「科学至上主義」な立場から、学校教育においてはEM菌を使用するべきでない、という主張がネット上では散見されますが、EM菌の効果が証明されていないからと言って、水質浄化問題に関する限りは、そんなに目くじら立てなくていいんじゃないでしょうか。

全文を読む

みなさん、ハルオサンの 警察官クビになってからブログ 読んでますか? 彼のブログのヘッダ画像を一目見れば、ハルオサンが「フツウの人」でありえないことは、分かる人には分かっちゃうと思います。 そして、彼の書く記事を一つでも二つでも読んでみれば、「フツウ」にはありえない彼の「天才」的なセンスに溢れる文章のとりこになること請け合いです。 とはいえ、分からない人には、やっぱり分からないんでしょうね、ハルオサンの「天然系・野生の天才」ってものが。 というのは、ハルオサンのブログは大人気ですから、出版社から書籍化の話も来ているというのですが、文章もうまく、絵にも味がある、その上記事の内容がおもしろすぎるので、 文章のプロである出版社の人達からも 「どこかのプロの業者じゃないんですか?」 と言われてしまいました。 世にも奇妙な『はてなブログ』物語 - 警察官クビになってからブログ という話なんです。 そこで今日は、ぼくの大好きなハルオサンについて、彼が「業者」では *ありえない理由* と、その「野生の天才児」としての魅力を大雑把に気分次第で書いてみますので、お時間ある方はおつき合いください。 ハルオサンの実在性の証明。まずは、BuzzFeed の記事を読んでみてください。 なぜハルオサンはあんなに文章がうまいのか、そしてあんなに味のある絵が書けるのか? ハルオサンの魅力の秘密は「バランス派・天然系」にあり。 ハルオサンの実在性の証明。まずは、BuzzFeed の記事を読んでみてください。 播磨谷拓巳さんという方が、こちらで、ハルオサンのインタビュー記事を書いてます。 ・「クソ人生を笑って」 難病、いじめ、ブラック企業 彼がブログを書く理由 ハルオサンの人生と、今の状況が簡潔にまとめられています。 しかし、簡潔すぎて面白みには欠けますので、ぜひハルオサンのブログを隅々まで読ことをおすすめします。ほんとに面白いですから。 で、このBuzzFeedの記事を素直に読めば、ハルオサンが業者の創作ではなく、実在の人物であるのは明らかですよね。 でも、ハルオサンの記事を読んでいて、「それにしても、どうも不思議だ」と思う方もいらっしゃることでしょう。 そこで、もう少しハルオサンの「内面」に迫ってみることにしましょう。 なぜハルオサンはあんなに文章がうまいのか、そしてあんなに味のある絵が書けるのか? どうしてハルオサンは、あんなに文章も絵もうまいのか、 本当に素人があんなに面白いブログを書けるのだろうか、 と思ってしまう人の気持ちも分からないではありません。 でも、ハルオサンにはできちゃうんですよ。 だって、ハルオサンは 天才 ですから。 みなさんは、イディオ・サヴァンという言葉をご存知でしょうか? フランス語で「賢い白痴」の意味を持つこの言葉は、「イディオ=白痴」の意味が差別的だとして、現在では「サヴァン症候群」と呼ばれていますが、 知的障害や発達障害などのある者のうち、ごく特定の分野に限って優れた能力を発揮する者の症状を指す サヴァン症候群 - Wikipedia ものです。 ハルオサンに対してなんらかの「診断」を下すつもりは毛頭ないのですが、彼が「サヴァン症候群」的な才能の持ち主であることは間違いがないと思うし、彼をそうした「特殊な才能」の持ち主と見ることは、決して彼を見下すことにはつながらないでしょう。 彼は自分が「天才的に文章がうまい」という事実に、気がついてすらいないようですし、自分の描く絵も多分、落書き程度にしか思ってないのではないでしょうか? けれども、その「落書き程度」の絵の中に、彼の生きている世界の あっけらかんとしているけれど、 悪意ある人がたくさんいて、 ほのぼのとしているけれど、 冷静さに支えられている、 そんな性質が、実に素直に、サラッと精密に表されている様子は、 野生の天才児 としか呼びようがありません。 こんなものを、もし「業者の人」が企んで作れるのだとしたら、それはもはや「業者の人」ではなくて、やっぱりただの「天才」です。 そして、そんな「天才」がわざわざ「業者の人」を(しかもこんなに長い間、大きな動きを見せないままに)続ける可能性は限りなくゼロに近いですから、結論としては、 ハルオサンが「業者」の創作だなんて思ってる人は、目にウロコがつきすぎ というものになります。 そんな皆さまには、こちらの貝印の「うろこ取り」など、大変お手頃で、扱いやすいものとなっておりますので、ぜひご購入をご検討お願いいたします。 ばしばしウロコが取れること請け合いです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

