ホメオパシーやEM菌などの代替医療について、それが非科学的であることを理由として批判する方々を、ネット上では時折り見かけます。
科学的な考え方の啓蒙という意味では、これらの「批判」にも社会的な意義はありえるのですが、多くのそうした「批判」は心理学的な意味での「否認」の域を出ないものであり、社会的には有効であるというよりも有害性の方が高いであろうことを以下簡単に述べます。
また、プラシーボ効果と自然治癒力についても一言書きます。
非科学的な「思考の枠組み」を「否定」することは社会の「健全性」を損なう みんなプラシーボ効果の凄さを知らないと思うから、意志と暗示による自然治癒力のこともからめて少し書いとくね 非科学的な「思考の枠組み」を「否定」することは社会の「健全性」を損なう 以前書いた記事、
・代替医療としての「ホメオパシーやEM菌の意義」と疑似科学「批判」の有害性について - *魂の次元*
について、しんざきさんという方が次のような記事を書いてくださいました。
・「ニセ科学批判は危険」と言っている人が勘違いしていること: 不倒城
おっしゃっているのは、
・ホメオパシーなどの「擬似科学的」医療について、「それを知らない、あるいは知っていてもその有効性について判断を保留している」人に対して、「それにはプラシーボ以上の効果はない」ことを提示することは必要かつ重要だ、
ということです。
この点については、しんざきさんのようなスタイルで、冷静にそうした「事実(と思っていること)」を伝える限り、大きな問題はないものと考えます。
しかしながら、実際の「批判」的な言説には、「疑似科学はけしからん」という感情的な主張が入り込むことが往々にしてあります。
そのとき、善意の「啓蒙」であるはずのものが、少数者を追い詰めるような「排外主義」の雰囲気をどうしてもまとってしまうことには、十分留意する必要があるのではないでしょうか?
その上、自分から記事を書いてそのような「啓蒙」をなさっている方たちとは違って、誰かが書いた記事にイナゴと見まごうばかりの勢いで集まっていらっしゃって、わざわざご丁寧にも「批判」してくださる皆々さまの場合、
自分の主張と異なる主張は見たくもない よって、言葉の暴力を使ってでもそうした言説を弾圧する という、ヒステリックと言いたくなるほどの「排外主義」にもとづいて行動していらっしゃるのではないかと、考えざるをえないほどの、強力な感情を露わにしての「批判」をなさっていらっしゃるのですから、
「こういうのってフロイトが言った否認ってやつの一種じゃないのかなー?」 といった疑問も浮かんでこようというものです。
こうした感情的な「批判」は、相手の誤りを正して導くという「啓蒙」的意見とは異なり、相手の人格を否定するだけの「攻撃」でしかないように思えます。
「攻撃」は社会に分断を生むだけであり、少数者が分断によって追い詰められればカルト化するだけだ、というのが前の記事で述べたことです。
これをもう少し一般化して言えば、
非科学的な「思考の枠組み」を感情レベルで「否定」することは、価値観の多様性にもとづく社会の「健全性」を損なうのではないか ということになります。
もちろん、以上述べたことは私見にすぎませんから、これとは異なる考えをお持ちの皆さまが、ネット上でどのようなご意見を、どのような感情と共に主張なさることも、すべて言論の自由というものでございます故、日本国の法律で制限されている「誹謗・中傷」のたぐいにならないようくれぐれもご注意の上、様々な修辞を書き連ねてわたくしめの記事を宣伝していただけるのならば、小心者ゆえ大変心労も多いとは言え、それこそ本望でありますので、どうかわたくしの弱い心などについてお気遣いなさらずに、叱咤激励いただければ幸いでございます。
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みんなプラシーボ効果の凄さを知らないと思うから、意志と暗示による自然治癒力のこともからめて少し書いとくね さて、前の記事に書いたプラシーボ効果と自然治癒力の関係については、
自然治癒力効果なんて研究は一言も書いていない。
研究では鎮痛効果と書いている。
https://abyss.hatenablog.jp/entry/2018/02/27/125921 というご指摘を白いケモノさんからいただきました。
確かに、言及した記事の大もとの記事である
・Placebos can work even when patients know the treatment is fake | Daily Mail Online
国民的アイドルグループTOKIOのベーシスト山口達也氏が、酒に酔って、未成年の女性知人を自宅に呼び、無理やりキスをした事件が世間を騒がせています。
山口氏は今年46歳。「いい大人が何をやってるんだ」というのが「常識」的な反応のようです。
この記事では、この事件についてあれこれ感想を書いてみたいと思います。
第一に被害者の方の安全、次に山口氏の「弱さの問題」と「病状の回復」を考えたい 芸能人が起こした「女と酒」の事件についてのいくつかの考察 サーカスとしての報道について 依存症について 山口氏には同情あるのみ 第一に被害者の方の安全、次に山口氏の「弱さの問題」と「病状の回復」を考えたい 今回の事件では、被害者の女性の方とは示談が成立しており、「強制わいせつ」事件として書類送検されたものの不起訴処分が決まっています。
ですから法律の枠組みとしては、すでに決着がついているわけです。
しかしながら、社会的には「はい、一件落着!」と言えるような状況には到底ないわけで、テレビやネットでは大騒ぎをしている人たちが目立つ状況です。
この事件は「強制わいせつ」ということで、未成年の女性が被害者となっていますが、この女性を特定しようという悪質な行動もネット上では取り沙汰されており、事件だけでも十分に心に大きな傷を追ったであろう被害者に、二次被害が出ることのないよう、心から祈るものです。
