年6月15日は、いわゆる「共謀罪法」が成立した日として、戦後ニッポンの歴史の一つの転回点になったと思われます。 そこで。 改めまして「共謀罪法」の問題点を簡単に説明するとともに、今後の総天然色全体主義国家ニッポンを生きるヒントを考えてみたいと思います。 共謀罪法のどこが「凶暴」なのか 共謀罪法が通ったからといって、それだけで社会が突然「治安維持法の世界」に変わるわけではない 雨の日も嵐の日も、雪の日も吹雪の日も、日々是好日 共謀罪法のどこが「凶暴」なのか テロ等準備罪こと共謀罪法ですが、名前に「テロ」とあるにも関わらず、「テロ」とは全く関係のない、さまざまな行動を取り締まりの対象にしているところが、大変「凶暴」なんですよね。 ・共謀罪(テロ等準備罪)の3つの問題 : 東京法律事務所blog という記事で東京法律事務所の弁護士・今泉義竜さんが具体例を上げています。 ・会社の社長が税理士に節税の相談(所得税法、消費税法違反の共謀) ・住民団体が高層マンション建築に反対する座り込みを計画(組織的威力業務妨害の共謀) ・消費者団体が不買運動を組織しようと相談(組織的業務妨害の共謀) といった具合で、この法律の対象になるのが「長期4年以上の刑を定めている犯罪」であることから、およそテロとは関係のない、あなた自身が巻き込まれかねない、様々な行動が対象になりうるわけです。 おまけに「そうした計画をした疑い」だけで「捜査機関が逮捕や捜索・差押えをすることができる」ようになってしまいましたので、身に覚えのない話で、突然あなたのうちに警察が家宅捜索にやってこないとも限らない世の中の「いっちょ上がり」というわけです。 また、そうした「共謀の証拠」をつかむためとして、盗聴、メール・SNSの監視や各種団体への捜査官の潜入捜査などが、これまで以上に広範に行なわれるようになることも予想され、社会的な息苦しさが増し、一般市民の自由な行動が、だんだんとしずらい世の中になっていくことも想像されます。 以上、簡単に共謀罪法の「凶暴」さを見ましたが、普段そういうことを考えたことのない方には、いまひとつピンとこない話かもしれません。 共謀罪法が通ったからといって、それだけで社会が突然「治安維持法の世界」に変わるわけではない ・衆院通過した「共謀罪」、何が問題なのか? – 田原総一朗公式サイト という記事で田原総一朗さんが指摘してらっしゃいますが、この共謀罪法は、戦前の治安維持法を現代に蘇らせたものといって間違いないと考えます。 田原さんも指摘なさっている通り、 「治安維持法ができた昭和初期と現代では、民主主義の成熟度が違う。心配のしすぎだ」 とお考えの方も多いでしょう。 「しかし」と田原さんは言います。 昭和初期の日本というのは、大正デモクラシーを経て、きわめて自由な時代だったのだ。それが治安維持法ができたことで、不自由な時代へと変わっていった。そして、ついには、あの戦争へと突入してしまったのだ。 現在、政府は共謀罪については、「一般国民には関係ない、大丈夫」と言う。だが、治安維持法が成立した際、時の政府は、「無辜(むこ)の民にまで及ぼすというごときことのないように十分研究考慮を致しました」と答弁したのだ。ところが戦争が始まると、少しでも戦争や政府への批判を口にすると拘束され、ひどい場合は拷問の末、殺されるようになる。 法律によって意図された政治の方向性は、一夜にして社会を変えるものではありません。 それは、徐々に社会に浸透し、じわじわとぼくたちの首を締めていくのです。 あなたが「ほんとかな?」とか「違うんじゃない?」などと思われる気持ちには、同情いたしますが、五十年以上の馬齢を重ね、2011.3.11. 以降の日本社会の急激な変化を、体の感覚として実感しているものとしては、 『「凶暴」な法律による、超管理社会の到来』 という不吉な予想を、わざわざこうして書かざるを得ない動機というものがあるのです。 雨の日も嵐の日も、雪の日も吹雪の日も、日々是好日 共謀罪法が通ったからといって、今日からあなたの言論が制限されるというものではありません。 ですから、昨日までと違った何かを心がけていく必要は特にありません。 昨日までと同じく、今の日本で保障されている自由を謳歌して、毎日を楽しく生きていけばいいのです。 