日本で寒い冬をお過ごしの皆さん、おはようさんです。
こちら、北インドの聖地ハリドワルは、もうだいぶ寒さもゆるんできていたのですが、今日は天気が悪く、ちょっと寒めの一日となりそうです。
そこで今日は、熱に満ちたしばらく昔の日を思い起こし、二年前に年中暑いタイ・ノンカイで作った自由律の句を六つお送りします。
てなわけでみなさん、ナマステジーっ。
- あかいありがそぞろあるく
だれかのたましいのせて
ひとりはだかで
はじているこのいのち
むねをはれ、ひとりあゆめ
はだしのいのち
ひろいうみで
ひとりおぼれるも自由
ははのちちをのむように
ビールをごくごくと
たそがれて、たそがれつくせば
あけのみょうじょう
以上、2016年2月16日、タイ・ノンカイにて
〈初出: https://note.mu/tosibuu/n/n2905788e24da〉
この記事の内容のいい加減な要約:
「ブログに文章を書く」ことをはじめとするすべての表現は、貨幣との交換が可能となった時点で、私小説的な「恥をひさぐ」行為となりかねない。
恥をひさいで悪い理由もないが、貨幣との交換を前提としながら「恥をひさがない」表現の可能性を模索するのも一興である。
シロクマさんは、はてな村の精神科のお医者さんだそうです。
シロクマさんのこちらの記事を見て思ったことなどを、今日はつづってみます。
・大の大人がブログを書き続けているんだぞ!わかっているのか! - シロクマの屑籠
シロクマさんの話の適当な要約 plagmaticjamさんの「ブログだけじゃなくインターネット自体に意味がない」論について まずはその無効性から 次にその議論の有意性とその優位性の超越 シロクマさんの話の適当な要約 シロクマさんは、書きます。
考えてもみろ、アラサー、アラフォーにもなる大の大人が、ブログを書き続けているってことを。そこには意図があり、欲求があり、目的があり、衝動がある。そういったもの抜きではブログなんて書きつづけられるわけがない。 マトモなキャリアを真っ直ぐに突き進んでいく人は、決してブログなんて書かない。私も含め、数年以上にわたって頻繁にブログを書き続ける人間は、どこかおかしいし、どこか憑りつかれている。 マトモじゃあない。ほかにすることはないのですか。だけど書かずにはいられないからブログが生き残っていく。それは、めでたいことかもしれないが、おめでたいことかもしれないのだ。
「カネのため、承認欲求のため、表現欲求や衝動の発散のため」人はブログを書きます。書くには書くなりの大人の事情があるわけです。
けれど、その理由がどんなものであれ、
大の大人が、少なくない時間とエネルギーをブログに投げかけている という点で、それは
尊いと同時に、アホらしい ことだというわけです。
シロクマさんは、他の人の書いている三つのブログを「からかい」つつ、応援しています。
それは、自分も同じ理由でからかわれることを承知した上でのことです。
「他者を否定し、その上で肯定すること」を通して、自分を否定し、その上で肯定する。
実に精神科のお医者さまらしい、二律背反の厨ニ病症候群ではありませんか(褒め言葉です、念のため)。
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plagmaticjamさんの「ブログだけじゃなくインターネット自体に意味がない」論について まずはその無効性から シロクマさんの記事が目に入ったのは、plagmaticjamさん(以下プラグマさんと呼ばせていただく)のこちらの記事のおかげでした。
・ネットとかブロガーについて - メロンダウト
プラグマさんの主張は、
ブログを続けることに意味なんてないし、インターネット上に言葉を投げる他のすべての行為も同様 ということになりましょう。
論理的には、「全くそのとおり!!」と思うのですが、これを敷衍すれば
人生自体になんの意味もない という当然至極なのにも関わらず、あまり人気のない見解に辿りついてしまいます。
とすると、「ネット上の表現は無意味だ」と主張することにもあまり意味はないようです。
そして「人生自体が無意味」であるからこそ、シロクマさんの「否定してから肯定」が心情論として、意味を持ってきます。
「生きることに誰かが与えてくれる意味などない。だがすべての生きるものに幸いあれ」
というわけです
次にその議論の有意性とその優位性の超越 とはいえ、もともとプラグマさんが述べているのはあくまで
