みなさんは「魔術」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。
魔法使いのお婆さんが鍋でぐつぐつ秘薬を煎じているところ、なんてのは、ちょっとレトロすぎますかね。
何しろアニメの魔法少女がダークファンタジーの世界で活躍する時代ですもんね。
あれ、でも、魔術と魔法って、同じものなんでしょうか?
この記事では、その辺りの言葉の使い方を入り口にして、SF作家、森下一仁氏の「魔術師大全」という本を肴に、魔術を巡る駄法螺を吹くことにしましょう。
魔術と魔法と呪術とまじないの関係をコーサツする 森下一仁著「魔術師大全」を読めば、西洋における魔術師の歴史が一目瞭然! 魔術とは果たして何なのか、それは本当に存在するのか 魔術と魔法と呪術とまじないの関係をコーサツする 魔術とか魔法とかいうのは、たぶん英語のマジック magic の訳語として作られた言葉なんでしょうね。
マジックの語源は、古代ササン朝ペルシアの神官を意味するマギ magi からきていて、西欧世界の人々がペルシアという東洋の異教の儀式を「魔術」として捉えたということのようです。
日本語でマジックと言ったら、奇術や手品のことになってしまいますが、これはアメリカあたりから見世物として入ってきたマジックショーの影響でしょうか。
試しにアメリカのフリーの辞書アプリを引いてみますと一番最初に「呪文や特別の身振りによって不可能なことを実行する不思議な力」といった意味のことが書いてあります*1。
ちなみにマジック以外に魔術に当たる言葉としては、ソーサリー sorcery というのもあります。
異世界ファンタジーの分野で「剣と魔法もの」というのがあって、これは sword and sorcery の訳ですね。英雄が剣を振り回し、魔法を使って活躍する物語のことです。
また、ぼくが好きなカルロス・カスタネダの「呪術師と私」というノンフィクション・ノベルでは、メキシコの呪術師に弟子入りしたアメリカの人類学者の姿が描かれますが、この呪術師は sorcerer の訳ですから、魔術師と言ってもかまわないはずです。
この辺の使い分けは、西洋的な魔術師に対して、それ以外のアジア・アフリカ世界などの場合は呪術師になるといった感じでしょうか。
ここで改めて魔法と魔術の違いを考えてみると、
魔法は、おとぎ話やファンタジーに出てくるもの、 魔術は、西洋世界で現実に誰かが実践しているもの、 というニュアンスの違いがあるような気がします。
というところで、森下一仁氏の「魔術師大全」の話に入ることにしましょう。
森下一仁著「魔術師大全」を読めば、西洋における魔術師の歴史が一目瞭然! さて、森下さんの「魔術師大全」ですが、副題が「古代から現代まで究極の秘術を求めた人々」となっています。
アマゾンのページで内容を見ると、
魔法・魔術は奇跡を生む技であり、古くから魔術を実現するため人々は試行錯誤を続けてきた。錬金術、テレパシー、占星術、未来予知、不老不死、テレポーテーションなど、人間が古代から求め続けた魔術の真髄を解き明かす。
とあります。
つまりこの本は、古代より現在に至るまで、西洋において実践されてきたとされる「魔術」について、様々な文献からその実像を解き明かす書物ということになります。
例えば古代ギリシアのビタゴラスといえば、ピタゴラスの定理でお馴染みですから、幾何学を研究した哲学者くらいに思っている方が多いかもしれませんが、彼が数学を研究したのは、神の持つ神秘の力が数字に現れるという数秘学の思想があったからこそなのです。
現代の数学観、科学観からすれば、不思議に思えるかもしれませんが、自然を統べる法則こそ神の力の顕れであり、古代においてはその研究はまさに魔術だったわけです。
SF作家のアーサー・C・クラークは「十分に発達した科学技術は魔法と区別できない」という意味のことを言いましたが、こうした歴史を鑑みれば、そもそももともとは魔術と科学の間に区別などなかったことが分かります。
* * *
さて、時代は下って17世紀、中世のフランスの話です。
太陽王ルイ14世の愛人モンテスパン夫人が起こしたとされる黒魔術の事件は、なんともおどろおどろしいものです。
この時代、魔術はキリスト教社会では当然のように禁じられていたにも関わらず、実際にはカトリックの神父が黒ミサと称される魔術的儀式をとりおこない、世俗の人間の欲望を叶える手伝いをしていたのでした。
モンテスパン夫人はルイ14世に見初められ寵愛を受けるのですが、やがて年月が流れば、王の心は更に若い愛人へと移っていきます。
その王の心を繋ぎとめようと、夫人は黒魔術に手を染めてしまったのです。
夫人の依頼を受けて、ギブールという神父が初めに行なったのは、夫人の希望が叶うように祈る程度のまだまだ常識的な範囲のミサでした。
しかし王の心を失うことを恐れた夫人の不安は収まることがなく、ギブール神父と彼を手引きした魔女ヴォアザン夫人に、更なる魔術や惚れ薬を要求していくことになります。
やがて鳥を生贄にする怪しい儀式を行なうことになり、それでも飽きたらずついには自らの体を祭壇とする黒ミサを行なうまでに至ります。
この血に染まった黒ミサでは、モンテスパン夫人は全裸になって自らの体を祭壇としたばかりでなく、なんと人間の赤子を生贄としたというのです。
しかしそうした儀式の甲斐もなく、王の心は夫人から離れてしまい、逆上した夫人は、王の呪殺、毒殺までをも依頼しますが、当局の手がヴォアザン夫人とギブール神父に及んだためにこの暗殺計画は頓挫します。
この事件で逮捕された関係者は360人を超えたにも関わらず、その顧客に宮廷内の有力者が多かったことから、実際の告訴は110人にとどまったとのことで、有罪となった者たちは、流刑、終身刑、死刑などに処されたのですが、ギブール神父は終身刑、ヴォアザン夫人は主犯として火炙りの刑を受けることとなったのでした。
王の寵愛を受けたモンテスパン夫人には特段のお咎めはなく、その後10年の間王との親交は続き、敬虔なカトリックの信仰に戻った夫人は、16年後にひっそり息を引き取ったとのことです。*2
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「だわ」「なのよ」「かしら」といった、文章表現として今も多用される女性特有の語尾について、「そんな言い方しないよ」と感じる女性の方って、きっと多いはずですよね?
