omion さんの7月7日のツイート*1、
オウムでサリンつくった人たちだって蒔いた人たちだって「人を殺す犯罪」をしようとしたんじゃなくて「理想の社会を作る正義」のための戦いをしようとしてたんですよ。良かれと思っての行動なんですよあれ。
当時は「宗教ってやばいな」と思ってたけど、今は「正義ってやばいな」と思うようになった。
が、25,000件以上リツイートされており、そこについたリプライを見ると、多くの方が「絶対的な正義はない」という健全な理解をしていることが分かります。
この記事では、「絶対的な正義はない」と考えるとき、ぼくたちはどのように判断の基準を持てばいいのか、また人間の振る舞いを「権力ゲーム」と見たとき、そこで「幸せなプレイヤー」になるためにはどんな資質が重要なのかを「自己肯定感」というキーワードを使って考えてみたいと思います。
結論: 人の意見を鵜呑みにしないこと、分からないことは分からないままに判断を保留すること、きちんと自分に自信を持つこと なぜ正義は「やばい」のか。すべての正義は「やばい」のか。 権力ゲームの遊び方 「世界の偶然性」に向き合うために「自己肯定感」を育てる 結論: 人の意見を鵜呑みにしないこと、分からないことは分からないままに判断を保留すること、きちんと自分に自信を持つこと 「絶対的な正義」という確実な判断基準がない中で、幸せに生きるためのぼくなりの「三つの指針」をまず明らかにしておきます。
それは、
人の意見を鵜呑みにしないこと、 分からないことは分からないままに判断を保留すること、 きちんと自分に自信を持つこと(自己肯定感) の三つです。
それぞれの意味するところについては、順に説明していくことにして、まずは、「正義のやばさ」に話を戻しましょう。
なぜ正義は「やばい」のか。すべての正義は「やばい」のか。 omionさんがオウム事件に関して、
当時は「宗教ってやばいな」と思ってたけど、今は「正義ってやばいな」と思うようになった。
と言っているのは、
宗教は全部やばい、とか あらゆる正義がやばい、 という意味ではおそらくないでしょう。
宗教にしろ、正義にしろ「盲信することは恐ろしい」ということが言いたいのだろうと思います。
けれども、ゆっちさんが引用するドラえもんの言葉、
「どっちも、自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ」
https://twitter.com/Yutti114514/status/1015882463514537984
を見ても、国家が「正義」と呼ぶものですら、十分吟味する必要があることは明らかでしょう。
とすれば、
「オウムのような狂信的な正義がやばい」 というよりは、
「どんな正義も、それが場合によっては他者を抑圧しうることを考えれば、ある程度のやばさを隠し持っている」 と考えたほうがいいでしょう。
ですから、三つの基準の一つ目に挙げた、
「人の意見を鵜呑みにしないこと」 ということが大切になってきます。
どんなに偉い人や、どんなに頭のいい人が言うことでも、またどんなにたくさんの人が信じていることでも、
いつでも確実に正しいと言えるわけではない、 のですから、なんとなく信じて、鵜呑みにしてしまうようなことには、危険がともないます。
もちろん、一人の人間が自分の経験からあらゆることについて正しい意見を持つことなどできませんから、信頼できる人の言うことを「多分そうなんだろうな」と少しだけ疑問を残しながらとりあえず信じておくことは、生きる上で役に立つことです。
けれども、偉い人や、賢い人が、あるいはたくさんの人が言っていることだからと言って、
「きっとそうに違いない」 と条件反射的に思ってしまうとしたら、非日常的で重要な局面では命を落とすことにもなりかねません。
2011年3月11日の津波で「大人の常識」にしたがったために命を落とすことになった宮城県石巻市の大川小学校の子どもたちのことを考えれば、ぼくが言っていることの意味は分かってもらえるでしょう。
リチャード・ロイド・パリーの「津波の霊たち」によれば、教員の指示で子どもたちが校庭にとどまっていたとき、二人の子どもが「危険だから山に逃げるべきだ」と言っていたことが記されています。
このとき大人たちに「子どもの直感」に耳を貸す知恵の持ち合わせがなかったために、「児童・教職員合わせて84名が死亡・行方不明」という大惨事を引き起こすことになってしまったのです。
この二人の子どもが「健全に教師を疑って」裏山に逃げていたら、命を落とさずに済んでいたのに、と残念でなりません。
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山田ノジル@スピリチュアル百鬼夜行さんのツイートが
・「子宮はお宮、膣は参道、だから女性のカラダはパワースポット」 2018年夏の子宮系ニセ医学トンデモ怪談 - Togetter
としてまとめられ、345件のブックマークがつき、あきれるやら、あざわらうやら、様々なコメントのオンパレードとなっています。
「スピリチュアル≒詐欺商法」と考える「はてな系純朴科学オタク」の皆さまとしては当然の反応だなと了解するのですが、「子宮系ニセ医学」とでも呼びたくなるような「オカルト」な言説にも、幾ばくかの存在意義があると考える者といたしましては、科学的リテラシー豊かなみなさまに