全文を読む

※こちらの記事にブックマークをつける前にぜひお読みください。 ・「差別」「EM菌」「牛乳の有害性」についての記事を宣伝してくださっているみなさまへ、感謝の言葉とお願い、そしてご説明 - *魂の次元* 前の記事 ・Q:差別発言に表現の自由はあるか? A: ええ、もちろん。あるいは、敵は作るな、味方を増やせ - *魂の次元* で、 人間には「差別する」自由だけでなく、「ありとあらゆることをする」自由がある しかし、「差別する」自由は法律で制限される という意味のことを書きましたが、分かりにくかったようなので、もう少し説明します。 なお、いくつかご指摘を受けましたが、「差別する自由がある」という言明は、確かに「強すぎる」ものと思いますので、この記事では、前回の記事との整合性をはかるため、その表現を使いますが、今回限りの表現としますので、その点はご理解ねがいます。 また、「内心の差別」についても少し書きます。 あなたの友だちがあなたに対して「日本人」を差別するような発言をしたとして、それを法律で取り締まることができるでしょうか? 「差別する自由」という強い表現と「自由」という言葉の定義について 「行為としての差別」は法律で制限されるが、それだけでは不十分なので、「内心の差別」をしっかり意識しておく必要がある [追記]「敵は作るな、味方を増やせ」再び あなたの友だちがあなたに対して「日本人」を差別するような発言をしたとして、それを法律で取り締まることができるでしょうか? あなたの日本人の友だちが、私的な場面であなたに対して、 日本人というものは、その政治状況を見れば、人種的に劣っていることは明らかなので、皆殺しにしてしまえばいいのだ、 と言ったとします。 これは立派な「差別発言」ですが、こうした発言を一々法律で取り締まることは、可能でしょうか? また、仮に可能だとしても、取り締まることに意味があるでしょうか? 法律で制限されているからといって、すべての違反行為を取り締まることは現実問題として不可能ですし、軽微な行為まですべて取り締まろうとすれば、経済的にも割に合わないことになるでしょう。 その意味で、 人間は法律で制限された行為をする自由を当然持っているし、 現に行使している その上で、そうした自由は法律で制限されている という、原則的な話をしているわけです。 ですから、法律をどんどん破ればいい、という話にはなりません。 人間には、すべての法律を守ることは不可能だし、それを一々取り締まることは現実的でない、ということを言っているにすぎません。 また、重大な違反行為をすれば、法律にもとづいて社会的制裁を受けることになるのは言うまでもありません。 (現実には、重大な違反行為をしながら、なんら制裁を受けないケースが、近年のニッポンにおいては多々見られる点を大変憂慮しておりますが……) ここで、「社会的制裁」というのも大切なところで、ネット上や各種メディアにおいて、「正義派」のみなさんが、「私的制裁」を加えている現状は、好ましいものとは思えません。 (「私的制裁」を好きでやっている方に、それをやめろというつもりもありませんし、あるいは、ご自身が差別を受けている被害者の方が「差別する自由」という言葉から精神的被害を受けた、というのであれば、それにはきちんとこたえる必要があると思いますが) 「私的制裁」が好ましくないのは、法律に違反しているかどうかについては、基本的に裁判所が判断すべきだと思うからです。 もちろん裁判所の機能にも限界はありますから、それをただすような議論は、当然必要になりますけれども。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 「差別する自由」という強い表現と「自由」という言葉の定義について なお、前の記事に対するコメントでid:Ayrtonismさんが、 「差別する自由」という強い言葉は、その人の「言いたいこと」とは別に一人歩きするから、この人の解釈が正しかろうと批判者が誤読していようと、最初の段階で叩くのはとても大事なこと。 と述べているのは、「叩く」という表現以外は同感です。 差別を助長しかねない「強い」表現を不用意に使わないほうがよいのは、その通りです。 ただし、発言者の「人格」を不用意に「叩く」ような行為は、問題をこじらせるだけに思えます。 (このことは前の記事でも述べているとおりです) また、id:udonkokkoさんからは、 「可能」と「自由がある」は違うと思う。 というコメントをいただいております。 「自由」という言葉をどう受け止めるかは、人それぞれに違って当たり前ですし、「差別する自由がある」という言い方は、確かに強すぎるかもしれません。 「安易に表現の規制をすべきでない」という文脈なので、あえて「差別する自由がある」という強い言明をしましたが、実際に言いたいことは 誰にでも差別は可能だし、 誰でも差別をしかねず、 それをすべて法律で取り締まることには無理がある ということになります。