とはいえ、多くの日本の方々が愛する「ことなかれ主義」と「長いものには巻かれろ」式の思考の放棄が、現状のニッポンの「息苦しさ」を招いてしまったことは確かなものと思われますので、もしもあなたがこの「息苦しさ」をなんとかしたい、と思っていらっしゃるのでしたら、たった一つでもかまわないので、あなたが大切とする「価値観」を守るために、自分を偽らないで、きちんと実践をすることをお願いしたいのです。 堀田善衞の「広場の孤独」という小説に中国に兵隊として行ったときのエピソードがあります。 そのエピソードでは、農村出身の同期の兵隊の一人が、戦場においても、農作物だけは傷つけないように行動しているという話が出てきます。 現に戦争に行き、敵兵と戦っているときに、人間としてどういう「良心」を持ち、どんな「価値観」を大切にできるのか、ということを示す、一つのエピソードだと思います。 毎日の仕事の中で、あるいは毎日の仕事ができないときに、ただその日常に埋没してしまうのではなく、自分は人間として何を大切にしていくのか、そういうことを多くの人が考えることができるようになったとき、社会というものも、その進む方向を変えていくことができるのではないかと、思うのです。 晴れの日ばかりではない毎日を、それでも今日もいい日だ、と思えるように、一歩いっぽしっかりと歩いていきたいものではありませんか。 以上、舌足らずな文章ではありますが、共謀罪法の成立を期に書かせていただきました。 平成末期のニッポンを生きていく上で、なんらかの参考にしていただけたら幸いです。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬ ☆こちらのサイトにも関連記事がありますので、よろしければどうぞ。 ・魂の次元: 共謀罪法成立の日に、100年後の世界を見据えて

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このweblogのタイトルは「*魂の次元*」となっていますが、今までその説明をしたことがなかったので、今日はちょっとその話をしようと思います。 ぼくたちが住んでいるこの世界は、縦・横・高さの三次元に、過去から未来へ流れる時間の次元を合わせて四次元の世界ということになっています。 これは物理的な時空間の話ですね。 ぼくたち人間は、しかし、ただ物理的な存在ではありません。 物理的というよりは、生物的な存在ですし、それ以上に、心理的な存在であると言えます。 そこで、物理的な時空の四次元に加えて、心理的な次元というものを考えることで、別の視点が得られたら面白いんじゃないかなぁ、というところから、「魂の次元」ということを考えてみたのです。 * * * たとえば、あなたが、街なかの車通りの多い道端にいるとしましょう。 車の騒音がうるさいでしょうし、排気ガスが臭いかもしれません。また、歩道に少しばかりの植え込みがある以外は緑もなく、人間以外の生き物は見当たりません。 ここで、時空をジャンプして、南の国の小さな島の浜辺に行ってみましょう。 寄せては返す波の音以外は耳に入らず、日本の海のような磯のにおいもしません。夕暮れ近い砂浜では、たくさんのカニが巣穴を掘っており、掘り出してきた小さな砂団子をたくさん並べて、無数の幾何学模様を描いています。 この2つの情景を比べてみたとき、そこには「音・におい・視覚」といった人間が感じ取ることのできる、様々な指標が考えられます。 ここではこの指標を「次元」と呼ぶことにします。 「音」についてもう少し考えると、「大きさ」だけではなく、心地良い音と不快な音の違いもありますから、そうした質についても指標が考えられ、たとえば、「金属的なもの」、「機械的な繰り返し」、「波や風など自然の音」、「生き物の声」などなど、無数の次元を見出すことができます。 それぞれの指標をどうやって数値化するかという問題はありますが、ここでは科学的に意味のある厳密な議論をするのではなく、ぼくたちの住んでいる世界が、いかに多種多様な次元から成り立っているかを見ることを目的とさせていただき、そちらの話には深入りしません。 * * * さて、「音・におい・視覚」といったものは、人間以外の生物も感じているという意味で、生物的な次元とも言えますが、同時に心理的な次元とも言えます。 人間は他の動物とは違い、巨大な脳を持ち、論理的に考えることができるところに大きな特徴があります。 同時に、他の動物同様に、快不快の感覚を持ち、怒りや恐怖、喜びや悲しみの感情を持ち、そうした「内側」の心理的な次元が、人間の思考に大きな影響をもたらします。 