関東学院大学で言語学を研究している中村桃子さんのインタビュー
・なぜ翻訳でステレオタイプな「女ことば」が多用される? 言語学者・中村桃子さんインタビュー - wezzy|ウェジー
が、女ことばを巡り、言葉と政治の関わりについて興味深い内容だったので、「無意識に行なわれるステロタイプのおしつけ」という視点から、差別の問題や言語による思想統制の問題を考えてみます。
女ことばは女性が実際に話している言葉づかいじゃない 書き言葉としての役割語 ステロタイプに落ち入りやすい翻訳語 ジェンダーを表現する武器としての女ことば 「言語による思想統制」という政治的物語 女ことばは女性が実際に話している言葉づかいじゃない インタビューの冒頭で、中村さんはこう語ります。
みなさん「日本語には女ことばがある」ということはご存知ですよね。しかし、「女ことばってなあに?」と聞くと、「女の人が話してる言葉でしょ」って答えが返ってくるんですね。学生さんに尋ねてみても、昔から日本の女性はなにか共通した「女らしさ」を持っていて、それは「男らしさ」とはちがっていて、言葉を通じて自然にその女らしさがにじみ出た言葉づかいが「女ことば」だ、と理解している人が多いんです。しかし、果たしてそうなんだろうか? と。女ことばは女性が実際に話している言葉づかいじゃない。
文章表現として使われる「女ことば」が、喋り言葉として使われる「女ことば」と違うことは、まったくその通りです。
そこで、この記事では、
「女ことば」とは書き言葉において話し手が女性であることを示す表現法 を意味することにし、
喋り言葉としての女性特有の表現は「女性口語」 と表すことにします。
中村さんは、国語というものが政治的に作られてきた歴史に注目し、女ことばの持つ政治性について語るのですが、その前に文章表現における役割語としての女ことばのことを少し見てみましょう。
書き言葉としての役割語 「そうじゃ,わしが博士じゃ」としゃべる博士や「ごめん遊ばせ,よろしくってよ」と言うお嬢様に,会ったことがあるだろうか.現実には存在しなくても,いかにもそれらしく感じてしまう日本語,これを役割語と名づけよう.誰がいつ作ったのか,なぜみんなが知っているのか.そもそも一体何のために,こんな言葉づかいがあるのだろう?
これは、金水 敏さんの「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」という本の紹介文句です。
このような役割語がなぜ存在するかというと、
文章表現において「誰が」喋っているかを強調し、 読者にキャラクターの個性を強くアピールするため、 ということになるでしょう。
「女ことば」についても、純粋な意味での役割語としての機能を考えれば、「話し手が女性である」という事実を表すだけのことですから、そこには必ずしも政治的な意味合いはないことになります。
役割語についてもっと知りたい方は、
金水 敏さんの「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」(2003 岩波書店)
をぜひ読んでみてください。
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ステロタイプに落ち入りやすい翻訳語 マンガやアニメで使われる役割語は、キャラクターの明確化するために、作り手が意図的に使用するわけですから、新しい表現を生み出すこともあり、創造性も秘めています。
ネット上で「超」有名な作家はあちゅうさん(32)が、AV俳優のしみけんさん(38)との事実婚の報告をしたことは、みなさんもご存知かもしれません。
(えっ、それがどうしたって?) 芸能人でもないのにわざわざ表に報告することか?とも思いましたが、これまでの活動の中でプライベートも含めて応援してくださっている方に、ちゃんと私から報告したいと思って書きました
https://twitter.com/ha_chu/status/1018330754353266688 とのことで、とても謙虚に、しかも上手に話題作りをしている様子に、ネット上で文章を書いているものとして、たいへん共感する次第です。
お相手がどういう人か、などという「下世話」な関心もいろいろあろうところですが、「事実婚」の報告、というところが、「未来の作家の形を摸索中」のはあちゅうさんらしいですよね。
「事実婚って手続きあるの?」って結構聞かれるので書いておきますね。区役所で職員さんがお互いの本籍地に電話して、独身であるかどうかを確認し、確認後、住民票の続柄に妻(未届)という記載をつけてくれました&保険証の世帯主氏名に彼の名前が入りました。証明書とかは特にないみたいです。
https://twitter.com/ha_chu/status/1018331309112885249 ということで、住民票について事実婚の届出することができるんですって。
戸籍によらない実質的な結婚という形は、同性婚ということでも、東京の渋谷を初めとして、徐々に日本でも普通のことになり始めています。
新しい家族の形を考えるとき、こんなあり方もあるんだなと知っていると、少し自由な発想ができるかもしれませんよね。
ちなみにぼくは、二度結婚してるのですが、一回目の結婚のときは、奥さんの姓に変わりました。