「オカルト的」言説の有用性 についてもう少しご理解いただけたらなー、と考えて、余計なお世話の解説を試みる次第です。
「子宮系ニセ医学」などの「有害性」についてまず確認 そもそも「子宮をお宮に見立てる」ことになんの問題があるのか? 科学と非科学を分けるという極めて難しい問題 助産師さんたちのホメオパシー信仰も含め、お産を女性が取り戻すことの意義について少し 「子宮系ニセ医学」などの「有害性」についてまず確認 ブックマーク・コメントで、id:kasekiiさんが、
冗談じゃなく女性誌ってほんとこの手の女性の体や医療に関する嘘情報が蔓延している。生理痛や片頭痛など女性特有の悩みに絡めて根拠ゼロの嘘がずらずら並べられた雑誌をローティーンのころから読まされる。有害 と完結に「嘘情報」の有害性についてまとめてくださっています。
「ニセ医学」とか「ニセ科学」とかがもっともらしく「嘘情報」を書き立てて、人の不安を煽ったり、不安につけ込んだりして高額商品を売りつけたりすることは、倫理的にグレーな領域に入るものであり、そうした「被害」を防ぐための啓蒙活動が大切だいうことについては、ぼくも異論はありません。
こうした問題は「女性」に限ったことではありませんが、「女性特有」の問題もあることから、そうした点に配慮することも大切でしょう。
しかしながら、こうした一見「嘘情報」と思えるものも、「100%嘘」と言い切ることはできないことには注意が必要です。
科学的には「眉唾もの」の説明であり、医学的には「無効能」であったとしても、プラシーボという暗示の効果を利用した「科学的にも説明が可能な効能」によって実際に「症状」が改善する人がいる以上、「その効能」を説く人や、それを素朴に信じる人に対して、
あざ笑ったり、バカにしたり、感情的に非難しても、大して有効ではない、 だろうなー、と思うわけです。
どうして「非科学的な言説」を信じる人がたくさんいるのか、どうしたらその状況を変えられるのか、そして、それはそもそも悪いことなのか、いろいろな問いかけが必要なように思われます。
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そもそも「子宮をお宮に見立てる」ことになんの問題があるのか? 山田ノジルさんの
【第14話】子宮系女子をはじめとする一部スピ界隈による主張→「子宮はお宮を表している!」「膣は参道」だから「女性のカラダはパワスポ」。本職(神職)曰く「神社の全体構造は女性器を模したものだなんて教義、聞いたこともなければその根拠もわからない」。
というような書きっぷりを見れば、おもしろおかしく人の言説を取り上げて、娯楽を提供する以上の意図はないのでしょうから、それについては別に言うこともありません。
「子宮をお宮に見立てるなんてバカバカしいことだ」 と思うみなさまは、仲間同士で「そうだ、そうだ」と盛り上がっていればいいというだけのことです。
けれどもたとえば、長野の善光寺などでは「戒壇巡り」というお参りがあり、別名を「胎内巡り」ともいうことは、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
母体を豊穣の象徴と考えたり、世界の力の根源として男根を信仰したりすることは、世界中で普通に見られる、人間にとってごく自然な世界観です。
太古の昔より、様々な疫病などで苦しんできた人々が、こうした宗教的な世界観や儀式などを使って暗示による自然治癒の効果を活性化し、生活に役立ててきたことは、「非科学的」でもなんでもなく、人間の歴史が生み出した生活の知恵であるのは明らかなことです。
もちろんそうした「信仰による治療」が、鎮痛解熱剤や抗生物質などに象徴される、劇的な効果を持つ近代的な薬物や治療法には遠く及ばない面も多いことは言うまでもありません。
けれども、現在の行き過ぎた近代医療による多大な「副作用」を考えれば、「スピリチュアル」な方法論は、決して嘲笑っていればいいような性質のものではなく、むしろその中の「有効な部分」を今後どのように近代医療に取り入れていくかが問われる時代になっているものと思われます。
その片鱗は、仏教的な瞑想の手法を取り入れた精神療法であるマインドフル・ベースド・認知行動療法 Mindfulness-based Cognitive Therapy (MBCT) の普及で注目された「瞑想の科学とその意義」が、精神療法にとどまらず、精神的な健康法や創造的な能力の育成法として、ひろくビジネス界に広っているアメリカ社会などのあり方を一瞥すれば、分かっていただけるのではないかと思います。
仲俣暁生さんというフリー編集者の方が、
・出版業界は沈みゆく泥舟なのか « マガジン航[kɔː]
という刺激的なタイトルで、日本における出版の現状について記事を書いています。
こちらの記事の内容を紹介するとともに、そこについたブックマーク・コメントも眺めながら、出版社と書籍の未来について考えてみることにしましょう。
インターネット経由の新刊購入は市場全体の1割程度、「文字もの」電子書籍の市場規模は「紙」の書籍の4パーセント程度 電子書籍の「コストパフォーマンスの悪さ」と「売る気のなさ」 書籍に未来はあるのか、あるいは、書籍なんて必要ないのか インターネット経由の新刊購入は市場全体の1割程度、「文字もの」電子書籍の市場規模は「紙」の書籍の4パーセント程度 ネットをよく使い、アマゾンで本を買うのは当たり前、電子書籍もそれなりに購入する、というみなさんからすれば、
