ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンはマインドフルネスがアメリカの精神療法に取り入れられるきっかけを作ることになった人物である。
マインドフルネスと並んで彼が提唱している重要な概念がインタービーイングであり、日本語にすれば「相互存在」というところだろう。
インタービーイングという言葉は「この世界の中の存在は、個別に独立して存在しているのではなく、相互に依存しあって存在している」ということを意味している。
ティク・ナット・ハンは「一枚の紙の中に雲を見る」ということについて、インタービーをこう説明している。
もしもあなたが詩人なら、この紙のうえに雲が浮かんでいるのが、はっきり見えることでしょう。雲がなければ雨は降りません。雨が降らなければ、木は育ちません。そして木がなければ紙はできないのですから、この紙がこうしてここにあるために、雲はなくてはならないものなのです。もしここに雲がなかったなら、ここにこの紙は存在しません。それで雲と紙はインタービー(相互共存)しているといえるのです。
interbeing | ともにあること (以上、『微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践』https://amzn.to/378RGIr の一節を孫引き)
ティク・ナット・ハンは1966年にティエプ・ヒエン教団を立ち上げているが、ベトナム語のティエプ・ヒエンは漢字では「接現」となり、「接=接する、続く」、「現=現れる、今ここに現す」の意味で、これをナット・ハンは「インタービーイング」と訳した。そして、インタービーイングは仏教の教えのうちの「無我、十二縁起、中観」を意味すると説明している。
*1
漢語としての接現は、「今ここに現れ続ける」と解せるが、その背後に「相互存在として」という意味が隠されているということなのだろう。
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先ほど「一枚の紙に雲を見る」という話は、実は般若心経の内容を説明するためのものである。*2
ナット・ハンはインタービーイングを「無我、十二縁起、中観」と説明しており、般若心経は「中観=空(くう)」を説く経典であるから、その意味では納得できる。
そして、「あらゆるものの本質は空である」ということと「十二縁起=この世の全ては因果の連鎖によってつながっている」ということを合わせたとき、「紙の中には雲がある=すべての存在は、相互に依存して存在している」という説明の意味も十分に理解ができる。
この説明の仕方は、般若心経に新たな光を当て、新鮮な風を送り込むものとして、すぐれた解説だと言える。
しかしながら、「納得」も「理解」もできるが、インタービーイングという言葉が「般若心経の心」を表し、「無我、十二縁起、中観」をまとめて表現するためには、もう一つの「補助線」が必要である。
それが華厳思想の一即一切(いち・そく・いっさい)という考え方である。
これは「一即多・多即一」とも言われるが、「一つのものにすべてのものが含まれ、すべてのものが一つのものとして統合されること」を意味する。*3
ナット・ハンは、この考え方をインタービーイングという言葉に込めたわけである。*4
上座部系の瞑想実践においては、「気づき=マインドフルネス」とともに、「慈悲=コンパッション」が強調されるが、ナット・ハンの場合には、インタービーイングという言葉を通して、「世界のすべての存在がともに平和にあること」の大切さを説くことで、慈悲と同等の価値を説明しているわけだ。
以上、インタービーイングと華厳思想の関係についてネット上で解説している記事が見当たらなかったので、覚書の作成まで。
☆今回参照したティク・ナット・ハン師の著作
「微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践」
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「仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす」
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※誤字・脱字など乞う寛恕。連絡も歓迎。
*1:http://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_Interbeing より
*2:http://www.ne.jp/asahi/bodhipress/way/news/kimoti.html 参照
*3:http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%80%E5%8D%B3%E4%B8%80%E5%88%87 参照。なお、一即一切は華厳経の言葉ではなく、華厳経を解説した『華厳五教章』の言葉なので、厳密にはここで取り上げるべきは「相即相入」なる概念なのだが、次の注の参照ページ内の棚橋氏の説明に合わせるため、「一即一切」を説明した。相即相入については http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%9B%B8%E5%8D%B3%E7%9B%B8%E5%85%A5 参照。ティク・ナット・ハンは相即相入を英語で interconnectedness と説明していると思われる