普通は男のほうの姓にしますけど、どっちでも自由に選べるんですが、案外知られてないかもしれません。
とはいえその辺も、別姓婚ができない日本の制度の不自由だったりもするんですけど、まあ、いろいろと遊べる余地もあるということで。
ということで、話はちょっと横道にそれてしまいましたが、とにかく、はあちゅうさん、事実婚おめでとうございます、というわけなのでした。
はあちゅうさんには、林芙美子や林真理子に負けない素敵な「作家」として、今後も大活躍を期待したいものです。
☆こちらの記事もどうぞ。
・はあちゅうさんの「誤報」と、はるかぜちゃんの「意見」、ネットでの議論が噛み合わないのはどうして? - 「動物最強」発言再考 - *魂の次元*
・はあちゅうさんの「動物最強!」発言の炎上について、共感能力の視点から考察してみました - *魂の次元*
今までぼくは、吉本ばななの小説のどこが面白いのか、よく分かっていませんでした。
けれども今回、彼女の「体は全部知っている」という短篇集を読んで、ようやくその「魅力」が分かったので、この記事ではそのことをちょっと書いてみます。
「ミイラ」になれなかった少女のちょっとだけエログロな空想のお話 アロエと友だちになったり、胸のおできとの別れを惜しんだり、子どもやじじいに恋されたり 「ミイラ」になれなかった少女のちょっとだけエログロな空想のお話 13編の短編が収められたこの短篇集の、ちょうど真ん中、7番目の小説が「ミイラ」という題名の作品です。
大学に通う日常に退屈するはたち前の少女が、近所に住むエジプトおたくの青年に突然「軟禁」されてしまう様子を描いた不思議な小説です。
「軟禁される」というくらいですから、「ビデオで勉強したようなしつこいセックス」とか「しばられたままもらしたりした」とか、それらしいことが書いてはあるのですが、ちっともいやらしさは感じられなくて、「これはエッチな妄想のお話なんですよ」という記号として散りばめられているだけ、という感じなんですね。
こういう吉本ばなな独特の書き方を「リアリティがないよなー」と、今までぼくは思っていました。
でもこの短篇集を読んでようやく分かったのは、こうやって記号を散りばめて雰囲気だけ表現するような書き方というのは、ばななファンにとって、えげつなく書き込まれた他人の感性を押しつけられることなく、自分の空想の余地が残されることで、かえって共感を持って読むことのできる表現になっているのだろうな、ということです。
ばななの作品は、言ってみれば「少女マンガ的ファンタジーとしての文学」ということになるでしょう。男どもが読むようなえげつない劇画と比べると、少女マンガは日常の風景を描いてはいても、どこか実際の日常からはかけ離れた空想世界を描写しているわけで、ばななという作家は、小説の世界でこれをやっているのかな、と思うのです。
好きでもない青年に軟禁されてセックスの快楽に酔うという妄想が小説の中の「現実」として書き表さられ、その男に自分で作った猫のミイラを見せられた主人公は、自分がミイラにされるところを空想し、あるいは息ができなくなるほどの愛情から相手の頭を打ち砕く自分の姿を空想します。
しかし物語は、危険な領域に決して踏み込むことなく、青年の優しさと身勝手さが表現されたあとで、切ない別れの場面が描かれて終わりを迎えます。
後日譚として青年が作家になりきれいな奥さんをもらったこと、自分は普通に恋愛をして、普通に暮らしている様子がつづられますが、最後にその普通の生活は「正しくて幸せなのか」という問いかけがされます。
ミイラにされた自分や、頭を打ち砕かれた彼を想像するとき、「それはそんなに悪いことにはどうしても思えなかった」のだ、といってこの掌編は閉じられます。
平凡な日々の中で、その平凡さに満足できず、静かに別の現実にあこがれる若者たちが、ばななさんの小説を大切に思う気持ちが、この不思議な読後感の物語によって、ようやく分かったような気がするのです。
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アロエと友だちになったり、胸のおできとの別れを惜しんだり、子どもやじじいに恋されたり さて、もう何編か簡単に紹介しておきましょう。
巻頭の「みどりのゆび」は、植物を愛するおばあちゃんを通して、アロエと友だちになる女性の話です。
中ほどの「小さな魚」は、胸にできた小さな魚の形をしたおできとの別れの物語で、長年連れ添ったそのおできに対して、旅先でふと出会った大切な友だちに対するような深い気持ちを持っていた様子が描かれます。
巻末の「いいかげん」では、小学生や老人に見初められる女性が、いかにもばなな的な空想世界の中で「活躍」し、物語の結末では「ちょうどいい年頃の伴侶に恵まれますように」と神社でお祈りをします。「何かがどうしようもなく偏っている」自分を意識しながら……。
もしあなたが、周りのみんなの価値観とどこかずれている自分を感じ、「何かがどうも偏ってるなー」と思うようなタイプの方だったら、たまには吉本ばななの小説を読んで、ささやかな空想の世界に心を遊ばせるのも、いい気分転換になるに違いありません。
☆紹介した本
吉本ばなな「体は全部知っている」(2002 文春文庫)
てなわけでご精読ありがとうございました。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
