73年前の夏に無条件降伏という形で敗北を喫した対米戦争について、
極端な精神主義に落ち入った非合理的な軍部の暴走によって行われたもの、 というふうに考える人は多いに違いありません。
けれども、歴史的な資料を検討すると、精神主義的傾向の強かった陸軍においても、「秋丸機関」の報告書によって、圧倒的な経済力を持つアメリカを相手にした場合、その戦争に勝利することが極めて難しいことは、はっきりと理解されていたことが分かります。
にもかかわらず、軍部はなぜ対米戦という「非合理的で危険な賭け」に出ざるをえなかったのでしょうか。
この理由が、軍部の知性の欠如によるものではなく、人間の「自然な心理的傾向」によるものであることが、行動経済学のプロスペクト理論によって合理的に説明できます。
まずはプロスペクト理論について簡単に例を見てみましょう。
人は目先の損失を嫌って、損を挽回するために「危険な博打」を打つ 対米開戦時の2つの選択肢 - 戦わずして屈服するか、一か八かの賭けに出るか 対米開戦を選ぶように「仕組まれた」日本 「賢い」政策はどうすれば可能になるのか 人は目先の損失を嫌って、損を挽回するために「危険な博打」を打つ あなたが仕事でミスをして、3,000万円の損失を出してしまったとします。
このとき、ある取引先から「うまい話」を持ちかけられ、その取引がうまくいけば、3,000万円の利益が得られることが分かったとします。
ただし、3,000万円の利益が得られる確率は 20% で、80% の確率で逆に1,000万円の損失を重ねる可能性があります。
このとき、
A. 「うまい話」には乗らずに、損失の 3,000 万円を確定する。
B. 「うまい話」に乗る。
のうち、選択肢 B. を選ぶと損失の期待値は、
(3,000 万 - 3,000 万) x 80% + (3,000 万 + 1,000 万) x 80% = 3,200 万円
となって、A. の損失 3,000 万円を上回ってしまいます。
ですから、数学的な意味での合理的な判断としては、A. を選んで 3,000 万円の損失を確定したほうがいいのですが、心理学的な実験の結果から、多くの人は、現にある「目先の損失」3,000万円を嫌って、B. という危険なギャンブルを選んでしまうことが知られています。
これは必ずしも人間が「非合理的な思考」をしているということを意味するわけではなく、人間が自然界で生存するためには、このような判断基準が十分に「合理的」なものだったのだということも分かっています。
つまり多くの人間は、数学的な意味での合理的判断とは違う、「心理学的な合理性」の世界を生きていることになります。
対米開戦時の2つの選択肢 - 戦わずして屈服するか、一か八かの賭けに出るか 上で見た構図を対米開戦時の日本の状況に見ることができます。
a. 資金を凍結され、石油を禁輸された日本は、対米開戦しなければ「ジリ貧」になり、 2-3年後にはアメリカに屈服せざるを得ない。
b. 開戦した場合、強大な国力のアメリカに惨敗して「ドカ貧」になる可能性が高い。しかし確率は低いが、短期決戦で一定の勝利を得れば、アメリカに屈服しないですむかもしれない。
この場合、
「ジリ貧」や「ドカ貧」の内容をどの程度に見積もるか、 勝利を得る確率をどの程度と見るか によって、数学的に合理的な選択がどちらになるかは変わってきますが、プロスペクト理論の効果が働くため、どうしても b.
※ 参考記事 http://delete-all.hatenablog.com/entry/2018/08/17/190000
誰にでも苦い過去というものがある。
苦い過去の記憶を、苦いままに持ち続けて悪い理由もないのだが、その苦さに曇った結ぼれの記憶を、洗い浄めて水晶のように澄み切った結晶にすることもできる。
一度限りの人生を最大限に楽しむためには、苦労してでも知っておく価値のある命の技法だ。 この世に生まれ落ちて、誰かに頼らなければ生き延びることのできなかったぼくたちは、周りの価値観を手当たりしだいに飲み込まざるを得なかったのだし、そうやってエゴを育てることで、今のキミは創られてきたのだ。
けれどもエゴというものは奇妙な存在で、快楽を求めるがゆえに、不快な感覚にすら慣れ親しんで、そこからも快楽を得ようとする。
たとえば自己憐憫という甘い快楽だ。
どうしてあのときキミは、あんなことをしてしまったのだろう。
友だちのためを思って、優等生のキミは行動していたはずなのに、実際にはキミは友だちにウソをつき続けていたのだ。
友だちにだけではない、キミは自分にもウソをつき続けていたのだ。
だからキミはその友だちに「嘘つき」と呼ばれたときの、恥ずかしいような逃げ出したいような気持ちを忘れることができず、その気持ちを思い出しては自己憐憫に浸ることになる。
そうして、その自己憐憫を抱え続けている間は、キミは自分を欺く人生を生き続けるのだ。
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自己憐憫とは「偽りの自分」を甘やかし、「本当の現実」からキミの目を背けさせるための甘い誘惑だ。
一度限りの人生を心の底から楽しみたいのなら、そんな自己憐憫に浸っている暇はない。
過去の自分の罪悪感など、その気になればいつでも捨て去ることができる。