インターネット経由の新刊購入は市場全体の1割程度で、 「文字もの」電子書籍の市場規模は「紙」の書籍の4パーセント程度、 というのは、
「えーっ、たったそんだけなのーー!!」 という意外な数字かもしれません。
とはいう、書籍という商品の性質と、出版業界のあり方を考えると、この程度の数字なのは当たり前のことかもしれません。
仲俣さんは、出版業界全体が縮小傾向にある中、漫画は電子書籍化が進んでいることも踏まえ、「文字もの」についても
「完全に曲がり角に来ている出版流通自体をなんとかしなければいけない」 という意味のことを述べています。
残念ながら、仲俣さんにも妙案はないようですが、まずは
ネット経由の新刊購入を伸ばすために、ネット上での書籍紹介の場が必要、 ということで、ご自分の関わっている
・Socrates(ソクラテス) – 世界を生きる知恵
というサイトを紹介しています。
こうした試みが出版の活性化にどの程度有効かは未知数ですが、ネット上に流れる書籍情報が多様化することはまったく歓迎すべきことです。
日本の出版界という「泥舟」の輝かしい未来に期待が膨らみますよね。
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電子書籍の「コストパフォーマンスの悪さ」と「売る気のなさ」 ブックマーク・コメントでは id:satomi_hanten さんが、
コミックは紙と同発が増えたのに対し(遅くても1か月遅れが多い)文庫は同発はまずないし1か月遅れは早い方。※ラノベは除く 且つ、電子嫌いの大物が多く品ぞろえもコミックに比べかなり悪い。トリガーが引けてない
と書いています。
また、id:PEH01404さんは、
「文字もの」電子書籍が未だに紙の4%なのは、コストパフォーマンスがわるいからだ。用紙代・印刷代・流通経費が不要なのに価格がたいして変わらない。コミックでは頻繁にあるセールも少ない。要は売る気がない。 と書いています。
id:ykhmfst2012さんは、
メジャー作家だと ハードカバー → 文庫 → 電書と来るから、電書で読めるようになるのは初出から3年後くらいでしょ。それで値段がハードカバー並とか表紙デザイン全カットとか基本的に客を舐めてる。売る気がない。
「月商600万円のメディア運営者」であるタクスズキさんが、
ヒカキン氏「消えるクリエイターは週1頻度で、時間をかけて凝った動画を配信する。消えずに活躍する人は質が低くても、毎日続ける」--これはブログも同じ。「内容薄くなる」は気にせず、毎日続けた方がアクセス、売上伸びるよ
という記事を書き、この記事のお知らせツイートが10,000件以上もリツイートされています。
タクさんのこの意見は「本当に正しい」と言えるのかどうか、少しばかり考えてみることにしましょう。
ちなみのこの記事の結論は、
成功者の意見だからといって、鵜呑みにしちゃダメだよ、 という平凡至極なものです。
「記事の品質は気にせず、毎日続けたほうがアクセス、売上は伸びる」は本当か? そもそもヒカキンさんは「毎日発信すべし」とは言ってないんだよね ブロガーとして成功したいあなたがまず考えるべきことは「自分なりのスタンスの確立」じゃないでしょうか 「自分なりのスタンスの確立」の実例としてオレノ・ユイゴンさんのこと 「記事の品質は気にせず、毎日続けたほうがアクセス、売上は伸びる」は本当か? 「月商600万円ブロガー」タクさんは、
「内容薄くなる」は気にせず、毎日続けた方がアクセス、売上伸びるよ
と軽やかに言い放つのですが、ちょっと考えれば、これってかなりの「嘘」ですよね。
「内容が薄くなる」のを気にせず、たとえば、「毎日ほかの人の興味を引くはずがない個人的な日記」を続けたところで、多少はアクセスが増えても、売上なんて「伸びる」わけないじゃないですか。
もちろんタクさんは、他の「有用で有料」な記事も書いてらっしゃっていて、どんな内容を書けばいいかのノウハウを提供してくださってるわけですから、そちらでお勉強をして「内容は薄くても需要のある」記事を毎日書き続ければ、きっとアクセスも売上も伸びるのでしょうから、「真っ赤な嘘」呼ばわりはできませんけどね。
タクさんの指導通りにできる方は、アクセスも売上も伸びること間違いなしですから、安心してタクさんを信じて、毎日「内容の薄い」記事を量産してくださったらいいと思います。
というようなわけで、
「毎日続ければいいってもんじゃないでしょ!!」 という線で、この話題をもう少し検討してみましょう。
そもそもヒカキンさんは「毎日発信すべし」とは言ってないんだよね さて、タクさんの引用だと、
ヒカキン氏「消えるクリエイターは週1頻度で、時間をかけて凝った動画を配信する。消えずに活躍する人は質が低くても、毎日続ける」
となってるんですが、元のインタビュー記事 (2015/05/22 付け https://toyokeizai.net/articles/-/70187) を見ると、
「毎日アップするのは時間的にきつくて内容も薄くなるから」と言ってペースを落とした人ほど見かけなくなって、無理してでも毎日続ける人の方がずっと第一線でやっています。
