今日も極東の島国でお過ごしのみなさま、おはようさんです。
ヤポネシア列島ではまだまだ寒さが続くところでしょうが、そろそろ春の香りを届けてくれる独活(うど)なども出回り始めたようで、四季それぞれに山の幸海の幸豊かな秋津の国を思い出しつつ、北インド・ハリドワルで、道端の屋台のナンとカレーに舌鼓を打つ今日この頃です。
giveus さんの「思ったことを伝えるのよ - いのちばっかりさ」という記事に刺激され、今回は思いついたことを誰にともなく、電網虚空に放り投げてみようと思います。
違和感をこそ大切にしたい、だから俺は「サラダはうまい」と言うのだ 「人間関係の機微」の機微 「面倒」こそ我が人生の道連れ 違和感をこそ大切にしたい、だから俺は「サラダはうまい」と言うのだ 旦那は結婚そのものに意味を見出しているのに、私は旦那が結婚に意味を見出していることに意味を見出しているので、これでいいのだろうか、とは思うが・・・この違和感ってなんなんだろう。
giveus さんがこう書かれているのをみて、ぼくは大きな声で、
「それでいいのだ、バカボンのパパなのだ」
と踊りながら叫びたいと思ったのですが、その一方で、そうした場面で感じる「違和感」をこそ大切にしたらいいよね、ってのがこの節の主題だったりします。
まあ、ほとんどなんでも「人生投げやり」に通してきたようなぼくが、「大切に」なんて言葉を書いても説得力もへったくれもありゃしないのですが、後知恵で 振り返ってみると、そういう「違和感」の中にこそ、自分の人生にとって大切なものがあとから見つかったりするもんだよな、というような話ではあります。
その昔、作家の筒井康隆氏が「サラダというものはうまくもなんともない」という話を書いているのを、中学生か何かの時分に読んで、何かもやもやとした感じを受けたことを今でもよく覚えています。
筒井氏が言うのは、サラダの中身のレタスなどの野菜は、ろくに味などなく、ただ噛みごたえがあるだけで、ドレッシングの味で食っているのだから、そんなものがうまいはずがない、という話で、あながち間違っているとは言えないし、皮肉たっぷりで筒井氏らしい主張だなあとは思います。
けれども、こちらも大人になるにしたがい、いろいろと経験を積む中で、ぼく自身は筒井氏とはまったく違う考えを持つようになりました。
ひとつには、食べ物を食べるとき、食感というものの持つ役割です。
筒井氏は「食感しかないからサラダはうまくない」というのですが、「食感があるからこそサラダはうまい」のです。
しゃきっとしたレタス、ぱりっとしたキュウリ、とろりとするトマト、ありふれたサラダの素材のどれをとっても、ぼくにとってはその食感だけで十分に味わう価値があります。
もちろん氏はサラダの食感が好みではないのでしょうから、氏が「サラダの食感は特に好かんから、自分はサラダ自体を好かん」というのなら、なるほどごもっとも、というのみです。
もう一つは、そしてこちらこそが大きなポイントなのですが、レタスなどの菜っ葉も含め、野菜というものは、よい土でしっかり作られると実によい味わいを持つようになる、という事実です。
残念ながらぼくは「うまいレタス」を食べる僥倖には、この人生で巡りあっていませんが、「うまい小松菜」は一時期よく食べていたことがあります。
それは、一度目の結婚をした彼女のおとうさんが有機堆肥を使った素晴らしい菜園を趣味としていたからで、おとうさんが作った小松菜を食べることは、
小松菜のお浸しには「味がない」ので鰹節の味で食べる と思っていたぼくの目から、「鱗をごっそり落とす」のに十分な体験でした。
というわけで、筒井氏のような大作家の先生でも、人生経験の幅にはどうしても片寄りがあるわけですから、その文章を読んだ中学生が「違和感」を感じたときに、案外その「違和感」の中に、その中学生にとっての「真実」が隠されていたりもするものだ、というお話でありました、まる。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