インターネットは実人生に比べれば意味が薄い というようなことでしょうし、その地平においては、
「ネットで寝言を垂れ流してる暇があったら、少しは汗流して意味あることしろよ」
みたいな発言にも当然意味はあります。
ぼくたちはネット上においても「経験」を重ねることはできますが、それはあくまでも、デジタル端末が「再生」できる範囲での「経験」でしかありません。
あなたがどんなに情熱を込めて書いた文章でも、それがデジタル・メディアとして流布される以上は、あなたが誰かと向い合って同じ内容を語るときの「リアリティ」は、そこには存在しえません。
このことを考えれば、ネットという檻の中だけの体験で人生を完結させず、積極的に「実世界」を生きることには確かにプラスの意味がありましょう。
(以上、プラグマさんの議論の有意性)
しかしながら、「デジタル端末の再生の限界」にも関わらず、人間の精緻な頭脳は、「過剰な再生」を行なうことによって、完璧なまでの「脳内現実」を作り出すことができます。
そのようにして「実体験」に劣らない「経験」をすることは、簡単とは言えませんが、確かに可能なことなのです。
ソウル・フラワー・ユニオンの「満月の夕(ゆうべ)」は、ぼくにとって思い出深い歌です。
神戸の震災をモチーフに、やるせない思いを力強く歌い上げるその歌を、ぼくは友だちの弾き語りで知りました。
星が降る
満月が笑う
焼け跡を包むようにおどす風
解き放て
すべてを笑え
満月の夕(ゆうべ)
ソウル・フラワー・ユニオン「満月の夕」
─ ─ ─
1995年の3月末、知り合いに誘われてぼくは神戸に行き、公園のテント村に張られたティピーと呼ばれるアメリカ・インディアン式のテントに寝泊まりして、震災後の空気を吸いました。
神戸について駅から外に出たとき、朝の通勤の人々の列が日常の光景を繰り広げているのに、少し歩くと震災の爪あとはまだ生々しく、焼けてタイヤのなくなった車や、一階が崩れて二階が地面に接している木造家屋、そして、家をなくした人たちは、テントで生活をしているという光景の日常との対比に、今までに感じたことのない「非日常の現実」を感じたものです。
「満月の夕」を教えてくれた友だちとは、震災後しばらくして精神福祉の現場で出会いました。
彼に出会って、ぼくもギターを持って歌うようになりました。
人生というものは、今日と同じ明日が、永遠に続くような錯覚に落ち入りがちですが、実のところぼくたちは日々年老いていき、いつかはこの世を去る日が来ます。
今日の幸せは明日には崩れているかもしれないし、ある日突然が死が訪れないとも限りません。
それでもぼくたちは日々を生きていかざるをえません。
73年前の戦争や、23年前の神戸の地震、そして7年前、福島の原発を破壊し、たくさんの命を飲み込んだ東日本大震災、ぼくたちの「平和な日常」の影には、いつもそうした「非日常の現実」が隠れて存在しています。
そうした数々の「困難」を越えて、今のぼくたちの「平和な生活」があるのです。
ある意味しんどい、現実の冷酷な側面を忘れず、それに堂々と立ち向かっていくために、歌や音楽というものは、力を与えてくれるものだと思います。
山猫さんの記事
・23年前のあの夜、街灯りが消えた神戸を満月が見下ろしていました。 - 森の奥へ
を読んでそんなことを思っていたら、言葉が湧いて来ました。
みなさんの心に、何か伝わるものがあったら幸いです。
─ ─ ─ やおよろずのかみがみよ
ブッダよ、イエスよ、モハンマドよ
いまこそあの日の苦しみを
しずめたまい、はらいたまい、きよめたまえ
あおいそら、しろいくも
なみはしずかに、かぜそよぐ
やがてゆうひにそらそまる
まんげつがのぼり、よるがくる
うたおう、おどろう
いのりをささげよう
うたおう、おどろう
すべてのいのちのために
うたおう、おどろう
あしたのせかいのために
うたおう、おどろう
いのりをささげよう
うたおう、おどろう
いのりをささげよう
─ ─ ─ てなところで、この記事はおしまいです。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
この記事のひと言まとめ: ぼくたちの人生は「矛盾した欲求」という名のダブルマインドに満ちている。
この不可思議な人生を楽しく乗り切るために、ブレーキを踏みながら、アクセルを踏み込むという曲芸を身につけるのも一興である。
