みなさん、「魔法少女まどか☆マギカ」は見たことありますか?
魔法少女ものなのに深夜枠の放送で、可愛い絵柄なのにダーク・ファンタジーでメルヘン・ホラーで、なんとも言えない魅力のあるアニメですよね。
この作品に関連して、はてな匿名ダイアリーに、
・所詮大乗仏教である『まどマギ』でマミさんに自力救済ルートはない
というおもしろい記事が投稿されていましたので、今日はこれを肴に宗教論ごっこをしてみようかと思います。
結論を先に言うと、
「人のいうことなんかあんまり気にしないで、自分なりの世界観を創り上げていくほうが楽しいと思うよ」
てな話です。
で、本日のお品書きはこんな感じ。
阿弥陀様に全部おまかせするのって、楽なようで結構むずかしかったりします。 かといって、初期仏教の修行主義は、分かりやすいけどストイックすぎて、なかなかついていけませんです。 キリスト教やイスラム教はよく知らないけど、やっぱりそれぞれに正しいに違いありません。 神道の「祓って浄めれば全部オッケー」ってのも悪かない。 なお、なんでもありでおおらかな感じのヒンズー教の梵我一如あたりが今のお気に入りです。 最後に、宗教というくくりに限らない、哲学的というべきか、科学も含めた世界観の話 7,000字もありますので、お暇なときにお楽しみくださーい。
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阿弥陀様に全部おまかせするのって、楽なようで結構むずかしかったりします。 この記事では、「まどかマギカ」のストーリーや世界設定について細かく説明はしません。
とりあえず、主人公のまどかの立場を阿弥陀如来に例える解釈が一般になされている、ということだけ了解しておいていただければ、十分です。
この作品に登場する魔法少女たちは、世界を守るために苦悩しながら闘うことになるのですが、阿弥陀如来としてまどかを信じることによって、最終的には救われることになるという枠組みの解釈です。
これについて元記事の匿名ダイアリーを書いた匿名さんは、
その阿弥陀様が現れるまでの次元・時間においては、魔法少女は絶望して発狂し続けるのです。
というように「否定的」な説明をしていますが、ここはちょっと違うかもな、と思います。
最後に阿弥陀如来の救いを知らない世界においては、確かにその通りでしょう。
けれども、いずれ阿弥陀如来がやってきて救いが訪れるのだということを、きちんと信ずることができたときには、同じ過酷な状況の中で闘い続けるにもかかわらず、その状況に絶望せず、その状況の中で発狂したりせず、自分の役割を果たすことができるようになるはずだからです。
というわけで、みなさんもご自分の人生の真っ只中で、理不尽で不条理な状況に落ち入ってしまったときには、とりあえずは、阿弥陀様や法華経にすべてを預けるのもいいかもしれません。
まあ、なかなかすべてを預け切るわけにはいきませんし、エゴの猿知恵でもってじたばた足掻いてしまうのが、私たち衆生というものではありますけれども(笑)。
かといって、初期仏教の修行主義は、分かりやすいけどストイックすぎて、なかなかついていけませんです。 さて、「まどマギ」の世界では、最終的な救いが登場人物には明らかになっていないことから、匿名さんは登場人物のマミさんに対する説明の形で、セールスマンよろしく、初期仏教の瞑想修行の売り込みをはかる文章を展開していて、これがなかなか読ませます。
初期仏教であればマミさんは自力救済が可能です。
今日は初期仏教のご紹介のためにこちらにあがらせていただきました。
マミさんへのご提案と言う形で
初期仏教の効能と素晴らしさをみなさんに知っていただきたいと思います。
この口上、大変気に入りました(笑)。
このあと、五つの戒律を守り、慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想を実践することで、他力によらない自力の救済が可能なのだという説明が続きます。
件の記事にはヴィパッサナーという言葉はでてきませんが、一日二時間の瞑想を進めていることから、ヴィパッサナーによる呼吸と身体感覚を対象にした瞑想を念頭においているものと推測されます。
しかしながら、このヴィパッサナー瞑想による自己救済も、誰にでも開かれたものであり明快で分かりやすいものであるとは言え、誰にでも簡単に実践できるものではありません。
ぼくもヴィパッサナーに関しては、この七年来ほそぼそと練習を続けてはいますが、何しろなかなかストイックなものですから、「救済」といえるようなレベルには簡単には辿りつけないことを実感しています。
もちろん、練習をすれば、したなりのメリットはありますから、そういうストイックさが合う方には、悪くない方法論ではあります。
でも、やっぱり、合う人は少ないだろうなぁ。
おまけに日本の社会の中では、ちょっとカルトっぽく見えちゃうだろうし。
なお、ヴィパッサナーについては、別サイトに書いた記事がありますので、興味のある方はご一読くささい。
[マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想について・蝶入門編]
キリスト教やイスラム教はよく知らないけど、やっぱりそれぞれに正しいに違いありません。 さて、パクス・アメリカーナな合州国を頂点とする世界秩序が力を持つ現代の政治情勢の中で、「キリスト教社会とイスラム教社会の対立」のようなものが、ぼくたちの生活をおびやかしているかのような言説をあちこちで見かけることも多いのではないかと思います。
けれども、「キリスト教 v.s. イスラム教 - 地球大の決闘」みたいな話って、かなりうそ臭いですよね。
石油やらの資源や、経済的な利害絡みのことが問題の根本にあるのに、そうした論点をすり替えてる印象をかなり強く感じます。
もちろん人間は、集団ごとに帰属意識を持って、その間ですぐ戦争ごっこを始めちゃうような存在ですので、それが実際問題「キリスト教 v.s. イスラム教」のように見えてしまうのも現実です。
とはいえ、歴史的に考えれば、イスラム圏でも異教徒はちゃんとそこに住んで経済活動をすることも認められていたわけですし、原理主義者ばかりがイスラム教徒ではありません。
むしろ西側社会が資金提供してイスラム原理主義者を育てた側面も大きい。
......というような話をしていると、限りなく話が明後日の方向にそれていってしまうので、この辺でやめときましょう。
今言いたいのはこういうことです。
「まどマギ」のマミさんが、突如マザー・テレサの善行に打たれて、貧しい人々の看取りをしながら、そのかたわら、魔法少女として戦うことも設定としてありえますよね。(かなりの無茶振り)
あるいは、イスラム教の神秘主義スーフィズムに目覚め、回転舞踏をしながら魔女と戦うというのは、どうでしょうか。(同程度に無茶振り)
いずれにせよ、魔法少女としての宗教的背景がどうであれ、
「きちんと信ずるものがあれば、困難な状況にも打ち勝つことができる」
はずっていう、まあ、ありきたりで凡庸な話になっちゃいますけどね。
神道の「祓って浄めれば全部オッケー」ってのも悪かない。 さてここで、我が大和の国ニッポンの神道は果たして、どうなんでしょうか。
