はてな匿名ダイアリーの ・人生何者にもなれなかった、けど という記事がとてもよい文章だったので、今回はそれにまつわる話です。 ナニモノくんの嘆きと悟りと可能性 世間の目と自分の目 - 何者にもなれないことを反芻する - fujiponさんの場合 主観的なニーズの変形と、「何者かになった」のに「何者にもなれなかった」人だっているという現実 - シロクマ先生の分析 ナニモノくんの嘆きと悟りと可能性 件のダイアリーの書き手をナニモノくんと呼ぶことにしましょう。 ナニモノくんはもうじき大学を卒業して就職します。 このダイアリーは、何者かになりたいとあがいてきたそんな彼が、もう何者にもなれないことを自分に納得させようとして書いた、ひとりボケつっこみなストーリーです。 ナニモノくんはこの記事の追記で、「こんなクソみたいな文章」と自己卑下して見せるのですが、何をおっしゃる兎さん、彼の文章はかなり読ませる技巧派のものです。 本人が言うとおり、「書いてる事しっちゃかめっちゃか」な文章ですので、メジャー受けするものとは言えませんが、もうひと捻り、ふた捻りすれば、メタフィクションとして成立する可能性のある、二人称と一人称が入り混じり、いい塩梅にねじくれた文章と言えましょう。 熱情と嘆きの間を往還し、最後には悟りの片鱗すら見せるダイナミックなバランス感覚には、将来花開くかもしれない原石の魅力があります。 さてその内容ですが、ナニモノくんは、周りの友だちと比べて、自分を否定します。 周りの友だちは、ちょっと努力するとどんどん上達していくのに、自分は自分なりに頑張っているのに、ちっとも上達しない、才能がないんだ、と。 でもナニモノくんは、ないものねだりをしてるだけなんですよね。 周りの友だちは多分、時流に合わせることができる標準的な才能がある人たちだったんでしょう。 そういう人たちの多くは、やっぱり何者にもなれずに、普通の大人になっていきます。 ナニモノくんは、それなりの才能は持っているのに、他の人の目でしか自分を測ることができないから、自分の良さが全然わかってないんです。 あなたには十分な才能があります。 マイナー道半世紀のぼくが保証します。 ぼくが保証したからといって、きみが何者かになれるわけではないけれど、きみがあきらめずに「表現」を続けるならば、何者かになれる可能性は、きみの人生が続く限り、いつだってあり続けるんです。 とはいえ、何者かになろうと思って「表現」をするのは、もういい加減やめたほうがいい時期に、ナニモノくんは差し掛かっているのでしょう。 何者かになれた人たちのうち、少数ではありますが、何者かになろうとしたわけではなく、好きなことをしているうちに自然に何者かになった幸福な人たちもいます。 ナニモノくんが目指すべきなのは、そうした「幸福な少数者」です。 でも、こんなことはぼくが言うまでもないことですね。 ナニモノくんは、とりあえず「善く生きる」ことこそが大事なんだと、ちゃんと分かっているんですから。 ナニモノくんは、生きている限り「表現」を続けることでしょう。 「善く生きる」こと自体が「表現」であり、すべての人間にとって、自分の人生こそが最大の「作品」です。 この世に生まれ落ちて、山あり谷ありの一生を送る。そうやってでき上がった「人生という名の作品」を残していく我々すべてが、人の目にどう映ろうと、確かに「何者か」として生きたことになるのだと思います。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 世間の目と自分の目 - 何者にもなれないことを反芻する - fujiponさんの場合 fujiponさんが

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ネット有名人のはあちゅうさんが、 「手っ取り早くSNSで有名になりたかったら猫か犬を飼うとよいらしい」 (https://twitter.com/ha_chu/status/964297202070794240) とツイートしたことに対し、ペット遺棄の問題を重視する動物愛護派の人たちからの抗議が殺到し、炎上事件が発生したことについては、 ・はあちゅうさんの「動物最強!」発言の炎上について、共感能力の視点から考察してみました - *魂の次元* ですでに書きました。 そのはあちゅう氏の発言の問題点について、女優のはるかぜちゃんこと春名風花氏が、次のような指摘をしています。 SNS のためにペットを飼い、それに飽きたら捨てるような人は現実にいる。 それを助長するような発言はネット上でしないほうがいい。 はあちゅう氏は大きな影響力を持つインフルエンサーなのだから、どうかそうした点に注意をしてほしい。 さて、こうした意見に対するはあちゅう氏の応答は、どんなものだったでしょうか。 また、はるかぜちゃんの想いは、はあちゅうさんに届いたのでしょうか? 少し詳しく見てみることにしましょう。 はあちゅうさんは「事実」で、はるかぜんちゃんは「連想ゲーム」? はあちゅう氏は、こうツイートしています。 事実を書くだけで「そういうことを推奨するのは間違ってます」ってつっかかってくる人って日本語がもはや通じてないんだよなぁ。田端さんも三浦瑠璃さんの炎上時に、ネットの連想ゲームクレーマーについて書いてたけど、勝手に頭の中で情報書き換える人に相手してらんない。 https://twitter.com/ha_chu/status/965044603102535680 このツイートは、はるかぜちゃんに向けられたものではありませんので、はるかぜちゃんの発言に沿って言い換えれば、 「事実を書いているだけなのだから、連想ゲーム的にペット遺棄問題の話をされても困る」 ということになるでしょう。 ここで問題になるのは、はあちゅう氏の発言は残念なことに「事実」を述べたものとは言えない点です。 