ある人がネットで匿名で、自分が座禅をするとき、次のような二つの状態があるのだが、どちらが正しいやり方だろうか、という質問をしていました。 一つは、ただ座って、そこで起こるがままに任せるやり方で、この場合は日常の意識に近く、場合によっては思考が続くことによって疲れてしまう場合もあるとのこと。 もう一つは、半眼にしている目の焦点をぼやかすようにして、すると意識も落ち着いた状態になり、思考は起こりにくくなり、リラックスした状態になるとのこと。 これに対して答えていた方は、曹洞宗系の座禅の修行をして、ある在家の老師から印可を受けたという在家の方で、座禅においては「何もいじらない」ことが大切なので、前者の「起こるがままに任せる」やり方が正しく、それを続けていれば、自然に後者の「リラックスした意識状態」に入れるようになる、と述べていました。 後者のように、意図的に焦点をぼやかすなどして、意識状態を変えないほうがいい、というわけです。 この答えは一般論としては間違いとは言えないし、曹洞宗の「只管打座≒ひたすら座る」というあり方からすれば、まったく正しいものと言えましょう。 けれども「曹洞宗の座禅」という枠組みを離れて、広く「瞑想」という文脈で考えてみると、別の答えも出てきます。 たとえばゴエンカ式のヴィパッサナーならば、思考が止まらないことに気がついたならば、「体の感覚を観察する」という基本の練習に戻るように教えられます。そして、体の感覚を落ち着いて観察できないほどに思考の想起が強い場合は、しばらくは呼吸を強めにして、集中力を養い、そのあとでまた体の感覚の観察に戻るようにすすめられます。 曹洞宗系も、ゴエンカ式も、仏教の世界観にもとづいて、「無常・苦・無我」という現実の相を知り、苦しみを離れた境地を目標とする点では共通ですが、実践の方法にはこのように大きな違いがあります。 ここで、「それぞれの実践法のうち、どちらが優れているか」という問いは意味を持ちません。 どちらも正しく実践を続けていけば、徐々に目標に近づいていくことができるのであって、富士山に登るのに、静岡から登っても、山梨から登っても、結果としてたどり着く頂上は一つなのと同じことです。 仏教の枠組みを離れて考えれば、ヒンドゥー的な世界観の持ち主であるジッドゥ・クリシュナムルティのように「正しい瞑想は教えられるものではない」と主張する人もいます。 「瞑想とは思考のパターンから自由になること」なのだから、「瞑想はこのようにやります」というような定式化では本当の瞑想は実践できないというのです。 たとえば最初の曹洞宗系の「何もいじらない」という教えですが、その教えを実践するときには、意識をあえて「何もいじらない」という定式に固定しているのだから、「思考のパターン」を作ってしまうことになります。「思考のパターンから自由になる」ためには、「何かをいじること」も自由にできなければならないのに……。 このクリシュナムルティの主張にも一理はありますが、だからといって曹洞宗系やゴエンカ式の瞑想実践に意味がないかというと、それはまた違うでしょう。 初歩の段階で定式化された方法に従って練習をすることには、それなりのメリットもあるからです。 三者三様の、説明の仕方があり、実践についての考え方があり、瞑想の目的の捉え方の違いがあります。 こうした違いは、「苦しみをなくすこと」「完全に自由になること」「究極の安らぎを知ること」などと、言葉で記述すると相当大きな違いにも思えますが、それを実現したときの「精神状態」としては、「富士山の頂上に立つ」のと同じで、「精神的な状態の極みに立つ」ことであり、その最高の状態を、別の言葉で表しているにすぎません。 初めに書いた「正しい瞑想の仕方」の話に戻ると、質問者が、曹洞宗系のある教えにもとづいて座禅の練習をしている初心者であることを考えれば、回答者の「何もいじらないで、ただそのまま座りなさい」という答えはまったく正しいものです。 けれども、この初心者の方が、二年、三年と同じ座り方をして、まったく進展がない場合には、ひょっとしたら方法を変えたほうがいいかもしれません。 同じ指導者のもとでは、「ずっとこの方法を続けていれば必ず成果が上がります」と言われるかもしれませんが、それが本当にうまくいくという保証はどこにもないからです。 その点ではクリシュナムルティのいう「固定的な方法論は瞑想とはいえない」という考えも参考になります。 「何もいじらない」方法がうまくいかないのであれば、たとえば「呼吸と体の感覚に意識を向ける」方法を試してみて悪い理由はないのです。 仏教の教え自体が、盲信を戒めるものであることも、重要なポイントであす。 仏教の中でもいろいろな方法論があります。ブッダの教えが盲信を戒め、自分の体験によって、方法の有効性や仏法の真実性を確かめることを推奨していることを考えれば、一つの方法を十分に試した上で、自分に合わない可能性があるときには、別の方法を試してみることに、何の問題もありません。 瞑想に関心のあるすべての人が、ドグマ的思考に落ち入ることなく、瞑想の本質のひとつである「完璧な認識の自由」への道を歩むことができるよう、深く願うものです。