って、もっともらしく論ずることができるほど知ってるわけでもないので、聞きかじりの断片的な知識から書くだけですけど、ぼくの哲学的先輩に聞いたところによると、
「神道って、教義と言えるようなものは、『祓い給い、清め給え』しかないんだよねぇ」
ですって。
アニミズムと伝説に毛を生やし、文書として一つにまとめたのが、古事記であり日本書紀であり、それがのちに天皇を神と仰ぐ国家神道になるんでしょうから、教義の部分はもっぱら仏教から借りる形で済ませて、神道独自の部分は「祓って浄めて」それだけでオッケーだったってことでしょうかね。
みなさん、こにゃにゃちわ。
今日のお題目はこんな感じです。
「生まれたての動物」を食べた、なすねむさんの超越 自分で絞めて食べたことありますか? ところで「絶対たべちゃいけないもの」ってあるんでしょうか 4,000字以上の長文ですが、お時間ある方はおつき合い願いまーす。
「生まれたての動物」を食べた、なすねむさんの超越 なすねむさん (id:meshigakuitai) という方、こちらの記事
・いのちをたべる、ということ - めしがくいたい
で初めて知りましたが、なかなか強烈な個性の持ち主ですね。
記事の内容は、
有害なものを除けば、合理的理由で食べてはいけない生き物というのは無いはず。 「食べていいものと食べてはいけないもの」を作るのは勝手な独自ルールであり、真理から遠ざかることになる。 とはいえ、牛一頭を渡されて「食べろ」と言われても、牛を潰すのは難しい。かわいそうだから。 けれど「かわいそう」も真理的じゃない。 それで、真理に近づく経験をするために「生まれたての動物」を食べることにした。 というような感じです。
途中までは、合理的な流れで、多少の異論はあっても、
「まあ、確かにそうかもね」
と言える内容ですが、結論がぶっとんでて最高ですよね。
僕は、生まれたての動物を食べることにしました。
っていうんですから。
で、どうやって「生まれたての動物」を食べたかって言うと、うずらの卵には一パックに一個くらい有精卵が混じっているので、孵卵器を買ってきて、うずらを孵化させて、それをいきなり踊り食いしたっていうんですから、驚きです。
そうして僕は真理にまた一歩近づいたのでした。
ということですので、その真理に近づいた感想をうかがいたいところですが、多分この方の場合、「真理に近づいた」という行為自体が重要なところで、「真理に一歩近づいてこんな気分になった」というようなことには関心がない方なのかもしれません。(勝手な臆測なので、違ってたらごめんなさい)
でも、そういうところも含めて、なんとも「超越」してる感じが素敵な方だなと思います。
うずらを孵化させてそのまま食べるのは難易度が高いですが、ベトナムやタイでは、孵化前のひな入り卵をゆで卵として食べる習慣もあります。
(有精卵が当たり前だった昔の日本の人は、そういう卵を「当たり」といったとか)
このくらいなら、比較的やりやすいと思いますので、「いのちをたべる」という真理に近づく経験を得るため、みなさんもいろいろ挑戦してみてはいかがでしょうか(笑)。
自分で絞めて食べたことありますか? ぼくも、なすねむさんと似たようなことを考えています。
肉を食べるのに、自分で絞めたことはないな、ということです。
ぼくの場合、普段はだいたい菜食ですませていますが、宴席などで出されれば、なんでも食べますし、外食のときにもあまりこだわらず、適当に肉・魚も食べてます。
けれども、いわゆる「害」虫のたぐいを殺したことはあっても、魚を釣ってきて生きてるままをさばいたこともないに等しいし、ましてや鳥や獣を絞めたことはありません。
昔ネパールに行ったとき、山歩きをしていると村の人が、いかにも「今絞めたばかり」といった鶏の足を持ってぶらさげて、
「ちょうど絞めたばかりなんだけで、食べるかい?」
といった感じのことを、にこにこと笑顔で言われたことがあります。
到底食欲が湧く状況ではなかったので、
「あ、いや、今ごはん食べたところだから、いらない」
とか、適当なことを言って誤魔化したのを思い出します。
その同じネパール旅行のときには、インドにつながる平野の街をバスに乗って通りかかり、店先に豚の頭がどーんと並んでいるのを見かけて仰天したりしてましたが、それももう二十年も前の話。
その後、いろいろ肉食について見聞きし、考えているうちに、一度は鶏を自分で絞めて、一羽丸ごとをさばいて料理したいものだと思うようになりました。
ぼくの場合は、なすねむさんとは違って、「やるぞと思ったら即実行」のタイプではないので、考えているだけでなかなか実現しませんけれど。
ちなみに、二年ほど前にマレーシアに住んでいたとき、近所のスーパーに行くと、鶏が丸ごと冷凍で売ってるんですよね。
それでそのときは、一羽を丸ごとゆでてから、解体しいしい、適宜煮込んだりしながら、数日かけて一人で完食しました。
ですからあとは、
まず締める。これが最大の関門ですね。 そして、湯をくぐして羽根をむしるのかな。羽根をむしるのが大変そう。 と思って検索したら、こんな記事もありました。
・初めて「鶏」を絞めて屠殺し、食べるまでの作業をしてみた。-自らの手で命を頂くということ。 - よねすけ、隣に突撃するってよ。
冷凍チキンとは違って、絞めたあとに内蔵も出さないとならないですね。でも、それはなぜか、中学か高校のとき、理科の授業の解剖でやったような気が......。
今回こういう記事を書いていて思ったのは、いずれ絞めるときには、ひよこから育てた鶏を、神からの授かりものとして、感謝しながら締めたいものだということです。
アイヌが子熊を育てて大きくし、その魂を神の国に送り返す、イオマンテの祭りを思い起こしながら。
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ところで「絶対たべちゃいけないもの」ってあるんでしょうか さて、なすねむさんは記事の冒頭で、
有害なものを除けば、合理的理由で食べてはいけない生き物というのは無いはずです。
せっかくグーグルやヤフーで検索をして、このページまでやってきてくださったあなたに、
がっぽがっぽとお金が入ってくるような方法
を教えて差し上げられたら、どんなにいいかと思うのですが、あいにくそれはぼく向きの題材ではありませんし、世の中にそんな安直な方法がないことも、もうすでにみなさまご存知のことに違いありません。
8月のひと月を、夏休みがてら日本で過ごしている間、こちらのページはまったく更新することができませんでした。
というよりかは、更新する気持ちが起きなかったというだけの話ですけど(笑)。
再び古巣のインドへ戻って、ようやく少しは更新力が高まってきたところで、ひと月のお休みの間に起こった、
ささやかなお小遣い獲得状況
について、みなさまと共有したいと思います。
大きな稼ぎにはならなくても、地道にやっていれば、まずまず励みになるくらいの収入はあるかもよ、てな話です。
グーグル・アドセンス、ワンクリックで**,***円!! アマゾン・アソシエイト、一日で**,***円!!!! グーグル・アドセンス、ワンクリックで**,***円!! みなさんは、グーグルのアドセンスで、クリック単価どのくらいありますか?