彼女は、 「猫か犬を飼って『手っ取り早く』SNSで有名になった人」 を実際にご存知なのでしょうか? おそらくご存じないでしょう。 猫や犬を飼うだけで「手っ取り早く有名になれるわけがない」ことを、はあちゅう氏ほどの人物が知らないわけがありません。 もちろん、犬や猫を「使って」 (1) ある程度のPVを稼ぐことはできるでしょう。 しかし、それと (2) 手っ取り早く有名になる のは、まったく別の話です。 はあちゅう氏こそが、「(1) の事実」を「(2) の都市伝説」に拡大して、連想ゲームをしていらっしゃるのではないでしょうか? はあちゅう氏は、マーケティングに詳しいのが売りの作家さんなのであれば、世間話レベルでの、単なる「伝説」や「噂話」でしかないものを、「事実」として伝えるという誤報をしてしまったのですから、責任は重大です。 誤報を流したことを謝罪すると同時に、 ペットを使うことで、PVを稼ぐことは可能だが、それによって手っ取り早く有名になることはできない という事実を、きちんとツイートするのが筋というものではないでしょうか? はるかぜちゃんは、はあちゅうさんの情報発信につっかかる「当たり屋」なのか はあちゅう氏は、こう書きます。 みんな結局、社会を変えたくて誰かに意見しているのではなく、人を叩くのが楽しいから叩いているだけ。まぁ、「発信」もじわっと社会を動かすことの一つではあると思うんだけど、相手の言い分も見ずにいきなり汚い言葉で攻撃してくる人って当たり屋でしかないと思うのよ。炎上の半分は当たり屋の仕業。 https://twitter.com/ha_chu/status/965063521942749185 はあちゅう信者のみなさんには、この言葉だけで、120% の説得力があることでしょう。 「自分の発言最高。それに意見するやつはみんな『当たり屋』」 ってわけですから。 この「無敵の自信」こそが彼女の魅力でしょうから、今回の炎上事件でも、ファンのみなさんは、 「はあちゅうさん、最強♡」 と拍手喝采していることは、間違いありません。 しかし、はるかぜちゃんの発言が「当たり屋」的なものでないことは、常識のある皆さんには明らかなことでしょう。 むしろ、はるかぜちゃんの真っ当な意見に対して、はあちゅうさんの発言にあおられたかのように、「当たり屋」さんたちがからんでいるのが現実です。 はあちゅう氏の発言戦略の巧みさに比べると、はるかぜちゃんの発言は残念ながら愚直すぎるようです。 エネルギーあふれるはるかぜちゃんも、今回のような流れで「当たり屋」系の方々とやりとりをすることには、かなり消耗してらっしゃる様子です。 とすれば、ツイッター上で意見を述べてくる人間のほとんどが、 建設的な議論がしたいのではなく、相手をやっつけたいだけ でしかない事実を十分に見きわめた上で、「当たり屋」さんたちについては、さらりと流すような対応をなさったらいいのではないかなーと、老婆心ながら一言提案させていただきます。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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人生には苦しい場面というものもつきもので、そういうときは少し頑張って「なんとかしなくちゃ」という気持ちが大切になりもします。 でも、もしあなたが毎日のように 「なんとかしなくちゃ」 と思っているとしたら、それって結構しんどいですよね。 それほどのことはないあなたの場合でも、何か「事件」が起きたときに、 「どうしよう、なんとかしなくちゃ」 と思って、あせってしまい、かえって問題をこじらせた、なんて経験はないでしょうか? というわけでこの記事では、「なんとかしなくちゃ」と思ったときの究極の対処法をお伝えします。 「なんとかしなくちゃ」と思ったとき、まずするべき唯一のこととは? どうして「なんとかしなくてもいい」と考えるのか 「なんとかしなくてもいい」って言われても...... 「なんとかしなくちゃ」と思ったときには、ついでに体のリラックスも心がける 「なんとかしなくちゃ」と思ったとき、まずするべき唯一のこととは? 何か困ったことが起きて、「なんとかしなくちゃ」と思ったとき、 「なんとかしなくてもいいんだ」 ということを、必ず思い出すようにしてみてください。 これを実践するだけで、あなたの人生はぐっと楽になります。 「そんなアホな!」と思うかもしれませんが、ぼく自身の経験からいって、これはまぎれもない事実です。 どうして、そんなことが言えるのか、もう少しくわしく見てみましょう。 どうして「なんとかしなくてもいい」と考えるのか これは簡単な話で、「なんとかしなくちゃ」と思えば思うほど、人間はあせって失敗しやすくなるからです。 「なんとかしなくちゃ」と思っているあなたは、あせって失敗しやすい状態にあるのですから、「なんとかしなくてもいいんだ」と思い直すことで、あせりを静め、落ち着きを取り戻すことが、まず最初にやるべきことなのです。 そうは言っても「なんとかしなくてもいい」なんて無責任な考え方で大丈夫なのか、と思われるかもしれませんが、こう考えることは決して責任を放棄することではありません。 あせった状態で何かをして、問題をこじらせてしまったら、かえって周りに迷惑をかけることになります。 じりじりするほど何かやって挽回したい場面だったとしても、 余計なことをして問題をこじらせるくらいよりは、何もしないほうがいい という場合もあります。 ですから、「なにかしなくてもいいんだ」と考えてしっかり気持ちを落ち着けてから、何をするべきか、あるいは何もしないほうがいいのか、を冷静に考えることが大事になるのです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 「なんとかしなくてもいい」って言われても...... 