* * *
みなさん、おはこんばんわの、あけましておめでとうございます。
今日は、wattoさんの
・漱石、三島、筒井三部作/四部作の最終作に宗教臭が強いという共通点は「これは虚構だ」と示すため?(その1) - しいたげられたしいたけ
という少し前の記事の中の、
我々が存在に対して感じる「生きるのも嫌、死ぬのも嫌」というような不安は、根源的には我々の存在のしかた自体に起因するもの、あたかも人類が二足歩行するに伴って生じた肩こりや腰痛のような職業病ならぬ存在病ではないか
という指摘が、心に響きましたので、気の向くままに想いを巡らせてみようと思います。
「ぼくらの厨ニ病は、どこから来て、どこに行くのか」みたいな話になるかもしれません。
漱石、三島、筒井 厨ニ病とは、「ダブルバインドとしての実存」である 厨ニ病者の聖典としてのエヴァンゲリオン 無限ループにインタラプトをかける、瞑想という技術 漱石、三島、筒井 wattoさんの元記事は、漱石、三島、筒井の代表的三部作(三島の場合、四部作)について、その結びに当たる作品においての「宗教性」と「虚構性」を論じた興味深いシリーズの一回目ですが、今日はその一回目を読んで考えたことを書きます。
「宗教性」と「虚構性」の話題については、荘子の「胡蝶の夢」(夢のなかで蝶になっていた荘子は、本当に人間なのか、今目が覚めて人間だと思っている荘子は、蝶が見ている夢にすぎないのではないか、という話)や、『この世の「現実」は神が戯れに見せているきらびやかなお芝居に過ぎない』というインドの世界観とのつながりから語るとおもしろいところですが、この記事ではこれ以上は言及しません。
今回の主題は実存の問題、人はなぜ生きるのか、という話です。
厨ニ病とは、「ダブルバインドとしての実存」である 筒井康隆は好んでフロイトの心理学をテーマとして取り上げました。
wattoさんは、筒井の七瀬三部作を素材に心理学的問題について思考を展開させて、ご自身の人生における「問題点」を、次のように図式化して示しています。
私は自分が優れていると考える。ゆえに私は劣っている。
↓ ↑
私は自分が劣っていると考える。ゆえに私は優れている。
定型化された「思考のパタン」が堂々巡りになってしまい、自分の行動を「評価」しようとすると、二律背反的全否定の連鎖に落ち入る状況です。
この「watto型」の定型は、論理的な帰結として「連鎖し無限ループになる」ところが特徴ですが、もう少し一般的な二律背反状況であるダブルバインドの場合も、
二つの選択肢のどちらを選んでも自己否定せざるを得ない という点において共通の「存在不安の構造」が見出されます。
ダブルバインドと呼ばれる状況は、たとえば次のようなものです。
親(あるいは力を持つ存在)が「掃除をしろ」などの命令をする。 掃除をしないと、なぐられる。 掃除をすると、掃除の仕方がなっていないとなぐられる。 子どものように無力な存在が、このように「どう振舞っても事態を改善できない」状況に置かれ続けると、精神に「異常」をきたすのだ、というのが、グレゴリー・ベイトソンが提示したダブル・バインドの理論です。
多くの人々は、ダブル・バインド的状況を経験しながらも、それが「弱い」ダブル・バインドであるため、そこからの「逃げ道」を見つけることができます。
親に掃除をしろと言われたら、家を飛び出して雲隠れする、といったやり方です。
*1
こうして、ダブル・バインドに逃げ道が見つかれば、人は「関係性」を「社会化」し、厨ニ病的な悩みを「解消」することに「成功」するわけです。
なんらかの重みを持つ悩みが「解消」しきれなかった場合、その人は大人になってからも「厨ニ病」を引きずり続けることになるのでしょう。
そして世間の人がからかい気味に扱う「厨ニ病」こそ、実存の問題に他なりません。
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厨ニ病者の聖典としてのエヴァンゲリオン 庵野秀明氏のアニメ「エヴァンゲリオン」は、母と息子の関係性をテーマにした実存的物語ですが、日本の文化環境においては、母と息子の関係性が問題になりやすく、それが実存の問題としての「厨ニ病」を作り出しているであろうことを想像すれば、「エヴァンゲリオン」の絶大な人気の理由にも納得がいきます。
(厨ニ病の素養がないあなたには、まったく納得のいかないところかもしれませんが....)