ぼくの場合、今あらためて調べてみたところ、33円少々でした。
はっきり言って低い。
低い以外に表現のしようがありません。
くどいと言われるのは分かってますが、あまりに低くて、涙が浮かんできます(ウソ)。
とはいえ、広告のジャンルを狙って記事を書いたりする気はあまりないので、これはもう、いた仕方のないところであります。
実際のところ、普段は10円内外のことも多いですから、たまに100円とかが出るとかなり嬉しかったりします。あはは。
ところがなんと、夏休み期間中で、なんにも更新してなかったのに、
ワンクリック324円
の最高記録が出てしまったのです!!
一体どういう広告だったのだろうと思い、「広告の許可とブロック」のところから調べてみると、大カテゴリは<行事、ギフト>でした。
ぼくのやってる、精神世界とか政治とかのページ (http://meratade.blogspot.jp) で、<行事、ギフト>で当たりが出たというのは、完全に「たまたま」としか言いようがありませんが、<行事、ギフト>のカテゴリの中でそんなにクリック単価が高いのって、どういう広告なのか気になりますよね?
それで、さらに手繰ってみると中カテゴリは<パーティ グッズ>というものなのでした。
<パーティ グッズ>!? なんで、それがそんなに単価高いの??
まだ、わたくしめには合点がゆきませぬ。
それで、グーグルで検索してみて、ようやく少し分かった気がしたのは、
「コスプレとか、そういうのだったんだろうか?」
ということでした。
まあ、商品の単価とクリック単価の関係もさっぱり分かりませんし、まったく想像の域を出ない話ですけれども、コスプレに限らず、豪華なパーティグッズにたくさんお金を使う人も少なからずいらっしゃるということでしょうか。
というわけで、以上、「今後このジャンルで勝負するぞ」というわけにもいかない、完璧まぐれ当たりのお話でした。
☆ここで一休み、<スポンサード・リンク>です。
アマゾン・アソシエイト、一日で**,***円!!!! ところで、みなさんは、アマゾン・アソシエイトの売上とかって、どのくらいの頻度で確認してますでしょうか。
それなりに売上のある方は、やっぱり毎日してるのかな?
ぼくの場合、売上なんて、ほんのたまにしかないので、毎日確認なんかしてたら、
♫ 悲しくーて、悲しーくーて、とてーも、やーりーきれーない
(ちなみに「悲しくてやりきれない」は矢野顕子によるカバーがおすすめです)
てなことになりますので、下手をすると何ヶ月もほっておいたりします。
こんないい加減なやり方で、ロクに稼げるわけがありませんよね。
ま、それはそれとして、今日、ふと思い立ってアマゾン・アソシエイトの状況を確認してみて、驚きました。
なんと一日で723円の収入が!!!!
....と思ったのですが、別のページで見ると、657円になってます。
えーい、一体どっちが正しいんじゃ!?