全文を読む

※こちらの記事にブックマークをつける前にぜひお読みください。 ・「差別」「EM菌」「牛乳の有害性」についての記事を宣伝してくださっているみなさまへ、感謝の言葉とお願い、そしてご説明 - *魂の次元* わっとさんの記事、 ・「差別からの自由」は「差別する自由」に優先する。よって「差別する自由」などというものはない - しいたげられたしいたけ は、みなさんご覧になってますか。 twitter上の「人間には差別する自由もある」という発言に対する反論です。 わっとさんの主張を簡単にまとめると、 人間には「差別されない権利」がある、 したがって、他者を「差別する自由」は法によって制限される というもので、まったく妥当な主張です。 ただし、元の発言をした柴田英里氏は、決してわっとさんの主張に反することを言っているわけではないので、その点について少し書きます。 人間には「差別する自由」があることと、「差別」は法律で制限されていること 柴田氏の主張は、「表現の自由は安易に規制すべきでない」というところにある ところで、みなさん、議論ってどうしてするんでしょうね? あるいは「敵を作るな、味方を増やせ」 人間には「差別する自由」があることと、「差別」は法律で制限されていること 人間には「差別する」自由だけでなく、「ありとあらゆることをする」自由がある、 というのが、ぼくの基本的な立場です。 けれども、なんでもかんでも自由にしたら、社会生活上さまざまな混乱が生じますから、そうした自然権的な自由に対して、法律的な規制をかけるわけです。 ですから、「差別をする自由」があるからといって、無制限に差別をしていいわけではないし、むしろ「差別をされない権利」を優先して、多くの「差別」には、法のもと規制がかかっているわけです。 柴田氏の主張は、「表現の自由は安易に規制すべきでない」というところにある さて、柴田氏は「人間には差別する自由もある」という主張をしたために、「差別を容認する」考えを持つ人物であるかのように受け止められたわけですが、前節で述べたとおり、「差別する自由」は法によって制限を受けており、柴田氏はそうした法規制について特に異を唱えているわけではありません。 彼女の主張はあくまで、 表現の自由は安易に制限すべきでない というところにあります。 (参照: https://twitter.com/hokuto_83/status/907447823607619584 https://twitter.com/erishibata/status/907459640056725504 https://twitter.com/erishibata/status/907478364067307520 柴田氏の発言は断片的であるため、全体としての主張は読み取りづらいのですが......) つまり、柴田氏は芸術家としての立場から、 たとえ「差別的」と思われる表現であっても、安易な法規制は行なうべきではない、 表現が法規制されれば、国家の恣意的運用の恐れがある という、これもまた、まったく妥当な意見を述べているものと思われます。 (もちろん、これについては異論もありましょうが) ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ところで、みなさん、議論ってどうしてするんでしょうね? あるいは「敵を作るな、味方を増やせ」 ネット上で人の意見を見て、これはおかしいなって思うことは、よくありますよね。 でも、一々反応してたらキリがありませんから、大抵は放って置きますかね。 今回の件はわっとさんとしては、放置できない問題だから、わざわざ記事を起こしたに違いありません。 そして、冒頭でも述べたとおり、わっとさんの主張自体は、まったく正しいものだと思います。 しかしながら、わっとさんが引用している山崎雅弘氏の発言 https://mobile.twitter.com/mas__yamazaki/status/906745708396429312 は、柴田氏の発言を「誤読」した上のものであると、ぼくには思われますので、結果として、わっとさんの記事が、不当に柴田氏の評価を下げるものとなっている点は残念です。 山崎氏は、柴田氏のたった二つの断片的な発言から、彼女に「否定的」なラベルを貼った上で、柴田氏を評して 最初から最後まで一貫して自分を「差別するかしないか選べる側」に置いているのがすごい 山崎 雅弘 on Twitter: "「(続)」とあるので一応最後まで読んでみたが、最初から最後まで一貫して自分を「差別するかしないか選べる側」に置いているのがすごい。自分が理不尽な差別で苦しんだり惨殺されるという想定が思考にない。そして「表現内容への批判」と「差別という行為への批判」の違いを無視して同一視している。 https://t.