「なんとかしなくちゃ」と思うような問題が起こっているのに、 「なんとかしなくてもいい」 と言われても、そんな風には思えない、とあなたは考えるでしょうか? 確かに、そう言われたからといって、すぐにそう思うのは難しいでしょう。 人間というのは習慣の生き物ですから、感じること、考えること、そして行動すること、どれもがほとんど今までの人生の経験によって決まっています。 ついつい「なんとかしなくちゃ」と思ってしまうあなたが、「なんとかしなくていい」と言われても、すぐにそうは思えないのは当たり前のことです。 だからこそ、 「なんとかしなくちゃ」と思ったら、「なんとかしなくてもいい」と思い直す 練習が必要になります。 練習といっても、「あ、また『なんとかしなくちゃ』と思ってるな」と気がついたときに「なんとかしなくてもいいんだ」と思い直すだけのことですから、特別な準備は必要ありません。 けれども、こういうことはすぐ忘れてしまいがちなことですので、もしあなたが 「このアイディアはいけそうだ」 と思ったら、今すぐ目につくところに

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みなさん、おはこんばんわ、とし兵衛です。 ネット芸能人のはあちゅう氏こと、伊藤春香氏をご存知でしょうか。 彼女は電通勤務の経験があるセルフブランディングに長けた作家であり、ツイッターのフォロワー数は 17万8千人に達するというネット界の有名人です。 そのはあちゅう氏が、先日ツイートで「SNSで有名になるためには猫か犬を飼うとよいらしい」と発言したことが原因で、炎上事件を発生させることになってしまいました。 発言のどこが問題だったのかについてはあとで改めて触れますが、このツイートが 「今の時代、こんなふうにすれば、ネット上で有名になれますよ」 といった内容の一連のツイートにおまけ的につけられたものだったため、はあちゅう氏は、 自分は事実を述べただけであり、言ってもいないことで批判されているのだからコメントはしない、また、 一連の発言を読まずに一部だけ切り取って批判することはおかしい、 という内容のツイートをしていらっしゃいます。 さて、はあちゅう氏の発言は本当に問題なかったのかどうか、少し詳しく見ることにしましょう。 動物をモノ扱いすることの問題 動物愛護派の感情的過激さの問題 共感能力が「高すぎる」動物愛護派と、どちらかと言えば「低め」のはあちゅう氏 あなたの共感能力、どのくらいありますか? 最後にもう一度はあちゅう氏の発言の問題点を考えます はあちゅう氏がこの一件で学んだはずのこと おまけ、はあちゅう氏の一連の発言を引用しておきます 動物をモノ扱いすることの問題 問題のツイートは、こういう内容でした。 余談だけど、手っ取り早くSNSで有名になりたかったら猫か犬を飼うとよいらしい。動物コンテンツは必ずPVが取れ、炎上しづらく、個性も出やすく、自分がネタを作らなくても動物が勝手にネタを作ってくれる。インスタもご飯×犬とか、子供×猫とかにするとご飯だけ、子供だけの人と差別化できる。動物最強 https://twitter.com/ha_chu/status/964297202070794240 これに対し動物愛護の立場から、 動物をPVを稼ぐための単なる手段として、物のように扱う発言はおかしい、 日本の殺処分の多さなどを勉強してほしい 自分の影響力を考えた慎重な発言を望む といった意見が、寄せられており、これらの意見は氏の「問題」ツイートに対するレスポンスとして、現在も読むことができます。 この範囲で考えると、動物愛護という社会的問題についての認識不足の点において、はあちゅう氏の発言は軽率なものだったと言えるでしょう。 動物愛護派の感情的過激さの問題 一方、当初反応として寄せられたツイートには、「問題ツイートを削除せよ」とか「お前はおかしい」といった、過激な言葉が書き連ねられていました。 動物愛護の視点から、はあちゅう氏に一考を求めるという以上に、 自分は正しく、お前は間違っているのだから、謝れ といった感情的な発言が殺到していたのです。 SNSの性質からいって、こういった感情的な発言が発生するのは避けられないところではありますが、動物愛護の視点を社会的に広めていくためには、こうした「過激」な発言は「逆効果」になりかねないことは改めていうまでもないことでしょう。 実際はあちゅう氏は、炎上時の「過激」発言に注目を集めることで、 「自分は過激なクレーマーからの被害者なのだ」 という主張をし、多くの読者を納得させているのです。 共感能力が「高すぎる」動物愛護派と、どちらかと言えば「低め」のはあちゅう氏 人それぞれが持つ「共感能力」のばらつきが、今回のような対立を起こす原因の一つとしてあげられます。 共感能力は、人が子どもを育て、また社会的に協力して生きているために不可欠なものですが、人によってその程度にはばらつきがあります。 動物愛護派の人たちには、共感能力がとても高い人が多く、弱者が苦しみを受けるような状況に過敏なまでに反応します。 すると、動物を苦しめるような発言をする人間は「敵」と考えてしまい、弱者を救うためには「敵」を攻撃しなければならない、といった気持ちに落ち入りがちです。 一方、はあちゅう氏は、問題の発言でのマーケティング思考にも見られるように、「動物や子どもをPV稼ぎの道具と考える」ようなことを全然問題と思っていないわけですから、「道具とされる」動物や子どもに対する共感能力は「低め」ということになります。 共感能力が低い人間には、殺処分される動物を思って「涙を流す」動物愛護派の人たちの気持ちは分かりませんから、 ただ事実を述べただけなのに、こんなに攻撃されるなんて、攻撃してくるほうがおかしい ということになってしまいます。