いや、でも、どっちでもいいんです。
一日で600円も700円も稼げるなんて、それだけで、ぼくにとっては夢のような話です。
何しろアマゾン・アフィリエイトは、10年以上やってるのに、ようやく3,000円超えというありさまですので......。
で、今回の内訳はどんなふうかと言いますと、
ぼくの紹介している本のうちでは、一番の売れ筋と言える、カスタネダのドン・ファン・シリーズというのがあるんですが、
そのうちの一冊「力の話」というやつを、なぜか二冊ご購入下さり、
さらにカスタネダ関連の本をあと四冊、
さらにまた関連して、サイケデリック系のいいお値段の図鑑を一冊、
そしてダメ押しで、「彷徨える河」というなんとも渋いコロンビア映画のDVDを、これまたなぜか三枚もお買い上げ(!)、
購入金額総計26,875円という、夢のようなお大尽さまが訪れてくれたという次第なのです。
ありがたやー、ありがたやぁーー。
とまあ、そういうわけで、これもまた狙って再現ができるようなものではありませんが、
大物狙いの釣り師のように、着々と仕掛けを用意して、あとはじっくり当たりを待つ
という感じで、今後も楽しみながら記事を書き続けていきたいと、決意も新たにするわたくしめなのでした。
それにしても、アマゾンが8月17日で、アドセンスが8月20日と、わずか数日の間に1,000円ほどの収入とは、おもしろい偶然ももあるもんだなぁ。
よほど星の巡りでもよかったのかしら。
そういえば、その頃は、東京の目黒で知り合いのライブがあって、飛び入りで一曲、気持よく歌わせてもらってたんだ。
その辺りで、気合を入れてひとつ記事でも書いてたら、大ヒット作が書けてたかもしれません。
(....なわけないか)
先日来、匿名ダイアリーの記事
・30過ぎて100万も貯金が無い奴は信用できない
がにぎやかに取りざたされているのが、気になっておりました。
ネット上での議論というものは得てして、
「あの話はおかしい」
とか
「おれの話を聞け」
とかいうことになってしまって、そういうやり取り自体はおおむね「不毛」なのですが、そうした「不毛な荒野」にも幾粒かの真実の種が埋まっていたりするのも、普通にあることです。
というわけで、今日のメニューはこんな感じです。
いい大人が100万円貯金してないなんて、ありえないよね でもさあ、貯金なんて一銭もなくても、生きていけるじゃん てゆーか、みんな常識にしばられすぎなんとちゃうん? 50すぎで貯金ゼロでも、社会的な「信用」くらい持ってる話 (ただし、ささやかな信用だよ) 不毛な議論に三本の毛を生やす方法 いい大人が100万円貯金してないなんて、ありえないよね 匿名さんの主張は、「30すぎて貯金が100万円ない人間は信用できない」ということで、
「なるほど、そうですか。信用できないんですねー。うんうん」
と聞くしかないようなお話です。
人間、どんな主義主張を持とうと自由ですから、これをお読みのあなたにも、
「こういう人間だけは信用できない」
というような思いがきっとあるだろうと思います。
ただ、多くの「良識的」な人間は、そういうことをわざわざ声高にネットで主張はしない、というだけのことですよね。
でもさあ、貯金なんて一銭もなくても、生きていけるじゃん 上の匿名さんの記事に対して、ポジ熊さんという方が、
・貯金100万円どころか借金もろもろ3,000万弱ある - ポジ熊の人生記
という記事を書いてらっしゃいます。
「貯金はあったほうがいいけれど、ないからと言って、責めるような話じゃない」
というような内容です。
いたってまっとうな意見なのですが、ぼくとしては、ひとつ気になる一節があります。
ギャンブル癖などは、個人的に改善できる浪費だと思います。次いでソーシャルゲームの課金や暴飲暴食でしょうか。ここらへんは、見直すのも悪くないですよ。
ここでポジ熊さんが「浪費」といっているものは、過剰なストレスに対する防衛反応としては、ごく自然なものなんですよね。
自然なものだけれど、度を過ぎると、「依存症」と呼ばれる状態になって、社会的な生活が破綻します。
注意が必要なところですし、同情の余地は大いにあります。決して責めるべきではないし、責めたからといって解決するものではありません。
そして、ギャンブル依存やソシャゲ依存で生活が「破綻」したとしても、日本は「先進的」な福祉国家であり、「法律」にのっとった救済の仕組みがありますから、貯金なんてなくても、健康で文化的な最低限度の生活が「保障」されています。
とすれば、事情があってもなくても、貯金を持つか持たないかは、個人の自由の範囲だと言えるのではないでしょうか。
ついでに、「最低限度の生活」がなぜ保障されているのか、ということについて一言。
「最低限度の生活」を保障するために「生活保護」という制度があって、病気などで働けなくなっても、安心して暮らすことができるのですが、これは決して「お涙頂戴」の慈善事業ではありません。
そうではなくて、この制度は、仕事につくことができず、生活に困った人が犯罪に走ったりすることで、社会的な安定が崩れることを防ぐために、社会の安全を保障する制度としてあるものです。
ですから、「お金に困った人を自分たちの税金で食わせてやってる」などと思うのは、多分に「曲がった」考え方です。
実際には、自分たちの「社会の安全を守るため」に必要な経費だからこそ、税金でまかなう価値があるのです。
てゆーか、みんな常識にしばられすぎなんとちゃうん? 匿名さんは、100万円貯金がない人を切り捨て、ポジ熊さんは浪費癖のある人を切り捨てます。
誰がどんな考えを持とうが、各人の自由ですから、否定はしません。
でも、
「100万円の貯金がなくなったら誰にも相手にしてもらえない」
とか、
「依存症になったら人生おしまいだ」
とかいうのって、人生観としてすごく窮屈じゃありませんかね?
現にぼくは、貯金ゼロで住所不定・無職ですし、アルコール依存でクリニックに通った経験もありますけど、とりあえず元気に生きてます。
インドあたりをぶらぶらしてて、ひと月三万とかで暮らしてる仙人系の人間ですから、日本の一般的なみなさんの生活とはかけ離れてはいますけど。
で、かけ離れた立場だからこそ言うんですが、日本ってかなり「均質的」な社会で、その中でも「似たような」人間同士で付き合うから、「常識」の幅も狭くなりがちだと思うんですよね。
自分の「常識」の限界を見直すためにも、少し違う「世界」を見たほうが、
「人生楽になるんじゃないのかなー」
などと、お節介なこととは知りながら、思ってしまう私なのでした。
50すぎで貯金ゼロでも、社会的な「信用」くらい持ってる話 (ただし、ささやかな信用だよ) お金も地位も名誉もなくても、信頼できる友人を持てるのは当たり前すぎる話です。
芥川の「杜子春」じゃありませんが、お金がなくなって去っていくような関係の人は、友だちとは言えませんからね。
・芥川龍之介 杜子春
・「杜子春」をアマゾンで見る
それで、ここで書く「信用」というのは、経済的な話でして、簡単に言っちゃえばクレジットカードのことです。
クレジットカードというものは、社会的な「信用」がなければ作ることができません。
そしてそれは「貯金が100万あるかどうか」とは関係がありません。
カード会社も商売ですから、とにかく毎月使ってもらって、毎月払ってもらえればいいわけです。
基本的には「毎月安定した収入」があることが前提です。
でも、それは「建て前」というやつでして、
敬愛するはてな村の友マミーさんのブックマーク経由で、九尾【coconoo】さんの記事に出会いました。
・包丁研ぎとカブトムシ。 - coconoo doll
この記事についたマミーさんのコメントが、
トウモロコシ3本で100円!すっごい安い!お腹いっぱい食べたい? というものだったので、
「包丁研ぎに、カプトムシ、おまけにトウモロコシとは何者?」
と思ったわたしなのですが...... 。
というわけで(?)、今日はトウモロコシの話です。
coconooさんは、球体関節人形というものを作ってらしゃる方で、ブログのヘッダ画像を見ていただければ、その妖しい魅力は一目瞭然と思います。
そして、そうした工芸作家としてのお顔とともに、里山ぐらしのガーデニングの話なども書いてらっしゃって、自給自足が憧れのぼくからすると、
「あっ、いいなー」
というのが、最初の感想です。
というところで、今日の話題のトウモロコシの話に入るのですが、
「3本100円」
は、いくらなんでも安すぎますよねっ!!