※オウム真理教が起こした事件によって亡くなった方のご冥福と、その親族の方およびさまざまな被害者の方の心の安寧を心よりお祈りします。
今日2018年7月6日、オウム真理教の教祖麻原彰晃こと松本智津夫氏の死刑が執行されたとの報道がありました。
この記事では、地下鉄サリン事件を頂点とするオウム真理教が引き起こした事件と、それがわたしたちの社会に投げかけた問題点について、簡単に振り返ってみたいと思います。
地下鉄サリン事件の恐怖 可哀想な智津夫さんが起こした大惨事 松本サリン事件と日本の危機管理体制の甘さ オウム真理教を悪者にしてすむ問題ではない - 物質主義と欲望主義の行方 2018年7月7日追記: 智津夫氏の精神状態などについて 地下鉄サリン事件の恐怖 1990年3月20日の午前8時ごろ、通勤ラッシュ時の現東京メトロの5つの車両において、猛毒の神経ガス・サリンが大量に散布され、13人が死亡、被害者は6300人にものぼる、未曾有の無差別殺傷事件が発生しました。
どうしてこのような事件が起こってしまったのか、これを防ぐ術はなかったのか、同じような事件が起こらないようにするためにはどうしたらよいのか。考えるべきことは多岐に渡りますが、簡単に答えが出る問題ではありません。
この事件についてはさまざまな書籍が扱っていますが、作家の村上春樹氏が事件に遭遇した多数の方々にインタビューした
・「アンダーグラウンド (1999 講談社文庫)」
をここではおすすめしておきます。
事件を体験した一人ひとりの方の恐ろしさが伝わってくる良質のノンフィクションと言えます。
可哀想な智津夫さんが起こした大惨事 ネット上ではウィキペディアの
・麻原彰晃 - Wikipedia
というページによって、麻原彰晃こと松本智津夫氏の人生を概観することができます。
智津夫氏が、兄弟ともども水俣病の認定されなかった被害者であった可能性も分かり、また、その家庭の貧困の影響もあって、さまざまに屈折して育ったであろうことを読み取ることもできます。
氏は日本在住のチベット人政治学者ペマ・ギャルポ氏を通して、ダライ・ラマ14世と何回かの接見をしていたようですから、チベット仏教の理解について、相当に評価されていただろうと考えられます。
また、現実にオウム真理教という教団をあれだけの規模にするだけの、ある種のカリスマがあったことも間違いなく、そうした彼の宗教的才能が「歪んだエゴ」と結びついたとき、日本史上類を見ない、恐ろしい事件が起こることになったのでしょう。
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松本サリン事件と日本の危機管理体制の甘さ 地下鉄サリン事件の前年1994年6月27日には、松本サリン事件が発生していました。
・松本サリン事件 - Wikipedia
ところが長野県警は、この事件がオウム真理教によって起こされたものであることをまったく察知できず、無実の市民を冤罪で苦しめることしかできませんでした。
オウム真理教が公安によって捜査されていたことも考えれば、警察の発表を鵜呑みにして冤罪報道を繰り返したマスコミも含め、この事件をオウム真理教と結びつけることができず、地下鉄サリン事件の発生を許してしまった日本の危機管理体制の甘さにはなんとも言葉がありません。
日本社会のこうした危機意識の薄さが、のちの福島第一原発事故にまでつながっているのではないかと考えるとき、これからの日本でどんな事件が起こることになるのか、はなはだ不安にもなってくるところです。
オウム真理教を悪者にしてすむ問題ではない - 物質主義と欲望主義の行方 松本智津夫氏が死刑になったと聞いて、悪人が処刑されてよかったと思う方も多いかもしれません。
「瞑想」なんていうと難しく感じるかもしれませんが、初めての人は、
楽な姿勢で、自分の呼吸に注意を向ける というだけのことを、一分でも二分でも、自分に無理のない時間続ければいいだけで、実は簡単なことなんです。
呼吸に注意を向けると言っても、長い間ずっと向け続けるのはすごく難しいことです。
雑念が湧いてきて、あれこれ考えている自分に気がついたら、「雑念が湧いてるなー」とだけ確認して、また呼吸に注意を向けます。
瞑想の一番シンプルなやり方としては、ほんとにこれだけです。
雑念が湧くこと自体は自然なことですから気にする必要はなくて、静かに座ることにだんだん慣れてきて、三十分くらい気楽にできるようになれば、「初心者卒業」といったところでしょうか。
さて、友だちのyoruさんが、こんな記事を書いています。
早朝、瞑想のために座っていると、たまにこのままずっとこうしていたいというような、多幸感が訪れることがあります。
それはとても幸せな時間なのですが、もしかしたらその感情にとらわれてはいけなくて、さらに呼吸を感じてゆくのが良いのかもしれません。
https://ameblo.jp/kaz32i/entry-12388321765.html 「感情にとらわれないほうがいい」のは確かなのですが、「感情をしっかり味わうことも大切」です。
呼吸に意識を向けるのには、心を静める役割があるので、そうして心が静まった結果「喜び」の気持ちがやってきたときには、その気持ちが「体にどんな感覚をもたらしているか」を落ち着いて見てやればいいんですね。