また、事件を起こしてしまった山口氏については、飲酒が原因で体調を崩してひと月入院していたにも関わらず、退院した当日に泥酔してこのような事件を引き起こしたことを考えれば、彼が「依存症」であることは明らかでしょう。
「依存症」は生まれと育ち、そして大人になってからの環境が複合して原因となるものであり、しかもそうした原因が「本人の弱さ」という見かけを通して「病気」として現れるものですから、そのとき「お前は弱いからダメなんだ」というような厳しい言葉を投げることは、回復につながりません。
「依存症」は、人間関係をうまく築くことができず、絶えず「孤独」を感じることから起こる病気です。ですから、この「孤独感」を乗り越え、周りとの信頼関係を育てていくことによってこそ、この「病気」は克服されえます。
山口氏は、今回の事件をいいきっかけとして、きちんと自分の「病状」と向き合い、回復を目指して十分な取り組みをしていただきたいところです。
また、周りの方々には、彼の「休養」を暖かく見守ってあげてほしいですし、もしも彼に復帰を急ぐ気持ちがあっても、周りはむしろそれを抑えることで、彼が十分「回復」できる環境を整えてあげてほしいものです。
山口氏は、大きなお金が動くビジネスに関わるスターとして、いろいろと取り沙汰されることを逃れられませんが、周りの雑音に心を惑わされてあせることなく、ゆっくり休養されたらいいなと思うのです。
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芸能人が起こした「女と酒」の事件についてのいくつかの考察 サーカスとしての報道について 「パンとサーカス」という言葉があります。
古代ローマの詩人ユウェナリスが、政治に関心を失った市民は「パンとサーカス」すなわち「食べ物と見世物」を求める、と言ったのですが、21世紀の報道はすっかり娯楽化して、政治や経済といった物事の本質から目をそらすための「サーカス=見世物」になってしまっているのではないでしょうか。
事務次官がセクハラをしたとか、大臣が「キャバクラ」ヨガに公用車で通っていたとか、それぞれに報道するに値する社会的意義があるかもしれませんが、テレビのワイドショーを見ていると、そうした「意義」を超えて、いわゆる「覗き趣味」であったり、誰かを叩いて「鬱憤を晴らす」といった、娯楽の役割ばかりが強調されているようで、しかも、それがまったく当たり前のことになっていることに、ある種の違和感を感じます。
スポンサーは視聴率を取れればいいのでしょうし、政治を支えて、経済を回す企業こそがスポンサーなのですから、こうした「見世物」によって大衆が政治から関心を失うのはまさに好都合というわけでしょう。
インターネットがどれだけ普及し、いかに多様化しようとも、「マスメディア」としてのテレビの地位は揺るぎないものと思われ、TOKIOのような国民的アイドルグループは、ニッポンの集合的意識を操作するためにまったく便利な道具になっているようです。
依存症について 山口氏の事件の報道を見ていて、一番感情を動かされたのは、「依存症に対する世間一般の理解のなさ」によるものでした。
ぼく自身がアルコール依存でクリニックにかかり、断酒薬を処方してもらった経験があるためもありますが、この問題について「だらしがない」とか「意志が弱い」とか、はたまた「酒が悪いのではなく、本人の意志の問題だ」というような言葉を聞いていると、どうしても怒りの感情が湧いてきてしまうのです。
ぼくはヴィパッサナー瞑想に出会うことによって、アルコールに振り回されることはなくなりましたが、「依存症」というものは、本人が「今度こそやめるぞ」と思ったからといってやめられるようなものではありません。
もちろん、本人に「やめよう」という気持ちがあることこそ出発点になるのですが、それを支える環境がない限りアルコールをやめることはできないのです。
(一部の例外はあると思いますが、それは本当に稀なケースに限るでしょう)
「酒を飲まずにはいられない」という、その「底なしの孤独」を知らない人が、
「自分はこうやって普通に酒と付き合えるんだから、お前だってできるはずだ、できないお前はダメ人間だ」 と烙印を押しても、問題は悪化するだけです。
「酒癖が悪い」ことは確かに問題でしょうが、「酒癖が悪い」ことを責め立てても、その問題の解決には役に立たないのです。
残念ながら、多くの「普通の方々」は、「底なしの孤独」なんてものは知りたくもないようですから、そういう方が何を言おうと、それはただ聞き流すしか仕方のないことです。
けれども、もしもあなたに、「依存症」を抱える方の友だちとして、その問題を解きほぐしていく手助けをしたいという気持ちがあるのでしたら、その「依存症」の方が、どんなに「ダメ」な人間だったとしても、許してやってほしいと思うのです。
ここで「許す」というのは、「酒に逃げるのを許す」ということではありません。
「酒に逃げてしまった弱いその人を許す」ということです。
そしてそれは、「前は酒に逃げざるを得なかったけれども、もう酒に頼らなくても大丈夫なその人を信じる」ということでもあります。
イタロ・カルヴィーノは、20世紀のイタリアの作家のうちでもっとも有名といっていいくらい各国に翻訳されている作家であり、日本語でもほとんどの作品を読むことができます。その作風は、作品ごとにさまざまで、初期の代表作『木のぼり男爵』は寓話風の物語、日本では早川書房から出版されている『レ・コスミコミケ』はSF的ほら話の連作短編、ポストモダンの教科書とも呼ばれる『冬の夜一人の旅人が』はその本を読んでいるあなたが主人公になるメタ・フィクションです。
あなたは「ミステリ」って一体どういう小説のことをいうと思いますか?
