「牛乳は有害である」みたいなことを書いてますので、牛乳好きの方にはもうしわけないです。でも、「牛乳は有害だから飲むな」と言いたいわけではありません。「有害かもしれないから、注意したほうがいいかもしれませんよ」という程度の話です。

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みなさん、こにゃにゃち・はーーっ。 この記事は ・「科学至上主義」のみなさんは、どうしてEM菌がそんなに嫌いなんですかね? - *魂の次元* へ頂いたブックマーク・コメントに対するお返事集です。 (途中、dfk3さままでコメントを書いて力尽きました。あとは大体論点変わらないような気がしますので、この辺でご勘弁願います) 貴重なお時間を割いて、コメントをいただいた方々には平にひらに感謝いたします。 id:tanizakura さま: UFO好きで幽霊も怖いしパワースポット巡りも楽しいけど、EM菌は嫌い かなり分かります。幽霊やパワースポットは、バックに政治家がついたり、行政からお金が出たりしませんもんね。 id:ublftbo さま、 言いたいことが良く分からなかった。簡単な話で、効果の確かめられていないものを「実践的に」使うべきでないということです。後、医療問題と分けてとありますけど、水質浄化って、相対的にそんな軽い話なんですか? 話が分かりにくくてすみません。頭の中が歪みまくってるもんで。 「実践的に」使うべきでない、という意見は、それはそれでいいと思います。 水質浄化が軽い、ということではなく、医療問題は法律的にもいろいろ別の論点が必要になってくるので、あの記事では扱わなかった、という話です。 id:ad2217さま、 偽ブランド商品は、本物のブランドからすれば滅ぶべきものでしょう。本物の方のブランド価値が下がるから。 経済主義的な解釈は、分かりやすくていいですね。 でも、進化論的に言えば、模倣が出るのも当たり前。 そのうえ、心理主義的に言えば、模倣を不愉快に思うのも当たり前。 ですから、ぼくの書いてることは、単なる自己肯定にすぎず、「科学至上主義」の人を批判しているわけでないのは、最初にお断りした通りです。 id:flowing_chocolateさま、 根拠がない話を基にあれこれ動き回るってのは、実際のところ社会にとって有害なのよ。問題解決にならない方法を覚えてもらっちゃ困る。 世に溢れる「有害さ」に困ってらっしゃるのですね。ぼくも「原発」を迷信的に推進するような「有害さ」には困っていますので、その「お気持ち」よく分かります。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 id:Fushiharaさま、 科学にタダ乗りするな。根拠があるような宣伝をするな タダ乗りしてらっしゃるのはFushiharaさまでは? ぼくは根拠があるような宣伝はしてませんよ?? id:kamakiri3さま、 EM菌撒くような人は苦手だけど、どちらかというと中立ぶりたがる人間の方が、より苦手かな。 ぼくはEM菌は撒きませんし、中立ぶってもいません。お互いに立場があさっての方を向いているようで、申し訳ありません。 id:giyo381さま、 疑似科学やら呪いを信じたりするメンタリティがわかる ご高説ありがとうございます。ぼくは疑似科学も呪いも信じませんけど。 id:LethalDoseさま、 おとなになってから個人的に実践する分にはあまり何も言われないとおもう。 「子どもに押しつけるべきでない」というのは、まったくその通りと思います。 id:photostudio9さま、 効果のはっきりしないものをあたかも効果があるように広める、使うというのが良くない。科学とか教育以前の問題。EM菌は水質浄化に効果があるのか?をテーマに教育現場に取り入れるなら良いんじゃない? まったくです。 id:turanukimaru そもそも「ない」ものを「ある」と言うのは嘘であり、「有るかもしれないし無いかもしれない」というのは何も言ってないのと同じ。教育ってのは嘘を教えたり無意味なことを教える事なの?本当にそれでいいの? 「有るかもしれないし無いかもしれない」ことを伝えた上で、その見分け方を自ら見極める方法を伝えるのは、とても意義のあることだと思います。 id:powerbreathingさま、 EM教育の問題点は、天羽先生の記事を読んでほしい。http://www.cml-office.org/pseudoscience/topics/EM/em07.html 朝日新聞青森のEMの記事を、裁判で負けたEM側の主張を元に批判しているのも疑問です。 水質浄化にEM菌が有効かどうかいうことと、そのほかの比嘉氏の主張は分けて考えるべきべきだと思います。 また、裁判についても、水質浄化の問題とは別の問題と考えます。 id:K-Onoさま、 広告に万田酵素出てきてその相乗効果で途方にくれた。 ありゃ、そうでしたか、すみません。 この記事の内容に共感し、100円でも200円でも寄付をしたいという人がいらっしゃったら、広告の表示をなくす手を打ちますので、ぜひご連絡ください。