そのことをまず、キミは思い出さなければならない。
記憶というものは結局、脳神経に刻み込まれた動的で複雑怪奇なパターンにすぎない。
手品のようにそのパターンを、一瞬のうちに書き換えることはできないが、それを変えようとキミが本気で望むのならば、丸ごと捨て去ることだって不可能ではないのだ。
キミはまず、子どもだった自分が、自分を騙し、友だちを騙しながらも、ベストを尽くして生きてきたことを思い出さなければならない。
「子どもだったキミの限られた経験値の中では、あのとき自分に正直になった上で、友だちにも正直に接することはできなかったのだ」
という過去の現実を、罪悪感なしに客観的に見ることが、大人になったキミには可能だ。
「自分は嘘つきで友だちに責められるダメな人間だ」
という記憶を
「子どもだったぼくには嘘をつくことしかできなかったけれど、そこから学んだぼくはもう嘘をつく必要はない」
という新しい記憶に置き換えてやればいいのだ。
そのとき「嘘をついた自分」に「嘘つき」と言ってくれた友だちの姿は、光り輝く大切な記憶となって、キミの心の奥底にしまわれて、いつもキミに生きる力を与えてくれる存在になるだろう。
過去を書き換える方法を知らないキミは、今日も自分に嘘を言い続けている。
うんざりしながらも、他人に親切な振りをして、自分の心をすり減らし続けているのだ。
そうして自分にはこのやり方しかないのだと、自己憐憫の甘い快楽に浸り続ける。
けれども過去を書き換える方法が分かった以上、いつまでも昨日のやり方にしがみつく必要はない。
キミが他人に親切にするのは、誰かから押しつけられた価値観によってではなく、それがキミにとっても気持ちよいときだけにするのだ。
無意識のうちに取り入れてしまったルールを一つひとつ検討し、記憶と行動のパターンを再構成してやるのだ。
あせらずにできる範囲で、できるところから、自分の記憶を書き換え、自分の行動を置き換えていけばいい。
話としては簡単でも、実行はもちろん難しい。
満足できるところまで書き換えるのには、うんざりするような長い道のりが待っているかもしれない。
それでもキミは、今からその道のりを歩み始めるのだ。
自分の人生に納得できないのは、自分に嘘をつき続けてきたからだと、キミはもう知ってしまったのだから。
最高の人生を生きるためには、それ以外の道はないことに気づいてしまったのだから。
id:Vergil2010さんという、かなり「左がかった」方の
・天皇裕仁のワースト・オブ・ク○「思し召し」大会
という記事が1,100を超えるブックマークがついて話題沸騰中です。
そこで今日は、昭和天皇の戦争責任と、民主主義社会の実現にはどんな考え方が必要かを考えてみます。
結論としては、
昭和天皇には戦争責任があるし、 民主主義の実現には、罵り合いではなく、「熱い議論」が必要である、 という話になります。
昭和天皇の戦争責任が問われなかったのは、アメリカのご都合主義の賜物である 昭和天皇が「どのような発言をしていたのか」を知ることには意味がある 「罵り合い」によっては民主主義は実現されない 民主主義の実現のために必要な「熱い議論」について 追記: タイトルに関するお詫び 昭和天皇の戦争責任が問われなかったのは、アメリカのご都合主義の賜物である 昭和天皇は国家元首として太平洋戦争(ないし十五年戦争)を遂行したのですから、彼にその戦争責任があるのは当然のことです。
軍の上層部が情報を操作していたために、昭和天皇が十分に合理的な判断を下せなかったのは事実でしょうが、仮に彼が操り人形にすぎなかったとしても、法的な責任が彼にあるのは明らかです。
それが「どの程度の責任だったのか」は、戦勝国が法廷で裁くべきだったのであり、それを免責してしまったのは、アメリカのご都合主義としかいいようがありません。
昭和天皇が「どのような発言をしていたのか」を知ることには意味がある アメリカのご都合主義によって昭和天皇が免責されてしまったために、昭和天皇の責任というものを検証する機会が、実質的に奪われてしまったことは、戦後日本の民主主義にとって大変不幸なできごとだったと言えます。
このとき昭和天皇が、
「実際にどのような発言をしていたのか」 を知ることには大きな意味があります。
Vergil2010さんの記事は、「左寄り」の一方的な立場から都合よく編集したものにすぎませんが、多くの日本人が
「昭和天皇とはどんな人物なのか」を知らない という現実を考えれば、こうした片寄った記事にも一定の価値は認められます。
それが「極端な意見」であることに気づいた上で読めば、
「昭和天皇が、いかに世間離れしており、今の時代感覚では理解できない意識の持ち主か」 ということを知る上では、確かに役に立つものだからです。
「罵り合い」によっては民主主義は実現されない Vergil2010さんの記事の最大の問題点は、事実を述べる形を取ってはいるものの、そこに「『敵』を罵倒する意図」が見え隠れするところにあります。
昭和天皇裕仁のク○な「思し召し」
(罵倒語の伏字化は引用者による)
というような表現は、「民主主義社会の実現を望む人間」が使うものではありえません。
現在の間接民主制の根本的な問題の一つは、
「敵を罵ることで、見方の支持を得る」 というやり方にこそあるのではないでしょうか?