(強調、筆者。以下同)
となっています。
これって、
「質が低くても、毎日続ける」んじゃなくて、 「がんばって質を維持して毎日続ける」 って意味ですよね。
おまけにヒカキンさんのこのインタビューは2015年のもので、今年3月の新しいインタビュー( 2018.3.20付け https://www.froggy.money/8584/) では、
――ユーチューバーってたくさんいますが、人気が出てから長く残っていく人と、すぐ消えちゃう人の違いってなんでしょう。
残るのは、研究熱心な人ですね。いまはどういう時代で何が流行っているか、ファンが見たいのは何か。そういうことを常に研究して、視聴者のニーズと動画が、ちゃんと噛み合っている人。別に、毎日動画をアップする必要はないんです。週に1本でも、ニーズを外さずにコツコツ投稿して、うまくいっている人もいます。
といっていて、「毎日更新する必要はない」と言い切っています。
こうやってみてくると、人気ユーチューバーのヒカキンさんの言葉を「誤読」して、ツイッターで上手にアクセス数を稼ぐタクさんは、確かに「月商600万円のメディア運営」をなさってるんでしょうけれども、その内容は一体どんなものなんだろうなー、とかいう余計な疑問まで湧いてくるというものです。
いや、でも、みなさん、こんなことを書いてるからっていって、別にタクスズキさんに恨みがあるわけでもなんでもないんですよ。
タクさんは、せっかく大勢の読者を持つ人気ブロガーさんなんだから、もっと高品質の記事を書いて、ビッグになってほしいなー、と思って応援として書いてるんですから。
あっ、でもこれじゃ応援にならないのか。
だって高品質の記事をしっかり書くんじゃなくて、
低品質の記事をどんどん書けばいい ってご意見なんですもんね。
こりゃまた失礼いたしましたーーっ wW
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「LGBTには生産性がない」という差別発言で悪名を馳せている自由民主党所属・2期目の衆議院議員をつとめる杉田水脈(みお)氏ですが、理学博士の琳さんという方が、その杉田氏を擁護する内容のツイートをしています。
一連のツイートの中で、
「自分の知り合いにも性的少数者の人はいるが、そうした人から差別されているというような話は聞いたことがない」
という趣旨の発言があり、これに対し、ブックマーク・コメントが183もついていますので、その中身をちょっと見てみましょう。
「差別は存在しない」と自分の経験だけで言い切ってしまう誤謬 「誤謬」としか言いようのない意見にネット上で出会ったとき、どうすればいいのか もともとの杉田氏の発言に戻って、ニッポンの未来のお先真っ暗感を味わってみましょう 「差別は存在しない」と自分の経験だけで言い切ってしまう誤謬 琳さんは問題となっているツイートで次のように言っています。
友人のゲイは彼氏と楽しく暮らしてるし、バイの友人も普通に生活してる。もちろん彼らには僕らにはわからないような悩みもたくさんあるだろうけど、少なくとも「俺達は差別されてる」なんてセリフ聞いたことない。
「LGBTは差別されていて欲しい」と思ってるの、お前らなんじゃねーのかって思う。
これに対して id:Dragoonriders さんは、
周囲の人間が言ったかどうかをただ漫然と観測してるだけでは、わからないことだらけの世界。言っても理解しない人だから言わないだけかも、って自分を鏡で見る感性が必要。 と述べていて、まったく正論と言えましょう。
しかしながら、琳さんのような「差別される側」の気持ちを想像できないタイプの人に、「自分を鏡で見る感性」を期待することは残念ながらかなり無理なことでしょう。
id:tabidachi_nam さんは、
理系の癖に差別に関する当事者へのアンケート結果すらも見てないのかよ。観測範囲を極狭い範囲に絞ってレポート提出してんのかお前は。 と書いてらっしゃっており、琳さんの差別問題に関して、実際のデータに基づかずに主観だけでものを言っていることへの批判はもっともです。
ただし、彼女/彼が自分の専門の研究でどのような仕事をなさっているかということは、まったく分かりませんので、しっかりと科学的な真実を追求する姿勢で研究してくださっていることを祈るのみです。
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「誤謬」としか言いようのない意見にネット上で出会ったとき、どうすればいいのか 琳さんのツイートについたコメントの多くは、おおむね二つの種類に分けられます。
皮肉っぽくからかうもの、と 明らさまにバカにするものです。 どちらもそれぞれの方の意思表明として大いに意味はあるのですが、もともとの琳さんの発言の中に、
「弱者を仕立て上げ、悪者を作り上げ、攻撃しやすいフレーズで、よってたかってその『悪者』を叩く」というパターンが、東北震災からこっち、特に顕在化したと感じている。
彼らは、騒ぐだけ騒いで焼け野原にした後は、知らんぷりで次の獲物に向かう。
もういい加減、踊らされるのやめましょうや。
という言葉があるのことを考えると、ユーモアでからかうのはともかく、ぎらぎらと怒りをぶつけるような言葉には、やはり違和感を感じてしまうのです。