でも、そういうちょっとした「意表」をつく話こそ、この世界の秘密を表してる気がするんですよ。
というのは、一口に「安すぎる」といっても、それは、あくまでも「都会」を基準にした話であって、coconooさんのお住まいがどちらかは分かりませんが、すこしばかり田舎に足を伸ばせば、結構お買い得なものって、いっぱいあるからなんです。
ぼくは一時期、東広島に住んでいたことがあるのですが、たとえば農協の直売のお店で、生産者の方の名前入りのいろんな野菜が、申し訳なく思うくらいのお安い値段で売っていることには、正直に言って感動を覚えたものです。
と、それにしても、トウモロコシが3本100円は安いですし、おまけにぼくはお金の感覚に弱い人間なものなので、一瞬、
「えっ、それってインドより安くない?」
と思ってしまいました。
でも、さすがにそれは勘違い。ひと桁くらいは値段が違いました。
今ぼくはインドの西、ラジャスタン州のプシュカルという小さな街にいるのですが、やや痩せ気味の焼きトウモロコシが、屋台で1本10ルピーで売ってます。
日本円にすると17円かそこらですから、3本買っても50円かそこらです。
しかもこれは、焼いてあるトウモロコシの話ですし、お好みによってレモン汁を塗ってもらったりもできて、これがまたおいしい。
生のトウモロコシがいくらで売ってるかは知らないもんで、ややいい加減な話ですんませーん。
トウモロコシについては、自分で育てた「しょぼいトウモロコシ」や、本場アメリカ大陸で食べた「おいしいソース付きの焼きトウモロコシ」とか、いくつかネタがあるのですが、今日はとりあえず、このくらいにしておきます。
てなわけで、みなさん、ナマステジーっ♬
はてな村のみなさん、アッサラーム・アライクム!!
(今日はイスラム式あいさつですが特に意味はありません)
そして、ほぼひと月ぶりの更新にも関わらず、内容もほとんど脈絡のない三題噺ですが、さてまあ、いってみましょうか。
夜中たわし氏による「しりとりゲーム紹介記事」の紹介 ブログサークルというサービスに登録してみた そしたら、はてなからはpingが送れないらしいので、IFTTTで自動化してみた 夜中たわし氏による「しりとりゲーム紹介記事」の紹介 私が私淑するはてな村の先輩、夜中たわし氏のこちらの記事ですが、
・【近況】PCが壊れそう/ヌートンに寄稿しました - 夜中に前へ
「PCが壊れそう」
とのことで、ご愁傷さまでございます。
ハードディスクはどうしても寿命がありますし、SDカードなども何のはずみでぶっ壊れるか分かりませんから、まめにデータはバックアップしておきたいものですが、生来の無精者ゆえ、ときどきデータがふっとんで泣きを見ているわたくしであります。
人間は、失敗を繰り返しながら学んでいくのか、それとも死ぬまで失敗を繰り返していくのか、この二つの間のビミョーな線のあたりをふらふらしながら、ぼくの人生は進んでいくようです。
と、手前勝手な自分語りはさておき、たわしさん、ヌートンというメディアにデビューされたとのこと、おめでとうございます。
・語彙力で戦うカードゲーム「ワードバスケット」が楽しい! | ヌートン 新たな情報未発見メディア
こちらの記事ですが、カードを使ってする「しりとりゲーム」の紹介でありまして、別メディアで読むと、いつもの「たわし節」が、また一層味わい深く楽しめます。
ただし、「しいたけ菌」の毒性が致命的なこともあるようですので、閲覧にはくれぐれもご注意ください。
ブログサークルというサービスに登録してみた 話は完全に変わりますが、たまたま、ネットで見つけたブログサークルというサービスに登録してみました。
・とし兵衛│プロフィール│ブログサークル
ブログのランキングのサービスは使っている人も多くよく見かけますが、ぼくの場合、順位をつけられるのはあんまり嬉しくない。でも、せっかくだから宣伝はしてみたい。
そんなことを考えていた折に目に入ったこちらのサービスは、ブログを書いてる者同士がソーシャルなつながりを作るためのツールということのようです。
はてなブログの中や、はてなブックマークを使ったつながりに、プラスアルファする形で、広がりがもてるかもしれないなぁ、などと思っております。
まだ登録したばかりの段階なので、実際に使ってみての感想は、しばらくしてから書きたいと思います。
そしたら、はてなからはpingが送れないらしいので、IFTTTで自動化してみた さて、ブログサークルのようなサービスでは、登録したブログの情報をpingという仕組みを使って更新して、ユーザが見れるようにしてくれます。
ぼくの場合は、このブログを登録したことで、ブログサークルのユーザのみなさんに読んでもらえるようになるわけなんですが。
残念なことに、はてなブログには、この「ping送信」の機能がない模様。
まあ、新しい記事を書いたら手動で更新してやればいいだけの話なんですが、どうせなら自動でやりたいのが無精者の人情というもの。
そしたら、こちらの記事に
・はてなブログで自動的にping送信する方法 - くるくるパーマとANAマイル
IFTTTという洋物のサービスを使って自動化するやり方が出てました。
英語が苦手な方には、ちょっとだけ大変かもしれませんが、文章と画像にしたがって順番にやっていけば、特にむずかしいことはありません。
ただし一箇所、変更点があります。
「Step 3 of 6 Choose action service」のところで、「maker」で検索しても必要なサービスはでてきません。
「webhooks」で検索すればOKです。(サービスの名前が変わっちゃってるため)
それから一番最後に「Appletに名前をつける」という話がありますが、これは「if new feed item from .... 」とかいう英語の説明の部分を「ブログサークル用」みたいな名前にしておくと分かりやすくていいよ、という話ですね。
というわけで、この記事のpingが自動で送られてたら万々歳、というお話なのでありました。
てなわけで、この記事はおしまいです。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
アメリカで流行っているマインドフルネスとは? マインドフルネス瞑想はあなたの脳を変える 生産性や創造力は本当に上がるの? まずは1日5分から。今日からはじめるのがポイントです アメリカで流行っているマインドフルネスとは? アメリカのビジネス界で大人気のマインドフルネス瞑想、あなたはご存知ですか。