のっけから唐突な質問で恐縮です。
鯨統一郎の連作短編小説集「邪馬台国はどこですか?」に狂言回し役として登場する気鋭の歴史学者・早乙女静香なら、
「それに答えるには上下二巻の本を書く必要があるわ」
という答えが返ってくるところでしょうが、ここではクールで常識を超えた主人公・宮田六郎を真似て言うことにして、
「ミステリとは謎解き小説のことさ」
とでもしておきましょう。
なぜそんな話をしているのかというと、「邪馬台国はどこですか?」というとぼけたタイトルを持つこの短篇小説集は、創元推理文庫から出版されているにも関わらず、常識的には到底ミステリとも推理小説とも呼びようのない奇妙奇天烈な作品だからです。
この作品の舞台は「スリーバレー」という名の小さなバー。そこで在野の歴史学者・宮田六郎が、常識に挑戦する突拍子もない奇説を展開して、ほかの三人の登場人物を煙に巻く、というのが全編を通して共通する単純明快なパターンの短篇集なのです。
日本古代史が専門の大学教授・三谷敦彦は落ち着いた聞き手役、お人好しでちょっとおとぼけのバーテン松永は、宮田の奇説に納得する役回り、そして気鋭の若き歴史学者・早乙女静香の毒舌全開の突っ込みが話を盛り上げます。
というわけで、この「人も死ななければ、事件も起きない」不思議なミステリについて、これから「できる限りネタバレ無し」で紹介してみたいと思います。
(内容について触れるだけで、一種のネタバレになりますので、各短編タイトルから分かる以上のことは、極力触れないようにしております)
収録短編を一挙紹介! 小説としての面白さと限界について一言。特に女性の読者の方への注意点 「悟りを開いたのはいつですか?」については、こちらの記事もどうぞ 収録短編を一挙紹介! さて、この「歴史謎解きトンデモ短編集」に収められた作品のタイトルを、まずは眺めてみることにしましょう。
「悟りを開いたのはいつですか?」 「どんな人物が、どんなふうに、いつ」悟りを開いたのか、まず読む前に想像をたくましくしてお楽しみください。
邪馬台国はどこですか? 表題作であり、文献を丹念に読み解き続けるだけで、「あっ」という結末を導き出す「ケッ作」です。
聖徳太子はだれですか? 最近では「聖徳太子はいなかった」という説も唱えられていますが、果たして聖徳太子は「だれ」だったのでしょう?
謀叛の動機はなんですか? 日本人なら誰でも知ってるあの「謀反」は、なぜ起こったのか。
歴史「探偵」宮田六郎が、心理学を駆使した華麗な謎解きで、あなたを唸らせます。
維新が起きたのはなぜですか? 維新が起きた理由を説明するには、もちろん「上下二巻の本を書く」必要がありますが、日本の近代史のターニングポイントであるあの「革命」が、ある一人の人物の「奇術」によってなされていたとしたら...... びっくり仰天しちゃいますよね。
奇蹟はどのようになされたのですか? 世に奇跡の種は尽きませんが、世界的にも有名なあの「奇跡」をなんとも合理的に「説明」してしまう、宮田六郎の華麗な文献読み解き術をお楽しみあれ!