世界中に蔓延しているそうしたやり方は、本来は手をつなぐべき人間同士を、パワーゲームの駒としていたずらに分断するだけであり、民主社会の実現のためにはまったく有害な方法であると思われます。
「天皇ヒロヒト」というような記号化された存在に、「民衆の憎悪」をぶつけるように導く言動を行なうことは、カビの生えた「民衆扇動法」に過ぎず、民主主義とはなんの関係もない、ただのパワーゲーム的戦略でしかありません。
苗字も、職業選択の自由も持たずに生きた、「一人の人間」としての裕仁さんの「苦悩や悲哀」というものについて理解することなく、彼の愚かさや醜さだけを言い立てるのは、戦争の歴史を振り返るためにも、彼の戦争責任を考えるためにも、ほとんど役に立たないものでしょう。
Vergil2010さんが、今のニッポンの「全体主義化」を憂いているのであれば、こうした点について、ぜひともご一考を願いたいところです。
民主主義の実現のために必要な「熱い議論」について 民主主義の実現のためには、「罵り合い」は必要ありません。
かといって、冷静な議論だけでも、民主社会は実現しません。
なぜなら、頭のいい人間が、議論や情報操作によって大衆を操作するのが資本主義社会の方法であり、それを乗り越えていくためには、人の気持ちに訴えていく方法論が必要だからです。
人の気持ちに訴えかける「熱い議論」というものが、現代のような状況の中で、どのように可能なのかは、ぼくにも分かりません。
けれども、インド独立の立役者であるマハトマ・ガンジーを始めとして、参考にするべき人物や方法論は、歴史の中にたくさん埋もれていることでしょう。
Vergil2010さんの記事自体は、賞味期限切れに思える「左翼的文脈」の中にとどまるものとは思いますが、それを読んだ人の中から「熱い議論」が生まれてくることを期待します。
この記事を書くきっかけを与えていただいたVergil2010さんには、深く感謝いたします。
てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬
追記: タイトルに関するお詫び タイトルに伏字とは言え「ア○ウ」という言葉を使っていることについて、あらかじめお詫びしておきます。
「強い言葉を使って注意を喚起する」という以上の意図はないのですが、一部の方が不愉快に思われるだろう言葉をわざわざ使っているのは不徳の至りであります。
校正・校閲の仕事をしてらっしゃるbxjpさんの書いた
・校正のバイトをしててよく直す箇所10選|bxjp|note
が、分かりやすい文章を書くヒントとしてよくまとまっているもので初心者向けに役に立つものと思いますので、この記事ではその内容をシェアする形で、分かりやすい文章を書くためにはどんなことに気をつけたらよいかを考えてみます。
なお、ぼく自身は校正や編集の仕事をしているわけではなく、この記事では、ネット上で文章を公開している者として、自分が普段心がけていることを書いているだけであることを初めにお断りしておきます。
bxjpさんの「よく直す箇所10選」 1. 順接の「が」が頻出する 2. 「も」を使いがち 3. 「することができる」を使いがち 4. 途中で主語が入れ替わっている 5. 意味のまとまりで「、」を打たない 6. 列挙するときに余計な語句を入れてくる 7. そこ漢字?ってところが漢字 8. 同じ表現・言葉が近い位置に出てくる 9. 表現がバラエティ豊かすぎる 10. 同じことを書いている&省略せずに書いている A. 因果関係を示すために「ため」を使わない B. 「の」でなくてもいい場所から「の」を追放する C. 「イ形容詞+です」を避ける D. 「行う」を減らす E. 目的語の不足や、位置の修正 分かりやすい文章を書くためには、うまい文章を真似ること、そして自分の文章をしばらく寝かせて読みなおすこと bxjpさんとShikanoさん(後述)の記事を踏まえて、はてなの編集スタッフであるayako_m (id:ayakoya)さんが、
・日本語の編集をしていてよく直すパターン19選 - 壁に飾られた絵画を見ようとしてその絵に近寄ってはいけない
という記事を書いてらっしゃってます。
ぼくの記事より百倍切れ味がいい上に、四項目追加されてますので、今すぐ上記記事に跳んでください(笑)。
bxjpさんの「よく直す箇所10選」 bxjpさんは、次の10項目を挙げて、
「別に直さなくてもいいかもしれないけど、気をつけた方が読みやすい文章になるんじゃない?」
という趣旨で目安を示してくれています。
1. 順接の「が」が頻出する
2. 「も」を使いがち
3. 「することができる」を使いがち
4. 途中で主語が入れ替わっている
5. 意味のまとまりで「、」を打たない
6. 列挙するときに余計な語句を入れてくる