全文を読む

なすねむさん (mensan:di) がこちら ・瞑想と悟りに対するぼくの個人的見解 - めしがくいたい で、ご自身のアヤワスカでの体験をもとに、瞑想と悟りについて考察しています。 全体的に *力強く* 同意したい内容である上に、幻覚性植物の経験を共有するものとして、ひと言、ふた言、書いておきたいこともあるので、今日は「瞑想」と「悟り」そして向精神薬をめぐる、「変性意識」についてのぷち考察です。 アヤワスカで「悟り」は得られるか? 瞑想で「インスタント悟り」を定着させるのに「苦行」はいらない、さああなたも「楽々」と悟っちゃおう 瞑想を習慣にする 瞑想を「習慣」にすることが、なぜ大切なのか 「楽に悟れる」とは言っても、「それなりの努力」は必要です 「悟り」ってそんなに偉いものなの? ・[:title] アヤワスカで「悟り」は得られるか? 結論から言うと、 「悟り」が得られる可能性はわりと高い ということになります。(一方リスクもあります) ただし、ここで「悟り」というのは、普段の意識ではなかなか得ることができない、「深い洞察・気づき」程度の意味です。 アヤワスカのような薬物を使うことで、いつもの意識とは異なる「変性意識状態」に入ることができます。 そのとき、いつもはブロックされていて見ることができないものが見えてくることで、「普段は気づけない気づき=悟り」が得られる場合があるのです。 しかし、これはギョーカイで「インスタント悟り」と呼ばれるもので、体験中には、 すごい悟りを得たぞ! と思うのですが、残念ながら、 じきに薄れてしまったり、あるいは 強烈すぎる場合には、普段の歪んた認識に組み込まれて、妄想的思考になってしまったり しかねません。 (妄想的思考は、人によっては大きなリスクとなりえます。素質のある人は、病院のお世話になることも考えられるからです) nasnemさんは、こちらの記事 ・悟りとジャンプ漫画について - めしがくいたい で、アヤワスカによる変性意識の中、その体験と「ジャンプ」のいくつかの漫画に描かれる「悟り」の境地との類似性を指摘していて、なかなか興味深いのですが、その類似性について、 体験中はもっとナイスアイディアの感じがしていたんだけどなあ。 と書いています。 これが、「薄れ」の実例ですね。 売れっ子の漫画家が描く、多くの人を惹きつける世界観を、変性意識による「認識の深み」の中で深く「体感」として「理解」したことは、ある意味「真理」に迫っていたといえます。 けれども、いつもの意識に戻ってしまうと、その「体感」が抜け落ちてしまうため、 「あれ、ちょっと似てたってだけで、大した発見じゃなかったか」 みたいなことになっちゃうわけです。 そこで、この変性意識にあるときの体感としての「気づき」をきちんと自分のものにするためには、「瞑想」が必要になってくるのです。 瞑想で「インスタント悟り」を定着させるのに「苦行」はいらない、さああなたも「楽々」と悟っちゃおう なすねむさんは、 薬やサイコアクティブ物質によって悟れるならそれでいい 楽に悟れるならそれに越したことはない 苦行の末に悟りがある、苦行することは高尚で偉い、悟りは神秘的なもの、といった考え方は危険 と書いています。 1. については、「向精神性の薬物だけでは悟れない」ことを先ほど書きました。 (例外はあると思いますけど) 2. については、大いに共感しますし、基本的にぼくもこの路線です。 3. については、大体同じ考えなのですが、改めて次節で述べます。 というわけで、ここではどうやったら「楽に悟れるか」を簡単に書きます。 瞑想を習慣にする 瞑想といっても、座禅を何時間もやる必要は必ずしもありません。はじめは「気がついたときに、三回じっくり深呼吸する」とか、簡単なことでかまいません。 ポイントは いつもは無意識にやっていることを「意識化」すること そして、それを習慣にすること にあります。 さてここで、練習問題です。 あなたはいつも靴をどちらの足から履きますか? 実際にやらずにこの質問に答えられるあなたは、自分の体の動きについて、かなり意識化ができている人です。 でも、分からなかったからといって、がっかりする必要はありません。 次に靴を履くときに、ちゃんと意識してどちらの足から履いてるかをよく確かめてください。、そして、次からは、逆の足から靴を履くようにしてください。 はじめは、違和感もありますし、うっかりいつも通りの足から履いたりしてしまうでしょうが、気にせず根気よく続けてください。