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小説としての面白さと限界について一言。特に女性の読者の方への注意点 この短編集の第一の魅力は、なんといっても
常識をちゃぶ台返しにする、奇想天外でトンデモな「真説」を、 詳細な文献の読み込みと、アクロバティックな議論によって「もっともらしく」説明するところにある といって間違いないでしょう。
そのとき、大変残念なことなのですが、登場人物の設定と、その間での言葉のやりとりに関しては、「十分にうまくいっている」とまでは言えません。
もちろん「トンデモな謎解き」だけで、完全に楽しく読めますので、謎解きが好きで、歴史にも興味のあるあなたには、蝶おすすめ作品です。
ただし、一つだけ注意点があります。
というのは、狂言回しの役を果たす「早乙女静香」氏の設定が、かなりアナクロ感漂う、過度にヒステリックな「綺麗なだけで実力の伴わない若手女性学者」となっていることです。
男のぼくでも、このヒステリックな感じは「うるさいな」と思うくらいなので、あなたが「男女の不平等に敏感」な女性の場合には、これはちょっと読んでられないなー、くらいに思われるかもしれません。
言葉が生きてるのは知ってる? ぼくはこの言葉が、誰かに届くことを信じて書いている。
だって、言葉は生き物なんだから。
この十本の指先から生まれた、確かに命を持つ不思議な生き物たちが、今きみの心に働きかけているのが、ぼくには見えるんだ。
そして同時に、こうして生まれるせっかくの命も、きみ以外の多くのヒトたちにとっては、ただの雑音でしかなくて、わざわざ注意を払うほどの価値を持たないことだって、よーく分かってるのさ。
だからこれは、ほかの誰に宛てたわけでもない、ただ、きみだけのために綴られた〈孤独の伝言〉ってわけなんだ。
言葉が生きてるのは知ってる? あきらめないって、どういうことだと思う? がんばりすぎてないって、自信を持って言える? あきらめと頑張りの間で振り子は揺れ続けるのかもね。 あきらめないって、どういうことだと思う? 母の生暖かいはずの、なのにどうしてだか冷たさしか憶えていない腹の中をなんとか抜け出して、自分で選んだわけでもないこの世界に産み落とされちまってからというもの半世紀、ぼくは毎日毎日、刻一刻と、何かをあきらめながら生きてきた。
だからぼくは、あきらめないなんて考え方は、自分には縁のないものだとずっと思ってたんだよ。
だけど、不思議なもんでね。
本当はぼくは、ちっともあきらめてなんかいなかったんだ。
子どもの頃からずっと、この世界のどこかに、どんなものかは分からないけれど、確かにヒミツが隠されてるはずだって、そう意識して思ってたわけじゃないんだけど、ぼくはやっぱり知ってたんだな。
そんなだから、毎日毎日、何もかもをあきらめて生きてきたのに、そのヒミツのことだけは、ずっと心の奥底の、自分にすら触れることのできない、不思議なおもちゃ箱の中に、こっそりしまいこんで大切にしてきてたらしいのさ。
それでぼくは、世間のヒトたちの言う「あきらめない」なんて言葉には、ちっとも感心しなかったけれど、自分にとって本当に大切なものをあきらめないことの意味だけは、ずーっと知ってたってわけ。
で、ぼくは言いたいのさ。
もしきみが、人生につきものの「あれもやったほうがいい、これもやったほうがいい」みたいな、世間から吹き込まれる価値観にうんざりして、そんなことはめんどくさいだけのことだから、何もかもあきらめて不完全燃焼の日々を生きて、それで自分の人生はオーケーなんだと思っているとしたら、
「おめでとう! きみの人生はもう一山越えれば、ゴールに到着します!!」 ってね。
だって、きみはすべてをあきらめちゃったんでしょ?
ってことは、ぼくの場合とおんなじで、大切なものはこっそり心の奥にしまって、決してあきらめずに守っているはずだからね。
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がんばりすぎてないって、自信を持って言える? きみはすべてをあきらめてるんだから、何かをがんばったりはしてないはずだ。
ヒトの目を気にして、それに合わせるためにがんばるなんて、ばかばかしいことだし、大体さぁ、そういうのがうまくできないから、何もかもあきらめる羽目になったんだもんなー。
というわけで、当然きみは何かをがんばったりはしない。そして、すべてをあきらめちゃっていて、わざわざエネルギーを費やしてやることなんてありゃしないんだから、淡々と自分のペースで生きてるはずだ。
まわりのヒトたちからは、「自由に生きてていいよねー」みたいなことを言われたりしてね。
それなのに、どうしてこんなに自分の人生はがんじがらめで、息つく時間が足りなくて、無気力・無意欲・ウツ一歩手前の低空飛行を続けなくちゃならないのか、それがぼくらの人生の課題っていうわけさ。
でもそれも、見方を変えれば当たり前の話って気がしてくるはずさ。
ぼくらは決してがんばったりはしない。
にもかかわらず、それとはまったく裏腹に、きみは実は、この一瞬一瞬をがんばってるんだって言われたら、つまり、今までずっとがんばり続けてきたんだって、そう言われたらどう思う?
ヒトっていう生き物はさ、自分のことは自分で分かってる、自分の決めた道を自分は歩いてるって、たいてい思ってるはずだよね。
だけどほんとは、自分のことなんてこれっぽっちも分かってないかもしれないじゃない?
自分で決めた道を歩いてるつもりが、自分の無意識が敷いた線路を歩いてるだけかもしれないじゃない?
そんなふうに考えたことはないかな?