杉田水脈氏の発言も、琳さんの発言も「限りなく誤謬としか言いようのないもの」だとは、ぼくも思います。
けれども、それを「攻撃して叩き潰してなきものにしよう」と思って発言してらっしゃる方には、
「そういうやり方ってホントに有効ですかね?」 と聞いてみたいのです。
データに基づいて有効性を示してくれ、というわけではありませんが、自分の胸に手を当てて、
「これはただ自分のストレス解消のためにやってるだけではないのか?」 と自問してみてほしいと思うのです。
もちろん「ストレスの解消」も大切なことですから、それを分かってやってらっしゃるのなら、何も言うことはありません。
そうではなく、
「民主主義的原理」を「勘違い」して、「ディベート原理主義」に落ち入っていないか、 相手を叩き潰していけば世の中はよくなる、という到底ありそうにない「空想」を信じこんでいないか、 そういうようなことがもしあったなら、ここらで少しネット上での発言のスタイルを変えることをご考慮していただけたら嬉しいなと思うのです。
今回はわっとさんの記事に相乗りさせていただいて、街頭で政治的な意思表示をすることの意味と、民進党の枝野幸男氏による国会での「安倍内閣不信任決議案の趣旨説明」について書くことにします。
オウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫氏をはじめとする13人の死刑囚に対する「処刑」が、2018年7月に二回に分けて執行されました。
この件について、作家の村上春樹氏が毎日新聞に次の記事を寄稿しています。
・村上春樹氏:寄稿 胸の中の鈍いおもり 事件終わっていない オウム13人死刑執行 - 毎日新聞
村上氏は「アンダーグラウンド」というノンフィクションの作品で地下鉄サリン事件の被害者や遺族のインタビューをまとめており、オウム事件の裁判の傍聴も続けてきました。
本稿では、村上氏の寄稿記事を紹介するとともに、オウム真理教事件がわたしたち国民の一人ひとりに問いかける問題について、今一度考えてみたいと思います。
死刑という制度は必要なのか、生きて償いをするべきではないのか 「師を誤らない」ためにはどうすればいいのか - 林泰男氏の場合 死刑という制度は必要なのか、生きて償いをするべきではないのか 村上氏ははじめに、一般論として「死刑には反対の立場である」ことを述べ、その理由として
死刑が究極の償いであるという考え方は、世界的にコンセンサスが得られなくなっていることと、 数多くの冤罪事件を考えれば、死刑は「致死的な危険性を含んだ制度」である ことを挙げています。
一方で、オウム真理教事件に関しては、
「アンダーグラウンド」という本を書く過程で、丸一年かけて地下鉄サリン・ガスの被害者や、亡くなられた方の遺族をインタビューし、その人々の味わわれた悲しみや苦しみ、感じておられる怒りを実際に目の前にしてきた僕としては、「私は死刑制度には反対です」とは、少なくともこの件に関しては、簡単には公言できないでいる。
と書いています。
村上氏がこのように述べていることにはまったく共感するのですが、ぼくの個人的意見としては、オウム事件についても死刑を執行するべきではなかったと考えるのです。
もちろん村上氏が書くように、
「この犯人はとても赦(ゆる)すことができない。一刻も早く死刑を執行してほしい」という一部遺族の気持ち
があることを考えれば、そうした遺族に対して、「いや、死刑という制度には問題があるから、死刑を執行するべきではなかったのだ」というようなことをわざわざ言うぺきだとは思いません。
現に今の日本に死刑という制度がある以上、その刑罰が現実に執行されたことについてはそれなりの合理性も当然あり、一部の遺族の気持ちがそれで多少なりとも安らぐのであれば、その事実まで否定することはできないからです。
しかしながら、死刑という刑罰の形ではなく、生きて「なぜあんな事件を起こしてしまったのか」という問いと向き合い、不完全ではあってもその答えを社会に伝えるという形で償いをすることのほうが、犯罪を犯してしまった人にとっても、そのどう時代を生きる者にとっても、ずっと意味があるはずだ、という考えはぼくの中で揺るぐことはないのです。
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「師を誤らない」ためにはどうすればいいのか - 林泰男氏の場合 村上氏は、オウム事件の裁判の傍聴に当たり、地下鉄でのサリン散布を実行し、13人中9人の死亡者*1を出したことから、「殺人マシーン」の異名で呼ばれることになった林泰男氏の裁判を特にフォローしたと述べています。
氏は、林泰男について「他の実行犯たちが、サリン・ガス溶液の入った二つのビニール袋を、尖(とが)らせた傘の先で突いたのに対し、自分から進んでビニール袋を三つに増やしてもらい、それを突いた」と書いていますが、ハフポストの記事
林泰男死刑囚への1審判決で、裁判長が出した異例のメッセージとは?(ハフポスト日本版) - Yahoo!ニュース
によると、「喜んで」三つの袋を受け取ったわけではなく、「みんながいやがる仕事を引き受ける」という「真面目さ」からそのような結果になったことがうかがい知れます。
一審において林泰男の審理を担当した木村烈裁判長は、量刑理由の要旨で、