「人間関係の機微」の機微 さて、前回の記事「結婚にまつわる二、三の心象風景 - *魂の次元*」にも書いたように、ぼくの一度目の結婚は、彼女がぼくに出していたはずの「あなたに合わせるのは、わたしかなりきついのよ」という「サイン」を見逃しまくったために、四年ほどで終わりを迎えてしまったのですが、世間ではそういう「サイン」を出したり読み取ったりすることを「人間関係の機微が分かる」という言葉で表すのかなあ、などと考えます。
日本における多数派の、普通に「共感能力」を持っている方々は、この「人間関係の機微」というものが、なんといいましょうか、いわば「常識的」な範囲で理解できるのでしょう、そうすると日常というものを、怒ったり泣いたりしながらも、破綻することなく送っていくことができるのだと思います。
ところが、千人に一人か、もう少し多いか知りませんが、この「共感能力」というものが、「欠如」とまではいかなくても、「大いに不足している」人間というものがいるもので、わたしも含め、こうした人々には、どうにも「人間関係の機微」というものがつかめません。
そうした「機微」を察してくれ、というような場面に出くわすと、
「そんなこと、言ってくれなきゃ分かんないよ」
みたいな思いがどうしても湧いてくるというものです。
もちろんこうした話は程度問題ですから、多くのみなさんが、似たような場面の経験をお持ちかとは思うのですが、共感能力「欠如」型の人間にとっては、人生のすべての場面が「そんなこと、言ってくれなきゃ分かんないよ」の連続だったりするわけですから、これはなかなか厳しい状況と言えましょう。
では、そんな共感能力「欠如」型の人間はどうすればいいのか、ということなのですが、もう「人間関係の機微」なんて分からなくていいから、一段上から、『「人間関係の機微」の機微』について考えようじゃないか、というのがここで提案したいことなのです。
giveus さんが「ある新卒 - いのちばっかりさ」という記事で、「みんなの結婚前の話が聞きたい」という意味のことを書いていましたので、今回は結婚と聞いて思い浮かぶあれこれをつれづれに書いてみようと思います。
「結婚のことはどう考えてるの?」と女友だちに聞かれたときのこと それでまず「結婚」という形式の話 カップルが一緒に暮らすということについて 付き合い始めて速攻で結婚するということについて 幸せは、自分で作るもの 「結婚のことはどう考えてるの?」と女友だちに聞かれたときのこと 今や五十すぎの「りっぱな」おじさんである私にも、恋に悩む二十代の青春時代がありました。
音楽や小説の趣味が合って、ときどき電話で話したり、まれに会って飲んだりする女の子がいたのですが、あるとき新宿のバーで飲んでいると、
「ながのくんって、結婚のことはどう考えてるの?」と聞かれました。
(ぼくの苗字は「ながの」です)
ぼくが「うーん、結婚ってのは制度にすぎないからねぇ」と答えると、
「ながのくんてば」とたしなめられて、その話はなんとなくうやむやに終わってしまいました。
結婚は社会的な制度にすぎない、ということについては、今もその通りに考えていますし、正直に思ったことを話しただけなのですが、彼女が話したかったこととはまったく関係のないことを話してしまったにも関わらず、その状況がうまくつかめなかった当時の自分を今思うと、冷や汗ものです。
それでまず「結婚」という形式の話 役所に届けを出して法律上の婚姻関係を結ぶ、ということは、風が吹けば飛んでしまう一枚の紙切れに石で重しをするようなことだと、ぼくは考えています。
つまり、女と男(に必ずしも限りませんが)がカップルとして、一つ屋根の下で暮らすということが、「結婚」と呼ばれるもののおおよそ本質であって、日本ではそのとき多くの人が役所に届けを出し、また、結婚式や披露宴などというものをすることで、その関係性を固めようとするのですが、人間の気持ちというものは、法律や儀式といった形式だけで固められるものではありませんから、それはあくまで「形式上」の「結婚」という話であって、その内実はまた別の話ということになります。
せっかく紙の上においた重しの石も、なにかのはずみで横にのけてしまえば、紙切れは風にあおられてどこかへ飛んでいってしまいます。