「この喜びが続けばいいなあ」と思ってる自分がいれば、「今自分はそう思ってるなー」と観察すればいいし、そうした様々な感覚や思いがやってきては去っていくのを見守りながら、
「なるほど、この世の全ては変化を続けている、これが無常というものか」 というのを確認していくことで、やがて「とらわれ」というものが減っていき、「エゴ」というものが落ちていく……。
というのが、ありがたいお釈迦さまの教えというわけなのでした。
ところで、日本に伝わる大乗仏教にもいろいろな味わいがあってぼくも好きなのですが、ここに書いたような初期仏教の教えを知るためには、中村元さんが口語訳したパーリ語の経典、
「ブッダの言葉」https://amzn.to/2KGkCg9
「真理の言葉」https://amzn.to/2z7kMZj
などがとても参考になるのでお勧めしておきます。
てなわけで、みなさん、ナマステジーっ♬
中川淳一郎氏によるH氏への追悼記事に寄せて [2018.12.17 追記] H氏について、実のところぼくはほとんど何も知らないまま、この記事を含めて三本の記事書きました。
それは彼がネット上で「危険な」挑発をした結果、命を落とされたことに関して、彼の死を無駄にしないためには、早い時点でその意味を明らかにしておいたほうがいいと思ったからです。
ぼくの記事を読んで、H氏を批判していると思い、遺族や関係者の方々に配慮が足りないと思った方もいらっしゃったかもしれません。
それについてはここで改めて謝りたいと思います。つたない文章で気分を害していたとしたら、本当に申し訳ないです。
中川淳一郎氏の書かれたブロゴスの追悼記事を読んで、H氏はとても有能な方であっというだけでなく、人間的にも素晴らしい方だったんだなということがよく分かりました。
H氏のご冥福を改めまして心よりお祈りいたします。
中川氏の追悼記事には、H氏の直截で忌憚ない人柄と、裏側もしっかり確認するきちんとした仕事に対する姿勢が描かれると同時に、
だからといって彼による揶揄を正当化する気は毛頭ない
と冷静な筆致でしるされています。
このような素晴らしい追悼記事を書かれた中川氏にも敬意を表して、この追記を終わります。
・ ・ ・
2018年6月25日、福岡市で開催されたネット関係のセミナーで、講師のHさん(41歳)が殺害されるという事件が起こった。
警察の調べなどから、容疑者のTさん(42歳)は、ネット上での言葉のやりとりによるトラブルから、Hさんと面識はなかったにも関わらず、犯行に及んだものと見られている。
この件についてはすでに二つの記事を書いた。
・なぜブロガーH氏は殺されなければならなかったのか - 批判と侮辱の心理学 - *魂の次元*
・はてな殺人の深層 - きみの一言が容疑者を焚きつけていたとすれば - *魂の次元*
この記事では、亡くなったHさんのご冥福を改めて祈るとともに、ロマン優光氏の記事
・福岡セミナー講師刺殺事件に思うこと:ロマン優光連載112 - ブッチNEWS
からいくつかの論点をお借りして、この事件について再度考えてみることにする。
中川淳一郎氏によるH氏への追悼記事に寄せて [2018.12.17 追記] 他者を見下すような発言、特に弱者を見下すような発言は「危険」なんだってばさ 我慢できない人は勝手にやってればいいと思うけど、報復は報復を生むだけでしょ? 救うことはできなくても、自分の考えや行ないを改めることはできる 他者を見下すような発言、特に弱者を見下すような発言は「危険」なんだってばさ ロマンさんは
H氏が、彼に何をしたかというと、彼の荒し行為と彼に対する通報に関する株式会社はてなの対応をblogに書いたこと、程度の低いことに関するたとえとして「T先生」の名を出したこと、それぐらいだ。容疑者を運営会社に通報したり、そのことを公言してた人間は他にもいるだろう。そればかりか、容疑者に対する酷い罵倒を書いていた人たちだって何人もいることだろう。別にH氏が彼を必要以上に攻撃していたというようなことは、特にないのだから。
(被害者と容疑者の名前に関わる表現は、通称の頭文字に置き換えた)
と言って、今回の事件の「通り魔性」を主張してて、まあ、それは一理あります。
だけど、Hさんが記事で、Tさんのことをおもしろおかしくネタとして書いてるのもまた事実で。
(参照 http://hagex.hatenadiary.jp/entry/2018/05/02/112825 http://hagex.hatenadiary.jp/entry/2018/05/10/132154)
それがTさんの神経を逆撫でしないわけもないよね。
もちろん、「その程度」の発言があんな事件を引き起こすなんて予想できるわけもないから、それを理由に「Hさんに落ち度があった」と言うわけにはいきません。
そして、逆に「あの程度の発言はしていいんだ」というわけにも、もはやいかない。
現にこういう事件が起きちゃった以上、
「あんなふうに人を見下して笑いものにするのは危険なことなんだ」 という認識を多くの人が持つべきだと思います。
弱者を見下すのは特に危険ですよね。
失うべき何も持ってない弱者だったからこそ、Tさんは今回の事件を引き起こしてしまったわけで。