グーグル、アップル、ナイキ、マイクロソフト、ソニーなどなど、アメリカでは大企業が、社員の精神衛生と生産性向上のために、マインドフルネス瞑想を取り入れています。
瞑想には、次のような効果があると考えられるからです。
ストレスをやわらげる うつ的気分を減らす 不安感が少なくなる 痛みの緩和 不眠の解消 結果として、生活の質が上がることになり、生産性の向上にも結びつき、社員にも会社にも利益があるというわけです。
マインドフルネス瞑想はあなたの脳を変える 瞑想には、「効いた気がする」という曖昧な心理的効果だけでなく、実際にあなたの脳を変える力があります。
運動をすると筋肉がつくように、瞑想をすることで脳の灰白質という物質が増えて、脳の処理能力が高まるのです。
こうした脳の変化によって、ストレス、うつ的気分、不安感が減少し、痛みの軽減や不眠の解消の効果も期待できるわけです。
一日30分程度の瞑想を八週間続けることで、効果が現れることが、実際に研究によって確かめられています。
*1
生産性や創造力は本当に上がるの? 注意力や意志力が上がることが生産性の向上につながることは、想像しやすいだろうと思います。
マインドフルネス瞑想では、自分の呼吸や体に起こっている感覚に注目し、快・不快の気持ちにとらわれずに、感覚自体をありのままに感じる練習をします。
呼吸に意識を向けているときに、雑念が起きても、それについて考えることはせず、かといってそれを追い払おうともせず、ただ、「雑念が起こったな」と意識したら、また注意を呼吸に戻します。
こうした練習を続けることによって、自分の気持ちの変化にも、落ち着いて対処ができるようになるのです。
たとえば、作業をしていて疲れてしまい、「あー、もうやめたい」と思ったとします。
瞑想に慣れていれば、ここで、「今、自分はもうやめたいんだな」と落ち着いてその気持ちを受け止めて、二、三回深呼吸をしたあとで、「でも、きりのいいところまでやっておこう」と、前向きに作業を続けることができるようになります。
作業をいやいや続けるのとでは、効率が違ってくるはずですよね。
また、創造力については、残念ながら科学的な根拠となるようなデータはありませんが、瞑想によって雑念や先入観にとらわれないようになることで、それまではなかったような発想が得られるようになることは十分期待できるでしょう。
瞑想の練習を続けていくと、感情的な好き嫌いなどの先入観が減っていき、以前なら無意識的に払いのけて見落としていたような解決策が、頭にふっと浮かんでくる、というようなことが起き始めるのです。
また、無意識のうちにいろいろな雑念にとらわれるようなことも減っていきますから、心の落ち着きが増し、自分に自信を持てるようになって、自分の感じていることを信頼できるようになることも、発想力の豊かさにつながるでしょう。
常識的には一見ばかげていることでも、深く考えたときには正しいことがありますし、瞑想によってとらわれなく物事を見ることができるようになれば、そうした普通には気づけないことに気づき、その正しさの可能性を深く探ることができるようになるからです。
まずは1日5分から。今日からはじめるのがポイントです 「ひょっとして瞑想もいいかもな」
もしも、あなたがそう思ったならば、ぜひ今日からはじめてください。
寝る前に楽な姿勢で、5分間、吸う息と吐く息を意識するだけです。
夜寝る前と、朝起きたあとにやるのが一番ですが、やりやすいほうだけでもいいでしょう。
無理ない範囲で毎日やって、慣れてきたら、5分を10分に、10分を30分にと伸ばすことができたら、最高です。
* * *
こちらは別サイトの記事ですが、瞑想のやり方について書いていますので、よろしければお読みください。
・これなら簡単、誰にでもできる瞑想のやり方・方法 - 24 時間の瞑想術
というところで、この記事はおしまいです。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
[参考サイト]
・Harvard neuroscientist: Meditation not only reduces stress, here’s how it changes your brain - The Washington Post
*1:一日30分程度の瞑想を八週間することで、自己認識や雑念に関わる後帯状皮質、情動の調節・学習・認識・記憶に関わる左の海馬、空間の認識や共感に関わる側頭頭頂接合部、脳幹の一部であり様々な神経伝達物質の生産に関わる脳橋においては灰白質が増加し、不安・恐怖・ストレスに大きな関わりを持つ扁桃体は小さくなるという研究があります
はてな村のみなさん、おはようさんです。
みなさん、ハルオサンのことは、ご存知でしょうか。
「警察官をやめさせられた話」で彗星のごとくデビューし、その控えめながらも、ところどころにブラックユーモアを感じさせる独特の筆致と、へたうまで、なんとも味のあるイラストで大人気のブロガーさんです。
もし、ご存知でなかったら、まずはこちらの二本の記事を読んでみてください。社会派で心理サスペンス感ばっちりの、読み応えのある記事ですよ。
・警察官をクビになった話その① - 警察官クビになってからブログ
・警察官をやめさせられた話②完結編 - 警察官クビになってからブログ
さて、そのハルオサンが、
・最近ブログで飯を食べている事について - 警察官クビになってからブログ
という記事を書いてらっしゃいます。
ハルオサンは、ブログに広告を貼ったりはしていないのですが、他サイトへのコラム執筆や記事投稿で、月10万円ほどの収入があるというんですね。
うーん、これは凄い...... 。
それでちょっと考えてみることにしました。
ぼくはなんでネット上に記事を投稿しているのか ほかの人はどうなんだろう? それで、広告を貼るのってどうなんだろう? 今日はそんなような話です。
ぼくはなんでネット上に記事を投稿しているのか ぼくはもともと「作家になれたらいいな」というような感じの、いい加減で曖昧な願望にもとづいて文章を書き続けてきた人間です。
その昔、「奇想天外」というSF小説の雑誌で、新井素子さんという作家が17歳でデビューしたのを見て、彼女より四つ年下だったぼくは、
「あと、四年のうちにデビューできたらいいな」