*4:『ビーイング・ピース』の解説で訳者の棚橋氏が華厳経について言及している。 http://blog.livedoor.jp/t2san/archives/50441740.html 参照
仏教では「一切皆苦」といい、「生老病死のすべてが苦である」とも言います。
日本では仏教が葬式と結びついていることもあり、これだけを聞くと、
「仏教って悲観的で辛気臭いよな」
と思ってしまいがちです。
けれども仏教の開祖であるゴータマ・ブッダが実際に言ったのは、
「この世のすべては苦しみの元になりうるが、正しいものの見方を身につければ苦しみを離れて、幸せな人生を送ることができる」
ということです。 実際のところ、ぼくたちの人生は思う通りにはならない、不自由なものです。
お金がもっとほしいと思ったからといって、お金が入ってくるわけではないし、素敵な恋人がほしいと思ったからといって、理想の恋人が見つかるわけではありません。
仏教における「苦」というのは、こうした「思い通りにはならないこと」からくる「不満足」のことであり、また、イヤでもやってくる「ストレス」のことでもあります。
そして仏教では、こうした「苦≒不満足≒ストレス」が生じる原因は、ぼくたちがこの世界の現実をよく理解していないからだ、と説明します。
この無理解のことを「無明」と呼びます。「真実を明らかに知っていない」という意味です。
ここで理解するべきだという「この世界の現実」というのは、
「この世のすべてのものは変化するものであり、不変のものは何もない≒無常」
という事実と
「すべてが無常であるとき、これこそが不変の自分であると言えるようなものも存在しない≒無我」
という事実の二つのことです。
☆無常と無我についてはこちらの記事もどうぞ。
・初期仏教における「無我」の考え方。あるいは、自分を体や感情と同一視しないこと。 - *魂の次元*
・「怒り」というやっかいな感情とどう向き合うか。あるいは、「怒り」についての私的考察。 - *魂の次元*
無常と無我の考え方を理解してかていないと、「変わりゆくもの」と「自分や自分のものと思い込んでいるもの」に対する執着が生じ、この執着が「苦しみ」原因になるというのが仏教の考え方です。
たとえば「お金がたくさんほしい」と思って、もしも実際にお金が得られても、使ってしまえばなくなってしまいます。
お金を使った得られた満足で、そのときは幸せな気持ちになれたとしても、過ぎ去ってしまえば、もうその満足はそこにはありません。
頭で思い描く「素敵な恋人」に出会えた場合も、恋い焦がれて夢中のときには、会うだけで幸せな気持ちになれるでしょう。
けれども逆に言えば、会えないときは不幸せな気持ちになりかねませんし、最初のときめきが過ぎてしまえば、そこには不満が生まれてくるおそれもあります。
変化するものに執着している間は、瞬間瞬間の満足は得られても、心の安らぎは得られないのです。
ここで発想を逆転させてみましょう。
無常と無我という考え方をよく理解した上で、無常で無我なこの世のものごとに執着することをやめてみるのです。
ほしいものを握りしめて「絶対手放さないぞ」と思ったり、逆にイヤなものを毛嫌いして「こんなものどこかへ行ってしまえ」と思ったりすることをやめます。
ほしいものを手に入れても、それがいずれはなくなることをはっきりと知り、イヤなものが現れても、それもいずれはなくなることもはっきりと知るのです。
そうすれば、ほしいものが手元になくても、イヤな気分にならず、いつも落ち着いた気持ちでいられます。
また、イヤなことが起こっても、それは永遠に続くわけではなく、やがて去っていくのですから、しばらくの間、辛抱してつき合うことにすれば、それによって心が乱されることもなくなります。
このように「選り好みも毛嫌いもしない≒執着心がない」状態になれば、どんな状況に置かれても、苦しみを感じず、不満も感じず、ストレスとも思わないような心境でいることができるようになるのです。
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人生から苦しみをなくしたければ、執着心をなくせばいい。
言葉にしてしまえば、簡単なことです。
けれどもこれを実際に実行するのは、なかなか難しいことになります。
ほしいものが手に入らなければ不満に思い、イヤなことが起これば不愉快に思う。それが人間というものです。
けれども、もしあなたが本当に幸せになりたいのなら、今この瞬間にも「執着心をなくすぞ!」と決意する必要があります。
「自分にはできる!」と信じて決意し、それを持続的に実行していくことができれば、あなたは少しずつ理想の状態に近づいていくことになるのです。
まずは鼻から三回深呼吸をして、体と心の余分な力を抜いてみてください。
力を抜いてリラックスすれば、今までは使えずに垂れ流しになっていた心の力が、意味のあることに使えるようになります。
ある人がネットで匿名で、自分が座禅をするとき、次のような二つの状態があるのだが、どちらが正しいやり方だろうか、という質問をしていました。
一つは、ただ座って、そこで起こるがままに任せるやり方で、この場合は日常の意識に近く、場合によっては思考が続くことによって疲れてしまう場合もあるとのこと。
もう一つは、半眼にしている目の焦点をぼやかすようにして、すると意識も落ち着いた状態になり、思考は起こりにくくなり、リラックスした状態になるとのこと。