カップルの関係もそれと同じことで、形式だけでそれを保つことはできませんし、保てていても気持ちが通いあっていなければ、なんだかさみしいですよね。
形式とは関係なく、二人の関係性というものをきちんと作り上げていく努力があってこそ、幸せなカップルの暮らしが実現するというものではありませんか。
カップルが一緒に暮らすということについて さて、カップルが付き合うということと、一緒に暮らすということは、似ているようでいて、まったく別のことかもしれません。
カップルのそれぞれが、別々の家庭で育っているからには、日常の生活について大いに異なる「常識」を持っている可能性があります。
そうした違う「常識」同士が 24 時間相対峙するわけですから、お互いが相手に対して寛容な精神を持ち得ない場合には、たやすく「地獄」が出現しえます。
まあ、たいていの場合は「地獄」というほど深刻なものではなく、周りから見れば滑稽で、陳腐な痴話喧嘩といったものでしょうけれども、関係性が維持できなくなるほどに「激化」することも当然あり、ぼくも一度目の結婚関係は四年間で終わりを迎えることになりました。
ぼくの場合は、子どものいないままで、喧嘩別れしたというわけでもなく、そういう意味では「地獄」を見ることはありませんでした。
別れてからも数年は、電話で時々話すし、たまには会いもするという、珍しいほどに良好な関係のままだったのですが、ぼくの側に「共感能力」が欠如していたために、彼女がぼくに合わせるためにいかに苦労しているかを、これっぽっちも理解できていなかったことが、彼女との関係が崩れてしまった大きな原因なのだと、今では理解しています。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
付き合い始めて速攻で結婚するということについて ぼくの一度目の結婚は、25のときのことでした。出会ってすぐに付き合い始め、ひと月ほどで結婚しました。
そのこと自体には問題はなかったと思うのですが、彼女の気持ちを十分理解できないでいたために、四年ほどで離婚することになったのは先ほど書いたとおりです。
次の結婚は、35のときでした。このときも出会ってすぐに付き合い始め、やはりひと月ほどで結婚しました。
一度目に「速攻結婚」で失敗してるのに、二度目もかよ、と思われる向きもあるかとは思いますが、ぼくの中には別にためらいはありませんでした。
でも、やはり今の奥さんに対しても、一度目と似たような意味で、初めのうちはうまく気持ちを理解することができず、ずいぶん苦労をさせてしまったなあと、反省しています。
この結婚は、途中何度か危機的な時期もありましたが、幸い今は安定して、そろそろ20年を迎えようとしています。
はじめの彼女がぼくに対する不満を一切述べなかったのに対して、今の奥さんはぼくに対する不満をがんがん言ってきます。
こちらからすれば「そこまで言わなくても」と思うようなことも多々あるのですが、相手は言いたいことを言う、こちらはできる限りそれを聞く、そして、こちらも必要に応じて言い返す、というようなことを長年に渡って繰り返しているうちに、結婚二十年を目前にして、ようやくなんとか安定した関係になってきたなぁと、ほっと一息つくような状況です。
日本で寒い冬をお過ごしの皆さん、おはようさんです。
こちら、北インドの聖地ハリドワルは、もうだいぶ寒さもゆるんできていたのですが、今日は天気が悪く、ちょっと寒めの一日となりそうです。
そこで今日は、熱に満ちたしばらく昔の日を思い起こし、二年前に年中暑いタイ・ノンカイで作った自由律の句を六つお送りします。
てなわけでみなさん、ナマステジーっ。
- あかいありがそぞろあるく
だれかのたましいのせて
ひとりはだかで
はじているこのいのち
むねをはれ、ひとりあゆめ
はだしのいのち
ひろいうみで
ひとりおぼれるも自由
ははのちちをのむように
ビールをごくごくと
たそがれて、たそがれつくせば
あけのみょうじょう
以上、2016年2月16日、タイ・ノンカイにて
〈初出: https://note.mu/tosibuu/n/n2905788e24da〉