全文を読む

あなたの感情は何種類ありますか? のっけから変な質問で恐縮ですけど。 日本では喜怒哀楽といいますから、四種類でいいですかね。 んっ、「感情なんて、そんなふうに数えられるわけないじゃないか」って? それも言えてます。 なんと、今までの心理学では、「幸せ、悲しみ、怒り、驚き、おそれ、嫌悪」の六つ*1が、人間の基本感情とされていたのだそうです。 それに対して、今日紹介する研究では、 被験者にビデオを見てもらい、沸き起こった感情を表現してもらったところ、 連続的に変化しつつ重なりをもつ、27種類の基本的な感情の状態が見出された、 というんですね。 というわけで、この記事では、人間の心理について、経済学との関係も含めて、ぷち考察してみようかと思います。 (元記事はこちら、英語です。→Researchers Pinpoint 27 States of Emotion - Neuroscience News) はじめに「感情」という言葉について一言 で、感情が27種類って、どんなのがあるの? 27種の基本感情に訴えれば、キミの記事も大ヒット間違いなし - マーケティングや経営の技術としてもてはやされる心理学の話 ノスタルジアに怒りが混ざる!? 人間の気持ちの「キミョーな二重性」について はじめに「感情」という言葉について一言 ところでみなさん、「性的欲求 sexual disire」って感情だと思いますか? 日本語で「感情」という場合、「気持ち」という言葉と大体意味が重なりますよね。 そうすると、「愛情 romance」は、相手を好きに思う気持ちですから「感情」ですけれど、「性的欲求≒相手を抱きたい」というのは、「欲求」や「欲望」であって、「感情」のうちには入らないのではないでしょうか? 今回紹介する論文のタイトルは、 Researchers Pinpoint 27 States of Emotion というもので、「研究者グループ、感情の27種類の状態を特定」みたいな意味です。 それで、この emotion という言葉を「感情」としているわけですが、もう少し正確に言えば「情動」とすべきところです。 (「情動」=「感情+欲求」くらいの意味ですね) ですが、この記事では馴染みやすさを優先して「感情」という言葉を使いますので、ここでは感情という言葉を「感情+欲求」くらいに読み替えてね、という話です。*2。 で、感情が27種類って、どんなのがあるの? さて、27種類もの感情を羅列して説明するのも退屈ですので、 連続的に変化しつつ重なりをもつ 基本的な感情というものについて、例を上げて説明することにしましょう。 *3 下記ページを見ていただくと、27種類の感情とその重なり具合が大体わかるのですが、その左上には、「不安 anxiety 、おそれ fear 、ホラー horror 、嫌悪 disgust」が並んでいて、やや「グロい」ので苦手な方は要注意ですが、感情を説明する写真も入り、イメージはつかみやすいと思います。 https://s3-us-west-1.amazonaws.com/emogifs/map.html (このページの図では、27の感情に A から Z と Ω の記号が割り当ててあり、図中の色がついてモヤモヤと見える部分は、拡大してみると、その記号が重なりあって表示されているのが分かります) 今まで基本とされてきた「幸せ、悲しみ、怒り、驚き、おそれ、嫌悪」と比べると、 「おそれ」と「嫌悪」に

全文を読む

「黄金球ってなんだろう」と思って、わざわざこの記事をみてくださった方、ごめんなさい、それはただの「き○たま」のことです。そして、今日はもう一つの話題は、明晰夢・幽体離脱について。実体験にもとづき、脳科学的知見にも触れながら、紹介します。