これに対して答えていた方は、曹洞宗系の座禅の修行をして、ある在家の老師から印可を受けたという在家の方で、座禅においては「何もいじらない」ことが大切なので、前者の「起こるがままに任せる」やり方が正しく、それを続けていれば、自然に後者の「リラックスした意識状態」に入れるようになる、と述べていました。 後者のように、意図的に焦点をぼやかすなどして、意識状態を変えないほうがいい、というわけです。
この答えは一般論としては間違いとは言えないし、曹洞宗の「只管打座≒ひたすら座る」というあり方からすれば、まったく正しいものと言えましょう。
けれども「曹洞宗の座禅」という枠組みを離れて、広く「瞑想」という文脈で考えてみると、別の答えも出てきます。
たとえばゴエンカ式のヴィパッサナーならば、思考が止まらないことに気がついたならば、「体の感覚を観察する」という基本の練習に戻るように教えられます。そして、体の感覚を落ち着いて観察できないほどに思考の想起が強い場合は、しばらくは呼吸を強めにして、集中力を養い、そのあとでまた体の感覚の観察に戻るようにすすめられます。
曹洞宗系も、ゴエンカ式も、仏教の世界観にもとづいて、「無常・苦・無我」という現実の相を知り、苦しみを離れた境地を目標とする点では共通ですが、実践の方法にはこのように大きな違いがあります。
ここで、「それぞれの実践法のうち、どちらが優れているか」という問いは意味を持ちません。
どちらも正しく実践を続けていけば、徐々に目標に近づいていくことができるのであって、富士山に登るのに、静岡から登っても、山梨から登っても、結果としてたどり着く頂上は一つなのと同じことです。
仏教の枠組みを離れて考えれば、ヒンドゥー的な世界観の持ち主であるジッドゥ・クリシュナムルティのように「正しい瞑想は教えられるものではない」と主張する人もいます。
「瞑想とは思考のパターンから自由になること」なのだから、「瞑想はこのようにやります」というような定式化では本当の瞑想は実践できないというのです。
たとえば最初の曹洞宗系の「何もいじらない」という教えですが、その教えを実践するときには、意識をあえて「何もいじらない」という定式に固定しているのだから、「思考のパターン」を作ってしまうことになります。「思考のパターンから自由になる」ためには、「何かをいじること」も自由にできなければならないのに……。
このクリシュナムルティの主張にも一理はありますが、だからといって曹洞宗系やゴエンカ式の瞑想実践に意味がないかというと、それはまた違うでしょう。
初歩の段階で定式化された方法に従って練習をすることには、それなりのメリットもあるからです。
三者三様の、説明の仕方があり、実践についての考え方があり、瞑想の目的の捉え方の違いがあります。
こうした違いは、「苦しみをなくすこと」「完全に自由になること」「究極の安らぎを知ること」などと、言葉で記述すると相当大きな違いにも思えますが、それを実現したときの「精神状態」としては、「富士山の頂上に立つ」のと同じで、「精神的な状態の極みに立つ」ことであり、その最高の状態を、別の言葉で表しているにすぎません。
初めに書いた「正しい瞑想の仕方」の話に戻ると、質問者が、曹洞宗系のある教えにもとづいて座禅の練習をしている初心者であることを考えれば、回答者の「何もいじらないで、ただそのまま座りなさい」という答えはまったく正しいものです。
けれども、この初心者の方が、二年、三年と同じ座り方をして、まったく進展がない場合には、ひょっとしたら方法を変えたほうがいいかもしれません。
同じ指導者のもとでは、「ずっとこの方法を続けていれば必ず成果が上がります」と言われるかもしれませんが、それが本当にうまくいくという保証はどこにもないからです。
その点ではクリシュナムルティのいう「固定的な方法論は瞑想とはいえない」という考えも参考になります。
「何もいじらない」方法がうまくいかないのであれば、たとえば「呼吸と体の感覚に意識を向ける」方法を試してみて悪い理由はないのです。
仏教の教え自体が、盲信を戒めるものであることも、重要なポイントであす。
仏教の中でもいろいろな方法論があります。ブッダの教えが盲信を戒め、自分の体験によって、方法の有効性や仏法の真実性を確かめることを推奨していることを考えれば、一つの方法を十分に試した上で、自分に合わない可能性があるときには、別の方法を試してみることに、何の問題もありません。
瞑想に関心のあるすべての人が、ドグマ的思考に落ち入ることなく、瞑想の本質のひとつである「完璧な認識の自由」への道を歩むことができるよう、深く願うものです。
前の記事では、仏教の「無我」という考え方について説明しました。
https://dimofsoul.mitona.org/entry/muga
私的なことですが、今日は怒りを相手にぶつけてしまう体験をしたので、そのことを「無我」の考えともからめて書いてみます。
「怒り」という感情はやっかいなものです。
自分の中に「怒り」が湧いてきたとき、それを抑え込んでも、あとあとに悪い影響を残しますし、相手に直接ぶつけたりすれば、これも大きな問題になりかねません。
そこで「怒り」という感情を押さえつけず、そして外に出しもせず、きちんと観察することで対処しましょう、というのが、ヴィパッサナー瞑想のやり方になるわけです。
もちろん、これは簡単なことではありません。
「怒り」に心が乗っ取られてしまっているときには、それを冷静に観察することなどできるものではありません。
けれども、瞑想の練習にある程度慣れてくれば、怒りが少し収まってきて、自分が怒っていることに気づいた時点で、「あ、今自分の中に『怒り』があるな」と観察し、「息が荒くなってるな」とか「頭に血が上ってるな」などの体の感覚を観察することができるようになります。