被告は元来凶暴、凶悪な性格ではない。魚屋を営む友人が病み上がりの体で商売する姿を見かねて自分の仕事を犠牲にして手伝ったこともあり、善良な性格を見て取れる。松本被告や教団とのかかわりを捨象して林被告を一個の人間としてみるかぎり、資質や人間性それ自体を取り立てて非難することはできない。
およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、林被告もまた、不幸かつ不運であったと言える。
(強調、筆者。以下同)
先日某所にて、著作権法で保護されているデータを私的なコピーとして「限定的」に公開したところ、id:typex2さんから、「それってまずいんじゃない」という意味のコメントをいただきました。
そこで今回は著作権の問題を題材に、さまざまな法規制と賢くつき合う方法を考えてみることにします。
著作権法でも私的コピーは認められているという立場 「善意から出た一言」がかえって著作権の侵害を引き起こすという奇妙なよじれ cdのデータをコピーして友だちにあげたことはありませんか? 法の恣意性と「法に魂を入れる」ことの意義 著作権法でも私的コピーは認められているという立場 著作権法を厳密に解釈すれば、確かにぼくの行なった「限定公開」は「問題」をはらんでおり、「技術的には誰もがコピーできる」場所に他人の著作物を保管することは、賢いやり方とは言えません。
typex2さんのおっしゃる通り、「公開」をとりやめにしたほうが波風立てずに「安全なセーカツ」が送れるというものです。
けれども法律というのは所詮「ニンゲンが便宜的に定めたもの」としか考えないぼくの立場からすれば、
著作権法で保護されたものであっても、私的なコピーを取ることは個人の自由として当然認められている、 と考えますから、行為の結果起こることの責任は自分がとることはこれも当たり前の前提として、「限定公開」と称してオープンな場に私的コピーを保管することくらい、
「別にいーじゃない、カラスの勝手でしょ」
と言いたくもなるところなのです。
「善意から出た一言」がかえって著作権の侵害を引き起こすという奇妙なよじれ typex2さんが「あなたのしていることは著作権の侵害に当たるのでやめたほうがいいですよ」と善意で言ってくださっているのは痛いほど分かるのですが、
「xxxさんの著作物を勝手に公開するのは問題だ」 というような書き方をしている点については、そのような形で著作権者の名前をオープンにすることは、
かえって著作権の侵害を助長することになる ので、
「そういうやり方は、やめといたほうがいいでしょう」 と思います。
ぼくは「限定公開」をお知らせする記事で、
不特定多数の人に対してダウンロードを許可するものではなく、あくまでぼくの個人的な友だちに対する私的な公開である ことを断っています。
そのため検索流入がおこらないように、タイトルや作家名などは明示していません。
それなのに、あー、それなのに、それなのに、typex2さんはご丁寧にも作家名を明示してくださってしまったので、これによってぼくの友だち以外の誰ともしれない人々が、大量の違法コピーをすることになって著作権者の方に多大な損害を与えた場合、保管者としてのぼくの責任はもちろん生じますが、違法コピーを助長する行為を行なったtypex2さんもその法的責任をまぬがれえないだろうことを考えると、せっかく善意からの助言をしてくださったtypex2さんには、今後はそのような「危険」な発言はなさらないように、くれぐれもご注意いただきたいと思うのです。*1
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cdのデータをコピーして友だちにあげたことはありませんか? さて、typex2さんのような生真面目に法律を遵守され
cdの一枚も違法コピーをしたことがないような方 には、ぼくのやっている「超法規的行為」の意味がまったく分からず、社会の存在基盤が揺らぐような危機感すら覚えるかもしれませんので、どうして一見「おろか」としか思えない「パブリックな場に私的コピーを保管する」ような無謀な行為をわざわざ行なっているのか、その考え方について少しばかり説明してみましょう。
著作権の保護期間が50年から70年に伸ばされることの是非が取り沙汰される昨今ですが、その延長を否定する論の根拠として、多くの著作者の出版物について、そもそも死後に発行されること自体が少ないことを調査したデータがあります。*2
であるにもかかわらず、保護期間を50年から70年に延長することは、ごく少数の力のある著作権者の権利ばかりを保護して、人類の共有財産である多様な著作物へ多数の者が自由にアクセスする権利を侵害ずるのは、「よろしくない」法律であると言いうるわけです。
同じことが現行の著作物の保護に関しても言えるはずだ、というのがぼくの個人的な見解です。
たとえ有名な作家であっても、うん十年前のもはやほとんど「売れない」作品というものはあるわけです。
とは言え、そうした作品も著作物として権利が保護されますから、これを勝手にコピーして販売するとなれば、それはもちろん取り締まりの対象となるでしょう。