と間抜けにも考えました。
考えるだけで、ロクに書きもしませんでしたから、デビューもへったくれもないのですが、仲間と同人誌ごっこはしていたので、ほそぼそながらコラムのようなものは、書き続けていました。
そんなようなものが、形を変えながら続いてきて、今ここに書いているようなものにつながってきているわけなので、じゃあ、それはどういうことなのか、というと、
「自己承認欲求」
の一つの形なんだろうな、と思うのです。
ほかの人はどうなんだろう? ほかのみなさんが、どういう気持ちからネット上で文章を書いているか、というのは、当然、人それぞれに決まっています。
そうではあるのですが、すごく一般化したところでくくってみたとき、
「自己承認欲求」
みたいなことが、一つ重要な要素としてあるとは、思うんですね。
もちろん中には特別な方がいらして、
純粋にお金もうけのためにやっていて、 そのお金は自分の楽しみだけのために使っていて、 一切まわりの人のことは気にしていない というような場合もあろうかとは思います。
けれども、それはホントに特殊なケースで、仮にお金のためが目的でも、
お金を稼げる自分を人に認めてもらいたい、とか、
お金を稼いで周りの人のために使って、関係性をよくしたい、とか
自分と周りの人との関係性というものが、多くの場合大切なものだろうと、思うのです。
ですから、それは「承認欲求」というよりは、「コミュニケーションの欲求」といったほうがいいかもしれせん。
仮に人に見せない「日記」のようなものであるとしても、書き言葉として表現する以上、「過去や未来の自分との対話」として、そこではコミュニケーションが行なわれているのだと思います。
そして、相手に伝わるかどうか以前に、言葉として表現すること自体にコミュニケーションの意味があり、それは、心の中のもつれやもやもやに形を与えることで、人の内的欲求を解決するものなのだと思うのです。
それで、広告を貼るのってどうなんだろう? さて、ここで唐突に「広告」の話になるのですが、ハルオサンは、
自由にブログというものを突き詰めていきたい。
から広告は貼らないのだ、と書いています。
実にいさぎよいですよね。
そのあまりのいさぎよさに、
「ぼくもみならってアドセンスはずそうかなー」
と思ってしまいました。
でも、ぼくはヘタレなので、はずさずにそのままにしておきます。
このページは蝶閑古鳥なので、あってもなくても似たようなものですが、宝くじに夢をかける一庶民、みたいな感じで(笑)。
そのくせぼくは、
「記事を読むときに広告があるとうるさいんだよなー」
とか、勝手なことを思ってます。
かように人間というものは、勝手な生き物であり、矛盾した多数の欲求を抱えているわけであります。
でもまあ、それも人間、あれも人間。
人間、結局なんでもありですよね。
人に迷惑さえかけなければ、何をやっても自由だし、思わぬ所で人に迷惑をかけてしまったら、そのときはちゃんと謝ればいいのだし、とにかく自分の人生の責任は、自分で取るしかないという、当たり前の話なのです。
それにしても、広告とかページビューとか考えると、いろいろ余計なことを考えて好きに書けなくなる、というのは確かにあります。
ですから、あまりそういう二次的なことにとらわれないで、自分が書きたいものはなんなのか、自分が楽しく書けるものはなんなのか、そういう基本的な欲求にもとづいて、今後も書いていけたらなーと思うのでありました。
というわけで、特にまとまらないまま、今日の記事はこのへんで終わりにします。
最後にハルオサンの記事を紹介しておきましょう。
『一瞬で「完全に自由」に生きられるようになる「魔法」の考え方』なんてあるわけないじゃないか。
あなたがそう思うのも無理はありません。
人生は思わぬできごとの連続です。その中で「思いのままに」そして「自由に」生きることのなんとむずかしいことか......。
けれども、本当は自由に生きるのは簡単なことなんです。
いえ、「簡単」どころではありません。
あなたは、最初から「完全に自由に」生きているのです。
この記事では、「完全に自由に」生きているのに、なぜ、それを実感できないのか、それを実感するためにはどうすればいいのかを、書いてみることにします。
あなたのすることは「すべて」あなたが決めている 自分で決めているのは分かった。でも「自由」の実感なんてないよ? 「恐れ」があると「自由」が感じられなくなる 自分の人生なんだから、変えるも変えないもあなたの「自由」です みんなが「窮屈」な人生を生きている時代だからこそ、あなたは「自由」に生きていい あなたのすることは「すべて」あなたが決めている 「あなたは最初から自由なんだ」
と言われていも、そんなわけないよ、と思うでしょう。
したいことはいっぱいあるのに、なかなかできないし、したくないことをたくさんやらなくちゃならない。
それなのに完全に自由だなんてありえない、と。
でも、考えてみてほしいのですが、あなたがやってることは、
「全部あなたが自分で決めてやってる」
ことじゃありませんか?
あなたは勉強したくないかもしれませんし、働きたくないかもしれません。
けれども、実際にやっている以上、それはあなたが
「やりたくはないけれど、しかたがない、やろう」
と思ったからということですよね?
誰かにおどかされて、やりたくないことをやる、というような極端なケースの場合はどうでしょうか。
その場合も、やらなかったときとやったときのメリットとデメリットを考えて、あなたはそれを「やることにする」か「やらないことにする」かを決めることができます。
たとえ自分の命がかかっていたとしても、同じことです。
自分の命を捨ててでも、「やりたくないことはしない」のか、
自分の命を優先して、「やりたくないことをするのか」、
それを決めるのはあなたなのです。
自分ですることは、すべて自分で決めているのですから、あなたは「最初から完全に自由」なんです。
このことを忘れないだけで、あなたは「いつでも完全に自由」です。
「自分は完全に自由だ」と紙に書いて、いつも目に入るところに貼っておいてください。
それを見るだけで、あなたは「自分が完全に自由」なことを、一瞬で思い出すことができるようになります。
自分で決めているのは分かった。でも「自由」の実感なんてないよ? どうして、自分で「自由に」決めているのにも関わらず、「自由に生きている」という実感がないのでしょうか?