そうして「怒り」と、それに伴う体の感覚を観察し、それが次第に弱まっていき、やがては消えてなくなるところまで見届けることができれば、これが一番理想的と言えます。
「この世に起きることはすべて一時的なものであり、生じては消えていくものにすぎない」というのが、仏教において無我と並んで重要な「無常」という考えの意味するところです。
* * *
さて、「怒り」のような強い感情が生じて、しかもそれを相手にぶつけてしまった場合、そのことがどうしても頭から離れない、というようなことが起こります。
今日のぼくの場合は、怒りを相手にぶつけてしまったこと自体は、それはそれで自然な反応であり、それを「悪いこと」と考える必要はないのだ、と頭では納得できていました。
けれども、「怒りを相手にぶつけるのは悪いことだ」という考えが染みついているもので、後味の悪さが残ってしまい、しばらくの間「怒りをぶつけてしまったこと」が、繰り返し頭に浮かんできました。
こうして思考がとらわれた状態になると、「自分は悪くない、相手がこうしたから悪いのだ」といった相手を責めて、自己正当化をすることになりがちです。
そうやって自己正当化をしてしまうと「本当は怒りをぶつけないほうがいい」のに、「怒りをぶつけても構わないのだ」と勘違いすることになります。
ですから自己正当化をしている自分に気づいたら、「あ、また自己正当化をしているな」と確認した上で、「でもやっぱり怒りはぶつけないほうがいいぞ」と正しい方向に考えておくことが大切です。
幸い今日はそうした自己正当化には陥らずに済み、何度も怒った事実が思い起こされることで「『自分は怒りをぶつけてはいけない』と強く思い込んでるんだなぁ」と確認することができました。
こうして自分のクセが確認できれば、時間はかかりますが、段々とそのクセをなくしていくことができます。
このようにして、そのときそのときに自分に起きていることを肯定も否定もせずに観察し、確認していくことが、いわゆるマインドフルネスの練習ということになります。
* * *
「自分は怒りっぽい」とか「自分は意志が弱い」とか、いろいろな思い込みをぼくたちは持っているものです。
けれども、自分というものも変化をし続けるものであり(無常)、「怒り」とか「意志の弱さ」とかいうものは、あるときのあなたの状態としては存在しても、それがあなただというわけではありません(無我)。
そして、無常で無我である様々なものに執着するとそれが苦しみを生むもととなるのだ、というのが仏教の世界観です。
逆に言えば、この世のすべてのものが無常で無我であると理解できれば、すべての苦しみはなくなってしまうのです。
すべての苦しみがなくなるなんて、ちょっと大げさに聞こえるかもしれません。
けれども、この大それた主張が仏教の第一原理になりますので、それについては次の記事で説明したいと思います。
てなことで、みなさんそれではナマステジーっ♬
☆なお、マインドフルネスの背景にある仏教的世界観について知りたい方には、こちらの本がおすすめです。
「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門: 豊かな人生の技法」(1999 春秋社)
https://amzn.to/2CdFQ2M
「瞑想で一番大切なのは、物質や心理的現象を自分と同一視することをやめることだ」とビルマの僧侶ウ・ジョーティカ師は言っています*1。
別の言葉で言えば、初期仏教における瞑想の大きな目的の一つは、「無我を体験的に理解すること」なのです。
そして「無我」という考え方が腑に落ちれば、人生における厄介ごとは格段に減ります。
「無我」というのは、「普段あなたが自分だと思っているものは、よくよく観察すれば自分だとは言えない。『これが自分だ』と言えるようなものは何もない」ということです。
「自分」とか「自分のもの」とかいう考えに慣れ親しんでいるわたしたちは、「自分は存在しない」などと言われたら、驚き、傷つき、がっかりしたり、否定したりするかもしれません。
けれども、落ち着いて検討してみれば、この考えは決しておかしなものではないことが分かります。
たとえば誰かが、あなたを傷つけるようなことを言ったとします。
あなたは不愉快に思い、何か言い返してやろうかと考えます。
つまりあなたは「怒った」のです。
ですが、これを「無我」の視点から眺めると、別のことが言えます。
イヤなことを言われたあなたの中に「怒り」の感情が起こります。けれどそれを自分と同一視する必要はないのです。
ただ「自分の心に『怒り』が生じたこと」を観察するにとどめ、それに反応して「相手に言い返す」ことはやめておきます。
言い返せば相手はさらにイヤなことを言ってくるかもしれません。
余計なことは言わないのが得策というものです。
こうして「自分が怒った」と捉えることをやめ、「自分の中に怒りが生じた」と考えるようにするのが、「無我」を理解する第一歩です。
この視点に慣れてくれば、自分と感情を同一視しないですむようになり、自分の体を自分だと勘違いすることもなくなっていきます。
いずれは、「自分は歩いている」と考える代わりに、「この体が歩くという動作をしている」というように、完全に自分を取り払った捉え方もできるようになるはずです。
そうなれば、自分を特別視することもほとんどなくなりますから、執着や怒り、好き嫌いなどの感情に左右されることも、格段に減ります。
☆『自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義 』(2016 新潮社)
https://amzn.to/3k3Gvox