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「科学至上主義」な立場から、学校教育においてはEM菌を使用するべきでない、という主張がネット上では散見されますが、EM菌の効果が証明されていないからと言って、水質浄化問題に関する限りは、そんなに目くじら立てなくていいんじゃないでしょうか。

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みなさん、ハルオサンの 警察官クビになってからブログ 読んでますか? 彼のブログのヘッダ画像を一目見れば、ハルオサンが「フツウの人」でありえないことは、分かる人には分かっちゃうと思います。 そして、彼の書く記事を一つでも二つでも読んでみれば、「フツウ」にはありえない彼の「天才」的なセンスに溢れる文章のとりこになること請け合いです。 とはいえ、分からない人には、やっぱり分からないんでしょうね、ハルオサンの「天然系・野生の天才」ってものが。 というのは、ハルオサンのブログは大人気ですから、出版社から書籍化の話も来ているというのですが、文章もうまく、絵にも味がある、その上記事の内容がおもしろすぎるので、 文章のプロである出版社の人達からも 「どこかのプロの業者じゃないんですか?」 と言われてしまいました。 世にも奇妙な『はてなブログ』物語 - 警察官クビになってからブログ という話なんです。 そこで今日は、ぼくの大好きなハルオサンについて、彼が「業者」では *ありえない理由* と、その「野生の天才児」としての魅力を大雑把に気分次第で書いてみますので、お時間ある方はおつき合いください。 ハルオサンの実在性の証明。まずは、BuzzFeed の記事を読んでみてください。 なぜハルオサンはあんなに文章がうまいのか、そしてあんなに味のある絵が書けるのか? ハルオサンの魅力の秘密は「バランス派・天然系」にあり。 ハルオサンの実在性の証明。まずは、BuzzFeed の記事を読んでみてください。 播磨谷拓巳さんという方が、こちらで、ハルオサンのインタビュー記事を書いてます。 ・「クソ人生を笑って」 難病、いじめ、ブラック企業 彼がブログを書く理由 ハルオサンの人生と、今の状況が簡潔にまとめられています。 しかし、簡潔すぎて面白みには欠けますので、ぜひハルオサンのブログを隅々まで読ことをおすすめします。ほんとに面白いですから。 で、このBuzzFeedの記事を素直に読めば、ハルオサンが業者の創作ではなく、実在の人物であるのは明らかですよね。 でも、ハルオサンの記事を読んでいて、「それにしても、どうも不思議だ」と思う方もいらっしゃることでしょう。 そこで、もう少しハルオサンの「内面」に迫ってみることにしましょう。 なぜハルオサンはあんなに文章がうまいのか、そしてあんなに味のある絵が書けるのか? どうしてハルオサンは、あんなに文章も絵もうまいのか、 本当に素人があんなに面白いブログを書けるのだろうか、 と思ってしまう人の気持ちも分からないではありません。 でも、ハルオサンにはできちゃうんですよ。 だって、ハルオサンは 天才 ですから。 みなさんは、イディオ・サヴァンという言葉をご存知でしょうか? フランス語で「賢い白痴」の意味を持つこの言葉は、「イディオ=白痴」の意味が差別的だとして、現在では「サヴァン症候群」と呼ばれていますが、 知的障害や発達障害などのある者のうち、ごく特定の分野に限って優れた能力を発揮する者の症状を指す サヴァン症候群 - Wikipedia ものです。 ハルオサンに対してなんらかの「診断」を下すつもりは毛頭ないのですが、彼が「サヴァン症候群」的な才能の持ち主であることは間違いがないと思うし、彼をそうした「特殊な才能」の持ち主と見ることは、決して彼を見下すことにはつながらないでしょう。 彼は自分が「天才的に文章がうまい」という事実に、気がついてすらいないようですし、自分の描く絵も多分、落書き程度にしか思ってないのではないでしょうか? けれども、その「落書き程度」の絵の中に、彼の生きている世界の あっけらかんとしているけれど、 悪意ある人がたくさんいて、 ほのぼのとしているけれど、 冷静さに支えられている、 そんな性質が、実に素直に、サラッと精密に表されている様子は、 野生の天才児 としか呼びようがありません。 