この世界って、案外そんなふうに回ってるんじゃないのかな?
そういうふうに仮定してみれば、納得いくと思うんだよね。
男女平等が行きすぎて、
女も男もなんでも同じようにやらなければならない というようなことを言う人がときどきいて、それは少しおかしな話に思えます。
女性と男性には、身体的にも、心理的にも大きな違いがあり、一般的に言って、女性が向く仕事や、男性が向く仕事、という区別がありうるからです。
もちろんこれは一般的な区別であって、「女性が向く仕事」に向く男性もいますし、その逆もありますから、「この仕事は女性のもの、この仕事は男性のもの」というような決めつけはよくありません。
また、「男性に比べて女性は劣っている」という偏見も根強く残っていますから、この点については、わたしたちはまだまだ認識を改める余地があるでしょう。
こうした男女問題や女性の社会参加の問題について、言葉によって論じることも大切なことですが、アニメというエンターテイメントの分野にもこのテーマを盛り込んだ作品があります。
今回は朝日新聞のこちらの記事
・男女に差なんて、ない プリキュア生みの親、秘めた信念:朝日新聞デジタル
を参照させていただき、女の子に大人気アニメ「プリキュア」シリーズの初代プロデューサー・鷲尾天さんの言葉を紹介し、アニメに代表されるサブカルチャーと女性の社会参加の関係を肴に書いてみようと思います。
「女の子がりりしく、自分の足で地に立つことが一番」 企画書に書いたコンセプトは「女の子だって暴れたい!」 男は火星人、女は金星人 「男女平等社会」を作り出すサブカルチャーの力 [追記] プリキュアの最近の作品についての疑問 「女の子がりりしく、自分の足で地に立つことが一番」 現在、東映アニメーションの執行役員であり、プリキュアシリーズの初代プロデューサーである鷲尾天さんは、プリキュアという女の子向けのアニメ作品に込めた思いをこう語っています。
女の子がりりしく、自分たちの足で地に立つということが一番だと思って、プリキュアを作ってきました。子どものときには、意味がわからなくてもいいんです。テレビで見ていた女の子が成長して、思い返したときに「こういう意味だったのか」と気づいてもらえれば。
プリキュアシリーズは、2004年の「ふたりはプリキュア」で始まって以来、2018年現在放映中の「HUGっと!プリキュア 」に至る、大人気のアニメシリーズです。
このシリーズのお話は基本的に一年ごとに完結しますが、ごく普通の中学生の少女が、異世界からやってきた妖精に頼まれて「伝説の戦士プリキュア」に変身し、妖精の世界の支配し、地球を我がものとしようとする悪の組織を倒して、平和を取り戻すというパターンを持っています。
プリキュアに変身した少女たちは、悪の組織が送り込む怪物と戦ってやっつけます。
怪物の名前は、ザケンナー、ウザイナー、ジコチュー、サイアーク、オシマイダーなどなど。
人間の心に潜む黒い部分や、社会の矛盾をキャラクター化することによって、正義と悪の対峙という神話的なストーリーが展開されるのです。*1
プリキュアの戦闘には、男の子のキャラクターは参加しません。イケメンの男の子も登場するけれど、非力な存在です。女の子が主役で、自分たちで物事をとにかく突破することを見せたかった。どんなに巨大なものに立ち向かうときも、自分たちで解決する気持ちが一番大切だろうと思っていました。
平和な社会を破壊しようとする「悪の組織」に立ち向かい、男の力を借りずに、それを解決する少女たち。
この物語が若い世代の女性に与えつつあるインパクトには、計り知れないものがあるに違いありません。
こうして、アニメなどのサブカルチャーを通して、女性の自立、ひいてはさらなる女性の社会参加につながるような「意識の革命」が静かに進行しているのかもしれません。
企画書に書いたコンセプトは「女の子だって暴れたい!」 鷲尾天さんは、東映アニメーションに入る前は、秋田朝日放送で報道記者やドキュメンタリーの制作をしていました。
修業軌間を経てアニメのプロデューサーとなり、「金田一少年の事件簿」や「キン肉マンⅡ世」などの男の子向けの作品を手がけたあとで、鷲尾さんは、初めての原作なし・女の子向けの作品として「プリキュア」に取り組むことになります。
そして、「小さな子どもは、男の子も女の子も変わらない」という考えをもとに、その作品コンセプトを
「女の子だって暴れたい!」 とし、ヒロインが変身して、「アクションによって悪役をやっつける」という、ユニークなアニメ・シリーズを生み出しました。
アニメーション監督を担当した西尾大介さんとの間では、「嫌な映像を作るのはやめよう」と話をし、 「食べ物の好き嫌いをする」とか、「親に口答えする」といったシーンは入れないようにしました。子どもが夢中になって見ているアニメ作品にそうした場面があれば、子どもにすり込まれてしまうと考えたからです。
男女の差についての話も決して盛り込まず、「女の子だから」「男の子だから」といったセリフも入れませんでした。
また、「親が『あの子は、これできてるじゃない』」というような場面もないのだそうです。「比較されること」は子どもが一番嫌がることだから、と鷲尾さんは説明します。
こうして作られた「プリキュア」シリーズは、3歳から8歳の女の子に絶大な人気を誇る長寿アニメ・シリーズとなりました。
このシリーズがこうして小学校低学年までの年齢層の女の子の心をつかんだことは、
「小さな子どもは、男の子も女の子も変わらない」、 「女の子だって暴れたい!」 という鷲尾さんの考えがずばり的中した結果に違いありません。
同時に、小学校高学年になってくると、生物的・社会的性差が広がってきて、女の子の関心が「戦い」から別のものに向かっていく様子も想像されます。