こちらの本はウ・ジョーティカ師によるヴィパッサナー瞑想のマニュアルです。
中級者以上向けの詳細な記述ですが、意欲的な初心者の方にもおすすめします。
*1:"snow in the summer" p.11, https://holybooks.com/snow-summer-sayadaw-jotika/
書評家の冬木糸一氏が
薬物はどのように精神を変質させるのか?──『幻覚剤は役に立つのか』 - 基本読書
という記事で、幻覚剤のもたらす変性意識の医療的意義について紹介しています。
アメリカのジャーナリスト、マイケル・ポーラン氏が自らの幻覚剤体験を踏まえて書いた
「幻覚剤は役に立つのか」
https://amzn.to/2MRIwEW
を通して、冬木氏の紹介は興味深くも的確ですが、残念ながら氏にとっては「LSDやマジックマッシュルームは『やばいドラッグ』」であって、氏自身はそうした薬物の経験をお持ちではありません。
この記事では、マジックマッシュルーム、大麻などの経験とともに、ヴィパッサナー瞑想も練習している者として、幻覚剤の効果と社会的意義を、その危険性も含めて素描してみます。
ガン患者の世界観変容 幻覚剤による変性意識の実際 バッドトリップの恐怖 幻覚剤は脳神経をどう活性化させるのか 幻覚剤の使用は倫理的に許されるのか? ガン患者の世界観変容 冬木氏はまず、ガンの末期患者に対して行なった、マジックマッシュルームの主成分サイロシビンの投与実験を紹介しています。
これは、余命宣告をされ、自分の死と向き合うことを余儀なくされた人たちが、幻覚剤による意識変容によってQOL(クォリティ・オブ・ライフ)を高めることができるか、という問いかけです。
それぞれが、身体によって認識する自己というものを超越し、自我からの解放を経験する。ジャーニーから戻ったとき、患者さんたちは新たな視野を手に入れ、すべてを受け入れる境地に至っている。
実験をした研究者はこのように述べたとニューヨーク・タイムズは伝えているそうです。
これについて「一時的にラリってハッピーになってるだけなのか」というのが、冬木氏の関心の置きどころです。
そして氏は、幻覚剤の投与による変性意識状態の脳科学的考察を経たのち、
「一時的に死の恐怖を忘れられるだけでなく、長期にわたって死に対する恐怖感などが減じ、世界観自体ががっと切り替わる(ことがある)のは確かなようである」
と結論しています。
ぼく自身の経験に即して言えば、マジックマッシュルームによる変性意識の体験*1は、理性的な思考だけでは届かない、体感と情動が一体となった深い認識への扉を開いてくれることになりました。
アルコールでしか変性意識の体験がない日本の多くの方は、薬物を摂取して得た、「歪んだ認識」にどんな価値があるのか、と疑問を感じるところでしょうが、人間がいつも経験している普段の認識こそが、「理性や習慣の枠に狭められて歪んだ色眼鏡越しに見ている、一種の催眠状態にすぎない可能性」をここで思い描いていただけたらと思います。
幻覚剤による変性意識の実際 マイケル・ポーラン氏はLSDによって、家族の顔が次々と浮かび、深い愛情に満たされる経験をします。
またサイロシビンによっては、
「私は確かにここにいるのだが、私自身とは別の何かになっている。そして、感情や感覚を持つ自分はもういないのに、なんとなく穏やかで満ち足りた感じは残っている」
と感じます。
そしてソノランデザートヒキガエルからとれる幻覚剤*2を摂取したときには、
「私が消失し、紙吹雪のごとく吹き飛ばされて、「私は存在する」という感覚すら消え、「死ぬとこんな感じがするのか?」 という問いが浮かんだとのことです。
ここに引用したポーラン氏の体験では、自意識の体験の変容が強調されていますが、人により、時により、体験は多様です。
マジックマッシュルームによるぼくの体験で印象的だったものの一つは、空に浮かぶ雲が、巨大で邪悪なマシュマロマンに見えたことです。
我々の理性は「空にマシュマロマンなどいない」と言ってそれを否定します。けれども自分の脳の神経回路がそこにマシュマロマンを見てしまっている以上、その体感を否定することはできません。
記憶や感情を司る領域が視覚情報処理領域とじかに交流するようになれば、希望や恐怖、先入観や感情が視覚に影響を与えはじめる。まさに、原初的意識の特徴であり、魔術的思考につながるレシピである。
とポーラン氏が書くように、魔術的思考が自分の身のうちに存在することを、幻覚剤は教えてくれるのです。
そしてこのような「幻覚作用」は、単に奇妙で興味深いものであるにとどまらず、普段の意識ではつながらないものをつなげることで、新しい科学的発見につながる可能性もあれば、世界観の変容をもたらす可能性も持つのです。
さて、サイロシビンなどの幻覚剤は、脳内のさまざまな神経伝達物質の作用に対してアクセルを踏んだり、ブレーキを踏んだりすることで意識の状態を変性させます。
こうした意識変性作用は、幻覚剤をどのくらいの量摂取するかによっても当然異なってきますが、同時にどういう気持ち(セット)で、どういう環境(セッティング)のもと摂取するか、によっても大きな影響を受けます。
ポーラン氏や実験を受けたガン患者の人たちは、安全かつ十分な効果がある量の幻覚剤を、落ち着いた気分で、安心できる環境のもと用いることで「よいジャーニー」をすることができたわけです。
逆に言えば、不安がある状態で幻覚剤を摂ることは、精神の安定をそこない危険を招くことにもなります。