それはあなたの中に、矛盾するいくつもの欲求があるからです。
朝目覚ましが鳴ります。
起きなくてはなりません。
でも、もっと寝ていたい。
「起きよう」とする意志と、「寝ていたい」という欲求の綱引きが起こります。
あなたが本当に寝ていたいのなら、別に起きる必要はありません。
けれども、今日はデートの日です。好きな彼・彼女に会いたい。そのためにはもう起きなきゃならない。
だから、あなたは「寝ていたい」という欲求を捨てて「起きる」ことにするのです。
人間の中には、たくさんの矛盾する欲求や、同時にはかなえられない願望があります。
それ自体は自然なことです。
ところが、「あれをしたい、でもこれはしたくない」といった欲求同士のバランスが崩れてしまい、したくないことばかりを「選択する」ようになってしまうと、「自由を実感する」ことができなくなってしまいます。
けれども、どうして
「したくないことばかり選択する」
などということになるのでしょうか?
「恐れ」があると「自由」が感じられなくなる おいしいものが食べたい、 たっぷり眠りたい、 気持よく体を動かしたい、 友だちと楽しく過ごしたい、 こうした欲求は、人間の持つ基本的な欲求ですから、あなたが「自由を実感したい」のならば、これをまず大切にする必要があります。
それに対して、
自分の価値を高めたいから、勉強する お金がほしいから、働く 人に認められたいから、がんばる といったことは、二次的な欲求です。
「自由を実感する」ためには、「二次的欲求」ばかりが優先されてしまっている状況を改める必要があります。
けれども、それがむずかしい?
お金を得るために働いているはずなのに、十分なお金が得られなかったり、お金はあっても、それを使う暇がなかったり、それどころかいつも睡眠不足だったり。
どうして、そうなってしまうのでしょうか?
それは、あなたが「社会のルール」にしたがうことに慣れすぎてしまって、そこから一歩踏み出すことができなくなってしまっているからではないでしょうか?
あなたは「頑張らなければ生きていけない」という「〈恐怖〉の人生ゲーム」を毎日プレイしているのではないでしょうか?
自分の人生なんだから、変えるも変えないもあなたの「自由」です もし、あなたが「〈恐怖〉の人生ゲーム」を毎日プレイしているとしても、それもあなたが選んだことですし、それを変えるか、変えないかはあなたの「自由」です。
けれども、ここで考えてほしいのは、それを「変える」のは、実は
[xevraさん、間違えてzevraさんにしちゃってました。ごめんなさーい]
この記事では、xevra さんの
・神は居る でも宗教は無力である事は証明されてる - xevra's blog
について、納得のいく点と、そうでもない点についてつらつらと書いてみます。 xevraさんが書くに、
人間、より良く生きていく上で現実を正しく認識する事は大切だ。
まったく同感です。
今我々が生きているのは、今から138.2億年前にビッグバンと言う大爆発があって宇宙が出来上がったからであるが、もし、神が居るとするならばここに関わった存在以外には考えにくい。
これは、ビッグバン仮説を信じるならば、という前提で、納得します。
しかし、こういう考えはどうでしょうか?
たとえば、ニュートンが考えるように、4000年前に全能の神がこの宇宙を無から創り出したとしたら?
もちろん全宇宙の従う物理法則から何からと、初期値としての世界のあり方もすべて含めてです。
あたかも宇宙全体が、138.2億年前のビッグバンから始まったかのような初期設定で、また、地球は45億年前に生まれ、その上で生物が生まれ、進化し、人間が誕生したかのような、精密な初期状態で世界を創り出したとしたら?
全能の神が、そのように世界を創り、しかも全能の神のみを信じるものを救うような、人類には計り知れない計画を持っていないと、論破する根拠はありうるでしょうか?
これは別に、ぼくがそのような世界観を信じるという意味ではありません。ただ、例えば、アメリカのキリスト教根本主義の方々が、このような信仰を持っていたとしても、ぼくには論破できない、という話です。
* * *
人生において大切なのは、いい人生を形作るために合理的なアクションを重ねる事だ。科学的に運動、瞑想、睡眠、野菜摂取の徹底が大脳生理にいい効果を持ち、脳の動作が安定する事は判明している。であれば、これらを徹底する事が一番重要であり、でっち上げられた宗教に入れあげる事など止めるべきだ。
「運動、瞑想、睡眠、野菜摂取の徹底が大脳生理にいい」ということは、概ねその通りだと思います。
しかし、前節で述べたように宗教的観念には一定の合理性がありますから、それを「でっち上げ」というのは、かなり「片寄った」考え方に思えます。
xevraさんの、「運動、瞑想、睡眠、野菜摂取の徹底」という考え方自体は悪くないと思いますし、ぼく自身、日頃大切にしていることです。
しかし、「宗教よりも睡運瞑菜がいい」というのは、事実というよりもxevraさんの信念でしょうし、とすれば、それを他者に「強要」するかのような言説は、ただの「原理主義的」言説にしか思えません。
xevraさんが「睡運瞑菜」を信じることで「心の安定」を計っているように、宗教によって「心の安定」を計っている方もいるわけですし、あるいは、「原子力」を信じることによって「心の安定」を計っている方もいらっしゃるわけですから、残念ながらxevraさんの「強弁」には説得力がない、としか言いようがありません。
とはいえ、人は自分がしたいことをすればいいわけですから、xevraさんが「睡運瞑菜」原理主義を貫くことは誰にも否定できないことです。
願わくば、瞑想を通じてxevraさんが「原理主義の限界」を体得していただけますように。
以上、中途半端な瞑想の心得しかないものが、余計な口出しをしてもうしわけありませんでした。
最後まで読んでいただいたみなさん、いつもありがとうございます。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