こんなものを、もし「業者の人」が企んで作れるのだとしたら、それはもはや「業者の人」ではなくて、やっぱりただの「天才」です。 そして、そんな「天才」がわざわざ「業者の人」を(しかもこんなに長い間、大きな動きを見せないままに)続ける可能性は限りなくゼロに近いですから、結論としては、 ハルオサンが「業者」の創作だなんて思ってる人は、目にウロコがつきすぎ というものになります。 そんな皆さまには、こちらの貝印の「うろこ取り」など、大変お手頃で、扱いやすいものとなっておりますので、ぜひご購入をご検討お願いいたします。 ばしばしウロコが取れること請け合いです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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※こちらの記事にブックマークをつける前にぜひお読みください。 ・「差別」「EM菌」「牛乳の有害性」についての記事を宣伝してくださっているみなさまへ、感謝の言葉とお願い、そしてご説明 - *魂の次元* 前の記事 ・Q:差別発言に表現の自由はあるか? A: ええ、もちろん。あるいは、敵は作るな、味方を増やせ - *魂の次元* で、 人間には「差別する」自由だけでなく、「ありとあらゆることをする」自由がある しかし、「差別する」自由は法律で制限される という意味のことを書きましたが、分かりにくかったようなので、もう少し説明します。 なお、いくつかご指摘を受けましたが、「差別する自由がある」という言明は、確かに「強すぎる」ものと思いますので、この記事では、前回の記事との整合性をはかるため、その表現を使いますが、今回限りの表現としますので、その点はご理解ねがいます。 また、「内心の差別」についても少し書きます。 あなたの友だちがあなたに対して「日本人」を差別するような発言をしたとして、それを法律で取り締まることができるでしょうか? 「差別する自由」という強い表現と「自由」という言葉の定義について 「行為としての差別」は法律で制限されるが、それだけでは不十分なので、「内心の差別」をしっかり意識しておく必要がある [追記]「敵は作るな、味方を増やせ」再び あなたの友だちがあなたに対して「日本人」を差別するような発言をしたとして、それを法律で取り締まることができるでしょうか? あなたの日本人の友だちが、私的な場面であなたに対して、 日本人というものは、その政治状況を見れば、人種的に劣っていることは明らかなので、皆殺しにしてしまえばいいのだ、 と言ったとします。 これは立派な「差別発言」ですが、こうした発言を一々法律で取り締まることは、可能でしょうか? また、仮に可能だとしても、取り締まることに意味があるでしょうか? 法律で制限されているからといって、すべての違反行為を取り締まることは現実問題として不可能ですし、軽微な行為まですべて取り締まろうとすれば、経済的にも割に合わないことになるでしょう。 その意味で、 人間は法律で制限された行為をする自由を当然持っているし、 現に行使している その上で、そうした自由は法律で制限されている という、原則的な話をしているわけです。 ですから、法律をどんどん破ればいい、という話にはなりません。 人間には、すべての法律を守ることは不可能だし、それを一々取り締まることは現実的でない、ということを言っているにすぎません。 また、重大な違反行為をすれば、法律にもとづいて社会的制裁を受けることになるのは言うまでもありません。 (現実には、重大な違反行為をしながら、なんら制裁を受けないケースが、近年のニッポンにおいては多々見られる点を大変憂慮しておりますが……) ここで、「社会的制裁」というのも大切なところで、ネット上や各種メディアにおいて、「正義派」のみなさんが、「私的制裁」を加えている現状は、好ましいものとは思えません。 (「私的制裁」を好きでやっている方に、それをやめろというつもりもありませんし、あるいは、ご自身が差別を受けている被害者の方が「差別する自由」という言葉から精神的被害を受けた、というのであれば、それにはきちんとこたえる必要があると思いますが) 「私的制裁」が好ましくないのは、法律に違反しているかどうかについては、基本的に裁判所が判断すべきだと思うからです。 もちろん裁判所の機能にも限界はありますから、それをただすような議論は、当然必要になりますけれども。