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バッドトリップの恐怖 たとえば、世界最強の幻覚剤であるLSDを不用意に摂った結果、自分に体があるのかないのかが分からなくなり、自分に体があるのを確かめようとして、体を切り刻んでしまったというエピソードを何かの本で読んだことがあります。*3

新型コロナで社会的な不安が高まる中、フェイスブックやツイッターでこんな画像が拡散されています。
「恐れを克服して成長しよう」というこの図の主張に対して、
「政府の無能に怒りをぶつける権利を奪うのか?」という反論が上がっています。
さて、この対立するように見える2つの立場ですが、実際のところはどうなのでしょうか。
恐れを克服して成長する 弱者の怒る権利を奪うな! 「社会的な働きかけ」と「ネガティブな感情」の大切さ 恐れを克服して成長する 図に書かれた言葉をぼくなりにまとめたものがこちらです。
1. 恐れのゾーン
(1) 買い占めをしていないか
(2) 恐れや怒りの感情をまき散らしていないか
(3) 頻繁に不平不満を言っていないか
(4) ソースを確認せず、不確かな情報を拡散していないか
(5) すぐ怒る
2. 学びのゾーン
(1) コントロールできないものを手放す
(2) 食べ物でもニュースでも自分に外のあるものはやめる
(3) 自分の感情に名前をつけて確認する
(4) 状況を自覚して行動を考える
(5) うっかりデマを拡散しないように、情報のソースを確認する
(6) 誰もがベストを尽くしていることに気づく
3. 成長のゾーン
(1) 他者を助ける方法を考える
(2) 自分のできることを必要な人に届ける
(3) 今を生き、未来にフォーカスする
(4) 自分を大切にし他者にも共感する
(5) 他者に感謝する
(6) 幸せを大切にし希望を広める
(7) 変化に適応する道を探す
ここに書かれていることは、精神的な成長というような心理学的話題について考えたことのない方にとっては、違和感を覚える点も多いかもしれません。
たとえば、
2. 学びのゾーン
(1) コントロールできないものを手放す
などはただ読んだだけでは意味もよく分からないでしょう。
けれども、
2. 学びのゾーン
(4) 状況を自覚して行動を考える
ならば、恐れのままに無自覚に行動(たとえば買い占め)するのではなく、気持ちを落ち着けて自覚的に行動しよう、というわけですから、まったく当たり前のことを言っているにすぎません。
また、
3. 成長のゾーン
(5) 他者に感謝する
という項目は極めて倫理的な主張に思えるでしょうが、これは
(奇言と戯言) 不安を抱えて軽々生きる
不安を抱えているのに、軽々と生きるだなんて、まったく言語矛盾した話だと思われるかもしれません。
でもまあ、言葉なんてのは初めから矛盾だらけなのでありまして、矛盾が嫌いな人は数学でもしていればいいのであります。
こいつは鏡の国に紛れ込んでしまったんだろうかと思って、では軽々と不安を抱えてみることにしようかと考えるあなたならば、ぼくが言いたいことや言いたくないことや、あるいは、ほんとは言いたいんだけど言わないようにしてることまでもきっと読み取ってくださるでしょうから、高々百年ほどの短くて貴重な人生のうちの数分か数十分をこの進みも止まりもしない文章のために費やしてくださるものと確信しております。
それにしてもどうしてぼくは、スマホにテンキーまでついたフルサイズのキーボードをつないでこの文章を打ち込んでいる今まさにそのときに、奇妙な不安を腰の辺りに痛烈に感じながら、言葉のダンスを続けているのでしょうか。
文章を入力する準備を整えたのは、実は他の記事を書くためだったのですが、いざキーボードを目の前にすると、言葉にして説明すれば「書こうとしていた記事が書けなかったらどうしよう」というような不安がやってきてしまいました。
その不安を抱えたまま記事を書くのは苦しい闘いになるのが目に見えていました。
そこでぼくは軽々と文章を打ち出し続けるために作戦を変更して一時退却し、この不要不急にして浮揚感の漂う、腐朽の名作にはなりえないことが初めから明らかな随想にとりかかることにしたのです。
ですからこの文章は、ぼくにとっては不安感をしっかりと味わいながら、それが溶けて消えていく過程を積極的に見つめるための方策であり、同時にこれを読んでいるみなさんにとっては、ぼくのうちに生成消滅する不安を垣間見ていただくことによって、共感・予行演習・他山の石・対岸の火事・軽蔑・暇つぶしなどなどといった、さまざまな効用が期待できる一石二鳥・一挙両得・一目瞭然にして一網打尽の、まああえて言いますならば、こういう文章だけは自分は書くまいという反面教師としての価値だけはどなた様にもお認めいただけるものと自負しております。
さてここで本考察のテーゼに永劫回帰し、不安とはいかなるものかについて一言述べさせていただきましょう。
果たして人は不安をいかにして認識するのか。
それは体に現れる様々な感覚の変化を通して認識されるものなのです。
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世界を言語によって切り取り、切り取った言語を貼りつけては張りぼてを作り、作った言語の張りぼてを実際の世界だと勘違いしてしまうと、「我不安を感ず。ゆえに我あり。我不安とともにあり!」と声たかだかに叫びたくなってしまうものですが、最近の心理学的知見を持ち出すまでもなく、賢明なる読者諸賢におかれましては懸命にそしてつぶさに自分の感覚を観察することによって、「自分はいま腰の辺りに強い緊張を感じているな。そしてそのことから脳の中で不安や恐怖などの情動を司る扁桃体が活発に活動して世に『不安』として知られる情動がこの体に起こっていることが知れるのだ」と例えばそのように、体の感覚と情動との関係を理解することができるわけであります。