「エヴァ」における「厨ニ病」すなわち「存在の不安という病」への解答は、「人類補完計画」であり、
個を超越して、集合意識に達すること であると言ってかまわないでしょう。
この点は、フロイトと袂を分かったユングの精神分析や、派生した流れとしてのトランスパーソナル心理学の人間理解とも重なるところであり、またその源流としての、仏教的・インド哲学的世界観とも矛盾がなく、庵野氏らしい素晴らしい「解答」だと感じます。
(「エヴァ」においては、キリスト教的なイメージは使われているものの、宗教的なニュアンスはあまり感じられませんけれども)
ここで、「エヴァ」のテレビ・シリーズの最終回を思い起こせば、その「心理主義的描写」と「虚構性」は、wattoさんがもともとテーマとしている「宗教性」と「虚構性」につながるものと考えます。
ヴェオリア社の全国自治体の水道事業受託の状況を示す表です。
こんなに請け負っているとは驚きました。
窪田和夫さまの画像をお借りして、見やすいように編集の上、掲載しております。
(スマホで編集したため、一部画像が切れて見づらくなってしまい申しわけありません)
https://mobile.twitter.com/korotanobaka/status/1076339580142444544
インドのハリドワルという聖地に来ています。
たくさんの人が巡礼に訪れる有名な街ですが、外国の人はほとんどいません。
ガンジス川沿いの巡礼宿に泊まっており、毎夕七、八人のお坊さんが、ガンガーの神に祈りを捧げるのに立ち会うと心もすがすがしくなり、新たな英気が湧いてきます。
年の暮れに、そうやってのんびりと過ごせる幸せを噛みしめています。
[写真は宿のベランダから臨むガンガー]
みなさん、こんにちわ。
今日は、カメキチさんのこちらの記事、
・2017.12.13 業 - kame710のブログ
を読んで、「業」というものについて考えたことを書きます。
重さの違いはあっても、「業」は誰もが背負うもの、かな。 カルマを落とす人生哲学としての仏教 話は簡単、けど、実践は難しい。それが人生でしょうか。 重さの違いはあっても、「業」は誰もが背負うもの、かな。 カメキチさんは、こう書いてらっしゃいます。
「残酷」としか思えぬ事件の詳細を知ると、そう思ってはいけないと心で打ち消そうとしても、ごくごく…一部ではあっても「業」にとりつかれたような生き方をする人間が確かに存在する、と認めざるをえなくなる(どなたか、それはまちがっていると言ってください!)。
重い「業」にとり憑かれた人は、確かにいると思います。
でも、重さは違っても、みんなそれぞれに「業」を背負ってるんじゃないですかね。
「過去生のカルマ」というものがあるかどうかはともかくとして、生まれや育ちの中で、いろいろな影響を受けて、今のぼくたちの人生があるとき、その過去の影響が「業」というものではないでしょうか。
で、「業」という言葉は、「だから仕方のないもの」、みたいな「あきらめ」をともなって語られることが多い気がしますが、そこはちょっと違うんじゃないかと思うんですよね。
カルマを落とす人生哲学としての仏教 ぼくはここ数年、初期仏教のヴィパッサナー瞑想をやっているもので、仏教の世界観、人生観というものをぼちぼち勉強しているのですが、「業=カルマ」に当たるものとして、「サンカーラ≒反応」という言葉が使われます。
日々の暮らしの中で、いいことや悪いことが起きたとき、それに喜んだり、悲しんだりという「反応」をすることが、心の中に「サンカーラ」を溜め込み、それが人の心をもつれさせていく、といった考え方です。
「業」というものは、結局、今までの人生の中で無意識的に作り上げてしまった「反応の集積物」でしかないので、瞑想をすることによって、日々の暮らしの中で生じる一つひとつの「反応」が、やってきては、やがて消えていくのを、観察してやることによって、「サンカーラ」のもつれを心の中に溜め込むという悪いくせをなくしてやれば、いずれすべての「反応の集積物」である「業」というものも、きれいに洗い流すことができる、というのが、仏教的な悟りへと至る道のあらましなんですね。