この記事の内容のいい加減な要約:
「ブログに文章を書く」ことをはじめとするすべての表現は、貨幣との交換が可能となった時点で、私小説的な「恥をひさぐ」行為となりかねない。
恥をひさいで悪い理由もないが、貨幣との交換を前提としながら「恥をひさがない」表現の可能性を模索するのも一興である。
シロクマさんは、はてな村の精神科のお医者さんだそうです。
シロクマさんのこちらの記事を見て思ったことなどを、今日はつづってみます。
・大の大人がブログを書き続けているんだぞ!わかっているのか! - シロクマの屑籠
シロクマさんの話の適当な要約 plagmaticjamさんの「ブログだけじゃなくインターネット自体に意味がない」論について まずはその無効性から 次にその議論の有意性とその優位性の超越 シロクマさんの話の適当な要約 シロクマさんは、書きます。
考えてもみろ、アラサー、アラフォーにもなる大の大人が、ブログを書き続けているってことを。そこには意図があり、欲求があり、目的があり、衝動がある。そういったもの抜きではブログなんて書きつづけられるわけがない。 マトモなキャリアを真っ直ぐに突き進んでいく人は、決してブログなんて書かない。私も含め、数年以上にわたって頻繁にブログを書き続ける人間は、どこかおかしいし、どこか憑りつかれている。 マトモじゃあない。ほかにすることはないのですか。だけど書かずにはいられないからブログが生き残っていく。それは、めでたいことかもしれないが、おめでたいことかもしれないのだ。
「カネのため、承認欲求のため、表現欲求や衝動の発散のため」人はブログを書きます。書くには書くなりの大人の事情があるわけです。
けれど、その理由がどんなものであれ、
大の大人が、少なくない時間とエネルギーをブログに投げかけている という点で、それは
尊いと同時に、アホらしい ことだというわけです。
シロクマさんは、他の人の書いている三つのブログを「からかい」つつ、応援しています。
それは、自分も同じ理由でからかわれることを承知した上でのことです。
「他者を否定し、その上で肯定すること」を通して、自分を否定し、その上で肯定する。
実に精神科のお医者さまらしい、二律背反の厨ニ病症候群ではありませんか(褒め言葉です、念のため)。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
plagmaticjamさんの「ブログだけじゃなくインターネット自体に意味がない」論について まずはその無効性から シロクマさんの記事が目に入ったのは、plagmaticjamさん(以下プラグマさんと呼ばせていただく)のこちらの記事のおかげでした。
・ネットとかブロガーについて - メロンダウト
プラグマさんの主張は、
ブログを続けることに意味なんてないし、インターネット上に言葉を投げる他のすべての行為も同様 ということになりましょう。
論理的には、「全くそのとおり!!」と思うのですが、これを敷衍すれば
人生自体になんの意味もない という当然至極なのにも関わらず、あまり人気のない見解に辿りついてしまいます。
とすると、「ネット上の表現は無意味だ」と主張することにもあまり意味はないようです。
そして「人生自体が無意味」であるからこそ、シロクマさんの「否定してから肯定」が心情論として、意味を持ってきます。
「生きることに誰かが与えてくれる意味などない。だがすべての生きるものに幸いあれ」
というわけです
次にその議論の有意性とその優位性の超越 とはいえ、もともとプラグマさんが述べているのはあくまで
インターネットは実人生に比べれば意味が薄い というようなことでしょうし、その地平においては、
「ネットで寝言を垂れ流してる暇があったら、少しは汗流して意味あることしろよ」
みたいな発言にも当然意味はあります。
ぼくたちはネット上においても「経験」を重ねることはできますが、それはあくまでも、デジタル端末が「再生」できる範囲での「経験」でしかありません。
あなたがどんなに情熱を込めて書いた文章でも、それがデジタル・メディアとして流布される以上は、あなたが誰かと向い合って同じ内容を語るときの「リアリティ」は、そこには存在しえません。