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前の記事では、仏教の「無我」という考え方について説明しました。 https://dimofsoul.mitona.org/entry/muga 私的なことですが、今日は怒りを相手にぶつけてしまう体験をしたので、そのことを「無我」の考えともからめて書いてみます。 「怒り」という感情はやっかいなものです。 自分の中に「怒り」が湧いてきたとき、それを抑え込んでも、あとあとに悪い影響を残しますし、相手に直接ぶつけたりすれば、これも大きな問題になりかねません。 そこで「怒り」という感情を押さえつけず、そして外に出しもせず、きちんと観察することで対処しましょう、というのが、ヴィパッサナー瞑想のやり方になるわけです。 もちろん、これは簡単なことではありません。 「怒り」に心が乗っ取られてしまっているときには、それを冷静に観察することなどできるものではありません。 けれども、瞑想の練習にある程度慣れてくれば、怒りが少し収まってきて、自分が怒っていることに気づいた時点で、「あ、今自分の中に『怒り』があるな」と観察し、「息が荒くなってるな」とか「頭に血が上ってるな」などの体の感覚を観察することができるようになります。 そうして「怒り」と、それに伴う体の感覚を観察し、それが次第に弱まっていき、やがては消えてなくなるところまで見届けることができれば、これが一番理想的と言えます。 「この世に起きることはすべて一時的なものであり、生じては消えていくものにすぎない」というのが、仏教において無我と並んで重要な「無常」という考えの意味するところです。 * * * さて、「怒り」のような強い感情が生じて、しかもそれを相手にぶつけてしまった場合、そのことがどうしても頭から離れない、というようなことが起こります。 今日のぼくの場合は、怒りを相手にぶつけてしまったこと自体は、それはそれで自然な反応であり、それを「悪いこと」と考える必要はないのだ、と頭では納得できていました。 けれども、「怒りを相手にぶつけるのは悪いことだ」という考えが染みついているもので、後味の悪さが残ってしまい、しばらくの間「怒りをぶつけてしまったこと」が、繰り返し頭に浮かんできました。 こうして思考がとらわれた状態になると、「自分は悪くない、相手がこうしたから悪いのだ」といった相手を責めて、自己正当化をすることになりがちです。 そうやって自己正当化をしてしまうと「本当は怒りをぶつけないほうがいい」のに、「怒りをぶつけても構わないのだ」と勘違いすることになります。 ですから自己正当化をしている自分に気づいたら、「あ、また自己正当化をしているな」と確認した上で、「でもやっぱり怒りはぶつけないほうがいいぞ」と正しい方向に考えておくことが大切です。 幸い今日はそうした自己正当化には陥らずに済み、何度も怒った事実が思い起こされることで「『自分は怒りをぶつけてはいけない』と強く思い込んでるんだなぁ」と確認することができました。 こうして自分のクセが確認できれば、時間はかかりますが、段々とそのクセをなくしていくことができます。 このようにして、そのときそのときに自分に起きていることを肯定も否定もせずに観察し、確認していくことが、いわゆるマインドフルネスの練習ということになります。 * * * 「自分は怒りっぽい」とか「自分は意志が弱い」とか、いろいろな思い込みをぼくたちは持っているものです。 けれども、自分というものも変化をし続けるものであり(無常)、「怒り」とか「意志の弱さ」とかいうものは、あるときのあなたの状態としては存在しても、それがあなただというわけではありません(無我)。 そして、無常で無我である様々なものに執着するとそれが苦しみを生むもととなるのだ、というのが仏教の世界観です。 逆に言えば、この世のすべてのものが無常で無我であると理解できれば、すべての苦しみはなくなってしまうのです。 すべての苦しみがなくなるなんて、ちょっと大げさに聞こえるかもしれません。 けれども、この大それた主張が仏教の第一原理になりますので、それについては次の記事で説明したいと思います。 てなことで、みなさんそれではナマステジーっ♬ ☆なお、マインドフルネスの背景にある仏教的世界観について知りたい方には、こちらの本がおすすめです。 「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門: 豊かな人生の技法」(1999 春秋社) https://amzn.to/2CdFQ2M

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「瞑想で一番大切なのは、物質や心理的現象を自分と同一視することをやめることだ」とビルマの僧侶ウ・ジョーティカ師は言っています*1。 別の言葉で言えば、初期仏教における瞑想の大きな目的の一つは、「無我を体験的に理解すること」なのです。 そして「無我」という考え方が腑に落ちれば、人生における厄介ごとは格段に減ります。 「無我」というのは、「普段あなたが自分だと思っているものは、よくよく観察すれば自分だとは言えない。『これが自分だ』と言えるようなものは何もない」ということです。 「自分」とか「自分のもの」とかいう考えに慣れ親しんでいるわたしたちは、「自分は存在しない」などと言われたら、驚き、傷つき、がっかりしたり、否定したりするかもしれません。 けれども、落ち着いて検討してみれば、この考えは決しておかしなものではないことが分かります。 たとえば誰かが、あなたを傷つけるようなことを言ったとします。 あなたは不愉快に思い、何か言い返してやろうかと考えます。 つまりあなたは「怒った」のです。 ですが、これを「無我」の視点から眺めると、別のことが言えます。 イヤなことを言われたあなたの中に「怒り」の感情が起こります。