7. そこ漢字?ってところが漢字
8. 同じ表現・言葉が近い位置に出てくる
9. 表現がバラエティ豊かすぎる
10. 同じことを書いている&省略せずに書いている
また、Shikano Keiichiroさんという理工系出版社で制作をなさっていた方が、
・k16's note: 日本語の編集をしていてよく直すパターン15選(増えるかも)
はてな村の名エッセイスト、フミコフミオさんの
・なぜ仕事に好き/嫌いを持ち込むの? - Everything you've ever Dreamed
が、なかなか素敵に心を揺さぶる文章だったので、感想を書きます。
仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人の気持ちが分からない、仕事嫌いのフミコさん フミコさんに共感するはてな村の人々 仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人は、好きですか、それとも嫌い? 仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人の気持ちが分からない、仕事嫌いのフミコさん フミコさんは件の記事で、
仕事に「好き・嫌い」を持ち込み、 「このクライアントは好き」とか「あそこは苦手」とか言う 部下のことを、「なんでそんなアッピールをするの?」と不思議がっています。
「どうせやらなきゃならない仕事なんだから、言うだけ無駄だろ」と言うわけです。
そして、「好き・嫌い」を仕事に持ち込む人の心理が自分には分からないのは、自分は仕事のすべてが嫌いで、嫌いだからこそ、「効率的に、うまく、短時間で」やろうとするのだ、とおっしゃっています。
フミコさんに共感するはてな村の人々 ブックマーク・コメントを見ると、フミコさんの気持ちにうったえかけつつも、抑えた独特の筆致に、はてな村の少なからぬ人々が共感していることがよく分かり、興味深いところです。
「あのクライアントは好きだ」とか「こっちのは苦手だ」とかいうような、世間ではありがちな「気持ち優先」な人たちに対して、違和感を抱くようなタイプの方がフミコさんのファンには多いということなのでしょう。
もちろん一部の人は、そんなフミコさんを「人の気持ちが分からない非人間」のように類型化して捉えて「揶揄」の言葉を投げかけるのですが、百戦錬磨のフミコさんにとっては、そんな小さな「悪意」など、特に気にするほどのものではないようです。
仕事が嫌いすぎるので出来るだけ楽にやりたいと言いたいだけの文章です。好きなことを仕事にしてる人を揶揄するつもりは全くございません。
というコメントをご自分で書き込んで、誤読による否定的コメントに対応してらっしゃいます。
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仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人は、好きですか、それとも嫌い? クライアントが「好き」か「嫌い」か、を口に出すことで気分が楽になる人は、確実にいます。
ですから部下がそういうことを言っている場合には、上司は「なるほど、そうなのね」と聞いていればいいだけの話です。
同じように「仕事の好き・嫌いを持ち込む部下に疑問を感じる」という人が、そうした考えをブログに書いていたら、それでその人は気分が楽になっているはずですから、外野の人間は「なるほど、そうなのね」と聞いていればいいだけの話です。
そして、仕事に「好き・嫌い」を持ち込まないほうがすっきりしていい、と言うあなたの場合、いっそのこと
人生からも「好き・嫌い」をなくしてしまったほうがいい かもしれません。
これは冗談でも皮肉でもありません。
マインドフルネスという名前で現代に蘇った、お釈迦さまことゴータマ・シッダールタさんの瞑想法というのは、実のところ、
「好き・嫌い」なんてなくしたほうがハッピーに生きられるよ、 っていう話なんですから。
マインドフルネスの基本的な考え方は、
「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」 にあります。*1
つまり、瞑想の練習をすることでマインドフルネスの状態に慣れ親しみ、「好き・嫌い」という生まれたときから無自覚に作り上げてきた「重い鎖」を手放すことができれば、人生、すんごく楽になれちゃうって話なんですよ。
というわけで、瞑想について興味のある方は、こちらの記事をお読みください。
・効果・実感もばっちり、とっても簡単な瞑想の方法おしえます - 24 時間の瞑想術
反航路 (id:giveus) さんの記事
・机の上にある絵 - いのちばっかりさ
を出発点に、つれづれに考えたことをしるします。