そして、この「内側」の心理的な次元が、「音・におい・視覚」といった「外側」の次元から大きく影響を受けるだろうことは、みなさんにも納得いただけるだろうと思います。 道を歩いていて、焼きたてのパンの香りでも漂ってくれば、「おいしそうだな」と感じていい気分にもなるでしょうし、逆に不快なにおいに対しては、どうしたって嫌な気分になりますよね。 * * * さて、このような「心理的な次元」というものの存在は、分かりやすいものだと思うのですが、今までの意識できる「心理」の話から、もう一歩話を踏み出して、無意識の領域のことを考えてみます。 これはカルロス・カスタネダというアメリカの作家が書いている話なのですが、カスタネダはメキシコの呪術師ドン・ファンに弟子入りします。 ドン・ファンが言うには、土地には土地の持つ力があります。それは良い力ばかりではなく、悪い力の場合もあります。 呪術師には、どの場所が良い力を持ち、どの場所が悪い力をもつかが分かるのですが、普通の人間には分かりません。 ところが普通の人間でも、その行動をはたから見ていると、「良い力の場所」と「悪い力の場所」を見分けているのがはっきり分かる、というのですね。 普通の人間が歩いていて、「悪い力の場所」に差し掛かったとします。すると急にスピードを上げて、そこを通りすぎようとします。もしその人にどうしてスピードを上げたかを聞いたなら、「元気が出てきたからだ」というような答えが返ってくるのだと言います。 逆に「良い力の場所」に差し掛かると、スピードを落としてゆっくり歩き始めます。どうしてなのか聞くと、「ちょっと疲れたんだ」というような返事が返ってくるというわけです。 * * * この話は、ぼくたちが「意識的」には気がついてない何かを知っている、というある意味「当たり前」の話を分かりやすく説明してくれているエピソードではないでしょうか。 みなさんは、 「理由は分からないけれど、こっちが絶対いい」とか 「うまく説明はできないけれども、これは今やっちゃダメだ」 というような感覚を持ったことがありませんか? アインシュタインも言っていますが、ぼくたちは、「無意識」の領域で、大部分の「思考」を行なっていて、「意識」的な部分というのは、実は本当に氷山の一角なんですよね。 「言葉で説明できないなんて無意味だ」と思われるかもしれませんし、社会的にものごとを進めるためには、確かに言葉による説明が必要なのですが、現実の話として、人間は「言葉以前の思考」によって生きているのかもしれない、ということを考えていただきたいのです。 * * * こうした「無意識」的な感覚・知識というものも、外側の「知覚の次元」によって、ある程度は説明できるものだとは思うのですが、頭の中の無意識的な領域に構築された知識のネットワーク自体を、要素に分解して指標化することは実質的に不可能なように思われます。 この「次元」として指標化して取り出すことのできない無意識が持つ「次元」を、「魂の次元」と呼びたいと思うのです。 この「魂の時空間」は、「空想・幻想・仮想」の時空間ですから、不可能なことはありません。 にもかかわらず、それはあなたの中に実在する時空間ですから、ただの夢まぼろしとは違うのです。 あなたの思う通りのことがそこでは起こり、そこではあなたは完全に自由なのです。 ただし、それは、あなたが「魂の次元」の性質をよく知り、その力に親しみ、その法則にかなった生き方をするときに限ります。 この世界の法則をじっくりと学び、魂の次元を深め、楽しい日々を生きたいものではありませんか。 てなわけで、最後はぶっ飛んで、スピリチュアルというか、ちょっとオカルトめいた話になりました。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬

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ニッポンのがんばりすぎの皆さん、おはようさんです。 ぼくは五十を過ぎて、奥さんともどもインド辺りをふらふらし、ロクに仕事もしないで、瞑想ごっこをしているような人間です。 世の真面目に働いている方々のうちには、「ダメ人間の典型」みたいに思われる方もいらっしゃることでしょう。 けれどもぼくは、自分にはこの生き方しかないんだし、それでいいんだ、と思っています。 そして、今の日本の「しんどい」状況の中、「がんばれない」で悩んでいるあなたに、 「無理にがんばる必要はない」 ということを伝えたいんです。 「がんばるのをやめて別の道を選ぶ」ことには、勇気がいるかもしれません。 