ページビューを稼ぐために特定の弱者を笑いものにするようなことは、絶対やめたほうがいい、 というのが今回の事件から得られる一番大きな教訓でしょう。
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前の記事
・なぜブロガーH氏は殺されなければならなかったのか - 批判と侮辱の心理学 - *魂の次元*
で、ブロガーのH氏がネット上での発言から「逆恨み」され、凶刃に倒れることになった事件について考え、安易に「批判・非難・からかい」の言葉を発信することの危険性を述べたわけだが、もう少しだけつけ加えて書きたくなった。
「攻撃的」なあなたにこそ考えてほしい、人を見下して優越感に浸ってもいいことないよ!? はてなさんには、ブックマーク・コメントでのNGワードの設定を是非お願いします 「攻撃的」なあなたにこそ考えてほしい、人を見下して優越感に浸ってもいいことないよ!? 良識と想像力のある多くの人にとって、今回の事件は、
「あんなことをやっていれば、こんなことにもなるよな、ちょっと想像を超えてるとこはあるけど」 というようなものだと思う。
けれども、一部ではあるが決して少なくはない「攻撃的な」はてなユーザのみなさんは、
「おれたちの発言は常識の範囲であって、まったく問題ない。今回の事件はキ○ガイが起こした通り魔的殺人にすぎない」 くらいの感想をお持ちのことだろう。
そのような考え方が間違いだ、というつもりはない。
けれども、今回殺人事件の被害者となった故H氏が、法律的には問題ないであろう範囲で記事を書いていたことが、かえって容疑者Tさんの恨みと妬みを増幅し、仇となった可能性を考えれば、
「常識の範囲内の発言」が持つ危険性 というものを、「合法か違法か」といった枠組みとは別の視点で考えることが大切に思えるのだ。
結論から言ってしまえば、
人を見下すような発言は慎むべきだ ということに尽きる。
今回の事件は、H氏が「見える」存在だったから標的にされたのであり、Tさんの「うらみ」はH氏だけに向けられたものではなく、ネット上でTさんを見下す発言をしていた不特定多数の人間に向けられたものと考えるのが妥当だろう。
そうであれば、今後類似の事件が繰り返されるのを避けるためには、
ネット上では人を見下すような発言は慎むべきだ ということを「常識」として広めていくことが重要に違いない。
以上の述べたことが、「愉快犯的」に暴言やからかいを繰り返すみなさんにとっては余計なお世話にすぎないことは分かっている。
けれども、周りに流されて「歪んだ発言」を繰り返すことになっているものの十分良識を持つ方々には、どうか今回の事件を自分の発言を考えなおすきっかけにしてほしいと思い、あえて書いているのだ。
ネット上で匿名性に守られて鬱憤を晴らしたくなる気持ちは分かるし、人を批判することで優越感に浸りたくなる気持ちも分かる。
また、容疑者のTさん自体がそのような行為を繰り返していたことを考えると、複雑な気持ちにならざるを得ないのだが、そうしたストレスの解消をはかるはずの行為が、今回のような事件を通して、かえって社会を息苦しいものとし、さらに大きなストレスとして自分に降り掛かってくるという悪循環の構図を、一人でも多くの方に共有していただくことができたら本望である。
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はてなさんには、ブックマーク・コメントでのNGワードの設定を是非お願いします ここで、はてなさんへのお願いを一つ書いておく。
今回の事件の発端が、Tさんのブックマーク・コメントでの「暴言」にあったことを考えると、事件への対策として
コメント欄におけるNGワードの設定 は必須であろうと考える。
ブックマーク・コメントで、 idコール付きで、 見知らぬ人から 「低能」呼ばわり されて不愉快に思わない人はないだろう。
2018年6月24日、福岡市で開催されたネット関係のセミナーで、講師のHさん(41歳)が殺害されるという事件が起こりました。
警察の調べなどから、容疑者のTさん(42歳)はHさんと面識はなかったにも関わらず、ネット上での言葉のやりとりによるトラブルから、犯行に及んだものと見られています。
この記事では、亡くなったHさんのご冥福を祈るとともに、わたしたちが日々何気なく使っている言葉の持つ、危険性と可能性について考え、この不幸な事件から何を学ぶべきなのか、書いてみたいと思います。
(なお、事件の当事者お二人の名前については、ネット上での通称の頭文字を使うことで、プライバシーに配慮させていただきます)
罵詈雑言と通報とアカウント凍結。そして事件は起こった。 正当な批判なのか、感情的な非難なのか。からかって笑いものにすることはどこまで許されるのか? 閲覧数、視聴率、稼いでナンボ。そして、ストレスの発散が逆にストレスを生み出す悪循環。 罪なき人の死を悼み、罪を犯した人の更生を願う。 罵詈雑言と通報とアカウント凍結。そして事件は起こった。 ネット上の情報によりますと、容疑者のTさんは自分の意見と合わない記事を見つけては、相手に対する罵詈雑言を頻繁に投げつけていたようです。
こうした行為はネット上での発言のルールにもとるものですし、Hさんをはじめ、Tさんからの「被害」を受けていた方々は、ネットサービスの運営会社に「問題」を通報し、その結果Tさんのアカウントは凍結され、Tさんは新しいアカウントを作っては「暴言」を繰り返すといういたちごっこになっていた模様です。