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 「差別する自由」という強い表現と「自由」という言葉の定義について なお、前の記事に対するコメントでid:Ayrtonismさんが、 「差別する自由」という強い言葉は、その人の「言いたいこと」とは別に一人歩きするから、この人の解釈が正しかろうと批判者が誤読していようと、最初の段階で叩くのはとても大事なこと。 と述べているのは、「叩く」という表現以外は同感です。 差別を助長しかねない「強い」表現を不用意に使わないほうがよいのは、その通りです。 ただし、発言者の「人格」を不用意に「叩く」ような行為は、問題をこじらせるだけに思えます。 (このことは前の記事でも述べているとおりです) また、id:udonkokkoさんからは、 「可能」と「自由がある」は違うと思う。 というコメントをいただいております。 「自由」という言葉をどう受け止めるかは、人それぞれに違って当たり前ですし、「差別する自由がある」という言い方は、確かに強すぎるかもしれません。 「安易に表現の規制をすべきでない」という文脈なので、あえて「差別する自由がある」という強い言明をしましたが、実際に言いたいことは 誰にでも差別は可能だし、 誰でも差別をしかねず、 それをすべて法律で取り締まることには無理がある ということになります。

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※こちらの記事にブックマークをつける前にぜひお読みください。 ・「差別」「EM菌」「牛乳の有害性」についての記事を宣伝してくださっているみなさまへ、感謝の言葉とお願い、そしてご説明 - *魂の次元* わっとさんの記事、 ・「差別からの自由」は「差別する自由」に優先する。よって「差別する自由」などというものはない - しいたげられたしいたけ は、みなさんご覧になってますか。 twitter上の「人間には差別する自由もある」という発言に対する反論です。 わっとさんの主張を簡単にまとめると、 人間には「差別されない権利」がある、 したがって、他者を「差別する自由」は法によって制限される というもので、まったく妥当な主張です。 ただし、元の発言をした柴田英里氏は、決してわっとさんの主張に反することを言っているわけではないので、その点について少し書きます。 人間には「差別する自由」があることと、「差別」は法律で制限されていること 柴田氏の主張は、「表現の自由は安易に規制すべきでない」というところにある ところで、みなさん、議論ってどうしてするんでしょうね? あるいは「敵を作るな、味方を増やせ」 人間には「差別する自由」があることと、「差別」は法律で制限されていること 人間には「差別する」自由だけでなく、「ありとあらゆることをする」自由がある、 というのが、ぼくの基本的な立場です。 けれども、なんでもかんでも自由にしたら、社会生活上さまざまな混乱が生じますから、そうした自然権的な自由に対して、法律的な規制をかけるわけです。 ですから、「差別をする自由」があるからといって、無制限に差別をしていいわけではないし、むしろ「差別をされない権利」を優先して、多くの「差別」には、法のもと規制がかかっているわけです。 柴田氏の主張は、「表現の自由は安易に規制すべきでない」というところにある さて、柴田氏は「人間には差別する自由もある」という主張をしたために、「差別を容認する」考えを持つ人物であるかのように受け止められたわけですが、前節で述べたとおり、「差別する自由」は法によって制限を受けており、柴田氏はそうした法規制について特に異を唱えているわけではありません。 彼女の主張はあくまで、 表現の自由は安易に制限すべきでない というところにあります。 (参照: https://twitter.com/hokuto_83/status/907447823607619584 https://twitter.com/erishibata/status/907459640056725504 https://twitter.com/erishibata/status/907478364067307520 柴田氏の発言は断片的であるため、全体としての主張は読み取りづらいのですが......) つまり、柴田氏は芸術家としての立場から、 たとえ「差別的」と思われる表現であっても、安易な法規制は行なうべきではない、 表現が法規制されれば、国家の恣意的運用の恐れがある という、これもまた、まったく妥当な意見を述べているものと思われます。 (もちろん、これについては異論もありましょうが) ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ところで、みなさん、議論ってどうしてするんでしょうね? あるいは「敵を作るな、味方を増やせ」 ネット上で人の意見を見て、これはおかしいなって思うことは、よくありますよね。 でも、一々反応してたらキリがありませんから、大抵は放って置きますかね。 今回の件はわっとさんとしては、放置できない問題だから、わざわざ記事を起こしたに違いありません。 そして、冒頭でも述べたとおり、わっとさんの主張自体は、まったく正しいものだと思います。 しかしながら、わっとさんが引用している山崎雅弘氏の発言 https://mobile.twitter.com/mas__yamazaki/status/906745708396429312 は、柴田氏の発言を「誤読」した上のものであると、ぼくには思われますので、結果として、わっとさんの記事が、不当に柴田氏の評価を下げるものとなっている点は残念です。 山崎氏は、柴田氏のたった二つの断片的な発言から、彼女に「否定的」なラベルを貼った上で、柴田氏を評して 最初から最後まで一貫して自分を「差別するかしないか選べる側」に置いているのがすごい 山崎 雅弘 on Twitter: "「(続)」とあるので一応最後まで読んでみたが、最初から最後まで一貫して自分を「差別するかしないか選べる側」に置いているのがすごい。自分が理不尽な差別で苦しんだり惨殺されるという想定が思考にない。そして「表現内容への批判」と「差別という行為への批判」の違いを無視して同一視している。 https://t.

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なすねむさん (mensan:di) がこちら ・瞑想と悟りに対するぼくの個人的見解 - めしがくいたい で、ご自身のアヤワスカでの体験をもとに、瞑想と悟りについて考察しています。 全体的に *力強く* 同意したい内容である上に、幻覚性植物の経験を共有するものとして、ひと言、ふた言、書いておきたいこともあるので、今日は「瞑想」と「悟り」そして向精神薬をめぐる、「変性意識」についてのぷち考察です。 アヤワスカで「悟り」は得られるか? 瞑想で「インスタント悟り」を定着させるのに「苦行」はいらない、さああなたも「楽々」と悟っちゃおう 瞑想を習慣にする 瞑想を「習慣」にすることが、なぜ大切なのか 「楽に悟れる」とは言っても、「それなりの努力」は必要です 「悟り」ってそんなに偉いものなの? ・[:title] アヤワスカで「悟り」は得られるか? 結論から言うと、 「悟り」が得られる可能性はわりと高い ということになります。(一方リスクもあります) ただし、ここで「悟り」というのは、普段の意識ではなかなか得ることができない、「深い洞察・気づき」程度の意味です。 アヤワスカのような薬物を使うことで、いつもの意識とは異なる「変性意識状態」に入ることができます。 そのとき、いつもはブロックされていて見ることができないものが見えてくることで、「普段は気づけない気づき=悟り」が得られる場合があるのです。 しかし、これはギョーカイで「インスタント悟り」と呼ばれるもので、体験中には、 すごい悟りを得たぞ! と思うのですが、残念ながら、 じきに薄れてしまったり、あるいは 強烈すぎる場合には、普段の歪んた認識に組み込まれて、妄想的思考になってしまったり しかねません。 (妄想的思考は、人によっては大きなリスクとなりえます。素質のある人は、病院のお世話になることも考えられるからです) nasnemさんは、こちらの記事 ・悟りとジャンプ漫画について - めしがくいたい で、アヤワスカによる変性意識の中、その体験と「ジャンプ」のいくつかの漫画に描かれる「悟り」の境地との類似性を指摘していて、なかなか興味深いのですが、その類似性について、 体験中はもっとナイスアイディアの感じがしていたんだけどなあ。 と書いています。 これが、「薄れ」の実例ですね。 売れっ子の漫画家が描く、多くの人を惹きつける世界観を、変性意識による「認識の深み」の中で深く「体感」として「理解」したことは、ある意味「真理」に迫っていたといえます。 けれども、いつもの意識に戻ってしまうと、その「体感」が抜け落ちてしまうため、 「あれ、ちょっと似てたってだけで、大した発見じゃなかったか」 みたいなことになっちゃうわけです。 そこで、この変性意識にあるときの体感としての「気づき」をきちんと自分のものにするためには、「瞑想」が必要になってくるのです。 瞑想で「インスタント悟り」を定着させるのに「苦行」はいらない、さああなたも「楽々」と悟っちゃおう なすねむさんは、 薬やサイコアクティブ物質によって悟れるならそれでいい 楽に悟れるならそれに越したことはない 苦行の末に悟りがある、苦行することは高尚で偉い、悟りは神秘的なもの、といった考え方は危険 と書いています。 