けれどそれを自分と同一視する必要はないのです。 ただ「自分の心に『怒り』が生じたこと」を観察するにとどめ、それに反応して「相手に言い返す」ことはやめておきます。 言い返せば相手はさらにイヤなことを言ってくるかもしれません。 余計なことは言わないのが得策というものです。 こうして「自分が怒った」と捉えることをやめ、「自分の中に怒りが生じた」と考えるようにするのが、「無我」を理解する第一歩です。 この視点に慣れてくれば、自分と感情を同一視しないですむようになり、自分の体を自分だと勘違いすることもなくなっていきます。 いずれは、「自分は歩いている」と考える代わりに、「この体が歩くという動作をしている」というように、完全に自分を取り払った捉え方もできるようになるはずです。 そうなれば、自分を特別視することもほとんどなくなりますから、執着や怒り、好き嫌いなどの感情に左右されることも、格段に減ります。 ☆『自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義 』(2016 新潮社) https://amzn.to/3k3Gvox こちらの本はウ・ジョーティカ師によるヴィパッサナー瞑想のマニュアルです。 中級者以上向けの詳細な記述ですが、意欲的な初心者の方にもおすすめします。 *1:"snow in the summer" p.11, https://holybooks.com/snow-summer-sayadaw-jotika/

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書評家の冬木糸一氏が 薬物はどのように精神を変質させるのか?──『幻覚剤は役に立つのか』 - 基本読書 という記事で、幻覚剤のもたらす変性意識の医療的意義について紹介しています。 アメリカのジャーナリスト、マイケル・ポーラン氏が自らの幻覚剤体験を踏まえて書いた 「幻覚剤は役に立つのか」 https://amzn.to/2MRIwEW を通して、冬木氏の紹介は興味深くも的確ですが、残念ながら氏にとっては「LSDやマジックマッシュルームは『やばいドラッグ』」であって、氏自身はそうした薬物の経験をお持ちではありません。 この記事では、マジックマッシュルーム、大麻などの経験とともに、ヴィパッサナー瞑想も練習している者として、幻覚剤の効果と社会的意義を、その危険性も含めて素描してみます。 ガン患者の世界観変容 幻覚剤による変性意識の実際 バッドトリップの恐怖 幻覚剤は脳神経をどう活性化させるのか 幻覚剤の使用は倫理的に許されるのか? ガン患者の世界観変容 冬木氏はまず、ガンの末期患者に対して行なった、マジックマッシュルームの主成分サイロシビンの投与実験を紹介しています。 これは、余命宣告をされ、自分の死と向き合うことを余儀なくされた人たちが、幻覚剤による意識変容によってQOL(クォリティ・オブ・ライフ)を高めることができるか、という問いかけです。 それぞれが、身体によって認識する自己というものを超越し、自我からの解放を経験する。ジャーニーから戻ったとき、患者さんたちは新たな視野を手に入れ、すべてを受け入れる境地に至っている。 実験をした研究者はこのように述べたとニューヨーク・タイムズは伝えているそうです。 これについて「一時的にラリってハッピーになってるだけなのか」というのが、冬木氏の関心の置きどころです。 そして氏は、幻覚剤の投与による変性意識状態の脳科学的考察を経たのち、 「一時的に死の恐怖を忘れられるだけでなく、長期にわたって死に対する恐怖感などが減じ、世界観自体ががっと切り替わる(ことがある)のは確かなようである」 と結論しています。 ぼく自身の経験に即して言えば、マジックマッシュルームによる変性意識の体験*1は、理性的な思考だけでは届かない、体感と情動が一体となった深い認識への扉を開いてくれることになりました。 アルコールでしか変性意識の体験がない日本の多くの方は、薬物を摂取して得た、「歪んだ認識」にどんな価値があるのか、と疑問を感じるところでしょうが、人間がいつも経験している普段の認識こそが、「理性や習慣の枠に狭められて歪んだ色眼鏡越しに見ている、一種の催眠状態にすぎない可能性」をここで思い描いていただけたらと思います。 幻覚剤による変性意識の実際 マイケル・ポーラン氏はLSDによって、家族の顔が次々と浮かび、深い愛情に満たされる経験をします。 またサイロシビンによっては、 「私は確かにここにいるのだが、私自身とは別の何かになっている。そして、感情や感覚を持つ自分はもういないのに、なんとなく穏やかで満ち足りた感じは残っている」 と感じます。 そしてソノランデザートヒキガエルからとれる幻覚剤*2を摂取したときには、 「私が消失し、紙吹雪のごとく吹き飛ばされて、「私は存在する」という感覚すら消え、「死ぬとこんな感じがするのか?」 という問いが浮かんだとのことです。 ここに引用したポーラン氏の体験では、自意識の体験の変容が強調されていますが、人により、時により、体験は多様です。 マジックマッシュルームによるぼくの体験で印象的だったものの一つは、空に浮かぶ雲が、巨大で邪悪なマシュマロマンに見えたことです。 我々の理性は「空にマシュマロマンなどいない」と言ってそれを否定します。けれども自分の脳の神経回路がそこにマシュマロマンを見てしまっている以上、その体感を否定することはできません。 記憶や感情を司る領域が視覚情報処理領域とじかに交流するようになれば、希望や恐怖、先入観や感情が視覚に影響を与えはじめる。