このことを考えれば、ネットという檻の中だけの体験で人生を完結させず、積極的に「実世界」を生きることには確かにプラスの意味がありましょう。
(以上、プラグマさんの議論の有意性)
しかしながら、「デジタル端末の再生の限界」にも関わらず、人間の精緻な頭脳は、「過剰な再生」を行なうことによって、完璧なまでの「脳内現実」を作り出すことができます。
そのようにして「実体験」に劣らない「経験」をすることは、簡単とは言えませんが、確かに可能なことなのです。
ソウル・フラワー・ユニオンの「満月の夕(ゆうべ)」は、ぼくにとって思い出深い歌です。
神戸の震災をモチーフに、やるせない思いを力強く歌い上げるその歌を、ぼくは友だちの弾き語りで知りました。
星が降る
満月が笑う
焼け跡を包むようにおどす風
解き放て
すべてを笑え
満月の夕(ゆうべ)
ソウル・フラワー・ユニオン「満月の夕」
─ ─ ─
1995年の3月末、知り合いに誘われてぼくは神戸に行き、公園のテント村に張られたティピーと呼ばれるアメリカ・インディアン式のテントに寝泊まりして、震災後の空気を吸いました。
神戸について駅から外に出たとき、朝の通勤の人々の列が日常の光景を繰り広げているのに、少し歩くと震災の爪あとはまだ生々しく、焼けてタイヤのなくなった車や、一階が崩れて二階が地面に接している木造家屋、そして、家をなくした人たちは、テントで生活をしているという光景の日常との対比に、今までに感じたことのない「非日常の現実」を感じたものです。
「満月の夕」を教えてくれた友だちとは、震災後しばらくして精神福祉の現場で出会いました。
彼に出会って、ぼくもギターを持って歌うようになりました。
人生というものは、今日と同じ明日が、永遠に続くような錯覚に落ち入りがちですが、実のところぼくたちは日々年老いていき、いつかはこの世を去る日が来ます。
今日の幸せは明日には崩れているかもしれないし、ある日突然が死が訪れないとも限りません。
それでもぼくたちは日々を生きていかざるをえません。
73年前の戦争や、23年前の神戸の地震、そして7年前、福島の原発を破壊し、たくさんの命を飲み込んだ東日本大震災、ぼくたちの「平和な日常」の影には、いつもそうした「非日常の現実」が隠れて存在しています。
そうした数々の「困難」を越えて、今のぼくたちの「平和な生活」があるのです。
ある意味しんどい、現実の冷酷な側面を忘れず、それに堂々と立ち向かっていくために、歌や音楽というものは、力を与えてくれるものだと思います。
山猫さんの記事
・23年前のあの夜、街灯りが消えた神戸を満月が見下ろしていました。 - 森の奥へ
を読んでそんなことを思っていたら、言葉が湧いて来ました。
みなさんの心に、何か伝わるものがあったら幸いです。
─ ─ ─ やおよろずのかみがみよ
ブッダよ、イエスよ、モハンマドよ
いまこそあの日の苦しみを
しずめたまい、はらいたまい、きよめたまえ
あおいそら、しろいくも
なみはしずかに、かぜそよぐ
やがてゆうひにそらそまる
まんげつがのぼり、よるがくる
うたおう、おどろう
いのりをささげよう
うたおう、おどろう
すべてのいのちのために
うたおう、おどろう
あしたのせかいのために
うたおう、おどろう
いのりをささげよう
うたおう、おどろう
いのりをささげよう
─ ─ ─ てなところで、この記事はおしまいです。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
この記事のひと言まとめ: ぼくたちの人生は「矛盾した欲求」という名のダブルマインドに満ちている。
この不可思議な人生を楽しく乗り切るために、ブレーキを踏みながら、アクセルを踏み込むという曲芸を身につけるのも一興である。
* * *
みなさん、おはこんばんわの、あけましておめでとうございます。
今日は、wattoさんの
・漱石、三島、筒井三部作/四部作の最終作に宗教臭が強いという共通点は「これは虚構だ」と示すため?(その1) - しいたげられたしいたけ