大人になっていくことで、女と男にはどんな違いが出てくるのか、そしてそこから生まれる社会的な役割分担について、ここで少し考えてみましょう。
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ネット上にはさまざまな炎上の種が転がっており、少しのきっかけで炎が上がります。
うっかりすると水のつもりで油を注いでしまって、なにもしなければボヤですんだのに、手のつけようのない大火事になっちゃった、なんて話もいくらでもあります。
この記事では、ネットを使っていれば、どこかで目に入ってきてしまう「炎上」について、その「よしあし」を考えてみたいと思います。
はあちゅうさんに見る「意図せざる炎上」の効用 イケダハヤトさんに見る「釣り炎上」の功罪 「炎上」の「よしあし」と、その「啓蒙」効果 はあちゅうさんに見る「意図せざる炎上」の効用 まず炎上を2つの種類に分けてみましょう。
意図せずして生じる「自然炎上」と狙い撃ちで起こる「釣り炎上」です。
「自然炎上」の例としては、ネット有名人作家のはあちゅうさんによる「動物最強」ツイートが記憶に新しいところです。
はあちゅうさんが、マーケティングの道具としてペットを飼うことを「暗に」すすめる発言をしたため、動物愛護派の人たちから多数の批判を集めました。*1
はあちゅうさんは、炎上を誘うようなツイートを「不注意に」する名人です。
そして、それを自分のブランド力のアップに使う巧みな能力の持ち主でもあるため、何気なく情報を発信していると、自然に炎上が起こり、たくみな炎上さばきによって、ファンを増やしていくという「炎上スパイラル」が得意技です。
自分の「不注意な」発言に批判が集まったときに、その批判を巧みにかわし、自分の正当性を主張し、聴衆の一部でも納得させることができれば、多くの聴衆の中から新たなファンをつかむことが可能となるわけです。
こうした技は、炎上による心理的打撃に打ち克つだけの「鋼の心」の持ち主以外には使えませんが、「読まれてなんぼ」のネット社会においては、その効用を乱用するものが後を絶たないのが現状です。
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イケダハヤトさんに見る「釣り炎上」の功罪 「自然炎上」の効用に気づいた人間は、「意図的に」炎上を起こそうとたくらみます。
「炎上芸人」の異名を持つ、高知のトマトブロガーことイケダハヤト氏こそ、狙い撃ちによる「釣り炎上」の達人です。
二年ほど前に、彼が放った「ホメオパシーねた」は、カミソリ級の切れ味のものでした。
ホメオパシーは、その科学的根拠の不確かさから、ネット上では「疑似科学商法」として叩かれるのが定番となっているのですが、イケハヤ氏はそれを承知の上で、ホメオパシーの商品をすすめる記事を書いたのです。
氏の狙いは見事的中し、多数の批判が殺到し、大炎上が発生。
しかし、それによってホメオパシーの商品が売れたとは思えません。
大炎上の翌日、イケハヤ氏は初めから準備していたと思われる批判に対する「反論」記事をすぐさま公開し、そこには
「ホメオパシーが人気を集める原因の一つである『プラシーボ効果』」
について説明した本のアマゾン・アソシエイト・リンクが貼ってあるんですね。
彼はもともと「ネット本屋」として活動していた方ですから、
どんな本をどうプロモーションすれば売れるか、 ということが手に取るように分かってらっしゃるのでしょう。
イケハヤ氏のファンや、「炎上」によって彼を知った新しい読者が、ずいぶんたくさんその本を買ったんじゃないかなと、想像する次第です。*2
しかしながら、こうした方法は、「釣られた」側の「ヘイト値」をいやがおうにも上げてしまい、当然いらぬ恨みを買うことになります。
ダイアモンド並みの心の強さを持たないあなたには、決しておすすめできないやり方です。
「炎上」の「よしあし」と、その「啓蒙」効果 以上に見たような「有名になるための炎上」は、はたから見ていて決して気持ちよいものではないでしょう。
また、そうした形で「炎上パワー」を利用するかどうかに関わらず、「炎上」というもの自体が、「力と力の衝突」という性質を持ちますから、火事場の野次馬的な興味以外には、あまり意味のないもののようにも思えます。
結局のところ炎上は、対立する意見同士のぶつかり合いにすぎないかもしれません。
しかし、
「ぶつかり合い」があるところには、人生にとって「何か大切なもの」がある ということは考えられないでしょうか。
はあちゅうさんの例で言えば、「動物を大切にする」ということ。
イケハヤ氏の例で言えば、「現代医学に頼りすぎない」ということ。
炎上というものは、人間社会にとって大切な問題提起を、「派手な形」でぼくたちの目の前に示してくれる「ショー」のようなものにも思えるんです。
同種療法とも呼ばれるホメオパシーは、現代科学ではその根拠が証明されていないため、疑似科学でしかないとの批判があります。
けれども、どんな物質にもプラシーボ(偽薬)効果は当然ありますから、ホメオパシーのレメディ(糖衣錠)を服用して症状が改善する人がたくさんいるのも当たり前のことです。
ここでは、仮にプラシーボ効果しかないとした場合に、
ホメオパシーにはどんな意義があるのか、また、 プラシーボ効果しかないホメオパシーは批判すべきものなのか、 という二点について、以下、簡単に述べます。
そして、前回の記事
・人気の代替医療・ホメオパシー早わかり - 科学的「根拠」はなくても効くんです - *魂の次元*
にいくつかコメントをいただいていますので、その回答も添えておきます。
☆id:jo_30さんにありがたいコメントをいただきました。[2018.03.01 追記]
よくわかります。
宗教を安易に科学で批判したら信者が傷ついちゃうでしょ、ということですね。(*‘∀‘)b!