けれどもそうした「古い作品」を、私的コピーの範囲で少数の「友だち」の便宜を図るために、パブリックではあるが目立たない場所に保管する程度のことは、わざわざ法律で取り締まる必要があるほどの大きな権利侵害には当たらず、多くの「善良な市民」が行なったことがあるはずの「cdを友だちにコピーしてあげる」ことと同じくらいの
軽微な法律違反にすぎない、 と考えるわけです。
図書館で本を借りて読むにしろ、古本屋で本を買って読むにしろ、「著作権者にお金が入らない」という意味では、「ネット上でデータを『借りて』読む」場合となんら変わりはありません。
「多数派の規範の押しつけ」が強くなっていることをひしひしと感じる今だからこそ、
※事情により、この記事に対するブックマーク・コメントは非表示にしております。
ジモコロのナカノヒトミさんの記事
・せどりから古本屋で年商16億円!? amazonでよく見る「バリューブックス」の正体 - イーアイデムの地元メディア「ジモコロ」
を読んで、
「おー、バリューブックス、たまたまこの間はじめてアマゾンでここから本を買ったけど、そんなにすごかったのか!!」
と軽く驚かせていただきました。
一日に二万冊の本が送られてきて、一万冊の本を販売、年商は16億円とか。
今日はそんなバリューブックスの話から、書籍や書店の未来について妄想してみたいと思います。
本を買い取って売るだけじゃない。バリューブックスの付加価値的活動とは? 本の未来と書店の行方はどうなるんでしょうね。 本を買い取って売るだけじゃない。バリューブックスの付加価値的活動とは? 株式会社バリューブックス代表の中村大樹さん(34歳)は、東京電気大学を卒業後、就職せずに初めの二年間は個人事業主として古本のせどりを商売にしました。
「せどり」とは、ほかの古本屋で価値ある安い本を仕入れ、高額で売ることで差額を利益にする商売です。
その二年間で、最終的には仲間五人ほどで事業を行ない、年商8,000万円ほどだったというのだから、見事なものです。
そして会社を立ち上げ、今に至るわけですが、その活動はただ本を仕入れて販売するだけにとどまりません。
買取・販売ができなかった本を、老人ホームや児童施設に寄付したり、NPO法人の資金集めに協力するために本の買取をしたり、また、古本の販売時に提携した中小出版社の本については、出版社に利益を還元するなど、ユニークな取り組みをしています。
古本関係では、福島の会津で「本と森を交換する」古本屋さん『たもかく』も古くからとても面白い試みをしていますが、出版業界の先行きが不透明な今、新しい流れが生まれ、変化が続いていくことには、心躍るものを感じます。
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本の未来と書店の行方はどうなるんでしょうね。 さて、ナカノさんの記事のブックマーク・コメントでid:typex2さんという方が、
このビジネスは出版業界の利益を横取りしているだけで何も生み出さないから、最終的には出版業界を殺して終わりなんだろうな。。 と書いてらっしゃって、まあ、言わんとすることは分かります。
けれどもバリューブックスさんは「提携出版社への利益還元」を行なっているわけですし、そうした提携が一般化していけば、「利益の横取り」とは言えなくなります。
また、出版業界がそう簡単に「死んでしまう」かというと、そこのところも、必ずしもそうは言えないだろうな、と思うのです。
今の出版業界は多種少量販売になっているからこそ、新しい形の古本屋が生まれうる余地があるわけですし、その多種少量販売の中でどんな本が売れるかについても、いくらでも新しい可能性がありえます。
キンドルなどの電子書籍の販売が今後さらに一般化していくことも間違いありませんが、紙の書籍の利便性には相当程度の優位がありますので、出版業界の再編は起こるでしょうし、長期的な低迷は避けがたいでしょうか、業界自体が簡単に死滅するとは到底思えません。
また、cd 全盛の現代においても塩ビのレコードの需要が決してなくならないこととも似て、十分な未来においてほとんどの人が電子書籍しか読まなくなったとしても、好事家は紙の書籍を愛し続けるに違いありません。
そうなれば、古本の希少なものは今以上にプレミアムがついた価格で取引されることも予想されますから、古本屋というものも存在形態は変わっても文明の滅びない限り、人類と運命を共にすることになるのではないでしょうか。
というわけで、出版というものの未来がどんなものになるのかについて、未来図をはっきり描くようなことはできませんが、若い頃より本を愛してきた者として、書籍の未来に想いを馳せながら、そろそろこの記事を終わることにしましょう。
なお、本稿は、id:A1rironさんの
・本とヒトに優しい古本屋さん『バリューブックス』の世界観は「古本屋界のサードウェーブ」だと思った! - A1理論はミニマリスト
に刺激を受けて書かせていただきました。
id:A1rironさん、ありがとうございましたー。
てなとこで、この記事は一旦おしまいです。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
はてな匿名ダイアリーに投稿されたほんのイタズラ程度の短い書き込み
・ニセ科学には怒り狂うけど「ネコは人語を解する」には寛容なはてなー
に330以上のブックマークがついているもので、今日も今日とて「ニセ科学」ネタで「ネット上での意見表明」というものについて考えてみようと思います。