全文を読む

はいさい、みなさん、お元気ですかー。 おまきざるさんの、 ・普通とは何か? - おまきざるの自由研究 という記事がおもしろかったので、今日はちょっと相乗りさせてもらいます。 人が使う「普通」が分からない、おまきざるさんのモヤモヤ あなたは「普通」という言葉を定義して使いますか? ゲンミツ派とザッパ派の話 「普通」という言葉をいちいち「定義」してから使いますかね? ゲンミツ派とザッパ派の仁義なき戦い、あるいは無駄な争いはやめるが勝ち 人が使う「普通」が分からない、おまきざるさんのモヤモヤ おまきざるさんが書いているのは、 ネットで見かけた記事に「普通の人」と書いてあるのだけれど、 そこでの「普通」の意味が分からない、 あるいは「普通」の使い方がおかしい気がして、 モヤモヤした、 といった話です。 そして、 一言で表現するならば,「普通」とは自分の観測範囲内でのマジョリティなのかもしれません. という形で「普通」という言葉を説明してくれていて、これには納得です。 その説明にたどり着く過程では、 何が「普通」なのかは時代によって,そして自分を取り巻く環境によって変わります. と述べ、その例として、 「普通コンビニで薪が売っているか」 という話を上げてるんですよ。 コンビニで薪が? いや、そんなもの、「普通」売ってないですよね。 と、東京原住民のぼくなどは思うわけですが、なんとノルウェーには日本のコンビニ・サークルKがあり、そこでは薪が売っているというのです。 さすがノルウェー! ......と思わず称賛したくなるところですが、そのあとに更に驚きの報告が続きます。 Aさん「えっ、薪? そんなん仙台のコンビニじゃ普通に売ってるよ」 Bさん「てことは仙台はノルウェーだった!?」 ......みたいな話で、これには大笑いしました。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 あなたは「普通」という言葉を定義して使いますか? ゲンミツ派とザッパ派の話 そうして、モヤモヤに端を発したおまきざるさんの考察は、 「普通」という言葉を定義しないで使う場合、読者がそれぞれにイメージを浮かべるのでコメントが集まりやすい。 逆に「普通とはこうだ」と定義すると、「自分はそう思わない」という異論が出やすい。 記事中で定義をしないで「普通」という言葉を使うのは、コメントを誘うためのあざとい手法である。 と同時に、そうした記事は「普通」とは何かを考えるよいきっかけにもなりうる。 という結論に至るのですが、ここはちょっと「はてな?」と思いました。 「普通」とは何かを考えるよいきっかけになる、という最後の結論はいいのですが、「普通の人」という言葉を使った方に、そんな「あざとい」意図があったようには思えないんですよね。 もちろん、これはぼくの解釈にすぎませんから、間違っているかもしれません。 けれども、ここで読者の皆さんにうかがいたいのは、 「普通」という言葉をいちいち「定義」してから使いますかね? ってことなんです。 科学派であり論理派であろう、おまきざるさんにとっては、記事内容のゲンミツさが大事でしょうから、「普通」を「定義」することは、*普通* のことなんだろうと思います。 また、おまきざるさんの記事にブックマークでコメントをつけている方々も、おおむね似た意見をお持ちのようですから、こうした立場をゲンミツ派と呼ぶことにしましょう。 しかしながら、おまきざるさんが「モヤモヤ」した大もとの記事の一つである ・普通の人がお金のことについて勉強しておくべきこと - ゆとりずむ

全文を読む