という少し前の記事の中の、
我々が存在に対して感じる「生きるのも嫌、死ぬのも嫌」というような不安は、根源的には我々の存在のしかた自体に起因するもの、あたかも人類が二足歩行するに伴って生じた肩こりや腰痛のような職業病ならぬ存在病ではないか
という指摘が、心に響きましたので、気の向くままに想いを巡らせてみようと思います。
「ぼくらの厨ニ病は、どこから来て、どこに行くのか」みたいな話になるかもしれません。
漱石、三島、筒井 厨ニ病とは、「ダブルバインドとしての実存」である 厨ニ病者の聖典としてのエヴァンゲリオン 無限ループにインタラプトをかける、瞑想という技術 漱石、三島、筒井 wattoさんの元記事は、漱石、三島、筒井の代表的三部作(三島の場合、四部作)について、その結びに当たる作品においての「宗教性」と「虚構性」を論じた興味深いシリーズの一回目ですが、今日はその一回目を読んで考えたことを書きます。
「宗教性」と「虚構性」の話題については、荘子の「胡蝶の夢」(夢のなかで蝶になっていた荘子は、本当に人間なのか、今目が覚めて人間だと思っている荘子は、蝶が見ている夢にすぎないのではないか、という話)や、『この世の「現実」は神が戯れに見せているきらびやかなお芝居に過ぎない』というインドの世界観とのつながりから語るとおもしろいところですが、この記事ではこれ以上は言及しません。
今回の主題は実存の問題、人はなぜ生きるのか、という話です。
厨ニ病とは、「ダブルバインドとしての実存」である 筒井康隆は好んでフロイトの心理学をテーマとして取り上げました。
wattoさんは、筒井の七瀬三部作を素材に心理学的問題について思考を展開させて、ご自身の人生における「問題点」を、次のように図式化して示しています。
私は自分が優れていると考える。ゆえに私は劣っている。
↓ ↑
私は自分が劣っていると考える。ゆえに私は優れている。
定型化された「思考のパタン」が堂々巡りになってしまい、自分の行動を「評価」しようとすると、二律背反的全否定の連鎖に落ち入る状況です。
この「watto型」の定型は、論理的な帰結として「連鎖し無限ループになる」ところが特徴ですが、もう少し一般的な二律背反状況であるダブルバインドの場合も、
二つの選択肢のどちらを選んでも自己否定せざるを得ない という点において共通の「存在不安の構造」が見出されます。
ダブルバインドと呼ばれる状況は、たとえば次のようなものです。
親(あるいは力を持つ存在)が「掃除をしろ」などの命令をする。 掃除をしないと、なぐられる。 掃除をすると、掃除の仕方がなっていないとなぐられる。 子どものように無力な存在が、このように「どう振舞っても事態を改善できない」状況に置かれ続けると、精神に「異常」をきたすのだ、というのが、グレゴリー・ベイトソンが提示したダブル・バインドの理論です。
多くの人々は、ダブル・バインド的状況を経験しながらも、それが「弱い」ダブル・バインドであるため、そこからの「逃げ道」を見つけることができます。
親に掃除をしろと言われたら、家を飛び出して雲隠れする、といったやり方です。
*1
こうして、ダブル・バインドに逃げ道が見つかれば、人は「関係性」を「社会化」し、厨ニ病的な悩みを「解消」することに「成功」するわけです。
なんらかの重みを持つ悩みが「解消」しきれなかった場合、その人は大人になってからも「厨ニ病」を引きずり続けることになるのでしょう。
そして世間の人がからかい気味に扱う「厨ニ病」こそ、実存の問題に他なりません。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
厨ニ病者の聖典としてのエヴァンゲリオン 庵野秀明氏のアニメ「エヴァンゲリオン」は、母と息子の関係性をテーマにした実存的物語ですが、日本の文化環境においては、母と息子の関係性が問題になりやすく、それが実存の問題としての「厨ニ病」を作り出しているであろうことを想像すれば、「エヴァンゲリオン」の絶大な人気の理由にも納得がいきます。
(厨ニ病の素養がないあなたには、まったく納得のいかないところかもしれませんが....)