でも、先のことばかり考えていると身動きが取れなくなって、自分が潰れてしまうこともあります。 人生には、長い目で見なければ分からない、不可解な経験がつきものです。 その意味では、自分が潰れる危険をおかすのも、一つの経験なのですが、できれば、そうならないうちに手を打ったほうがいいかもしれない……。 「思い切りよく、その場その場の感覚だけで、人生を生きてきた」ぼくのこれまでの経験が、ひょっとしてあなたの参考になったらいいなと思って、この記事を書いています。 ちょっと、無茶苦茶すぎる人生なんで、あんまり参考にならない気もしますけど(笑)。 そして、「あなたの参考に」とは書きましたが、途中まで書いてみて分かったのは、ぼくは、心の底に淀んでいる澱を、こうやって記事にして、きれいさっぱり捨て去ってしまいたいんだなぁ、ということ。 結局のところ、それがこの記事の意味ですので、ぼくのカルマの成仏を手伝ってくださるみなさん以外は、これ以上読み進める必要はないかもしれません。 はじめて会ってからひと月ちょっとで結婚した話 二回目の結婚も知り合ってひと月ちょっとでした話 そして数々の修羅場を越えて今に至った二度目の結婚 はじめて会ってからひと月ちょっとで結婚した話 それは、バブル景気もそろそろ崩れ始めたころ、ぼくが27歳になる年の5月のことでした。 当時はインターネットというものはまだなかったのですが、パソコン通信というテキストベースでやりとりをするシステムは世の中に存在していました。 東京の江戸川区に住んでいたぼくは、友だち数人と一緒に小さなパソコン通信のサイトを運営していたのですが、そこで友だちの友だちである、二歳年下の女の子と知り合ったのです。 そして、知り合ってひと月も経たないうちに「結婚しない?」と軽くプロポーズしてしまったのです。 すると意外なことに、相手の女の子から、イエスの返事が貰えてしまい、しかも彼女が「ジューン・ブライドがいい」というので、なんの準備もないまま、とにかく双方の親に挨拶だけは済ませ、6月中のある日に役所に婚姻届だけを出したのです。 その頃、ぼくは男の友だちと鉄筋アパートをシェアしていて、彼女の方はアパートで一人暮らしでした。 それで、ぼくらは一緒に住むこともせず、最初の半年ほどは、ぼくが彼女のアパートに頻繁に遊びに行くという形で、通い婚のようなことをしていたのでした。 とまあ、そんな次第ですので、全然普通の結婚じゃありません。 この調子で話を続けると、超大作になってしまうので、はしょりますが、そんな普通でない結婚に応じてくれた彼女でしたが、ぼくの余りの常識知らずな行動にそのうち見切りをつけることになります。 ぼくは無謀にも東京を捨てて、南伊豆に引きこもる計画を立て、彼女はそこまではついてきてくれたのですが、いつまで経っても仕事もせずに、畑のまね事をする以外は、ぼーっとしているだけのぼくに、やがて愛想をつかし、離婚すると言い出したのです。 今から考えれば、まったく当たり前の話ですが、ぼくの頭の中はどうも少し普通ではないようで、どうして彼女がそんなことを言い出すのか理解することができず、なんとか考えを変えてもらえないかと、しばらくの間、彼女を説得しようとしました。 けれども、そんな状況で説得がうまくいくはずもなく、彼女の意志が固いことを思い知らされて、離婚を受け入れました。 結婚して四年ほど経ったときのことでした。 喧嘩別れしたわけではありませんでしたので、離婚してからも時々顔を合わせることはあり、なんとか復縁できないものかと、ぼくのほうは思っていたのですが、あるとき、彼女から「最終的な別れ」の手紙をもらい、「あー、これでもう、彼女とはお別れなんだな」と分かりました。 今思い出しても、悲しさが込み上げてきますが、ぼくという人間の身勝手さを教えてもらった彼女には、本当に感謝しています。 彼女は再婚して、子どももおり、幸せに暮らしているということを、ネットづてで知り、ああ、やっぱり、あれでよかったんだなと、今では納得しています。 二回目の結婚も知り合ってひと月ちょっとでした話 前の項を読んで、このこの項のタイトルを見たあなたは、 「きみは一回目の結婚から何も学ばなかったのか」 と思われたかもしれません。 たぶん何も学んでいなかったのかもしれません。 人間って、何度でも同じ間違いを繰り返すものですよね。 えっ、あなたはそんなことはない? それはすばらしいことです。 でも、世の中にはぼくのように、何度でも同じ間違いを繰り返す人間は少なからず存在するのです。 