ぼくが言いたいことの核心をずばり突いていただいたコメントです。
プラシーボだと知っていても、プラシーボは効くんです なぜ疑似科学を「批判」すべきでないのか コメントへのお返事コーナーです プラシーボだと知っていても、プラシーボは効くんです id:tanukichi087さんから次のようなコメントをいただきました。
ホメオパシーがプラシーボ効果に基づくものだって理解した上でも、プラシーボ効果は発生するのかな?人間って不思議だ。
プラシーボであると知っていても、効果があるという研究の紹介がこちらにあります。
・プラセボ効果の威力恐るべし。それが偽物だとわかっても効果が持続するその理由とは?(米研究)(2015年7月31日) - エキサイトニュース(1/2)
不思議といえば不思議なのですが、これは、
暗示によって自己治癒力効果が発揮される という話であり、無害かつ有益な自然療法と言えましょう。
もちろんこうした効果はホメオパシーのみのものではありません。
疑似科学としてやり玉に挙げられるEM菌にしても、それが効くと思って飲めば、「本当に」効くのです。
風邪をひきかけたときに、ホメオパシーのレメディやEM菌を飲めば治るのだ、と信じている人が、実際にそれを飲めば風邪の症状の悪化を防げる可能性は十分あるのですから、それを「やめろ」とは言うことにはあまり正当性がありません。
もちろん、新生児に投与するビタミンKのような化学物質について、代わりにレメディを投与する、というような場合は、話が異なります。
ビタミンKを投与したからといって新生児メレナが防げるとは限りませんが、お母さんの側に余程強力な理由がない限り、お母さんに対する「プラシーボ効果」を考えて、ビタミンKは投与するのが筋でしょう。
ビタミンKの「毒性」がどうしても気になるお母さんには、それをキャンセルするレメディを処方すればよいものと思われます。
以上、見たように、プラシーボ効果しかない療法であっても、
現に「役に立つ」と思っている人がいる以上、それは「確かに役に立っている」 のですから、それだけで、十分に社会的な意義があると言えます。
標準医療から見て、過度の適用がないように、適切な助言は必要でしょうが、科学的に根拠がないのだから使うべきではない、というような言い方はするべきとは思えない、という話です。
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みなさん、ホメオパシーという代替医療のことはご存知でしょうか。
現代医療の抱えるさまざまな問題に疑問を感じる人たちの間で、人気が高まっている代替医療と呼ばれるものの一つです。
実は、このホメオパシー、ネット上の科学重視派の人たちからは毛嫌いされるんですが、一体どんな内容のものなのか、さっそく見てみましょう。
GIGAZINE で紹介されたホメオパシー ホメオパシーって、なんか問題なの? GIGAZNE の記事についたコメントについて GIGAZINE で紹介されたホメオパシー 情報サイトGIGAZINEに、2018年2月23日付で次のような記事が掲載されました。
・現代医学に懐疑的な人々に人気の治療法「ホメオパシー」とはどのようなシステムなのか? - GIGAZINE
こちらでは、youtube に投稿されたビデオをもとに
ホメオパシーの「原理」 現代の科学では、ホメオパシーに科学的根拠はないと考えられていること けれどもプラシーボ効果によってホメオパシーには「実際の効果」があること が分かりやすく説明されています。
ホメオパシーは同種療法とも呼ばれ、「症状の原因となる物質を極限にまで希釈して使うことで症状を治療することができる」という「仮説」にもとづいています。
この考えにもとづいて、「毒」を希釈して作った砂糖コーティングの丸薬をホメオパシーではレメディと呼びます。
ところが、通常使われるレメディは、科学的に考えると原因物質が1分子も入っていないまでに薄められてしまっています。
もとの物質が入っていないのですから、普通に考えればこれは「砂糖玉」でしかありません。
けれどもおもしろいことに、この「砂糖玉」によって、実際に病気の症状は改善するのです。
これは医学的によく知られた事実で、「プラシーボ(偽薬)効果」と呼ばれます。
プラシーボ効果とは、「効果のない物質でも、効果があると思って飲めば、実際に効果があらわれる」という現象で、暗示の作用によって人間の自然治癒力を引き出すものです。
以上で、ホメオパシーには「科学的根拠はない」にも関わらず、「確実に効果」があることがお分かりいただけたでしょうか?