この経緯だけを見れば、殺害されたHさんの行動にはまったく問題がなく、容疑者であるTさんが「逆恨み」した挙句、一方的に「犯行」に及んだようにも思えますが、本当にそういう判断で問題の本質が見えてくるのか、もう少し細かく状況を見てみましょう。
正当な批判なのか、感情的な非難なのか。からかって笑いものにすることはどこまで許されるのか? ネット上で暴言を繰り返すことはほめられる行為ではありません。
それをたしなめることは、大いに意味のあることでしょう。
けれども、暴言を「批判」する時点で「批判者」は相手の恨みを買う危険を犯しているのだということを十分認識する必要があります。
まして感情的に「非難」するとなれば、喧嘩を売っているのと区別はありません。
またストレートな批判や非難でなく、「からかい」の表現としておちょくるというやり方も、度が過ぎればやはり同じことです。
お釈迦さまこと、ゴータマ・シッダルタさんが「言葉には気をつけなさい。人を傷つけるような言葉は慎みなさい」と言ったのは、実にもっともなことです。
ネット上の正義のために暴言をいさめているのだ、という大義があったとしても、余計ないさかいを引き起こすような言葉使いは避けた方が安全というものではないでしょうか。
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閲覧数、視聴率、稼いでナンボ。そして、ストレスの発散が逆にストレスを生み出す悪循環。 Hさんはネットウォッチャーと称して、ネット上の有名人をネタにおもしろおかしくからかう記事を提供して、人気を集めていました。
今回の事件に関して、「からかい」の対象になっていたネット有名人のはあちゅう氏やイケダハヤト氏は、からかわれていたことの不快感よりは「同業者」として同情する由のコメントを発しています。
ネットに書いた言葉を理由に殺されるとなれば、いくら命があっても足りませんから、同情するのも無理のないことです。
しかしながら、今回のような「事件」に至らなくても、「書き込まれた言葉」を原因にしてさまざまな軋轢が日々起こっていることは事実です。
ネットやテレビで幅を効かせる「閲覧数・視聴率第一主義」やそれを支える「稼いでナンボ」という行きすぎた経済主義のあり方を、この辺で少し見直してみる必要があるのではないでしょうか。
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Hさんの2018年5月2日付けの記事がTさんの犯行のきっかけになったのではないかと取り沙汰されていますが、記事の内容は「暴言を投げつけるTさんを通報して凍結してもらった」というものです。
この記事に事件後につけられたブックマークコメントを見ると、多くの方はここでのHさんの発言には特に問題はないのに、そのために殺されてしまったとは、と思っていることが分かります。
けれども、事件前についたコメントをよく読むと、わざわざTさんを名指しで記事を書くことの危険性を指摘しているものがありますし、その他の多くのコメントはTさんからすれば「笑いものにされている」としか受け取りようのないものです。
Hさんはネット上でのやりとりの経験が長く、Tさんをおちょくるようなコメントが多数つくことを予測していたでしょうから、殺意を引き起こすことまでは想像できなかったとしても、逆恨みを買う危険性は予想ができたはずです。
とすれば、「人を笑いものにしようが何をしようが、とにかくブックマークをたくさんつけてもらって閲覧数を稼ぐ」というような安直な方法論が今回の悲劇を招いた可能性について、ネット上で発言をするみなさんは、十分考慮するべきでしょう。
また、ブックマークコメントでお気楽・お気軽に人を否定し、笑いものにしてストレス発散している方々にも、自分の何気ない一言が、巡り巡って社会の緊張度を上げ、かえって自分に大きなストレスとして降りかかってきているのではないかということに、少しばかり想像を巡らせていただけたらなあと、勝手なお願いをさせていただきたくもなる次第なのです。
罪なき人の死を悼み、罪を犯した人の更生を願う。 人の気持ちを逆撫でし、逆恨みを買うような言葉をネット上で書いたからといって、それを理由にその人を殺していいということには、もちろんなりません。
人を傷つけるような言葉は慎むべきと考えますが、そのような言葉をすべて法律で取り締まることはできませんし、H氏の発言にはその意味では罪はなかったと言えるでしょう。
H氏のご冥福を心から祈ります。
同時に人を殺すという、大変重い罪を犯すところにまで追い込まれてしまったTさんについても、自分が犯した罪を冷静に振り返り、その罪を償うことができるよう、お祈りしたいと思います。
ネット上でどんなにバカにされたとしても、それを理由に人を殺すことは許されません。
日本大学アメリカンフットボール部でラインバッカーをつとめる選手が、関西学院大学のクォーターバックをつとめる選手に、「悪質」な反則行為によって傷害を追わせた事件が、世間を騒がせています。
傷害行為を行なってしまった日大選手は当然罪をつぐなう必要がありますが、傷害行為を示唆したと疑われるコーチや前部長、ひいては、その前部長の任命者である日大の経営陣にも重大な責任があることは明らかと言えましょう。