みなさん、どうも。 毎度ナンセンスで大風呂敷な話をネット上で垂れ流しております、ぷちウェブ作家のとし兵衛でございます。 今日も今日とて、 「ネットでお小遣い稼ぎができたらいいなぁー」 とうっかり思ってしまうブログ初心者のあなたのために、 グーグルの広告提供システムであるアドセンスのコードをいつ・どこに貼るべきか、 という蝶難問について、 大して厳密にではなく、 大雑把に散文的に 考察してみようと思います。 ちなみに結論は、 「はてなで *普通* に書いてる初心者の人は、アドセンスよりアマゾン・アソシエイトのほうがいいかもよ」 ってことになります。 きっかけは久しぶりに見た相田ケイさんの記事なんです - ロクに読者もおらんのに、広告榛名ってか? ほいでね、ぼくの考えはとゆーとね、「別にええやん、広告なんて、誰がいつ・どこに波浪が」 それはそれとして、はてなで *普通* に書いてる「初心者」の人は、まずはアマゾン・アソシエイトもいいんじゃないかと思うんよ 最後に「ぼくらはなぜネット上に記事を書くのか」再考、あるいはホモ・レスポンシブとしての人類 なお、今日も 6,000 字超えの長文ですので、よろしく。 きっかけは久しぶりに見た相田ケイさんの記事なんです - ロクに読者もおらんのに、広告榛名ってか? 相田ケイさんは、四回生の学生ブロガーで、若いけれども頭の切れるなかなかの人物とお見受けしますが、 「どんな記事をどのように書けばネット上で多くの人に見てもらえるか」 というような話題について、マーケティングの視点からいろいろと書いてらっしゃいます。 その相田さんが ・初心者必見!グーグルアドセンス設置に対する考え方について - ハックツ | 初心者から正統に稼げるWEBスキルを。わかりやすく・身近に・面白く という表題で記事を書いているのを見かけて、どんな内容かなぁと思ってのぞいてみました。 内容を簡単にまとめると、 月間閲覧数 50,000 ないし、はてなでの読者 500 を超えないうちはアドセンスの広告は貼らないほうがいい 貼る場合にも、読者の邪魔にならないように十分気をつけるべきである という、ストイックかつ妥当なものです。 相田さんが展開する論の道筋については、異論もあろうかと思いますけれども。 ですが、まあ、榛名山の野っ原のど真ん中、誰も人がいないところに広告塔を立てても仕方ないってのは、確かにそのとおりですよね。 (たまたま「貼るな」が「榛名」になったので、ダジャレてしまっただけで、榛名山や群馬県の方々を悪くいう意図はありませんので、ご了承ください。土下座っ) 相田さんの場合、 僕は今も検索からのPV集まっている記事にしか、記事中に広告は貼っていませんし、スマフォのモバイル広告(画面の下に出てくるアイツ)をつけるのはナンセンスだと思っています。やっぱり何やかんや広告は少ない方がいいです。(中略)できるだけ人目につかない所に広告を貼っています。 とのことで、これは実に正しいやり方・考え方だと思います。 ほいでね、ぼくの考えはとゆーとね、「別にええやん、広告なんて、誰がいつ・どこに波浪が」 「広告なんて、誰がいつ・どこに貼ろうが勝手」 なんてことを言うと、波浪注意報が出たり、山火事警報が出たりしそうですが、ぼくのモットーは 「人生は自由、すべては自己責任」 というものなので、地軸がねじ曲がり、熱海が日本の首都になっても、自説を撤回することはありませんので、そこのところはよろしくご承知おきください。 いやでも、相田さんのご意見は、ほんとにもっともだと思いますよ。 そもそもぼくも、広告って鬱陶しいと思ってるし。 (鬱陶しいっていう、この文字がまたうっとうしいですよね) それどころか少し前までは、 「世の中から広告なんてなくなればいい」 くらいに思ってましたから。 とはいえ。 相田さんのようにてきぱきと記事を書ける人はともかく、ぼくのようなずぼらな人間には、 「この記事には広告を入れて、こっちの広告はやめといて......」 みたいなきめ細やかな対応は、無理です。 絶対無理。 そんなことやってたらストレスで記事が書けなくなっちゃいます。(←大げさ)