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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学問としての哲学は、いろいろと込み入っていて、気軽には近づきがたい雰囲気があります。 でも、人生哲学みたいな使い方をするように、英語の philosophy は、人それぞれの「人生における考え方、生きる指針」くらいの意味だったりするんですよね。 てなところから、この記事では、giveus さんから話題をいただいて、気ままに哲学談義をしてみます。 哲学の現実の問題に対する応用と「変化する哲学」 「変化しない哲学」は古臭い哲学なのか? 「変化しない哲学」としての初期仏教 「無常の哲学」で軽々と世界観を切り替えるのもよし 哲学の現実の問題に対する応用と「変化する哲学」 giveus さんは、 ・哲学ってなん?(この記事は哲学よくわかんないに始まり、よくわかんないに終わります。) - いのちばっかりさ という記事で、自分にとっての哲学をこんな風に語ります。 哲学って原則というか、昔に誰かが考えたことや、今の人が考えて居ることをわかりつつ、でもそれを今言ってなんになるのか、何にもならんじゃん、残酷じゃん、という場面について自分なりに考えたり突っ込んだりすることなのかなって自然に思って居る つまり、これまでに考えられてきた原則的な考え方が、直面する現実に対して、 どのような意味を持ちうるのか、あるいは 意味を持ちえないとすれば、どう考えたらよいのか といった態度が、現代における哲学的な態度である、ということになりましょう。 応用的な場面において、あるいは、メディアで「哲学」が取り上げられ、「哲学は古臭い学問ではなく、現代に生きている学問なのだ」といったニュアンスで語られる哲学は、確かにそのようなものだと思います。 こうした場面場面で、考え、答えを探っていくような現代的な哲学のあり方を、ここでは「変化する哲学」と呼ぶことにしましょう。 「変化しない哲学」は古臭い哲学なのか? 「変化する哲学」に馴染んでいた giveus さんは、 「マルクス・アウレーニウスはストア哲学を知ると生涯その思想を守り、変えなかった」 というような記述を目にしたとき、よく意味が分からなかったそうです。 アウレーニウスは基本的な原則としてストア派の考えを採用しただけなのに、「生涯その思想で」というような言葉で表される、宗教などのような 「かっちり」存在するものとして哲学はありえるか と思ったのだと。 (以上、言葉は giveus さんのものではなく、ぼくの勝手な解釈が入り込んだ記述です) 哲学というものが、新しい現実を前に、時々刻々と変化していくものだとすれば、確かに「生涯ストア哲学」というような書き方はちょっとおかしなことになります。 けれども、もともとの「哲学」というものは、徐々に発展し形を変えていくとは言え、ある時点では世界観として確立したものであり、しかもそれは倫理的な側面も含むものなのですから、アウレーニウスがそうした「確立した哲学」としてストア派の考えを採用し、それに基づいて生涯を生きたというのは、こちらの見方からすれば、どこにもおかしなことはありません。 ある人が環境保護の考えを知り、生涯を環境保護主義の考えで生きたとしましょう。その人は、あるときは、地球温暖化を防ぐために原発を推進すべきと考え、のちに放射能汚染の問題から、再生可能エネルギーを推進すべきと考えるようになるかもしれません。 けれどもこの人が、環境保護主義者として一生を生きたことに違いはありません。 アウレニーウスがストア派の考え方を生涯通したというのも、同じようなこととして考えられます。 まして、アウレニーウスの時代には、ストア派の思想は完成されたものとして存在したのですから、世界観、倫理観をそのもとで過ごしたということは、giveus さんが奇しくもおっしゃる通り 「宗教」と同様に「かっちり」したものだった ということになります。 さてここで、ぼくが問題提起したいのは、ストア派のような「かっちりした哲学」、「変化しない哲学」は古臭いものであって、もはや意味をなさないものなのか、という話です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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前の記事、 ・「心のオッサン化を防ぐ最強の方法」それはずばり「若者をリスペクトする」ことでしょう! - *魂の次元* では、世のオッサンたちよ、若者をリスペクトして、良好な関係性を作り、いつまでも若々しくあろう! と、たいへん前向きの主張をした直後で恐縮ですが、今回はちょっと逆向きに、 ネットで何を書こうが自由なんだから、頑固親父が怒りの言葉を並べるブログがあったっていいじゃないか、 というようなお話です。 怒りと言っても個人攻撃じゃありません、世の中のミョーな仕組みへの怒りの話です 簡単に雪を溶かす装置はできないのか!? 怒りの表現もオーケーっていうけど、リスペクトの話とはどうつながるの? 怒りと言っても個人攻撃じゃありません、世の中のミョーな仕組みへの怒りの話です カメキチさんがこちらの記事、 ・2018.2.17 雪から思った二つのこと - kame710のブログ で、雪にまつわる「怒り」を二つ、つづっています。 ひとつは 1 月 11 日信越本線が雪で止まり、乗客多数が 15 時間に渡って車内に閉じ込められた事件です。 