メメント・モリ - 死を想って、人生を謳歌する メメント・モリ - 死を想って、人生を謳歌する ぼくには三つ年上の兄がいるのですが、その兄が中学の工作で、ドクロと "memento mori" という文字を彫った小さな木箱を作っていたのを、四十年以上たった今でもよく憶えています。
反航路さんが、「メメント・モリ=死を想え」というフレーズに、どんな想いを込めているのかは知る由もありませんが、その言葉が「いつも手を伸ばせば届くところ」にあるという共通点に、いくばくかの「縁」というものを感じて、そこを出発点に文章をつづってみている次第です。
ぼくが好きなアメリカの作家カルロス・カスタネダのドンファン・シリーズには、"death as an advisor" という言葉が出てきます。死を助言者にしろ、というわけです。
カスタネダが弟子入りしたメキシコの呪術師ドン・ファンは、「死」というものが、いつでも左後ろを振り向くと「そこにいるのだ」と言います。
そして、その存在を忘れず、「死」を助言者とすることで、よりよく生きることができるのだ、と。
この言葉が第一に意味するところは、
人間というものは、いずれ遠からず死んでしまうのだから、今を精一杯生きるべきだ、 ということです。
日常というものに慣れ親しんでしまい、日々をのんべんだらりと生きてしまいがちなぼくたちにとって、一瞬一瞬を十分に味わってしっかりと生きるために「死」を意識することは、確かに大切なことでしょう。
一方で、仏教的な「無常」という観点から見ると、
やがては「死」で終わるのだから、「無常」でしかないこの世の価値観にとらわれることなく、自由に真実の命を生きよ、 という解釈も成り立ちます。
自分で望んで生まれたわけでもないのに、わけの分からない世間のしがらみに縛られて、砂を噛むような毎日を過ごしていると、なんのために生きているのかも分からなくなり、
さっさとこの世から消えてなくなりたい、 というような思いも湧いてきます。
そんなとき、自分が縛られていると思っている「世間のしがらみ」というものが、本当のところは実体のない、ただ移ろいゆく「観念」の集まりにすぎないことを思い出すことができれば、その「観念」を手放して、肩から力を抜き、全身をゆるめて、
心も体もゆっくりと休めるだけの「小さなゆとり」を持つこと だってできるはずです。
ぼくらを縛っている「観念」というものが移ろいゆく「無常」のものであるのと同様、ぼくらの「命」自体もまた移ろいゆく「エネルギーの流れ」にすぎません。
それはやがては「死」によって終わることになる「他愛のない自然現象」にすぎないのですから、それにまとわりついて今ここにある「しんどさ」もやはり「どうということのない」移ろいゆく自然現象にすぎません。
雨降りが嫌いでも、降る雨を止められないように、「しんどさ」を嫌っても、それを止めることはできません。
雨が降ったら、降り止むのを待ち、あるいは濡れないように傘をさします。
同じように、今ここにある「しんどさ」も毛嫌いすることなく、ただ認めてやり、それが自然に消え去っていくだけの時間と注意を与えてやればいいだけのことです。
そうやって「不快な感覚」を毛嫌いすることをやめられれば、そのもととなっている「観念連合」も弱まり、やがてはほどけていきますから、今はあなたを執拗に縛っている(としか思えない)「観念連合」の全体ですら、いずれはまったくなくしてしまうことだって、理論的には可能なことなのです。
こんなことを書いているぼくの頭の中にも、自分を縛りつけている「観念連合」はまだまだたくさんあるのはもちろんですが、こうして「死を想え」という言葉を思い出すことで、少しずつ心の奥底に溜まった澱をきれいにしていけたらなー、などと思いながら、こんな文章を書いているわけでして。
ですから、「人生を謳歌する」というような境地には、なかなか達することができないのですが、いつかはそんな境地に達することを願って、「一歩いっぽ歩いていくしかないのよね」という当たり前の結論を書いて、この短い記事はおしまいにします。
なお、カスタネダのドンファン・シリーズのうちでは、四冊目の
☆「力の話(新装・新訳版)」(2014 太田出版)
https://amzn.to/2nHNO9B (←アマゾンでご覧ください)
がおすすめです。
これ一冊で十分完結していますので、西洋的な合理主義とも、東洋的な世界観とも違う、また別の価値観に興味のある方は、一読してみると必ず得るところがあるものと思います。
てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬
今(2018年8月)アマゾンでバカ売れしている
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
みなさんはもう読まれましたか?