ここまで筆を進めてまいりましても、もちろん進めるべき筆など持ち合わせはなく、キーボードを打ち続けるしか能のないわたしではありますし、そもそも脳があるのかどうかも分からない脊髄反射的な意味不明な文章の羅列になっていることは平にお謝りするしかない次第ではありますが、つまり残念なことにわたくしの不安は一向に消滅の方向に向かっていってはくれていなことを報告せざるをえないのが現状であります。
ところが、人間心理というものは実に不思議なものです。
「一向に消滅の経方向に向かってくれない」と書いてしまったためでしょうか、その文章を打ち込んでいるうちに少し腰の緊張が軽くなったかな、どうだろうな、うん確かに少し軽くなってるな、まだすっと消えるほどではないけど、初めのとんがった緊張からは確かに軽くなってるぞ、というくらいには緊張がゆるみ、不安感が減じていることをここにご報告できるのは、ここまで読みにくい文章を読み進めてくださったみなみなさまのおかけでありますから、これを読んでくださっている多数の方々が住んでいらっしゃる東の果ての国ジパングには、足を向けて寝ることができないのでございます。
グローバルでワールドワイドで、フラットだけど球状の、天網恢恢疎にして漏らさずなご時世に、生物と無生物の間の顕微鏡的な存在が世の中を騒がせてはおりますが、みなさまにおかれましては、虚の中に実を見、うつつも夢と決め打ちし、覆われたものを敢えて白日の元に晒すも晒さぬもあなた次第、不安を抱えて軽々と生きる術を身につけるための、これを絶好の機会と心得て、日々ことのはを紡いで、言葉の彼方へと飛び去ろうではありませぬか。
以上、天竺国の聖地、ガンジスのほとりハリドワルより、緊張と共に機嫌よくつづり上げた奇言の羅列でありました。
[即興作文のため、誤字脱字はご寛恕ください]
新型コロナウイルスが蔓延して、世界中で死者が増えています。
人類史上まれな事態であるため、不安を抱えて暮らしている皆さんも多いことでしょう。
けれども世間が大騒ぎをしているからといって、あなたまで右往左往する必要はありません。
この記事では、嵐の中でも心落ち着けて暮らすためのヒントを、いくつか書くことにしましょう。
心を落ち着ける。 人生の意味を確認する。 人のことは気にしない。 できることを淡々とやる。 死を覚悟する。 心を落ち着ける。 最初に確認する必要があるのは、心を落ち着けることの大切さです。
どんなに苦しい状況にあっても、心の落ち着きさえあれば、苦難を乗り越える可能性を確かなものとすることができます。
心を落ちけるための方法は人によって違いますが、たとえば呼吸を、鼻からゆっくりと長くすることを心がけるだけでも、気持ちを落ち着けることができます。
体を動かすことで気持ちが落ち着く人もいるでしょうし、音楽を聴くことで落ち着く人もいるでしょう。
自分に合った方法で心を落ち着けてみてください。
自分に合う方法がまだ分からない場合は、これをいい機会として、どんなことをすると気持ちが落ち着くのか、いろいろと試してみてください。
何かをするにせよ、何もせず静かに時間を過ごすにせよ、心を落ち着けることが何よりもよい出発点になります。
まずは自分の気持ちを落ち着けるための時間を取って、そこから次のステップへ進むことにしましょう。
人生の意味を確認する。 あなたにとって人生の意味とはなんでしょうか。あなたが人生で一番大切にしているものはなんですか。
この質問にはっきり答えられるならば、世間が大騒ぎしている中でも、自分にとって大切なもののために、できることを一つひとつやっていけばよいだけのことです。
もしあなたが日々の暮らしで精一杯で、自分がなんのために生きているのかがはっきりしないのなら、この機会に時間を取って考えてみることをおすすめします。
あなたにとって幸せな時間はどんなものですか。
それは一人で静かに過ごす時間なのでしょうか、それとも友だちや家族と楽しく過ごすことでしょうか。
あるいは、やり甲斐のあることに打ち込んでいるときかもしれませんし、答えは人それぞれに違います。
自分にとっての人生の意味を確認し、自分にとっての幸せな時間を大切にすることができれば、周りの人にもあなたの幸せな気持ちを分かち合うことができるようになります。
心を十分落ち着かせて、幸せな時間を作り出すこと、そしてそれを周りに広げていくことを、心がけてみましょう。
人のことは気にしない。 世の中が騒がしいと、どうしても周りのことが気になります。
隣の人がしていることを真似したくなったり、逆に批判的になって「そんなことするな」と言いたくなったり、世間の騒ぎに巻き込まれやすくなります。
そんなときは「人のことは気にしない」ときっぱり決めてしまうのが一番です。
人間は一人ひとりが異なる存在です。
別の人にとって正しいことがあなたにとっても正しいとは限りませんし、その逆も同様です。
誰かが小麦粉を使って作ったおいしいお菓子も、あなたに小麦アレルギーがあれば食べることはできません。
自分には向かないやり方なのに、人に影響されて、間違って取り入れたりしないためには、外からの情報をシャットアウトすることも時には必要です。
外野の情報が気になったり、非難するような気持ちになったら、まずは自分の気持ちを落ち着けることです。
心の落ち着きさえあれば、自分が何をするべきかはあなたの無意識が教えてくれます。