カメキチさんは、このニュースを知って、 「雪に怒りを向けようとしている自分に気づいて苦笑した」 とユーモラスに書いてらっしゃるのですが、八つ当たりで周りの人に怒りが向かうよりは、雪に向けて怒ったほうが断然いいですよね。 その後、三条市がマイクロバスの支援を申し出たのに、JR がそれを断ったことを知ったときには、「本気で怒りが湧いた」のだそうです。妊婦さんや病弱な人、お年寄りだけでも、優先して救助するべきだったのではないかと。 断った JR の判断をどう評価するかは、人それぞれでしょうが、こうした別の視点の提示は大切なものと思いますし、「怒り」を原動力にして社会的な発言をすることは、限度をわきまえている限り、まったくオーケーなものでしょう。 簡単に雪を溶かす装置はできないのか!? 大雪の被害は毎年のように繰り返され、今年は福井を中心に北陸地方が大きな被害にあっています。 カメキチさんの舌鋒は、日本の技術で、雪を簡単に溶かす装置はできないのか、というところに向かいます。 豪雪はめったにない。あっても日本海側だけ…。 カネを使って開発しても、経済的にワリに合わない、「費用対効果」がない、もうからないということなのでしょうか。 と最後はやや嘆き節ですが、カメキチさんの困っている人に対する目線は優しいものです。 残念ながら、熱を使った手軽な融雪装置というものは、莫大な熱量を必要とすることなどから、現状では豪雪時に使用しうる実用的なものは不可能なのでしょうが、なんらかの技術的革新があれば、そうした装置が実用化される可能性もありえます。 雪国育ちで、大雪の大変さを知った日本の若き技術者が、すばらしい装置を開発してくれるよう祈りたいではありませんか。 なお、現在の融雪方法については、wikipedia のこちらのページにひと通りの説明があります。 ・融雪 - Wikipedia ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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この記事のタイトルを読んで、 「なにっ、若者をリスペクトするだとっ!」 と思ったあなた、この記事はあなたのために書かれたようなものなので、どうかもう少し読み進めてみてほしい。 ヒデヨシさんの OSSAN NO OWARI 計画(仮称)が泣けた 世のオッサンたちよ、若者をリスペクトして、OSSAN NO OWARI 計画を補完せよ ヒデヨシさんの OSSAN NO OWARI 計画(仮称)が泣けた ヒデヨシさん(https://twitter.com/cook_hideyoshi)の記事、 ・心のオッサン化を防ぐためにはどうすればいいか真剣に悩み、そして解決策を考えた。 - 俺の遺言を聴いてほしい は、30代に入り「心のオッサン化」が進んでいるあなたなら、共感するところ多いものに違いない。 彼の言葉を引いてみよう。 心のオッサン化は無関心から始まる。 服に興味がなくなり、テレビの話題はわからず、若者が理解できない。 若者の文化に否定的になり、今どきのアプリにも音楽にも触れようとしない。 今の時代が全くわからなくなって、自分が若かった頃の思い出にしがみついて生きていく。 これが心のオッサン化である。 「今」が分からなくなり、「昔」の思い出にしがみつく。 ぼくくらいの50過ぎのジジイになれば、それもいいだろうが、30代に入り自分の「老い」に気づくのは、なかなかさみしいものだ。 そこでヒデヨシさんは三つの対策を考えた。 仮に OSSAN NO OWARI 計画と名づけよう。 毎週1曲、iTunesで音楽を購入する、という試み。ダウンロードランキングで上位の曲をランダムに購入し、一週間聴くことで、最新の音楽に精通する。 毎月1回は本屋に寄って、ファッション雑誌を購入するという試み。 そして、テレビの話題の収集。 どの対策もヒデヨシさんらしい、生真面目で、しかしどこかトボけた論考が添えられてあり、みなさんにも是非ご一読をおすすめするが、ここではテレビの話題に関して、もう少し紹介してみよう。 ネット全盛のこのご時世に、なぜ「テレビ」なのだろうか。 ご存知の方は少ないかもしれないが、ヒデヨシさんは、読者が 2,500 人近くもいるはてなブロガーであり、twitter のフォロワーは 33,000 人を超えるという大物ツイッタラーである。 そのヒデヨシさんが、裏垢大物ツイッタラーとしての自分の知名度を、渋谷で街行く人に該当直撃インタビューした記事がこちらである。 ・ツイッターのアルファアカウントが実際にどれくらい知名度があるか、街でアンケートを取って調べてみた。 - 俺の遺言を聴いてほしい これまた大変おもしろい記事なので、お時間のある方は是非ともご一読願いたいが、結論だけ述べると、 フォロワー数 3 万の匿名アカウントなんて、知名度ゼロに決まってるじゃん というあまりにも当たり前の事実である。 ヒデヨシさんは、こう語る。 リアルに生きる人達は、テレビで見るお笑い芸人のことは知っていても、フォロワー数万人のツイッターアカウントの存在は知らない。 というわけで、テレビの話題が重要になるのだ。 しかし、である。 哀しいかな、オッサンにはテレビを見る時間がない。 そこで策士ヒデヨシ(以下敬称略)は、考えを巡らせた。 「おれには確かに時間はない。だがおれは、フォロワー数 3 万を超すアルファツイッタラーだ。おれはツイッターによってテレビを制する。名づけてアルファ・カダブラの術!」 「テレビをじっくり研究する」時間が取れないヒデヨシは、 ツイッター検索の「話題」のところに出てきたテレビ番組のタグを使って検索し、 キャプチャやコメントを高速読破して知ったかぶりをする という高等戦術を編み出したのである。 果たしてヒデヨシは、このアルファ・カダブラの術で、情報の断片を拾い、実戦で通用するほどの知識を集めることができるのか?