著者のふろむださんは、「分裂勘違い君劇場」という知る人ぞ知るモンスターブログの書き手なのですが、この本では、大学で専攻した心理学の知識をもとに、さまざまなデータを駆使し、
社会で成功するためには「錯覚資産≒人を勘違いさせる能力」がものをいうのだ、 ということを、実社会での豊富な経験も交えて、大変わかりやすく解説してくださっています。
「錯覚資産」というのはふろむださんの造語で、心理学の世界では有名な「ハロー(後光)効果」に代表される、自分が有利になるように「人に錯覚してもらう」能力を経済学的な「資産」に見立てたものです。
人間なら誰でも落ち入ってしまう「思考の錯覚」が「資産」になりうるとすれば、どうしてそんなことが可能なのか、そしてそれをどうやって使えばいいのかを知ることは有意義に違いありません。
「錯覚資産」を十分理解し、使いこなすことの重要性については、ふろむださんの著書
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
を読んでいただくとして、この記事では、
錯覚資産の裏に隠されている、 あなたの人生を根底から変える力を秘めた、 錯覚負債とは何なのか、 を簡単に書いてみたいと思います。
錯覚負債とは何か? 錯覚資産を気にするよりも前に考えるべき「錯覚負債」の重要性 人はなぜ「錯覚資産」に魅力を感じてしまうのか。プロスペクト理論の恐ろしさについても一言 「『錯覚負債』の棚卸し」こそがあなたの人生を幸せにする 「錯覚負債の棚卸し」のための基礎体力をつけよう - 呼吸と瞑想とマインドフルネスの科学 まずは三回の深呼吸から。奥深いマインドフルネスと瞑想の世界へのご招待 錯覚負債とは何か? 錯覚資産を気にするよりも前に考えるべき「錯覚負債」の重要性 「錯覚資産」とはある意味「はったり」の力とも言えます。
あなたにどんなに実力があっても、その実力を他の人に認めてもらえなければ「宝の持ち腐れ」ですから、そのためには「はったり」を使ってでも、あなたの実力を誰かに「使ってもらう」必要があります。
あなたが社会的に「成功」したいと思い、その「成功」のために自分のスキルを上げようと真剣に願うのであれば、この「はったり」の心理学と経済効果をよく知ることは、素晴らしい武器となることでしょう。
けれどもここでよく考えてほしいのは、
「社会で成功する」って、そんなに簡単なことじゃないよね、 っていう、すんごく当たり前の話なんです。
あなたは「成功するために毎日努力するタイプ」の方ですか?
もしそうなら、
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
を今すぐ買って勉強し、実践したら、役に立つこと請け合いです。
そうでないならば、あなたにとっては錯覚負債について知ることのほうが、「はるかに重要」になってくるかもしれません。
「錯覚資産」は、
「自分が有利になるように『人』に錯覚してもらう能力」 のことでした。
これに対して「錯覚負債」は、
「自分が不利になるように『自分で』錯覚してしまう『負の能力』」 のことです。
ぶっちゃけた言い方をしてしまえば、
あなたの人生、「自分にとって損な思い込み」でいっぱいじゃないですか? ということです。
自分の能力に限界を設定して、現状に甘んじたり、 自分が変われば改善できる人間関係を、相手が悪いんだと思い込んで、そのまま放っておいたり、 変えちゃったほうがいい「損な思い込み」って、相当あるんじゃないでしょうか。
というようなところから、どうして錯覚資産を増やすよりも錯覚負債を減らすほうが大切なのか、もう少し詳しくみていきましょう。
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脚本家・石井飛鳥さんのツイート(https://twitter.com/ishiiasuka/status/1028196483709820929)、
電子書籍、便利なんだけど「親の本棚」が家に構築されないのは将来的に人類にとってヤバイ予感がする。
が13,000ものリツイートを受け、話題になっています。
「親の本棚」の役割を否定するわけではないのですが、個人的には
「親の本棚」? そんなもん、さっさと「粗大ごみ」にでも出したら? と思ってしまったので、その理由を少しばかり書いてみましょう。
「親の本棚」がある人とない人の「違い」ってこともあるよね。 電子書籍がほとんど売れてない上に、書籍というフォーマット自体が化石化してる時代だしなー。 「旧人類の寝言」は気にせず、新しい時代の波の間を漂って生きよう。 追記: 石井飛鳥さんへのお詫びと「文化資本を奪おうとする者」についての考察 「親の本棚」がある人とない人の「違い」ってこともあるよね。 まず、個人的な話をしましょう。
ぼくには「親の本棚」はありませんでした。お袋も親父もあんまり本を読むような人間じゃなかったもんで。
けれども三つ年上の兄がいましたので、本も音楽も多大な影響を受けました。
ですから「誰かの本棚が与えうる影響」という意味では、「親の本棚」に恩恵を受けた人が、
「親の本棚」がなくなったら寂しいなー、 と思う気持ちは分かります。
たぶん石井飛鳥さんは、聡明で自由闊達な親御さんをお持ちで、「親の本棚」のおかげで、すばらしい人生を歩むための豊かな糧を得ることができたのでしょうから、
あー、それはよかったですねーー、 と大きく同意してあげて、「親の本棚」が消える未来をぼくも一緒に憂いたいところです
けどですよ、「親の本棚」\(^o^)/的言い方からは、なんだか
世襲制のいやらしさ がプンプンにおってきませんか。
そんな「本棚」から、親の世代の古臭い価値観を押しつけられるくらいだったら、むしろそいつを
ナタでぶっ壊して、ぜーんぶ景気よく裏庭で燃してしまいたい、 というもんじゃありませんか。
多くの人にとって「親の本棚」が何を意味するだろうかということを少しばかり想像してみると、そんな感想も浮かんでくるというわけなんです。
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電子書籍がほとんど売れてない上に、書籍というフォーマット自体が化石化してる時代だしなー。 ・ネットでの新刊購入は全体の1割、「文字もの」電子書籍は「紙」の4%、縮みゆく出版業界の明日はどっちだ!? - *魂の次元*
という記事にも書きましたが、書籍全体が縮みゆくマーケットであることに加え、ネット上での新刊書の購入も全体の一割程度だし、「文字もの」の電子書籍に至っては「紙」の書籍の4%ほどしかないのが現状で、ちょっと意外な気もします。
長い目で見れば、紙の本は電子書籍に置き換わっていくでしょうし、そのとき書籍というフォーマット自体が衰退していくことも、避け得ない未来でしょう。
そうはいっても、書籍に対する欲求は人類の歴史が続く限り、消え去りそうもありません。
となれば問題は、
「親の本棚」がなくなる人類の将来はヤバイかも、 みたいな主観の話よりは、
古来より蓄積されてきた無数の書籍に対するアクセス方法をどう構築するか、 という方法論の話になるはずです。
世の中には、
好きなことを仕事にして、楽しく生きよう、とか、 好きなことを仕事にするなんて夢のようなことは考えるべきじゃない、 とか、いろいろな意見がありますが、みなさんはどんなふうに考えて、仕事をやったり、やらなかったりしてますか?