1. については、「向精神性の薬物だけでは悟れない」ことを先ほど書きました。 (例外はあると思いますけど) 2. については、大いに共感しますし、基本的にぼくもこの路線です。 3. については、大体同じ考えなのですが、改めて次節で述べます。 というわけで、ここではどうやったら「楽に悟れるか」を簡単に書きます。 瞑想を習慣にする 瞑想といっても、座禅を何時間もやる必要は必ずしもありません。はじめは「気がついたときに、三回じっくり深呼吸する」とか、簡単なことでかまいません。 ポイントは いつもは無意識にやっていることを「意識化」すること そして、それを習慣にすること にあります。 さてここで、練習問題です。 あなたはいつも靴をどちらの足から履きますか? 実際にやらずにこの質問に答えられるあなたは、自分の体の動きについて、かなり意識化ができている人です。 でも、分からなかったからといって、がっかりする必要はありません。 次に靴を履くときに、ちゃんと意識してどちらの足から履いてるかをよく確かめてください。、そして、次からは、逆の足から靴を履くようにしてください。 はじめは、違和感もありますし、うっかりいつも通りの足から履いたりしてしまうでしょうが、気にせず根気よく続けてください。

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あなたの感情は何種類ありますか? のっけから変な質問で恐縮ですけど。 日本では喜怒哀楽といいますから、四種類でいいですかね。 んっ、「感情なんて、そんなふうに数えられるわけないじゃないか」って? それも言えてます。 なんと、今までの心理学では、「幸せ、悲しみ、怒り、驚き、おそれ、嫌悪」の六つ*1が、人間の基本感情とされていたのだそうです。 それに対して、今日紹介する研究では、 被験者にビデオを見てもらい、沸き起こった感情を表現してもらったところ、 連続的に変化しつつ重なりをもつ、27種類の基本的な感情の状態が見出された、 というんですね。 というわけで、この記事では、人間の心理について、経済学との関係も含めて、ぷち考察してみようかと思います。 (元記事はこちら、英語です。→Researchers Pinpoint 27 States of Emotion - Neuroscience News) はじめに「感情」という言葉について一言 で、感情が27種類って、どんなのがあるの? 27種の基本感情に訴えれば、キミの記事も大ヒット間違いなし - マーケティングや経営の技術としてもてはやされる心理学の話 ノスタルジアに怒りが混ざる!? 人間の気持ちの「キミョーな二重性」について はじめに「感情」という言葉について一言 ところでみなさん、「性的欲求 sexual disire」って感情だと思いますか? 日本語で「感情」という場合、「気持ち」という言葉と大体意味が重なりますよね。 そうすると、「愛情 romance」は、相手を好きに思う気持ちですから「感情」ですけれど、「性的欲求≒相手を抱きたい」というのは、「欲求」や「欲望」であって、「感情」のうちには入らないのではないでしょうか? 今回紹介する論文のタイトルは、 Researchers Pinpoint 27 States of Emotion というもので、「研究者グループ、感情の27種類の状態を特定」みたいな意味です。 それで、この emotion という言葉を「感情」としているわけですが、もう少し正確に言えば「情動」とすべきところです。 (「情動」=「感情+欲求」くらいの意味ですね) ですが、この記事では馴染みやすさを優先して「感情」という言葉を使いますので、ここでは感情という言葉を「感情+欲求」くらいに読み替えてね、という話です。*2。 で、感情が27種類って、どんなのがあるの? さて、27種類もの感情を羅列して説明するのも退屈ですので、 連続的に変化しつつ重なりをもつ 基本的な感情というものについて、例を上げて説明することにしましょう。 *3 下記ページを見ていただくと、27種類の感情とその重なり具合が大体わかるのですが、その左上には、「不安 anxiety 、おそれ fear 、ホラー horror 、嫌悪 disgust」が並んでいて、やや「グロい」ので苦手な方は要注意ですが、感情を説明する写真も入り、イメージはつかみやすいと思います。 https://s3-us-west-1.amazonaws.com/emogifs/map.html (このページの図では、27の感情に A から Z と Ω の記号が割り当ててあり、図中の色がついてモヤモヤと見える部分は、拡大してみると、その記号が重なりあって表示されているのが分かります) 今まで基本とされてきた「幸せ、悲しみ、怒り、驚き、おそれ、嫌悪」と比べると、 「おそれ」と「嫌悪」に