さらに言えば、この事件からは、日大のそのような体質を許してしまう日本社会全体の持つ非民主的な性格についても思いを巡らす必要を感じます。
そこで、女子レスリング界におけるパワハラ問題や、TOKIOメンバーによる強制わいせつなど、どこか似たようなにおいのする事件が世間を騒がせ続ける今日この頃の、日本が抱える息苦しさについて、この記事ではちょろっと書いてみることにしましょう。
日大選手によると、事件は それに比べて、前部長とコーチ、そして日大経営陣の態度はと言えば 一人の人間が負傷し、一人の若者の未来が閉ざされたとすれば、確かにそれは大きな事件なのですけれども 日大選手によると、事件は 傷害行為を行なってしまった日大選手によると、反則行為は元部長とコーチからの指示によって行われたということです。
記者会見の場で詳細に事情を明らかにし、十分に反省して、きちんと謝罪をした選手の姿はまったく誠実で謙虚なものであり、すがすがしさすら感じるものでした。
前部長やコーチを責めるような発言は一つもなく、ただ事実関係だけをしっかりと説明したことが、日大アメフト部の「暴力」的な負の遺産の解消につながっていけば、今回の反則行為で負傷した関学の選手や関係者の気持ちも報われるというものでしょう。
それに比べて、前部長とコーチ、そして日大経営陣の態度はと言えば さて、前部長やコーチが記者会見で、自分たちの「不法」な指示を認めることができず、監督責任以外は認めない姿勢を見せることに、多くの批判がなされています。
けれども、彼らが自分の「罪」を認められないのは、まったく当たり前のことにも思えます。
というのも、そこで非を認めて謝れるような人間ならば、最初からそんな指示を出すはずもないのですし、選手の会見を信じれば、前部長やコーチは「恐怖政治」としか言えない手法によってチームを操っていたわけで、その実行においてはいくらでも言い逃れができるように巧妙に振舞っていたことが、報道からも透けて見えてくるからです。
平気で「不法」な指示を出すような人たちが、その非を認めず、謝らないからと言って、一々腹を立てていたら、今の日本ではストレスが多くなりすぎて生きていくのも難しくなってしまうのではないか、とすら思ってしまいます。
つまり、この問題の責任の所在はどこにあるのかと考えれば、少なくとも前部長止まりではありえませんから、彼に対して怒りをぶつけても仕方がないということです。
問題は当然、日本大学の経営陣にあります。
これだけ大きく世間を騒がせているにもかかわらず、理事長や学長のコメントの一つもないという時点で、誠に残念ながら日本大学は「終わってるなー」というのが正直な感想です。
さらに言えば、そうした大学の体質という問題を十分に取り上げないメディアも、結局は同じ穴のむじな、ということなのではないでしょうか?
また、大学を管轄する文部科学省の責任も重大です。
これだけの重大事件が発生しながら、日大がお手盛りの第三者委員会で調査をすることによって事件をうやむやにしようとしているのを黙認するような無責任なことは、到底道義にかなうものとは言いがたいでしょう。
そして、そのような官僚を黙認し、その官僚に十分ものを言えない政治家を選び続けるわたしたち国民自体に最終的な責任があることも、論理的に考えれば明らかなのではないでしょうか?
なお、5月22日付のニューヨーク・タイムズの記事は、この事件について次のように書いています。
But this incident has highlighted “power hara” and the obedience to authority and unwavering loyalty to the team that are highly valued in Japan.
The Football Hit Felt All Over Japan - The New York Times 試しに訳してみれば、
「この事件によって、『パワハラ』と、日本では高く評価される『権力への服従』と『チームへの絶対的な忠誠心』の問題が注目を集めることになった」
とでもなりましょうか。
我々日本人としては、この事件を日大アメフト部の問題として考えるのではなく、日本の社会全体の問題として捉えて、大いに反省する必要を感じるものです。
無論こうした日本人の体質を一朝一夕に変えることはできません。
しかし、わたしたち一人ひとりが、こうした問題に目をつむることなく、きちんと向き合っていくことでしか、今回のような不幸な事件をなくすことはできないのではないかということを、多くの方に考えていただきたいと思うのです。
一人の人間が負傷し、一人の若者の未来が閉ざされたとすれば、確かにそれは大きな事件なのですけれども 今回の傷害事件が、多くの人の注目を集めることは、その事件性からして当然とは思うのですが、こうした「エンターテイメント」が世間に提供されることによって、政治を始めとするもう少し考えたほうがよい問題を考える時間が少なくなり、社会の趨勢というものが、なんだかなあなあに流されていくことについては、やはり一言言っておきたいと思います。
と、言いながら、この事件について書いてるんだから、
「お前だって同じ穴のむじなじゃないか」