「猫は人語を解するのか」についての心理学的コーサツ 「ニセ科学批判」という名の「ニセ科学商法批判」と社会正義の恣意性について 「批判という名のストレス発散」にはもちろん存在意義がある 「猫は人語を解するのか」についての心理学的コーサツ 件の匿名記事のタイトルを素直に受け止めれば、この記事を書いた匿名さんは、
猫が人語を解するわけがない、 と言いたいのでしょう。
「言葉を理解する」ということを「一つ一つの単語の指すものを理解し、全体としての文章の意味を理解する」というように考えれば、「猫には人の言葉が理解できる」という主張には、無理があるように思えます。
けれども、恋人にふられた飼い主がペットの猫に「くやしい、悲しい」といった意味のことを言ったときに、猫がそれを「理解」してくれて「優しく寄り添ってくれる」というようなことならば、猫好きの人なら当然「あるある」と思うに違いありません。
それは厳密には言葉を「理解」しているわけではないかもしれませんが、飼い主からすれば、「確かに自分の気持ちを理解してくれている」と思って当然の経験ですし、これをして「猫は人の言葉が分かるのだ」という人がいるとき、「科学的な分析」に基づいて、「猫に人の言葉が分からない」などとわざわざ言う人がいるとしたら、無粋の極みと言えましょう。
というわけで、「猫が人語を解するかどうか」という問題は、自然科学の問題というよりは心理学的な問題であり、「科学的真実の前には人間関係なんてどうでもいいのだ」という超原理主義的科学オタク以外の人が、わざわざ「猫・人語」問題にケチをつけるなどということは、実質的にあるわけもない「戯れ言」ということになりましょう。
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「ニセ科学批判」という名の「ニセ科学商法批判」と社会正義の恣意性について さて、件の匿名記事の全文は次の通りです。
まあ猫様はヒトカスの上にあるから仕方ないよね!
……正直にいうと、騙されたり金儲けでない程度の与太話ならいいんでないの。なのでEM菌商法は滅びるべき。
つまり、「ネコは人語を解する」という話題は、この書き込みをした匿名さんからすれば、ただの「ツリ」にすぎないわけで、
はてな界隈の人たちが好きそうな「ニセ科学批判」のネタをちょっと突っ込んでみました、 という書き手の意図は、まったくはっきりしています。
そこで「ニセ科学批判」とは何のことで、それにはどういう意味があるのかについて少し考えることにしましょう。
この場合についても、科学原理主義者の方々が「科学的におかしな言説が世の中に広まることはけしからん」という観点から、さまざまな「疑似科学」についてそのどこが「非科学的」なのかを啓蒙するために、意見を表明するということは、社会的にもそれなりの意味があるものと思います。
けれども、はてな界隈の言説をしばらく観察していて分かったことは、「ニセ科学批判」をする多くの人は、そうした「科学的真実」について語りたいわけではなくて、科学的な言説が詐欺的な商法に使われることに嫌悪感を感じているために、いわば社会正義の観点から「ニセ科学『商法』批判」をしているのにすぎなかったんだな、ということです。
「猫が人語を解する」という話題をネタにした匿名さんもまさにこうした主張の持ち主であり、
人を騙して、金儲けをするために「ニセ科学」を使うな、 ということをおっしゃっているわけです。
これも、確かにそれなりに意味のある意見表明と言えます。
というわけで、ここでは「ニセ科学批判」と言われているものは実質的に「ニセ科学商法批判」なのであり、それには確かに社会的意義も十分ある、という立場で話を進めていくことにします。
しかしながら、
EM菌やホメオパシーは「ニセ科学利用の詐欺商法」であるからけしからん、 というような個別の事例についての意見を考えるときには、「EM菌」や「ホメオパシー」といったものが、はたして本当に「詐欺商法」なのか、ということを、自然科学的見地だけからでなく、社会科学的見地からも検討する必要があるでしょう。
それでなければ、せっかくの批判も、単に自然科学オタクの人たちが仲間同士で「仮想敵」を攻撃するだけのごっこ遊びの域を出ないだろうことに、十分注意が必要なのではないかと思うのです。
EM菌やホメオパシーを信じて、現に救われる人がいるからこそ、そうした「擬似」科学を元にした経済行為が成り立つわけであり、それがプラシーボ効果でしかないとしても、そうしたサービスを喜んで利用する人がいる以上、そこに効用以上の明らかな害悪がないかぎりは、社会がそれを禁じることなどありえません。
ですから、
EMもホメオパシーも、そんなん信じてる奴はアホや というような言説をネット上で発するだけで、社会正義の実現に役に立つとナイーブに思っている方々には、
なぜニセ科学を信じる人は多数いるのか、 それを是正するためにはどういう言説が有効なのか、 といった基本的なことがらを、今一度ご深慮願いたいと思うのでありました。
ある言説が「ニセ科学」であるかどうか、という社会正義に関わる判断には多分に「恣意性」があることを考慮した上で、しっかりとその言説の問題点を指摘するのならば、社会的にも大いに意義あるものとなりにちがいありません。