まさに、原初的意識の特徴であり、魔術的思考につながるレシピである。 とポーラン氏が書くように、魔術的思考が自分の身のうちに存在することを、幻覚剤は教えてくれるのです。 そしてこのような「幻覚作用」は、単に奇妙で興味深いものであるにとどまらず、普段の意識ではつながらないものをつなげることで、新しい科学的発見につながる可能性もあれば、世界観の変容をもたらす可能性も持つのです。 さて、サイロシビンなどの幻覚剤は、脳内のさまざまな神経伝達物質の作用に対してアクセルを踏んだり、ブレーキを踏んだりすることで意識の状態を変性させます。 こうした意識変性作用は、幻覚剤をどのくらいの量摂取するかによっても当然異なってきますが、同時にどういう気持ち(セット)で、どういう環境(セッティング)のもと摂取するか、によっても大きな影響を受けます。 ポーラン氏や実験を受けたガン患者の人たちは、安全かつ十分な効果がある量の幻覚剤を、落ち着いた気分で、安心できる環境のもと用いることで「よいジャーニー」をすることができたわけです。 逆に言えば、不安がある状態で幻覚剤を摂ることは、精神の安定をそこない危険を招くことにもなります。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ バッドトリップの恐怖 たとえば、世界最強の幻覚剤であるLSDを不用意に摂った結果、自分に体があるのかないのかが分からなくなり、自分に体があるのを確かめようとして、体を切り刻んでしまったというエピソードを何かの本で読んだことがあります。*3

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新型コロナで社会的な不安が高まる中、フェイスブックやツイッターでこんな画像が拡散されています。 「恐れを克服して成長しよう」というこの図の主張に対して、 「政府の無能に怒りをぶつける権利を奪うのか?」という反論が上がっています。 さて、この対立するように見える2つの立場ですが、実際のところはどうなのでしょうか。 恐れを克服して成長する 弱者の怒る権利を奪うな! 「社会的な働きかけ」と「ネガティブな感情」の大切さ 恐れを克服して成長する 図に書かれた言葉をぼくなりにまとめたものがこちらです。 1. 恐れのゾーン (1) 買い占めをしていないか (2) 恐れや怒りの感情をまき散らしていないか (3) 頻繁に不平不満を言っていないか (4) ソースを確認せず、不確かな情報を拡散していないか (5) すぐ怒る 2. 学びのゾーン (1) コントロールできないものを手放す (2) 食べ物でもニュースでも自分に外のあるものはやめる (3) 自分の感情に名前をつけて確認する (4) 状況を自覚して行動を考える (5) うっかりデマを拡散しないように、情報のソースを確認する (6) 誰もがベストを尽くしていることに気づく 3. 成長のゾーン (1) 他者を助ける方法を考える (2) 自分のできることを必要な人に届ける (3) 今を生き、未来にフォーカスする (4) 自分を大切にし他者にも共感する (5) 他者に感謝する (6) 幸せを大切にし希望を広める (7) 変化に適応する道を探す ここに書かれていることは、精神的な成長というような心理学的話題について考えたことのない方にとっては、違和感を覚える点も多いかもしれません。 たとえば、 2. 学びのゾーン (1) コントロールできないものを手放す などはただ読んだだけでは意味もよく分からないでしょう。 けれども、 2. 学びのゾーン (4) 状況を自覚して行動を考える ならば、恐れのままに無自覚に行動(たとえば買い占め)するのではなく、気持ちを落ち着けて自覚的に行動しよう、というわけですから、まったく当たり前のことを言っているにすぎません。 また、 3. 成長のゾーン (5) 他者に感謝する という項目は極めて倫理的な主張に思えるでしょうが、これは

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(奇言と戯言) 不安を抱えて軽々生きる 不安を抱えているのに、軽々と生きるだなんて、まったく言語矛盾した話だと思われるかもしれません。 でもまあ、言葉なんてのは初めから矛盾だらけなのでありまして、矛盾が嫌いな人は数学でもしていればいいのであります。 こいつは鏡の国に紛れ込んでしまったんだろうかと思って、では軽々と不安を抱えてみることにしようかと考えるあなたならば、ぼくが言いたいことや言いたくないことや、あるいは、ほんとは言いたいんだけど言わないようにしてることまでもきっと読み取ってくださるでしょうから、高々百年ほどの短くて貴重な人生のうちの数分か数十分をこの進みも止まりもしない文章のために費やしてくださるものと確信しております。 それにしてもどうしてぼくは、スマホにテンキーまでついたフルサイズのキーボードをつないでこの文章を打ち込んでいる今まさにそのときに、奇妙な不安を腰の辺りに痛烈に感じながら、言葉のダンスを続けているのでしょうか。 文章を入力する準備を整えたのは、実は他の記事を書くためだったのですが、いざキーボードを目の前にすると、言葉にして説明すれば「書こうとしていた記事が書けなかったらどうしよう」というような不安がやってきてしまいました。 その不安を抱えたまま記事を書くのは苦しい闘いになるのが目に見えていました。 