今日は、はてな村の秀逸な書き手ふろむださんが十年以上前に書いた文章、
・「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法 - 分裂勘違い君劇場
を肴に、「幸せに生きるために知っておくべき二、三のことがら」について書いてみようと思います。
なお、本当に幸せに生きるためには、
あなたの幸せはあなたにしか分からないのだし、 したがって人の考えを鵜呑みにしてはいけない、 のだという、ごく当たり前の結論が十分分かってらっしゃる方は、本文をわざわざ読むには及びませんので、念のため。
頭のいい人、成功した人の意見は「もっともらしい」けど、それがあなたにも当てはまるとは限りません。 自分が何を本当にやりたいのか、あなた本当に分かってますか? 本当は「みんな好きなことをやっている」という身も蓋もない事実に気づいてますか? それでも「おれは好きでこんな仕事をしてるわけじゃない」と思うあなたへ - 自分の無意識との賢いつき合い方 あなたが「今の仕事にすっかり疲れ切っている」のならば あなたの幸せはあなたにしか分からない - 自分だけを頼りに世界の幸せを願う 頭のいい人、成功した人の意見は「もっともらしい」けど、それがあなたにも当てはまるとは限りません。 テレビや新聞、様々な書籍、もちろんネット上の各種メディアにも、どんなふうに生きたらいいとか、どんなふうに生きるべきだとか、いろんな意見が溢れています。
頭のよさそうな人や、大成功してるように見える人の意見は、どれも「もっともらしく」思え、そうした考えをうまく真似して、自分の人生を充実したものにしたいと思うのは、ごく当たり前のことでしょう。
ここで気をつけなければならないのは、たいていの人の意見というのは
自分はこうやったらうまくいった、 というだけの「個人的な体験談」にすぎないのに、
こうするとうまくいく、 という「一般論」の形で語られるため、読み手が注意深くないと、簡単に間違った方向に誘導されてしまう危険があることです。
ですから、もしあなたが、人の文章を読んで、「確かに言えてるなー」と納得しやすいタイプの方だったら、
「おっと、また納得しちゃったけど、これが本当かどうかは、少し判断を留保しておくか」 と思うくらいのほうが、真実に迫れる可能性が増すというものです。
現実には様々なメディアで、「好き」と「稼げる」が一致して成功している人がたくさん発言していますので、結果として「好きを仕事にするべきだ」といった言説が「真実」であるかのように流布することになります。
しかし、それを「鵜呑みにしてよいのか」ということが問題です。
これについては、ふろむださんが、
・「好きを仕事に」という欺瞞に騙されず、心の底から気持ちよく好きなことをやる方法 - 分裂勘違い君劇場
という記事で、十分に分析してくださっています。
窮屈な日本の社会では「匿名ブログでしか書けない」本音が読めますので、一読をおすすめします。
自分が何を本当にやりたいのか、あなた本当に分かってますか? そもそも「好きを仕事にする」といっても、仕事にしたいほど好きなことがある人って、どのくらいいるんでしょうかね?
あるいはぼくのように、「ぐうたら寝て過ごすのが好き」な人間は、どうやったら、それを仕事にできるのでしょうか?