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わっとさんがこちらの記事 ・小ネタ集。共通点は「プチ自慢」 - しいたげられたしいたけ で、英語の勉強の話をしていたのを読んで、今回はぼくも英語ネタでいってみます。 TOEIC 受けたことありますか? TOEIC の点が高ければ、ほんとうに英語が使えるのか? 「よく聴いて、よく喋る」、語学の上達はこれに限ります 教材の選び方とおすすめのテキスト TOEIC 受けたことありますか? 英語にはいろいろな検定試験がありますが、TOEIC はよく知られた国際的な検定試験です。 これは、一般的な生活に必要な英語のコミュニケーション能力を点数で示してくれます。 英語に関心のある日本のみなさんが、自分の英語能力はどんなもんだろう、と思って受けてみるにはちょうどよいものだと思います。 もう少し「高級」な TOEFL のように、「専門として英語を使ったり、英語圏の大学に行ったりする」というような高度な英語能力を判定するものではありませんし、また、英検のように合否で判定されるものではなく、「点数で表してくれる」ところが特徴なわけです。 わっとさんはこの TOEIC を 30 代のときに受けて 730 点だったそうで、日本の平均レベル (570-580点程度) からすると、これは立派なものです。 (ちなみに TOEIC の満点は、リスニング495点、リーディング495点で、合計 990 点です) なお、こちらのページ ・【2017年最新版】社会人のTOEICの平均点とは?TOEICスコアの点数別の割合 | EIGOHERO | 社会人・出世する為の英語勉強術 を見ると、「日系企業勤務の海外事業部所属の社会人の平均点が679点」ということですから 700 点を超えてれば、「国内的」には十分英語ができるといっていいようです。 ぼくは大学を出て会社に勤めたとき、費用会社持ちで受けさせてもらいましたが、655 点でした。 (リスニングとリーディングの内訳は不明) 学生時代に特別に英語を勉強したわけではないのですが、リーディングは受験英語でなんとか、また、ビートルズなどの曲を聴いて、歌詞を覚えて歌うようなことをしていたので、リスニングもまあまあできたかな、といったところでした。 で、その 655 点で、どのくらい英語ができるの?って話になるわけですが、「海外に旅行に行ってあまり不便がないくらい」と言えば、当たらずと言えど遠からずといったところでしょう。 ぼくは新卒で入った会社を二年も立たずにやめて、初めての海外旅行でネパールにひと月遊びに行ったのですが、海外旅行のこつが分からないので、いろいろと苦労はしましたが、言葉が分からなくて困ることはありませんでした。 自分の意識としてはロクに英語も喋れないと思っていましたので、旅先で会った日本語学校を経営しているネパールの人と英語で話しているとき、 「ワタシ英語ホトンド喋レマセン」 てなことを言ったのですが、すると相手は 「でもこうやって英語でちゃんと話してるじゃないか」 と言うので、そうか、日本人はすぐ「自分は英語が喋れない」とか言うけれど、カタコトでもなんでも、とにかく通じればいいんだな、と気づき、少しだけ英語を喋ることについての苦手意識が楽になった覚えがあります。 TOEIC の点が高ければ、ほんとうに英語が使えるのか? ところで、わっとさんは英会話スクールに通っていて、そこですすめられたネットでできる英語検定を受験してみたところ、TOEIC 換算で 895 点の結果が出たのだそうです。 この点数は実際の TOEIC のものではなく、あくまで換算された目安ではありますが、これまた立派な数字です。 日本の会社の国際部門で求められる数字が 750 点ということですので*1、数字上は「国際派」の太鼓判が押された、というところでしょう。 ところが、です。 わっとさん自身が書いていることですが、

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今日も極東の島国でお過ごしのみなさま、おはようさんです。 ヤポネシア列島ではまだまだ寒さが続くところでしょうが、そろそろ春の香りを届けてくれる独活(うど)なども出回り始めたようで、四季それぞれに山の幸海の幸豊かな秋津の国を思い出しつつ、北インド・ハリドワルで、道端の屋台のナンとカレーに舌鼓を打つ今日この頃です。 giveus さんの「思ったことを伝えるのよ - いのちばっかりさ」という記事に刺激され、今回は思いついたことを誰にともなく、電網虚空に放り投げてみようと思います。 違和感をこそ大切にしたい、だから俺は「サラダはうまい」と言うのだ 「人間関係の機微」の機微 「面倒」こそ我が人生の道連れ 違和感をこそ大切にしたい、だから俺は「サラダはうまい」と言うのだ 旦那は結婚そのものに意味を見出しているのに、私は旦那が結婚に意味を見出していることに意味を見出しているので、これでいいのだろうか、とは思うが・・・この違和感ってなんなんだろう。 giveus さんがこう書かれているのをみて、ぼくは大きな声で、 「それでいいのだ、バカボンのパパなのだ」 と踊りながら叫びたいと思ったのですが、その一方で、そうした場面で感じる「違和感」をこそ大切にしたらいいよね、ってのがこの節の主題だったりします。 