話は簡単、けど、実践は難しい。それが人生でしょうか。 ぼくたちはつい、人の悪いところを見て、「あの政治家が悪いから」とか「どの政治家もろくでもない」とか、批判することで満足してしまうようなところがあります。
けれども、人のことを言うより前に、自分の行ないを直したほうがいいよ、というのが仏教的な人生観です。
そして、自分の心が落ち着いたものになれば、周りの人にもよい影響を与えられるって話なんです。
まあ、そうはいっても、長い人生の中で背負ってしまった「業」を、はい今日でみんな放り出しちゃいましょう、というわけにもいきませんので、ぼちぼち自分のあり方を見つめなおしていく以外に方法はありません。
まずはゆっくり深呼吸をして、体に入ってる余計な力を抜いてみるところから。
いつの間にか背負ってしまった重たい荷物を、日々少しずつ下ろしていくことができれば、ふと気がついたときには、身も心も軽々となって、毎日を気持よく暮らしている自分に気づくことになるかもしれませんよ。
こちらに瞑想についての記事も書いてますので、気が向いたらご覧ください。
・[medoninf.hatenablog.com/entry/2017/05/01/170457:title]
てなことでみなさん、ナマステジーっ♬
ネット上のみなさま、宇宙の果てよりこんにちわ。
この記事は、散漫な散歩道とでもいうべき、なんとなくの目印だけを頼りに、言葉のそぞろ歩きをつづったものです。
お時間のある方は、お付き合いください。
ある大学生の日常、そして、出発点は早稲田。 動物の森、ゲーム機、まだ見ぬ香港。 そして人間の心という無限の世界へ ある大学生の日常、そして、出発点は早稲田。 一つ目の目印は、こちらの反航路さんの記事です。
・矯正展講演とか、大学周辺のツマラナイことども。 - いのちばっかりさ
反航路さんの記事を読んでいると、そういえばぼくも、三十年ちょっと前は大学生だったよな、とかいうことを思い出します。
早稲田という街は、五回は行ったことがあると思うけど、たぶん十回は行ったことがない。
なんとなく知ってるけど、大して知らない街です。
若いころはSF小説をよく読んでいて、本もよく買っていたから、高田馬場までは、たまに本を買いに行ってたな。
ビッグボックスというところで古本市をときどきやってましてね。
早稲田の古書店街の店が主に集まって、古本がいっぱい並ぶんですよ。
今年の八月はひと月東京世田谷の実家にいて、たまたま通った渋谷の東急で古本市をやっていたので、久しぶりに本を二冊買いました。
・レイモンド・M・スマリヤン「タオは笑っている」
高田 渡「バーボン・ストリート・ブルース」
「タオは笑っている」はアメリカの数学者が書いた老荘関連のエッセイ。軽くて深くて好きな本です。ずいぶん昔の本だけど、昨年2016年に新装版が出てたのね。
「自衛隊に入ろう」という有名な歌がある高田渡のエッセイ集は、ちらっと読んだだけで実家に置き去りにしてあります。
一度だけ彼の生演奏を見たことがあります。ギター一本で何を歌ってたっけなぁ。「生活の柄」は歌ってたはず。
真鶴半島の公園のお祭りで、彼の演奏を聴きながら、うちの奥さんはぼくの隣で気持ちよさそうに昼寝してました。
演奏は早めにやって、お祭りの終わりに、もう一度高田さんが出てきたんだけど、途中で酔っ払って転んで、額から血を流してた。
噂通り、そういうタイプの人なんだなと思いました。
この世界にはいろんな種類の人がいて、それぞれになんらかの居場所を持って生きてるんですよね。
ぼくもなんだか分からないながらに、インドの片隅で日々を送ってます。
あー、それで、反航路さんの記事に出てくる「幸早稲田」というおにぎりやさんの名前が、どう読むのか気になっていたのですが、「しあわせだ」という洒落だったのね、と納得した、というのも一つ書いておきたかったことだったのです、はい。
動物の森、ゲーム機、まだ見ぬ香港。 二つ目の目印は、マミーさんのこちらの記事。