全文を読む

みなさん、「魔法少女まどか☆マギカ」は見たことありますか? 魔法少女ものなのに深夜枠の放送で、可愛い絵柄なのにダーク・ファンタジーでメルヘン・ホラーで、なんとも言えない魅力のあるアニメですよね。 この作品に関連して、はてな匿名ダイアリーに、 ・所詮大乗仏教である『まどマギ』でマミさんに自力救済ルートはない というおもしろい記事が投稿されていましたので、今日はこれを肴に宗教論ごっこをしてみようかと思います。 結論を先に言うと、 「人のいうことなんかあんまり気にしないで、自分なりの世界観を創り上げていくほうが楽しいと思うよ」 てな話です。 で、本日のお品書きはこんな感じ。 阿弥陀様に全部おまかせするのって、楽なようで結構むずかしかったりします。 かといって、初期仏教の修行主義は、分かりやすいけどストイックすぎて、なかなかついていけませんです。 キリスト教やイスラム教はよく知らないけど、やっぱりそれぞれに正しいに違いありません。 神道の「祓って浄めれば全部オッケー」ってのも悪かない。 なお、なんでもありでおおらかな感じのヒンズー教の梵我一如あたりが今のお気に入りです。 最後に、宗教というくくりに限らない、哲学的というべきか、科学も含めた世界観の話 追記: id:yuki_2021さんより、ブックマークにてコメントいただきました。 7,000字もありますので、お暇なときにお楽しみくださーい。 ・[:title] 阿弥陀様に全部おまかせするのって、楽なようで結構むずかしかったりします。 この記事では、「まどかマギカ」のストーリーや世界設定について細かく説明はしません。 とりあえず、主人公まどかの立場を大乗仏教の阿弥陀如来に例える解釈が一般になされている、ということだけ了解しておいていただければ、十分です。 この作品に登場する魔法少女たちは、世界を守るために苦悩しながら闘うことになるのですが、阿弥陀如来としてまどかを信じることによって、最終的には救われることになるという枠組みの解釈です。 これについて元記事の匿名ダイアリーを書いた匿名さんは、 その阿弥陀様が現れるまでの次元・時間においては、魔法少女は絶望して発狂し続けるのです。 というように「否定的」な説明をしていますが、ここはちょっと違うかもな、と思います。 最後に阿弥陀如来の救いを知らない世界においては、確かにその通りでしょう。 けれども、いずれ阿弥陀如来がやってきて救いが訪れるのだということを、きちんと信ずることができたときには、同じ過酷な状況の中で闘い続けるにもかかわらず、その状況に絶望せず、その状況の中で発狂したりせず、自分の役割を果たすことができるようになるはずだからです。 というわけで、みなさんもご自分の人生の真っ只中で、理不尽で不条理な状況に落ち入ってしまったときには、とりあえずは、阿弥陀様や法華経にすべてを預けるのもいいかもしれません。 まあ、なかなかすべてを預け切るわけにはいきませんし、エゴの猿知恵でもってじたばた足掻いてしまうのが、私たち衆生というものではありますけれども(笑)。 かといって、初期仏教の修行主義は、分かりやすいけどストイックすぎて、なかなかついていけませんです。 さて、「まどマギ」の世界では、最終的な救いが登場人物には明らかになっていないことから、匿名さんは登場人物のマミさんに対する説明の形で、セールスマンよろしく、初期仏教の瞑想修行の売り込みをはかる文章を展開していて、これがなかなか読ませます。 初期仏教であればマミさんは自力救済が可能です。 今日は初期仏教のご紹介のためにこちらにあがらせていただきました。 マミさんへのご提案と言う形で 初期仏教の効能と素晴らしさをみなさんに知っていただきたいと思います。 この口上、大変気に入りました(笑)。 このあと、五つの戒律を守り、慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想を実践することで、他力によらない自力の救済が可能なのだという説明が続きます。 件の記事にはヴィパッサナーという言葉はでてきませんが、一日二時間の瞑想を進めていることから、ヴィパッサナーによる呼吸と身体感覚を対象にした瞑想を念頭においているものと推測されます。 しかしながら、このヴィパッサナー瞑想による自己救済も、誰にでも開かれたものであり明快で分かりやすいものであるとは言え、誰にでも簡単に実践できるものではありません。 ぼくもヴィパッサナーに関しては、この七年来ほそぼそと練習を続けてはいますが、何しろなかなかストイックなものですから、「救済」といえるようなレベルには簡単には辿りつけないことを実感しています。 もちろん、練習をすれば、したなりのメリットはありますから、そういうストイックさが合う方には、悪くない方法論ではあります。 でも、やっぱり、合う人は少ないだろうなぁ。 おまけに日本の社会の中では、ちょっとカルトっぽく見えちゃうだろうし。 なお、ヴィパッサナーについては、別サイトに書いた記事がありますので、興味のある方はご一読くささい。 [マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想について・蝶入門編] キリスト教やイスラム教はよく知らないけど、やっぱりそれぞれに正しいに違いありません。 さて、パクス・アメリカーナな合州国を頂点とする世界秩序が力を持つ現代の政治情勢の中で、「キリスト教社会とイスラム教社会の対立」のようなものが、ぼくたちの生活をおびやかしているかのような言説をあちこちで見かけることも多いのではないかと思います。 けれども、「キリスト教 v.s. イスラム教 - 地球大の決闘」みたいな話って、かなりうそ臭いですよね。 石油やらの資源や、経済的な利害絡みのことが問題の根本にあるのに、そうした論点をすり替えてる印象をかなり強く感じます。 もちろん人間は、集団ごとに帰属意識を持って、その間ですぐ戦争ごっこを始めちゃうような存在ですので、それが実際問題「キリスト教 v.s. イスラム教」のように見えてしまうのも現実です。 とはいえ、歴史的に考えれば、イスラム圏でも異教徒はちゃんとそこに住んで経済活動をすることも認められていたわけですし、原理主義者ばかりがイスラム教徒ではありません。 むしろ西側社会が資金提供してイスラム原理主義者を育てた側面も大きい。 ......というような話をしていると、限りなく話が明後日の方向にそれていってしまうので、この辺でやめときましょう。 今言いたいのはこういうことです。 「まどマギ」のマミさんが、突如マザー・テレサの善行に打たれて、貧しい人々の看取りをしながら、そのかたわら、魔法少女として戦うことも設定としてありえますよね。(かなりの無茶振り) あるいは、イスラム教の神秘主義スーフィズムに目覚め、回転舞踏をしながら魔女と戦うというのは、どうでしょうか。(同程度に無茶振り) いずれにせよ、魔法少女としての宗教的背景がどうであれ、 「きちんと信ずるものがあれば、困難な状況にも打ち勝つことができる」 はずっていう、まあ、ありきたりで凡庸な話になっちゃいますけどね。 神道の「祓って浄めれば全部オッケー」ってのも悪かない。 さてここで、我が大和の国ニッポンの神道は果たして、どうなんでしょうか。 って、もっともらしく論ずることができるほど知ってるわけでもないので、聞きかじりの断片的な知識から書くだけですけど、ぼくの哲学的先輩に聞いたところによると、 「神道って、教義と言えるようなものは、『祓い給い、清め給え』しかないんだよねぇ」

全文を読む

プロフィール画像

としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

物好きな物書き

宇宙のど真ん中