これがカルマってやつでしょうか。 最近は瞑想をやって、カルマ落としに励んでるんですけれども。 それは、ともあれ、一回目の結婚から十分には学んでいなかったと思われるぼくは、離婚してから四年が経ち、33歳のときに再び、出会ってひと月ちょっとの、今度は同い年の女性と結婚することになったのです。 そして、十分な学びができていなかったぼくは、結婚して二年ほど経った頃に、またしても奥さんから「別れ話」を切り出されてしまうのです。 そして数々の修羅場を越えて今に至った二度目の結婚 ぼくという人間は、「人の気持ちを感じ取る能力」にかなりの「欠損」があるようで、最初の奥さんについても、ぼくの身勝手な行動で彼女が「どれだけ困っていたか」をまったく理解できていませんでした。 同じように、二番目の奥さんについても、ぼくと一緒に暮らすということが、彼女にとって「どれだけ負担になっているのか」が、これもまったくといっていいほど理解できていませんでした。 けれども、彼女に別れ話を切り出されたとき、ぼくは 「きみがどうしても別れたいというのなら、それでかまわない。だけれども、今までぼくたちが一緒に暮らしてきた時間には意味はなかったんだろうかねぇ」 と言って、涙を流しました。 彼女はとても優しい人なので、それで思い直してくれて、それ以降、そのような形で「別れよう」と言うことはありませんでした。 とはいえ、それで問題が片付くはずもありません。 というか、それからが本番だったのです。 ことあるごとに、彼女は、ぼくの行動の身勝手さや嘘やずるさを、巧みな論理と感情に対する揺さぶりで、情け容赦なく攻撃してきます。 (なお、攻撃の内容は、ぼくの行動が彼女の気持ちを傷つけたことや、ぼくがロクに働かないこと、金銭に意地汚いこと、などです) そのたびにぼくはノックアウトされて謝り、彼女の言うがままに約束をするのですが、その約束を守ることがぼくにはできません。 まさに、ダメ人間です。 けれども不思議なもので、ノックアウトされるごとに、こちらの覚悟もできてくるというのか、彼女の言う正論の中にも「身勝手」さがあることに気づいてきますし、お互いの関係性というものが、徐々に変わってくるんですね。 そうして、この六年ほどは、二人ともヴィパッサナ瞑想をやるようになったことも手伝って、互いに感情のぶつけ合いをするようなことが、だんだん少なくなってきました。 ぼくの身勝手な言い分としては、「どうしてぼくばかりこんなに責められなければならないのか」という気持ちでいたのですが、ある意味それは自分で撒いた種なんですよね。 でも、同時にそれはお互いの関係性の問題でもあるので、彼女のほうがぼくを「変えよう、変えよう」としても、ぼくはやっぱり変わらないし、変えられない。それぞれが少しずつ変わっていく中で、それが相手にも伝わって、また互いに変わっていく。 そういうことなんだと思います。 そんなこんなで、今の奥さんとの結婚は、もうじき18年になろうとしています。 この18年、ぼくはぼくなりに頑張ってきたのだと思いますが、何かを無理に我慢するというのは、嫌いなんですよね。 もちろん、好き勝手にすればいい、というものではないのですが、「社会的な常識」とか「人の思い込み」に勝手に嵌めこまれても困る、といった感じでしょうか。 日本ではどうしても「周りに合わせるためにがんばる」ことになりがちです。

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「問題は」とハンプティ・ダンプティが言いました「僕と言葉のうちのどちらが相手の主人になるかということ、それだけさ」 ハンプティ・ダンプティ - Wikipedia ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」おもしろいですよね。 「鏡の国」に出てくる、このハンプティ・ダンプティの、一見奇妙に思えるセリフにヒントを得て、今日は言葉が持つ「呪文」としての性質を、「21世紀的」な視点から考えてみようと思います。 ここで「21世紀的な視点」というのは、「コンピュータが暮らしの中に入り込んだ文脈の中で」という程度の意味です。 *1 プログラミング言語も言葉なの? 「呪文の実現」としてのコンピュータ言語 ぼくたちが毎日使っている「呪文」のこと コトノハ 2.0 、あるいは言葉を「呪文」として使いこなす方法 プログラミング言語も言葉なの? みなさんはプログラミング言語を使ったことがありますか? プログラミング言語というのは、コンピュータに何かをやらせるために、命令を組み立てるための「言語」ですよね。 