「エヴァ」における「厨ニ病」すなわち「存在の不安という病」への解答は、「人類補完計画」であり、
個を超越して、集合意識に達すること であると言ってかまわないでしょう。
この点は、フロイトと袂を分かったユングの精神分析や、派生した流れとしてのトランスパーソナル心理学の人間理解とも重なるところであり、またその源流としての、仏教的・インド哲学的世界観とも矛盾がなく、庵野氏らしい素晴らしい「解答」だと感じます。
(「エヴァ」においては、キリスト教的なイメージは使われているものの、宗教的なニュアンスはあまり感じられませんけれども)
ここで、「エヴァ」のテレビ・シリーズの最終回を思い起こせば、その「心理主義的描写」と「虚構性」は、wattoさんがもともとテーマとしている「宗教性」と「虚構性」につながるものと考えます。
ヴェオリア社の全国自治体の水道事業受託の状況を示す表です。
こんなに請け負っているとは驚きました。
窪田和夫さまの画像をお借りして、見やすいように編集の上、掲載しております。
(スマホで編集したため、一部画像が切れて見づらくなってしまい申しわけありません)
https://mobile.twitter.com/korotanobaka/status/1076339580142444544

インドのハリドワルという聖地に来ています。
たくさんの人が巡礼に訪れる有名な街ですが、外国の人はほとんどいません。
ガンジス川沿いの巡礼宿に泊まっており、毎夕七、八人のお坊さんが、ガンガーの神に祈りを捧げるのに立ち会うと心もすがすがしくなり、新たな英気が湧いてきます。
年の暮れに、そうやってのんびりと過ごせる幸せを噛みしめています。
[写真は宿のベランダから臨むガンガー]
みなさん、こんにちわ。
今日は、カメキチさんのこちらの記事、
・2017.12.13 業 - kame710のブログ
を読んで、「業」というものについて考えたことを書きます。
重さの違いはあっても、「業」は誰もが背負うもの、かな。 カルマを落とす人生哲学としての仏教 話は簡単、けど、実践は難しい。それが人生でしょうか。 重さの違いはあっても、「業」は誰もが背負うもの、かな。 カメキチさんは、こう書いてらっしゃいます。
「残酷」としか思えぬ事件の詳細を知ると、そう思ってはいけないと心で打ち消そうとしても、ごくごく…一部ではあっても「業」にとりつかれたような生き方をする人間が確かに存在する、と認めざるをえなくなる(どなたか、それはまちがっていると言ってください!)。
重い「業」にとり憑かれた人は、確かにいると思います。
でも、重さは違っても、みんなそれぞれに「業」を背負ってるんじゃないですかね。
「過去生のカルマ」というものがあるかどうかはともかくとして、生まれや育ちの中で、いろいろな影響を受けて、今のぼくたちの人生があるとき、その過去の影響が「業」というものではないでしょうか。
で、「業」という言葉は、「だから仕方のないもの」、みたいな「あきらめ」をともなって語られることが多い気がしますが、そこはちょっと違うんじゃないかと思うんですよね。
カルマを落とす人生哲学としての仏教 ぼくはここ数年、初期仏教のヴィパッサナー瞑想をやっているもので、仏教の世界観、人生観というものをぼちぼち勉強しているのですが、「業=カルマ」に当たるものとして、「サンカーラ≒反応」という言葉が使われます。
日々の暮らしの中で、いいことや悪いことが起きたとき、それに喜んだり、悲しんだりという「反応」をすることが、心の中に「サンカーラ」を溜め込み、それが人の心をもつれさせていく、といった考え方です。
「業」というものは、結局、今までの人生の中で無意識的に作り上げてしまった「反応の集積物」でしかないので、瞑想をすることによって、日々の暮らしの中で生じる一つひとつの「反応」が、やってきては、やがて消えていくのを、観察してやることによって、「サンカーラ」のもつれを心の中に溜め込むという悪いくせをなくしてやれば、いずれすべての「反応の集積物」である「業」というものも、きれいに洗い流すことができる、というのが、仏教的な悟りへと至る道のあらましなんですね。
話は簡単、けど、実践は難しい。それが人生でしょうか。 ぼくたちはつい、人の悪いところを見て、「あの政治家が悪いから」とか「どの政治家もろくでもない」とか、批判することで満足してしまうようなところがあります。
けれども、人のことを言うより前に、自分の行ないを直したほうがいいよ、というのが仏教的な人生観です。
そして、自分の心が落ち着いたものになれば、周りの人にもよい影響を与えられるって話なんです。
まあ、そうはいっても、長い人生の中で背負ってしまった「業」を、はい今日でみんな放り出しちゃいましょう、というわけにもいきませんので、ぼちぼち自分のあり方を見つめなおしていく以外に方法はありません。
まずはゆっくり深呼吸をして、体に入ってる余計な力を抜いてみるところから。