・任天堂「ポケ森」を始めて「とび森」を思い出す。 - こたつ猫の森
ぼくはゲームというものはほとんどしません。
高校生のころは、ゲームセンターでずいぶんやりましたけど。ミサイル・コマンドとかディフェンダーとか、変なゲームを好んでやってました。
任天堂のゲーム機は、ファミコンに触ったことがあるくらいかな。
でもなぜかソニーの PSP は 1000, 2000, 3000 と三台も持ってます。
プログラミン言語 C というやつを使った開発環境を PC 上に用意して、エディタとか、シーケンサーもどきとか作って遊んでたんだな。
PSP 1000 は赤外線の入出力があって、外付けのキーボードが使えたので、小気味良い編集作業ができました。
バグってて、たまに文章が消え失せたりしてましたけど(笑)。
3DS の「とびだせ どうぶつの森」というのは初めて知りましたが、ゲームを通して世界中の人がつながるというのは、おもしろいですよね。
そして、そこに経済や政治という現実世界がうっすら影を落とすということも。
今はぼくはアンドロイドのタブレットでこうして遊んでますが、スマホやタブレットが世界をつなぎ、経済や政治の一つの結節点として働いていることを考えると、昭和生まれのアナログかつアナクロの人間としては、なんとも不思議な未来で生きることになったものだと、感慨深いものがあります。
ちなみにぼくは香港は行ったことがありません。中国は上海から南のほう、チベットも行ったんですけど。
経済的にも大国となった中国の人たちとも、仲良くやっていきたいものですよねぇ。
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meduium.com で知り合った「鰯」さんのこの記事、
・明治150年? – 岩下 啓亮 – Medium
ちょっと興味深く思ったので、今回はその話。
ニッポンの総天然色全体主義について書こうと思ったのですが、まとまってません(笑)。
鰯さんの記事によると、内閣官房「明治150年」関連施策推進室からの貼付依頼で、「明治150年」のポスターがやってきて、何枚貼ったか実績を報告するように、と通達文書に記してあるんだそうで。
鰯さんは、
単純に戦前回帰とは言いたくありませんが、なんとも強圧的な周知徹底ぶりではありませんか。
と書くのですが、これって多分町内会とかのレベルで「貼りなさい」そして「どれだけ貼ったか報告しなさい」って話ですよね。
鰯さんは東京ぐらしの経験がある人だから、「これって変じゃない?」って思うわけだけど、地方の「因習的日本」しか知らない人だったら、たぶん、何も考えずに貼りだしちゃうんでしょうかね。
安倍総理に代表される今のニッポンが、明治以来の近代化を誇りたがる気持ちは、まあ、分かるのですが、それってちょっと間違えれば、
「戦前のニッポンは正しくて、戦後の民主主義は間違ってた」
みたいな話に簡単に捻じ曲げられちゃうとことだと思います。
「戦後の民主主義」に行き過ぎや間違いは、確かにあったでしょう。
でも、それと、
「戦後の民主主義は全部間違い、戦前に回帰するのが最高」
というのは、また別の話で。
今の日本の政治状況って、ものすごい「右旋回」をしているのに、多数派の人は、そういうことに無頓着なところで、なんだか分からないままに、「まー、そんなもんかなー」と日本的に流してる気がするんですよね。
でも、そういう状況に、「なんかちょっとおかしくない?」と思っている方々も、少数かもしれないけれど、若老女男問わずいらっしゃるはずで、まーぼくとしては、そういうみなさまに対して、
「それ、合ってます。今の状況はかなりおかしいです」
と、主観にもとづいて伝えるだけのことなんです。
「今の状況がほんとにおかしいかどうか」ってことは、
これは、後世の人が判断するしかないことですからね。
とまあ、そんな話で、いまいちまとまりがつきませんけれど、今の「この日本の状況」に何か感じてらっしゃるみなさんにつきましては、「うーーーむ」という「気」だけでもかまいませんので、気持ちをおさえずに周りにちゃんと発してもらって、この時代の大きな流れを、ちっとでも変える方向で、「行動」していただけたらなぁー、みたいに思うわけなのでした。