そこでぼくは軽々と文章を打ち出し続けるために作戦を変更して一時退却し、この不要不急にして浮揚感の漂う、腐朽の名作にはなりえないことが初めから明らかな随想にとりかかることにしたのです。 ですからこの文章は、ぼくにとっては不安感をしっかりと味わいながら、それが溶けて消えていく過程を積極的に見つめるための方策であり、同時にこれを読んでいるみなさんにとっては、ぼくのうちに生成消滅する不安を垣間見ていただくことによって、共感・予行演習・他山の石・対岸の火事・軽蔑・暇つぶしなどなどといった、さまざまな効用が期待できる一石二鳥・一挙両得・一目瞭然にして一網打尽の、まああえて言いますならば、こういう文章だけは自分は書くまいという反面教師としての価値だけはどなた様にもお認めいただけるものと自負しております。 さてここで本考察のテーゼに永劫回帰し、不安とはいかなるものかについて一言述べさせていただきましょう。 果たして人は不安をいかにして認識するのか。 それは体に現れる様々な感覚の変化を通して認識されるものなのです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 世界を言語によって切り取り、切り取った言語を貼りつけては張りぼてを作り、作った言語の張りぼてを実際の世界だと勘違いしてしまうと、「我不安を感ず。ゆえに我あり。我不安とともにあり!」と声たかだかに叫びたくなってしまうものですが、最近の心理学的知見を持ち出すまでもなく、賢明なる読者諸賢におかれましては懸命にそしてつぶさに自分の感覚を観察することによって、「自分はいま腰の辺りに強い緊張を感じているな。そしてそのことから脳の中で不安や恐怖などの情動を司る扁桃体が活発に活動して世に『不安』として知られる情動がこの体に起こっていることが知れるのだ」と例えばそのように、体の感覚と情動との関係を理解することができるわけであります。 ここまで筆を進めてまいりましても、もちろん進めるべき筆など持ち合わせはなく、キーボードを打ち続けるしか能のないわたしではありますし、そもそも脳があるのかどうかも分からない脊髄反射的な意味不明な文章の羅列になっていることは平にお謝りするしかない次第ではありますが、つまり残念なことにわたくしの不安は一向に消滅の方向に向かっていってはくれていなことを報告せざるをえないのが現状であります。 ところが、人間心理というものは実に不思議なものです。 「一向に消滅の経方向に向かってくれない」と書いてしまったためでしょうか、その文章を打ち込んでいるうちに少し腰の緊張が軽くなったかな、どうだろうな、うん確かに少し軽くなってるな、まだすっと消えるほどではないけど、初めのとんがった緊張からは確かに軽くなってるぞ、というくらいには緊張がゆるみ、不安感が減じていることをここにご報告できるのは、ここまで読みにくい文章を読み進めてくださったみなみなさまのおかけでありますから、これを読んでくださっている多数の方々が住んでいらっしゃる東の果ての国ジパングには、足を向けて寝ることができないのでございます。 グローバルでワールドワイドで、フラットだけど球状の、天網恢恢疎にして漏らさずなご時世に、生物と無生物の間の顕微鏡的な存在が世の中を騒がせてはおりますが、みなさまにおかれましては、虚の中に実を見、うつつも夢と決め打ちし、覆われたものを敢えて白日の元に晒すも晒さぬもあなた次第、不安を抱えて軽々と生きる術を身につけるための、これを絶好の機会と心得て、日々ことのはを紡いで、言葉の彼方へと飛び去ろうではありませぬか。 以上、天竺国の聖地、ガンジスのほとりハリドワルより、緊張と共に機嫌よくつづり上げた奇言の羅列でありました。 [即興作文のため、誤字脱字はご寛恕ください]

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新型コロナウイルスが蔓延して、世界中で死者が増えています。 人類史上まれな事態であるため、不安を抱えて暮らしている皆さんも多いことでしょう。 けれども世間が大騒ぎをしているからといって、あなたまで右往左往する必要はありません。 この記事では、嵐の中でも心落ち着けて暮らすためのヒントを、いくつか書くことにしましょう。 心を落ち着ける。 人生の意味を確認する。 人のことは気にしない。 できることを淡々とやる。 死を覚悟する。 心を落ち着ける。 最初に確認する必要があるのは、心を落ち着けることの大切さです。 どんなに苦しい状況にあっても、心の落ち着きさえあれば、苦難を乗り越える可能性を確かなものとすることができます。 心を落ちけるための方法は人によって違いますが、たとえば呼吸を、鼻からゆっくりと長くすることを心がけるだけでも、気持ちを落ち着けることができます。 体を動かすことで気持ちが落ち着く人もいるでしょうし、音楽を聴くことで落ち着く人もいるでしょう。 自分に合った方法で心を落ち着けてみてください。 自分に合う方法がまだ分からない場合は、これをいい機会として、どんなことをすると気持ちが落ち着くのか、いろいろと試してみてください。 何かをするにせよ、何もせず静かに時間を過ごすにせよ、心を落ち着けることが何よりもよい出発点になります。 まずは自分の気持ちを落ち着けるための時間を取って、そこから次のステップへ進むことにしましょう。 人生の意味を確認する。 あなたにとって人生の意味とはなんでしょうか。あなたが人生で一番大切にしているものはなんですか。 