これはぼくたちが日常使っている「言葉」とはちょっと違います。 「日常言語」は、「命令」だけで成り立ってるわけじゃないですもんね。 けれども、プログラミング言語も「人間が機械に指令を与える=人間と機械がコミュニケートする」ためのものなのだ、と考えれば、「言葉」の一つとして捉えることができるでしょう。 ここではまず、プログラミング言語というのがどんなものなのかを、ごく初歩的な部分だけ、紹介します。 たとえば、python というプログラミング言語があって、これには、print という命令があります(「命令」ではなくて「関数」というんですけど)。 そこで、 print(1+2+3) と、pythonに指示してやると、 6 という結果を表示してくれるわけです。 (print といっても印刷するわけではなく、画面に表示するんですね) これだけだと、計算機を使うなり、手で計算するなりしても特に変わりませんが、仮に学校の宿題で、 「1 から100までの数の自乗(ある数同士を二回かける)のを計算してきなさい」 という宿題が出たら、どうでしょうか。 計算機を使うにしても、これをいちいち、 1x1, 2x2, 3x3 .... と100までやるのは大変ですよね。 コンピュータだったら簡単にできそうです。 これをpythonでやるには、 for i in range(1,101): print(i*i} という「呪文」を使ってやることになります。 ここで、 「for 〜」は「〜の間くりかえす」 「range(1,101)」は「1から100まで」(指定するのは101なんですけど、100までになります) 「*」は掛け算 を表していて、結果として、 「i という変数が 1 から100になるまで、i x i の結果を表示しなさい」 という「呪文」を表すことになるわけです。 お仕事で excel をお使いの方などは、こういったタイプの「呪文」が使えると、手作業をコンピュータにまかせられて便利なことは、よくご存知のことと思います。 「呪文の実現」としてのコンピュータ言語 さて、コンピュータというのは融通が効かないものですから、先ほどの「呪文」は、単語を一つ、記号一つ、打ち間違えても、せっかくの「命令」は実行されなくなってしまいます。 「ひらけー、ゴマ」と言えば、秘密の扉が開くのに、「ひらけー、コマ」では開いてくれないのと、これはよく似ています。

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みなさん、こんにちわー。 以前の記事、 ・新卒で「プログラマ」として入社した一部上場精密機器メーカーを、ぼくが2年足らずで辞めた「理由」: #00 販売実習をやめたいと言ったら上司に呼び出された話 - *魂の次元* では、入社時の新人研修で、販売実習があり、あまりに向かないので「やめたい」と上司に相談したものの、「丸め込まれて」やめられなかった話を書きました。 今日は、少し話をさかのぼって、どうしてぼくがその会社に勤めることになったかを書いてみます。 ぼくは東京の大学でコンピュータの勉強をしていたのですが、コンピュータや勉強が大好き、というほどのことはありませんでした。 それで、学部四年のとき、修士課程に進むかどうか迷ったのですが、同じ研究室の修士二年の先輩で、いい感じの方がいて、自分もあんなふうにやれたらなあ、みたいな「雰囲気だけ」の気持ちで、修士に進む方向で考えてみました。 とりあえず内部推薦の制度があったので、それに申し込み、また、大学院の入試も受けることにしましたが、実のところ、大学の成績は特によいわけではなく「内部推薦は通ったらもうけもの」くらいのいい加減さで、しかも入試に向けての勉強などもまったくしていませんでした。 それで、内部推薦の面接のときのことなのですが、ぼくの所属していた研究室の先生が、こんなことを聞くんですね。 「きみは成績がずいぶん悪いけれど、これはどういうことかね?」 いやー、身も蓋もない、サイコーの質問じゃないですか!! しどろもどろに何を答えたものか、さっぱり覚えていませんし、ほかに何を聞かれたのかもすっかり忘れてしまいましたが、当然推薦は受からず、そのうち、大学院の入試の日付が迫ってきました。 