まあ、ほとんどなんでも「人生投げやり」に通してきたようなぼくが、「大切に」なんて言葉を書いても説得力もへったくれもありゃしないのですが、後知恵で 振り返ってみると、そういう「違和感」の中にこそ、自分の人生にとって大切なものがあとから見つかったりするもんだよな、というような話ではあります。 その昔、作家の筒井康隆氏が「サラダというものはうまくもなんともない」という話を書いているのを、中学生か何かの時分に読んで、何かもやもやとした感じを受けたことを今でもよく覚えています。 筒井氏が言うのは、サラダの中身のレタスなどの野菜は、ろくに味などなく、ただ噛みごたえがあるだけで、ドレッシングの味で食っているのだから、そんなものがうまいはずがない、という話で、あながち間違っているとは言えないし、皮肉たっぷりで筒井氏らしい主張だなあとは思います。 けれども、こちらも大人になるにしたがい、いろいろと経験を積む中で、ぼく自身は筒井氏とはまったく違う考えを持つようになりました。 ひとつには、食べ物を食べるとき、食感というものの持つ役割です。 筒井氏は「食感しかないからサラダはうまくない」というのですが、「食感があるからこそサラダはうまい」のです。 しゃきっとしたレタス、ぱりっとしたキュウリ、とろりとするトマト、ありふれたサラダの素材のどれをとっても、ぼくにとってはその食感だけで十分に味わう価値があります。 もちろん氏はサラダの食感が好みではないのでしょうから、氏が「サラダの食感は特に好かんから、自分はサラダ自体を好かん」というのなら、なるほどごもっとも、というのみです。 もう一つは、そしてこちらこそが大きなポイントなのですが、レタスなどの菜っ葉も含め、野菜というものは、よい土でしっかり作られると実によい味わいを持つようになる、という事実です。 残念ながらぼくは「うまいレタス」を食べる僥倖には、この人生で巡りあっていませんが、「うまい小松菜」は一時期よく食べていたことがあります。 それは、一度目の結婚をした彼女のおとうさんが有機堆肥を使った素晴らしい菜園を趣味としていたからで、おとうさんが作った小松菜を食べることは、 小松菜のお浸しには「味がない」ので鰹節の味で食べる と思っていたぼくの目から、「鱗をごっそり落とす」のに十分な体験でした。 というわけで、筒井氏のような大作家の先生でも、人生経験の幅にはどうしても片寄りがあるわけですから、その文章を読んだ中学生が「違和感」を感じたときに、案外その「違和感」の中に、その中学生にとっての「真実」が隠されていたりもするものだ、というお話でありました、まる。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 「人間関係の機微」の機微 さて、前回の記事「結婚にまつわる二、三の心象風景 - *魂の次元*」にも書いたように、ぼくの一度目の結婚は、彼女がぼくに出していたはずの「あなたに合わせるのは、わたしかなりきついのよ」という「サイン」を見逃しまくったために、四年ほどで終わりを迎えてしまったのですが、世間ではそういう「サイン」を出したり読み取ったりすることを「人間関係の機微が分かる」という言葉で表すのかなあ、などと考えます。 日本における多数派の、普通に「共感能力」を持っている方々は、この「人間関係の機微」というものが、なんといいましょうか、いわば「常識的」な範囲で理解できるのでしょう、そうすると日常というものを、怒ったり泣いたりしながらも、破綻することなく送っていくことができるのだと思います。 ところが、千人に一人か、もう少し多いか知りませんが、この「共感能力」というものが、「欠如」とまではいかなくても、「大いに不足している」人間というものがいるもので、わたしも含め、こうした人々には、どうにも「人間関係の機微」というものがつかめません。 そうした「機微」を察してくれ、というような場面に出くわすと、 「そんなこと、言ってくれなきゃ分かんないよ」 みたいな思いがどうしても湧いてくるというものです。 もちろんこうした話は程度問題ですから、多くのみなさんが、似たような場面の経験をお持ちかとは思うのですが、共感能力「欠如」型の人間にとっては、人生のすべての場面が「そんなこと、言ってくれなきゃ分かんないよ」の連続だったりするわけですから、これはなかなか厳しい状況と言えましょう。 では、そんな共感能力「欠如」型の人間はどうすればいいのか、ということなのですが、もう「人間関係の機微」なんて分からなくていいから、一段上から、『「人間関係の機微」の機微』について考えようじゃないか、というのがここで提案したいことなのです。