気持ちさえ落ち着けば、他の人が何を言い、どんなことをしていても、人は人、自分は自分と別けて考えることができます。
そうして自分に大切なことから順番にやっていけば、結果として周りの人にもいい影響を与えることができるようになるのです。
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できることを淡々とやる。 生活の見通しが立たず、不安が大きくなり、何をやればいいのか分からなくなってしまうこともあるかもしれません。
そんなときには、ただ不安な気持ちを抱えておろおろしているよりは、どんなことでもいいので、今できることをやってみるのがいいでしょう。
部屋を片づけることでも、料理をすることでも、ゲームをすることでも、おしゃべりをすることでも、それが役に立つかどうかなど気にせず、今自分ができること、ちょっとやってみようかなと思うことを、どんなことでもいいので、とにかくやってみることです。
重い腰を上げてとにかく取りかかってしまえば、案外そのことに没頭できるものです。
やってみて気分が乗らなければ、また別のことを試してみればいいのです。
東京都の小池知事が3月30日夜8時半ごろから緊急の記者会見を開き、
「夜間の酒場 出入り自粛を」呼びかけたことがNHKによって報道されています。
小池知事は「厚生労働省のクラスター対策班の専門家の報告によると、感染経路が不明な症例のうち、夜間から早朝にかけて営業しているバーやナイトクラブ、酒場など接客を伴う飲食業の場で感染したと疑われる事例が多発していることが明らかになってきた」と述べました。
NHK WEBより この記事では、新型コロナの感染爆発に対する、こうした「自粛要請」という対応についての問題を考えます。
自粛要請と相互監視のパノプティコン的監獄社会 恣意的な自粛要請と「自粛要請」自体のはらむ矛盾 新型コロナから学ぶべきものと未来への希望 自粛要請と相互監視のパノプティコン的監獄社会 過去遡及型パノプティコンと公正世界信念によって感染経路不明者が増加して、自覚のない感染者や自覚があっても行動を変えない感染者がさらなる感染者を増やす。社会的な収束よりも自分自身の目の前の問題が大切だし、そう思わせてしまう様々な施策や制度が失敗に転じているという事なのだろう。
過去遡及型パノプティコンと公正世界信念によって増加する感染経路不明者 - 太陽がまぶしかったから 池田仮名 (id:bulldra)さんはこのように書いて、自粛要請という政策の失敗を語っています。
パノプティコンとは全展望監視システムのことです。ここでは市民が相互に監視し合うことによって、進んで監獄を作っていく状況を意味します。
過去遡及型とは「感染が分かったことによって過去の行動を後から暴露されて責められる」ということです。
つまり「バーやナイトクラブで夜遊びをしているものは叩いてかまわない」というわけです。
こうして新型コロナに対する恐怖から息苦しい相互監視社会が立ち上がっていくにも関わらず、人間の自由な行動自体に制限はかけられないことから、感染は広がり続けているというわけです。
恣意的な自粛要請と「自粛要請」自体のはらむ矛盾 「バーやナイトクラブ、酒場など接客を伴う飲食業の場で感染したと疑われる事例が多発している」と知事は述べているわけですが、疑いがあるというだけで確証はありません。
本当にバーやナイトクラブで感染が多発していると考えられるのか、また通勤列車では感染が起こらないと言えるのどうか、それぞれの状況を厳密に考慮することなく、「夜遊び」だけを問題視して自粛要請することは、まったく恣意的であり、感染防止に役立つものとは思えません。
そもそも「自粛要請」という用語自体が矛盾に満ちています。
bokukouiさんの説明が分かりやすいので引用します。
「自粛」という言葉を辞書で引いてみると、
「自分から進んで、行いや態度を慎むこと。」
という定義が示されます。「自分から進んで」というのがポイントで、だから「自」粛なのですね。
ところが、「要請」というのをこれまた辞書で引くと、
「必要だとして、強く願い求めること。」
となります。
「自分でから進んでやる」ように、他者が「強く願い求める」というと、自主的なんだか命令なんだか、はなはだあいまいになってきます。
自粛はいつから要請されるようになったのか : 筆不精者の雑彙 こうして考えてみると、「自粛要請」は結局実質的に命令であり、法的な制裁はない代わりに、相互監視によって国民同士の関係を監獄化させます。
その結果として、ソフトな全体主義社会体制を強化する装置として機能するのです。
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新型コロナから学ぶべきものと未来への希望 新型コロナウイルスの蔓延によって経済がうまく回らない状況については、政府が十分な施策を打って、社会的な弱者を筆頭に、社会全体が受けるダメージを緩和することが必要です。
一方で、この新型コロナ騒ぎは、経済一辺倒の現代社会のあり方を見直すいい機会でもあるでしょう。
世界的に多数の死者が出ている現状の重さはしっかりと受け止めた上で、物質的繁栄だけを重視するような社会のあり方を考え直す時期に私たちは差し掛かっているのではないでしょうか。
昨日までの日常生活が消え去りかねないような情報が飛び交い、重苦しい相互監視の空気が漂う中で、私たちは不安を抱えて、ストレスのやり場にも困ります。
けれどもそんな状況だからこそ、未来への希望を持ち続けることが大切です。
新型コロナのこれ以上の蔓延を防ぐためには、東京でも自粛ではない外出制限の実施も十分考えられます。