自分がそのとき、何をどう考えたのかは、あまりよく覚えていないのですが、結論だけははっきりしていて、 「やっぱ入試はやーめた」 と思って、誰にも相談せず、一人勝手に就職することに決めました。 ぼくは実家が世田谷なので、渋谷あたりが行動範囲だったのですが、たまたま渋谷の本屋で高校のときからの友だちとばったり出くわしたので、 「いやー、おれ、大学院受けるのやめようと思って」 とか軽い調子で話したら、その友だちは、 「それはやっぱり受けといたほうがいいんじゃない?」 と親身に忠告してくれたのですが、ぼくは人の話が耳に入らないほうなので、「そんなこと言われてもなー」と思ったくらいのもので、結局そのことは誰にも告げないまま、入試当日ばっくれてしまったのです。 あとから研究室の同級生に、「先生かなり怒ってたよ」とか聞きましたが、別になんとも思いませんでしたから、ぼくという人間の「非社会性」が知れるというものです。 * * * さて、これで大学院に行く道は断たれましたから、就職口を考えなければなりません。 この頃ぼくは、高校時代の同級生が先輩とともに立ち上げたソフトウェアハウスでプログラマのアルバイトをしておりました。 某通信関係大手の研究所の孫受けで、マルチウィンドウ端末*1用のソフトウェア開発環境をコーディングする仕事で、ぼくはそのシステムにエディタのソースコードを埋め込むのを担当しました。 で、そのソフトウェアハウスをやっている友だちが、 「きみはうちに就職する気はないか? プログラマとしてのきみの能力はまだまだだが、十分将来性はある。今うちの会社は小さいから、きみが来てくれるかどうかは、うちにとっては大きな問題だ。 さあ、どうだ、来てくれるのか、来てはもらえないのか。 はっきり答えてもらおうじゃないか! さあ、さあ、さあ!!」 というような文面ではありませんでしたが、かなり熱気のあるお誘いのお手紙をもらいました。 しかし、ぼくは薄情な人間で、友だちの会社に就職するつもりは全くなかったので、あっさり断りました。 どこかの会社の下請けで何かをやる、というようなタイプの仕事には興味がなかったのです。 こんな選り好みをしていたら、仕事なんてできないよなあと、今は思いますけどね。 それで結局どうしたかというと、修士の人たちの就職活動におまけでついていって、某精密機器メーカーの中央研究所の見学に行っていたぼくは、 「ぼくはそもそも会社勤めがしたいわけじゃないし、この機会を逃したら、大企業に勤める機会なんてないだろう。社会経験としてあの会社に入れてもらって、中央研究所で働かせてもらおう。まあ二年くらいが目処かな」 とまったく自己本位に勝手なことを考えました。 (会社側の立場で働いているみなさん、ごみんね、許してねっ) 世間知らずの自己中心的な人間にのみに可能な、「妄想感」溢れる考えとしかいいようがありませんが、ここでも幸いなことに、当時はバブルの全盛期で引く手あまたの時代でしたから、形式的な集団面接を一回受けるだけで、簡単に内定は出ました。 今の時代、就職を決めるのも大変で、就職してからもさらに大変なみなさんのことを考えると、全く申し訳ないようなものですが、そういう時代の、そういう人間の話ですので、どうかご寛恕いただけたらと思います。 * * * とまあ、そんなようなことで、就職先は簡単に決まってしまいました。 とはいえ、人生そんなに甘くないのは当たり前のことで、配属先の希望には「中央研究所」と書いたものの、いつの時点で分かったのか、忘れてしまいましたが、そうは問屋が卸すはずもなく、レーザープリンタのファームウェアを開発する部署に配属されることが分かったときは、一人がっくりとうなだれたものです。 ぼくのようなただ「世間知らず」なだけの脳天気な人間の場合、一人がっかりするくらいですみましたが、今のようなご時世ですと注意が必要です。 「世の中」のことが分かっていない「生真面目」な人は、就職先を間違うと体や心を壊したり、ひどい場合には「死」に至る場合もありえますので、若い皆さんには、よくよく注意をしていただきたく思います。 というようなところで、今回の記事はおしまいとさせていただきます。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬ *1:なんていっても今の人にはなんだかさっぱり分かりませんよね。

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

物好きな物書き

宇宙のど真ん中