この質問にはっきり答えられるならば、世間が大騒ぎしている中でも、自分にとって大切なもののために、できることを一つひとつやっていけばよいだけのことです。 もしあなたが日々の暮らしで精一杯で、自分がなんのために生きているのかがはっきりしないのなら、この機会に時間を取って考えてみることをおすすめします。 あなたにとって幸せな時間はどんなものですか。 それは一人で静かに過ごす時間なのでしょうか、それとも友だちや家族と楽しく過ごすことでしょうか。 あるいは、やり甲斐のあることに打ち込んでいるときかもしれませんし、答えは人それぞれに違います。 自分にとっての人生の意味を確認し、自分にとっての幸せな時間を大切にすることができれば、周りの人にもあなたの幸せな気持ちを分かち合うことができるようになります。 心を十分落ち着かせて、幸せな時間を作り出すこと、そしてそれを周りに広げていくことを、心がけてみましょう。 人のことは気にしない。 世の中が騒がしいと、どうしても周りのことが気になります。 隣の人がしていることを真似したくなったり、逆に批判的になって「そんなことするな」と言いたくなったり、世間の騒ぎに巻き込まれやすくなります。 そんなときは「人のことは気にしない」ときっぱり決めてしまうのが一番です。 人間は一人ひとりが異なる存在です。 別の人にとって正しいことがあなたにとっても正しいとは限りませんし、その逆も同様です。 誰かが小麦粉を使って作ったおいしいお菓子も、あなたに小麦アレルギーがあれば食べることはできません。 自分には向かないやり方なのに、人に影響されて、間違って取り入れたりしないためには、外からの情報をシャットアウトすることも時には必要です。 外野の情報が気になったり、非難するような気持ちになったら、まずは自分の気持ちを落ち着けることです。 心の落ち着きさえあれば、自分が何をするべきかはあなたの無意識が教えてくれます。 気持ちさえ落ち着けば、他の人が何を言い、どんなことをしていても、人は人、自分は自分と別けて考えることができます。 そうして自分に大切なことから順番にやっていけば、結果として周りの人にもいい影響を与えることができるようになるのです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ できることを淡々とやる。 生活の見通しが立たず、不安が大きくなり、何をやればいいのか分からなくなってしまうこともあるかもしれません。 そんなときには、ただ不安な気持ちを抱えておろおろしているよりは、どんなことでもいいので、今できることをやってみるのがいいでしょう。 部屋を片づけることでも、料理をすることでも、ゲームをすることでも、おしゃべりをすることでも、それが役に立つかどうかなど気にせず、今自分ができること、ちょっとやってみようかなと思うことを、どんなことでもいいので、とにかくやってみることです。 重い腰を上げてとにかく取りかかってしまえば、案外そのことに没頭できるものです。 やってみて気分が乗らなければ、また別のことを試してみればいいのです。

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東京都の小池知事が3月30日夜8時半ごろから緊急の記者会見を開き、 「夜間の酒場 出入り自粛を」呼びかけたことがNHKによって報道されています。 小池知事は「厚生労働省のクラスター対策班の専門家の報告によると、感染経路が不明な症例のうち、夜間から早朝にかけて営業しているバーやナイトクラブ、酒場など接客を伴う飲食業の場で感染したと疑われる事例が多発していることが明らかになってきた」と述べました。 NHK WEBより この記事では、新型コロナの感染爆発に対する、こうした「自粛要請」という対応についての問題を考えます。 自粛要請と相互監視のパノプティコン的監獄社会 恣意的な自粛要請と「自粛要請」自体のはらむ矛盾 新型コロナから学ぶべきものと未来への希望 自粛要請と相互監視のパノプティコン的監獄社会 過去遡及型パノプティコンと公正世界信念によって感染経路不明者が増加して、自覚のない感染者や自覚があっても行動を変えない感染者がさらなる感染者を増やす。社会的な収束よりも自分自身の目の前の問題が大切だし、そう思わせてしまう様々な施策や制度が失敗に転じているという事なのだろう。 過去遡及型パノプティコンと公正世界信念によって増加する感染経路不明者 - 太陽がまぶしかったから 池田仮名 (id:bulldra)さんはこのように書いて、自粛要請という政策の失敗を語っています。 パノプティコンとは全展望監視システムのことです。ここでは市民が相互に監視し合うことによって、進んで監獄を作っていく状況を意味します。 過去遡及型とは「感染が分かったことによって過去の行動を後から暴露されて責められる」ということです。 つまり「バーやナイトクラブで夜遊びをしているものは叩いてかまわない」というわけです。 こうして新型コロナに対する恐怖から息苦しい相互監視社会が立ち上がっていくにも関わらず、人間の自由な行動自体に制限はかけられないことから、感染は広がり続けているというわけです。 恣意的な自粛要請と「自粛要請」自体のはらむ矛盾 「バーやナイトクラブ、酒場など接客を伴う飲食業の場で感染したと疑われる事例が多発している」と知事は述べているわけですが、疑いがあるというだけで確証はありません。 本当にバーやナイトクラブで感染が多発していると考えられるのか、また通勤列車では感染が起こらないと言えるのどうか、それぞれの状況を厳密に考慮することなく、「夜遊び」だけを問題視して自粛要請することは、まったく恣意的であり、感染防止に役立つものとは思えません。 