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ホメオパシーって、なんか問題なの? GIGAZINE の記事では、
ホメオパシー医療に対しては、「本当に現代医学の力を借りるべき時に、頼ることを躊躇させる」などの批判があります。
とさらりと触れているだけなのですが、日本の場合、大手の新聞も「医療忌避」につながるとしてホメオパシーに否定的な報道をしています。*1
これは日本におけるホメオパシーの普及に助産師の方々が関わっており、一部の助産師の間では、行き過ぎとも考えられる「現代医療否定」の傾向があることと関係があります。
ホメオパシーの原理自体は、決して現代医療を否定するものではありません。
現代医療を否定するかどうかは、最終的にはホメオパシー利用者の判断の問題です。
助産師さんたちの活動は、過度に医療化・男性化された現代の「お産」の形を、女性に取り戻すものであり、それには大きな意味がありますが、活動が先鋭化して「現代医療の否定」にまでつながれば、これは「カルト的」と言わざるをえません。
ホメオパシーを「カルト化」させないためにも、ホメオパシーを推奨する助産師のみなさんには、行き過ぎた「医療否定」に落ち入らないよう、十分注意していただきたいと思います。
GIGAZNE の記事についたコメントについて ・はてなブックマーク - 現代医学に懐疑的な人々に人気の治療法「ホメオパシー」とはどのようなシステムなのか? - GIGAZINE
ツイッターで、
大人になってからの音楽の好みは14歳の時に聴いた音楽で形成されている という情報を目にしたぼくは、
「これは怪しいぞ」
と思いました。
何が怪しいって、ぼくの好みは14歳のときになんか、絶対決まってませんから。
確かに当時耳に入ってきた、ピンクレディーの「UFO」や山口百恵の「秋桜」、そしてキャンディーズの「微笑がえし」といった歌謡曲は、いつまでも脳裏に焼きついたままでしょうが、ぼくの音楽の好みは高校時代に形成されて、そのあとも変わり続けていますから。
というわけで、今回のお題は、
女は13歳、男は14歳で音楽の好みが決まるのか? です。
[:contents]
女は13歳、男は14歳で「音楽の好み」が決まるのか? 今回の話題のネタ元、FNMNLの記事
・大人になってからの音楽の好みは14歳の時に聴いた音楽で形成されている - FNMNL (フェノメナル)
には、
私たちの音楽の好みは14歳の時に聴いた音楽によって形成されていることが、新たな研究により明らかになった。
とあるのですが、この書き出しからしてデタラメです。
(FNMNLさん、がんばれ!)
FNMNLが紹介している元記事は、NY Times の
・The Songs That Bind - The New York Times
というものなのですが、タイトルの意味は「心に刻まれる歌」ぐらいの意味ですね。
こちらの記事を書いているのは、セス・スティブンス=ダヴィドウィツ Seth Stephens-Davidowitz というグーグル勤務の経歴を持つビッグデータが得意な人で、Spotify から提供されたデータをもとに今回の分析を行なっています。
以下、セスさんの元記事を参照して、
女は13歳、男は14歳で「音楽の好み」が決まる ということの意味を説明していきます。
女は13歳、男は14歳で「音楽の好み」が決まる人が多い 結論からいうと、
女は13歳、男は14歳で「音楽の好み」が決まる人が一番多かった というシンプルな話です。
この分析に使われたのは、Spotify のすべての楽曲について、どれだけの頻度で聴かれているかを男女別、年齢別に分類したデータです。
NY Times のサイトよりお借りした次の画像を見ると、女性は13歳が最多で、11 - 14 歳の4年間の影響が大きく、男性の場合それより少し遅くなり、14歳が最多で、13 - 16 歳の4年間の影響が大きいことが分かります。
これは、女性のほうが、思春期に入る年齢が早いことと関連しているのでしょう。
また、グラフの分布を見ると、女性は男性に比べて、年齢の若い左側が盛り上がった形で、年齢の高い右側が急に落ちてからなだらかになっている様子が見て取れます。
女の子は「おませさん」で、子どものうちに「好み」が決まりやすく、少年はむしろ、大人になるにつれて「好み」を選んでいく傾向が強いということになるでしょうか。
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