いつの間にか背負ってしまった重たい荷物を、日々少しずつ下ろしていくことができれば、ふと気がついたときには、身も心も軽々となって、毎日を気持よく暮らしている自分に気づくことになるかもしれませんよ。
こちらに瞑想についての記事も書いてますので、気が向いたらご覧ください。
・[medoninf.hatenablog.com/entry/2017/05/01/170457:title]
てなことでみなさん、ナマステジーっ♬
ネット上のみなさま、宇宙の果てよりこんにちわ。
この記事は、散漫な散歩道とでもいうべき、なんとなくの目印だけを頼りに、言葉のそぞろ歩きをつづったものです。
お時間のある方は、お付き合いください。
ある大学生の日常、そして、出発点は早稲田。 動物の森、ゲーム機、まだ見ぬ香港。 そして人間の心という無限の世界へ ある大学生の日常、そして、出発点は早稲田。 一つ目の目印は、こちらの反航路さんの記事です。
・矯正展講演とか、大学周辺のツマラナイことども。 - いのちばっかりさ
反航路さんの記事を読んでいると、そういえばぼくも、三十年ちょっと前は大学生だったよな、とかいうことを思い出します。
早稲田という街は、五回は行ったことがあると思うけど、たぶん十回は行ったことがない。
なんとなく知ってるけど、大して知らない街です。
若いころはSF小説をよく読んでいて、本もよく買っていたから、高田馬場までは、たまに本を買いに行ってたな。
ビッグボックスというところで古本市をときどきやってましてね。
早稲田の古書店街の店が主に集まって、古本がいっぱい並ぶんですよ。
今年の八月はひと月東京世田谷の実家にいて、たまたま通った渋谷の東急で古本市をやっていたので、久しぶりに本を二冊買いました。
・レイモンド・M・スマリヤン「タオは笑っている」
高田 渡「バーボン・ストリート・ブルース」
「タオは笑っている」はアメリカの数学者が書いた老荘関連のエッセイ。軽くて深くて好きな本です。ずいぶん昔の本だけど、昨年2016年に新装版が出てたのね。
「自衛隊に入ろう」という有名な歌がある高田渡のエッセイ集は、ちらっと読んだだけで実家に置き去りにしてあります。
一度だけ彼の生演奏を見たことがあります。ギター一本で何を歌ってたっけなぁ。「生活の柄」は歌ってたはず。
真鶴半島の公園のお祭りで、彼の演奏を聴きながら、うちの奥さんはぼくの隣で気持ちよさそうに昼寝してました。
演奏は早めにやって、お祭りの終わりに、もう一度高田さんが出てきたんだけど、途中で酔っ払って転んで、額から血を流してた。
噂通り、そういうタイプの人なんだなと思いました。
この世界にはいろんな種類の人がいて、それぞれになんらかの居場所を持って生きてるんですよね。
ぼくもなんだか分からないながらに、インドの片隅で日々を送ってます。
あー、それで、反航路さんの記事に出てくる「幸早稲田」というおにぎりやさんの名前が、どう読むのか気になっていたのですが、「しあわせだ」という洒落だったのね、と納得した、というのも一つ書いておきたかったことだったのです、はい。
動物の森、ゲーム機、まだ見ぬ香港。 二つ目の目印は、マミーさんのこちらの記事。
・任天堂「ポケ森」を始めて「とび森」を思い出す。 - こたつ猫の森
ぼくはゲームというものはほとんどしません。
高校生のころは、ゲームセンターでずいぶんやりましたけど。ミサイル・コマンドとかディフェンダーとか、変なゲームを好んでやってました。
任天堂のゲーム機は、ファミコンに触ったことがあるくらいかな。
でもなぜかソニーの PSP は 1000, 2000, 3000 と三台も持ってます。
プログラミン言語 C というやつを使った開発環境を PC 上に用意して、エディタとか、シーケンサーもどきとか作って遊んでたんだな。
PSP 1000 は赤外線の入出力があって、外付けのキーボードが使えたので、小気味良い編集作業ができました。
バグってて、たまに文章が消え失せたりしてましたけど(笑)。
3DS の「とびだせ どうぶつの森」というのは初めて知りましたが、ゲームを通して世界中の人がつながるというのは、おもしろいですよね。
そして、そこに経済や政治という現実世界がうっすら影を落とすということも。
今はぼくはアンドロイドのタブレットでこうして遊んでますが、スマホやタブレットが世界をつなぎ、経済や政治の一つの結節点として働いていることを考えると、昭和生まれのアナログかつアナクロの人間としては、なんとも不思議な未来で生きることになったものだと、感慨深いものがあります。
ちなみにぼくは香港は行ったことがありません。中国は上海から南のほう、チベットも行ったんですけど。
経済的にも大国となった中国の人たちとも、仲良くやっていきたいものですよねぇ。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─