そもそも「自粛要請」という用語自体が矛盾に満ちています。 bokukouiさんの説明が分かりやすいので引用します。 「自粛」という言葉を辞書で引いてみると、 「自分から進んで、行いや態度を慎むこと。」 という定義が示されます。「自分から進んで」というのがポイントで、だから「自」粛なのですね。 ところが、「要請」というのをこれまた辞書で引くと、 「必要だとして、強く願い求めること。」 となります。 「自分でから進んでやる」ように、他者が「強く願い求める」というと、自主的なんだか命令なんだか、はなはだあいまいになってきます。 自粛はいつから要請されるようになったのか : 筆不精者の雑彙 こうして考えてみると、「自粛要請」は結局実質的に命令であり、法的な制裁はない代わりに、相互監視によって国民同士の関係を監獄化させます。 その結果として、ソフトな全体主義社会体制を強化する装置として機能するのです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 新型コロナから学ぶべきものと未来への希望 新型コロナウイルスの蔓延によって経済がうまく回らない状況については、政府が十分な施策を打って、社会的な弱者を筆頭に、社会全体が受けるダメージを緩和することが必要です。 一方で、この新型コロナ騒ぎは、経済一辺倒の現代社会のあり方を見直すいい機会でもあるでしょう。 世界的に多数の死者が出ている現状の重さはしっかりと受け止めた上で、物質的繁栄だけを重視するような社会のあり方を考え直す時期に私たちは差し掛かっているのではないでしょうか。 昨日までの日常生活が消え去りかねないような情報が飛び交い、重苦しい相互監視の空気が漂う中で、私たちは不安を抱えて、ストレスのやり場にも困ります。 けれどもそんな状況だからこそ、未来への希望を持ち続けることが大切です。 新型コロナのこれ以上の蔓延を防ぐためには、東京でも自粛ではない外出制限の実施も十分考えられます。

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間違った星に生まれてきちゃった人はいませんか。 何だか人の輪にうまく溶け込めなくて、 周りの空気から浮いちゃってるあなたのことですよ。 別の星に生まれてきちゃったんだから、 ちょっとさみしいのは仕方がないですね。 でもその分、得がたい経験ができますからね。 ほかの人たちとは違う、自分の存在を受け入れてやることです。 はだかの自分を丸ごと肯定しちゃえばいいんです。 違う星の人間なんだから、感じ方も考え方も違って当たり前、 少しでも共感できる部分があったら、 それこそ奇跡じゃないですか。 ぼくだっていつも、 居心地の悪さを感じてたんですよ。 でもあるとき気がついたんです。 居心地の悪さを感じてる自分を、 許してやればいいんだってことに。 うまくやれない自分を許して、認めて、抱きしめてやれば、 そんな自分が引き起こさざるをえない気まずい状況も、 明るく笑い飛ばすことができるんだってことに。 無理に周りに合わせる必要なんてないんです。 無理して合わせて疲れたら、その分休めばいいんです。 休んでばかりの人生で、なんのために生きてるのか分からなかったとしても、 がんばって生きてる自分に 「よくやってるじゃない!」 と声をかけてやりましょうよ。 今は生きてる意味が分からなくても、 何かがあなたを生かしているのですから、 その正体不明のエネルギーに身をまかせて、 見えない明日へと旅を続けましょうよ。 そうしていつの日かあなたは気づくことになるのです。 この星で暮らしているすべての存在が、実はみんなてんでんばらばらの星からやってきたまったく違うもの同士の寄り集まりだったってことに。 ほかの人たちもみんな、多かれ少なかれ合わせることに、 苦労して、くたびれていたってことに。 そのときあなたの居心地の悪さは消え失せて、 異なる者同士が作り出す共感の波長の中で、 ほんのり暖かい光に包まれている自分を見いだすのです。 ☆あとがき 新型コロナの大騒ぎで、なんだか落ち着かない日々をお過ごしでしょうか。 世間は騒がしくても、桜はいつも通りきれいに咲いているようですね。 こちらインドでは、もう一週間近く外出制限が続いていますが、初めての事態にとまどう人々をよそに、ガンジス川はいつも通り滔々と流れ続けています。 どちらかと言うと人づき合いが苦手で、閉じこもっているほうが気楽なぼくとしては、外出制限も大して気にはならないのですが、この状況がいつまで続くかと考えると、少し気が重くなる気もします。 日本にいる皆さんも、先行きの見えなさでは同じことですよね。 分からない未来のことは、考えても仕方がないですから、文章を書いたり読んだりしながら、できるだけいつも通りに暮らしていきたいなと思う春の日の午後です。