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「黄金球ってなんだろう」と思って、わざわざこの記事をみてくださった方、ごめんなさい、それはただの「き○たま」のことです。そして、今日はもう一つの話題は、明晰夢・幽体離脱について。実体験にもとづき、脳科学的知見にも触れながら、紹介します。

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はいさい、みなさん、お元気ですかー。 おまきざるさんの、 ・普通とは何か? - おまきざるの自由研究 という記事がおもしろかったので、今日はちょっと相乗りさせてもらいます。 人が使う「普通」が分からない、おまきざるさんのモヤモヤ あなたは「普通」という言葉を定義して使いますか? ゲンミツ派とザッパ派の話 「普通」という言葉をいちいち「定義」してから使いますかね? ゲンミツ派とザッパ派の仁義なき戦い、あるいは無駄な争いはやめるが勝ち 人が使う「普通」が分からない、おまきざるさんのモヤモヤ おまきざるさんが書いているのは、 ネットで見かけた記事に「普通の人」と書いてあるのだけれど、 そこでの「普通」の意味が分からない、 あるいは「普通」の使い方がおかしい気がして、 モヤモヤした、 といった話です。 そして、 一言で表現するならば,「普通」とは自分の観測範囲内でのマジョリティなのかもしれません. という形で「普通」という言葉を説明してくれていて、これには納得です。 その説明にたどり着く過程では、 何が「普通」なのかは時代によって,そして自分を取り巻く環境によって変わります. と述べ、その例として、 「普通コンビニで薪が売っているか」 という話を上げてるんですよ。 コンビニで薪が? いや、そんなもの、「普通」売ってないですよね。 と、東京原住民のぼくなどは思うわけですが、なんとノルウェーには日本のコンビニ・サークルKがあり、そこでは薪が売っているというのです。 さすがノルウェー! ......と思わず称賛したくなるところですが、そのあとに更に驚きの報告が続きます。 Aさん「えっ、薪? そんなん仙台のコンビニじゃ普通に売ってるよ」 Bさん「てことは仙台はノルウェーだった!?」 ......みたいな話で、これには大笑いしました。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 あなたは「普通」という言葉を定義して使いますか? ゲンミツ派とザッパ派の話 そうして、モヤモヤに端を発したおまきざるさんの考察は、 「普通」という言葉を定義しないで使う場合、読者がそれぞれにイメージを浮かべるのでコメントが集まりやすい。 逆に「普通とはこうだ」と定義すると、「自分はそう思わない」という異論が出やすい。 記事中で定義をしないで「普通」という言葉を使うのは、コメントを誘うためのあざとい手法である。 と同時に、そうした記事は「普通」とは何かを考えるよいきっかけにもなりうる。 という結論に至るのですが、ここはちょっと「はてな?」と思いました。 「普通」とは何かを考えるよいきっかけになる、という最後の結論はいいのですが、「普通の人」という言葉を使った方に、そんな「あざとい」意図があったようには思えないんですよね。 もちろん、これはぼくの解釈にすぎませんから、間違っているかもしれません。 けれども、ここで読者の皆さんにうかがいたいのは、 「普通」という言葉をいちいち「定義」してから使いますかね? ってことなんです。 科学派であり論理派であろう、おまきざるさんにとっては、記事内容のゲンミツさが大事でしょうから、「普通」を「定義」することは、*普通* のことなんだろうと思います。 また、おまきざるさんの記事にブックマークでコメントをつけている方々も、おおむね似た意見をお持ちのようですから、こうした立場をゲンミツ派と呼ぶことにしましょう。 しかしながら、おまきざるさんが「モヤモヤ」した大もとの記事の一つである ・普通の人がお金のことについて勉強しておくべきこと - ゆとりずむ

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

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宇宙のど真ん中