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giveus さんが「ある新卒 - いのちばっかりさ」という記事で、「みんなの結婚前の話が聞きたい」という意味のことを書いていましたので、今回は結婚と聞いて思い浮かぶあれこれをつれづれに書いてみようと思います。 「結婚のことはどう考えてるの?」と女友だちに聞かれたときのこと それでまず「結婚」という形式の話 カップルが一緒に暮らすということについて 付き合い始めて速攻で結婚するということについて 幸せは、自分で作るもの 「結婚のことはどう考えてるの?」と女友だちに聞かれたときのこと 今や五十すぎの「りっぱな」おじさんである私にも、恋に悩む二十代の青春時代がありました。 音楽や小説の趣味が合って、ときどき電話で話したり、まれに会って飲んだりする女の子がいたのですが、あるとき新宿のバーで飲んでいると、 「ながのくんって、結婚のことはどう考えてるの?」と聞かれました。 (ぼくの苗字は「ながの」です) ぼくが「うーん、結婚ってのは制度にすぎないからねぇ」と答えると、 「ながのくんてば」とたしなめられて、その話はなんとなくうやむやに終わってしまいました。 結婚は社会的な制度にすぎない、ということについては、今もその通りに考えていますし、正直に思ったことを話しただけなのですが、彼女が話したかったこととはまったく関係のないことを話してしまったにも関わらず、その状況がうまくつかめなかった当時の自分を今思うと、冷や汗ものです。 それでまず「結婚」という形式の話 役所に届けを出して法律上の婚姻関係を結ぶ、ということは、風が吹けば飛んでしまう一枚の紙切れに石で重しをするようなことだと、ぼくは考えています。 つまり、女と男(に必ずしも限りませんが)がカップルとして、一つ屋根の下で暮らすということが、「結婚」と呼ばれるもののおおよそ本質であって、日本ではそのとき多くの人が役所に届けを出し、また、結婚式や披露宴などというものをすることで、その関係性を固めようとするのですが、人間の気持ちというものは、法律や儀式といった形式だけで固められるものではありませんから、それはあくまで「形式上」の「結婚」という話であって、その内実はまた別の話ということになります。 せっかく紙の上においた重しの石も、なにかのはずみで横にのけてしまえば、紙切れは風にあおられてどこかへ飛んでいってしまいます。 カップルの関係もそれと同じことで、形式だけでそれを保つことはできませんし、保てていても気持ちが通いあっていなければ、なんだかさみしいですよね。 形式とは関係なく、二人の関係性というものをきちんと作り上げていく努力があってこそ、幸せなカップルの暮らしが実現するというものではありませんか。 カップルが一緒に暮らすということについて さて、カップルが付き合うということと、一緒に暮らすということは、似ているようでいて、まったく別のことかもしれません。 カップルのそれぞれが、別々の家庭で育っているからには、日常の生活について大いに異なる「常識」を持っている可能性があります。 そうした違う「常識」同士が 24 時間相対峙するわけですから、お互いが相手に対して寛容な精神を持ち得ない場合には、たやすく「地獄」が出現しえます。 まあ、たいていの場合は「地獄」というほど深刻なものではなく、周りから見れば滑稽で、陳腐な痴話喧嘩といったものでしょうけれども、関係性が維持できなくなるほどに「激化」することも当然あり、ぼくも一度目の結婚関係は四年間で終わりを迎えることになりました。 ぼくの場合は、子どものいないままで、喧嘩別れしたというわけでもなく、そういう意味では「地獄」を見ることはありませんでした。 別れてからも数年は、電話で時々話すし、たまには会いもするという、珍しいほどに良好な関係のままだったのですが、ぼくの側に「共感能力」が欠如していたために、彼女がぼくに合わせるためにいかに苦労しているかを、これっぽっちも理解できていなかったことが、彼女との関係が崩れてしまった大きな原因なのだと、今では理解しています。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 付き合い始めて速攻で結婚するということについて ぼくの一度目の結婚は、25のときのことでした。出会ってすぐに付き合い始め、ひと月ほどで結婚しました。 そのこと自体には問題はなかったと思うのですが、彼女の気持ちを十分理解できないでいたために、四年ほどで離婚することになったのは先ほど書いたとおりです。 次の結婚は、35のときでした。このときも出会ってすぐに付き合い始め、やはりひと月ほどで結婚しました。 一度目に「速攻結婚」で失敗してるのに、二度目もかよ、と思われる向きもあるかとは思いますが、ぼくの中には別にためらいはありませんでした。 でも、やはり今の奥さんに対しても、一度目と似たような意味で、初めのうちはうまく気持ちを理解することができず、ずいぶん苦労をさせてしまったなあと、反省しています。 この結婚は、途中何度か危機的な時期もありましたが、幸い今は安定して、そろそろ20年を迎えようとしています。 はじめの彼女がぼくに対する不満を一切述べなかったのに対して、今の奥さんはぼくに対する不満をがんがん言ってきます。 こちらからすれば「そこまで言わなくても」と思うようなことも多々あるのですが、相手は言いたいことを言う、こちらはできる限りそれを聞く、そして、こちらも必要に応じて言い返す、というようなことを長年に渡って繰り返しているうちに、結婚二十年を目前にして、ようやくなんとか安定した関係になってきたなぁと、ほっと一息つくような状況です。

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

物好きな物書き

宇宙のど真ん中