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4年前に開設された学習院大学の国際社会科学部は今年度はじめて卒業生を送り出しました。 第一期生の卒業式は3月20日に予定されていましたが、新型コロナウイルスの流行により中止され、当日卒業生代表として謝辞を述べるはずだった2人の学生の謝辞がホームページで公開されています。 *1 その2人の卒業生のうちの小堀奈穂子さんの謝辞が、日本の形式主義にあからさまな「攻撃」を加える内容であることから、 「超パンク!*2」という賛辞と共に、 「ネオリベの申し子。教育の失敗*3」という否定的な意見が並んで見うけられます。 称賛と失望が渦巻く台風の目となった小堀さんの謝辞とはどんなものなのか、確認して見ることにしましょう。 日本社会の形式主義を痛烈に批判 経済的自由の大切さと自分への感謝 いかに自分は成績優秀だったかと逆風を跳ねのけるパワー 眠った世界の否定と言論の自由 大学側の注釈 権利は何かの対価なの? (2020.3.27 追記) 頑張ってる女性同士が励まし合える世の中であってほしい (2020.3.29 追記) 「歴史」を知り先達をリスペクトすることの大切さ 批判の投げ合いではなく、建設的な提案が増えてほしい 日本社会の形式主義を痛烈に批判 卒業生総代答辞の多くが、ありきたりな言葉の羅列に過ぎない。大きな期待と少しの不安で入学し、4年間の勉強、大学への感謝、そして支えてきてくれた皆さまへの感謝が述べられている定型文。しかし、それは本当にその人の言葉なのか。皆が皆、同じ経験をして、同じように感じるならば、わざわざ言葉で表現する必要はない。見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な思考停止だ。 これが問題の謝辞の第一段落です。 日本社会の形式主義を痛烈に批判しています。 横並びを大切にする主流派のみなさんは眉をひそめるに違いありませんが、自由な表現を愛するぼくとしては、ここでの主張にはまったく同感です。 強いていえば言葉の選び方が強すぎる気はしますが、それもあまりに大人しすぎる日本の若者へのアンチテーゼとして考えれば、十分理解できるものです。 経済的自由の大切さと自分への感謝 私は自分のために大学で勉強した。経済的に自立できない女性は、精神的にも自立できない。そんな人生を私は心底嫌い、金と自由を得るために勉強してきた。そう考えると大学生活で最も感謝するべきは自分である。 第二の段落では、経済的な自由の大切さを述べた上で、その実現のために努力をした自分にこそ最も感謝すべきだ、という極めて利己主義的な主張がなされています。 上級国民は犯罪を犯しても優遇され、下級国民はこき使われるだけで、その上でヤルヤル詐欺で税金を取られっぱなしという日本の現実を考えれば、この主張も本音を隠さずさらけ出したというだけのことであり、必ずしも「エゴイスティックな最低の意見」とは言えない気がします。 たとえばこれを、次のように言い換えてみたらどうでしょうか。 「現在の日本の状況では、国民への社会的な保障は決して十分とは言えない。そんな状況を変えて社会に貢献したいからこそ、まずは自分の経済的自立が大切だと考え、そのために私は勉強してきた。勉強する環境を用意してくれた大学関係者にはもちろん感謝するが、その環境を使ってしっかりと勉強してきた自分にこそ一番の感謝をしたい」 つまり「誰だって自分がかわいい」という当たり前のことを、小堀さんのようにストレートな表現でいうか、それとも社会に受け入れられるような形でいうか、という話にすぎないと思うのです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ いかに自分は成績優秀だったかと逆風を跳ねのけるパワー すべての年度での成績優秀者、学習院でもっとも名誉である賞の安倍能成記念基金奨学金、学生の提言の優秀賞、卒業論文の最優秀賞などの素晴らしい学績を獲得した自分に最も感謝している。支えてくれた人もいるが、残念ながら私のことを大学に対して批判的な態度であると揶揄する人もいた。しかし、私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。 この段落では、自分の成績の優秀さをはっきりと述べた上で、けれども自分の大学生活が決して順風満帆ではなかったことが述べられています。 彼女のように自己主張の強い人が、周りから様々な圧力を受けることは、日本社会では当たり前のことでしょう。 そうした逆風状況の中で、支えてくれた人の存在に言及しているにも関わらず、その人にすら感謝の言葉を述べることができない彼女の姿には、痛々しさを感じざるを得ません。 けれどもそうした逆風を跳ねのけて、これだけの主張を続けることができる彼女のパワーには感服します。 眠った世界の否定と言論の自由 もし、ありきたりな「皆さまへの感謝」が述べられて喜ぶような組織であれば、そこには進化や発展はない。それは眠った世界だ。新しいことをしようとすれば無能な人ほど反対する。なぜなら、新しいことは自分の無能さを露呈するからである。そのような人たちの自主規制は今にはじまったことではない。永遠にやっていればいい。 次の段落では再び、日本の形式的社会への厳しい批判の言葉が繰り返されます。 日本社会の保守的なあり方に心底うんざりしている気持ちがありありと伝わってきます。 私たちには言論の自由がある。民主主義のもとで言論抑制は行われてはならない。大学で自分が努力してきたと言えるならば、卒業生が謝辞を述べるべきは自分自身である。感謝を述べるべき皆さまなんてどこにもいない。 言論の自由という言葉を使ってまで、卒業生の謝辞としてこのような過激な主張を展開した彼女の心の深い闇を思います。

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

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