てなことで、この記事はおしまいです。
ではまた、ナマステジーっ♬
wired.jp にこんな記事が出ていたました。
・悲鳴にゾッとするのは「甲高いから」ではなかった──米研究結果で判明した「絶叫のメカニズム」|WIRED.jp
ここで取り上げられている研究は二年前のもので、どうして今これを記事にしたのか不思議なのですが、ちょっとおもしろい内容なので紹介します。
甲高くて大声なら悲鳴? 音量のばらつき、ラフネスが悲鳴を決める 悲鳴の「ラフネス」が恐怖の中枢「扁桃体」を乗っ取る 「扁桃体」の過度の乗っ取りにはご用心 甲高くて大声なら悲鳴? 音量のばらつき、ラフネスが悲鳴を決める ニューヨーク大学教授で、神経科学者のデヴィッド・ペッペル(David Poeppel) さんは、15年もの長きに渡って、「恐怖による叫び声」の研究を行なってきました。
彼は同僚と共に、インターネットを隅々まで検索し、悲鳴のデータを集め、また、実際に人々を研究所に招いて悲鳴を上げてもらう、といった方法も使って「悲鳴データベース」を作り上げました。
当初、「悲鳴」を特徴づけるのは、「大声であること」や「甲高いこと」ではないかと考えましたが、実際にこの「悲鳴データベース」を音声分析した結果、悲鳴の特徴は「音量」や「音の高さ」によるものではなく「粗さ=ラフネス roughness」によるものであることが分かりました。
ラフネスは、音の大きさの変動率を意味します。
つまり「ただ大きい」のではなく、「大きくなったり小さくなったりする」ことが、人の注意を引くためには必要だということです。
普通の会話では、音の変動率は一秒あたり 4 - 5 倍程度なのに、悲鳴の場合は 30 - 150 倍にも及ぶとのことです。
悲鳴の「ラフネス」が恐怖の中枢「扁桃体」を乗っ取る ちなみに、この「ラフネス」が関係するのは、人の発する「悲鳴」には限りません。
救急車のサイレンや、家庭内のアラームなどにも同じ特徴があり、それによって人の注意を引くという役割を果たしているのです。
そして、この研究で、たいへん興味深いところは、こうした「ラフネス」で特徴づけられる音が、人間の脳の中でも「恐れ」といった感情の処理に関わる「扁桃体」という部位を活性化させたという事実です。
(ラフネスが大きいほど、扁桃体の活性化の度合いも大きくなります)
「扁桃体」が活性化されることによって、「緊急事態」用のシステムのスイッチが入ると、動物の場合は「攻撃か逃避か」といった行動をとることが知られています。
人間は、普段は比較的「理性」的に行動していますが、「扁桃体」が活性化すると「感情」優位の行動になることから、これを「扁桃体」による「乗っ取り=ハイジャック」と言ったりもします。
この研究によって、「悲鳴」というものが、この「乗っ取り」に関わるスイッチの役割を果たしていることが、実験的に確かめられたわけです。
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「扁桃体」の過度の乗っ取りにはご用心 目覚ましのアラームが「扁桃体」を刺激してくれるおかげで、毎朝遅刻をせずに、学校や会社に行けるのは助かりますが、社会生活の中で無闇に「扁桃体」に乗っ取られ続けていては、落ち着いた行動が取れなくなってしまいます。
「悲鳴」のような特殊な音のパターンだけでなく、ちょっとした音でも気になって集中力がそこなわれるようなことって、ありますよね。
毎日よく寝て、週末にはゆっくり休んだり、気分転換をしたりして、生活が健康的に回っていればいいのですが、なんだか「妙に音が気になって集中できない」とか「テレビの音がやけに頭に突き刺さってくる」みたいなことが、もしもあったら、日頃のストレスが積もり積もって「扁桃体の乗っ取り」が恒常化しているおそれがあります。
そんなときは、しっかり休みを取るのが一番です。
無理をせず、自分を十分いたわってあげてください。