一生をかけて一つのことを仕事としてやり続けて、それをずっと好きでいられる人って、ごく少数の幸せな人でしかないのが、現実というものでしょう。
どちらかといえば、現実に「自分ができる職」について、その仕事を「楽しくできるように工夫する」、というのが多くのみなさんにとっては、有効な方法論になるはずです。
このとき、日本のさえない社会状況の中では、「楽しく仕事をする」ことが難しくなっていることが、大きな問題になるわけですけれども。
本当は「みんな好きなことをやっている」という身も蓋もない事実に気づいてますか? さて、みなさんは「好きでもない仕事を、生活のために仕方なくやっている」と感じているかもしれません。
けれども、その状況は
「あなたが好きこのんで選んでいるものなのだ」 と言われたら、どう思うでしょうか。
「いや、自分は好きでこんな状況を選んでるわけじゃない、状況さえ許せば、もっと自由に他の道を選ぶに決まってるじゃないか」 と考えるでしょうか。
もしもそうお考えでしたらば、ここで少し検討していただきたいのは、いくらかの限定はあるにしても、
あなたの今の人生は、あなたが選んできたことの結果としてあるのではないか、 ということです。
みなさんの中には本当に地獄のような状況を生き延びてきて、生き延びるためには他の選択肢はあり得なかった、という方もいるかもしれません。
そうであったとしても、死を選ぶか、生き延びることを選ぶか、という究極の選択に対して、「生き延びる」という選択をしたのは当然あなたなのです。
みなさんが自分の人生において「何を基準に選択してきたか」は人それぞれでしょう。
ときには「打算」で、ときには「自分の欲求」を最優先して、ときには愛する人のために「自分を犠牲にして」、あなたは様々な選択をし、その結果として、あなたの人生の今があるのです。
その選択はどれをとっても「あなたが好きで選んだもの」です。
たとえそれが「親に強制された選択肢」であったとしても、「親に逆らわない」という選択を好きでしたのは、あなたなのですから。
このように考えれば、「好きを仕事にする」という夢のような話も、実はみんなが普通にやっていることになってしまいます。
「こんな仕事やりたくない」とあなたが思っているとしても、現にあなたがその仕事をやっている以上、それは「好きでやっている」ことに決まってますもんね。
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数々の含蓄ある記事を生み出してきた「分裂勘違い君劇場」で、はてな村のみなさんにはおなじみの、ふろむださんのデビュー作
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』
は、みなさんもう読まれましたか?
9月16日(日)22時、TBS系列の「林先生が驚く初耳学」で取り上げられて、いよいよ人気沸騰してますね。
ようやく購入してぼくも全部読みました。
めちゃくちゃ面白いです。[以上2段落 2018.9.17追記]
親切なふろむださんは、ネットで最初の五章を読めるようにしてくれていて、それだけ読んでも彼の主張の面白さは十分伝わってきます。
ふろむださんは、
人生は「実力」よりも「運」よりも「錯覚資産」によって決まってくる、 というのですが、一体これはどういう意味なのでしょうか。
というわけで、今日はふろむださんの説く「錯覚資産の活用」についてのお話です。
成功する人には後光が差している。ハロー効果と錯覚資産について。 錯覚資産の有効活用について。 あとは蛇足ですが、「錯覚資産に頼らず生きるのもいいんじゃない」って話 成功する人には後光が差している。ハロー効果と錯覚資産について。 「あなたの判断は、大抵の場合、錯覚にもとづいているのだ」 と要約できるふろむださんの主張は、シンプルにしてラディカルです。
心理学の世界で「ハロー効果」と呼ばれる現象があります。
ハロー halo というのは「後光」のことで、まったく同じことを主張しても、
立派そうに見え、地位のある「後光の差している」人が言えば、「本当のこと」に思え、 さえない外見の、どこの馬の骨とも知れない人が言っても、「説得力がない」と感じてしまう、 これがハロー効果というものです。
たとえば、「採用面接で、身だしなみが、どのような影響を与えるか」という研究がある。
その結果、「仕事に必要な資格よりも、身だしなみのよさのほうが、採用決定に大きな影響を与えていた」ということがわかった。
そして、ここでも、面接官自身は、「外見は、ほとんど採用決定には影響しなかった」と考えていたのだ。
つまり、面接官は、「外見で採用したわけじゃない」と、自分では思っていたが、実際は、外見で採用していたということだ。
(画像、文章とも、ふろむださんのページ https://www.furomuda.com/entry/2018/08/04/011000 より)
このとき面接官が「外見で採用したわけではない」と思っていたことは、面接官が「ウソを言ったわけでもなく、バカだったからでもない」というところが、この話のポイントです。
これは、ぼくたち人間の「判断」というものの、そのかなりの部分が「無意識的」に行われており、言葉によって説明される「理由」というのはあと付けのものにすぎず、実際の理由とは違う場合が多々あるのだし、それは「知能が高い」とされる人でも普通に起こることだ、ということです。
ふろむださんはこれを「脳のセキュリティホール」と呼び、
「自分は大丈夫」と思っている人ほど危ない、 と書いています。
この「脳のセキュリティホール≒思考の錯覚」は、「人を外見で判断してしまう」ということだけでなく、物事のあらゆる「判断」に関わってきます。
というのは、
「プラスのイメージを引き起こすもの」であれば、
なんでも「全体的に優秀」という思考の錯覚を引き起こしてしまうから
です。
そして、学歴であれ、経歴であれ、「プラスのイメージ」につながるものなら、どんなものでも「思考の錯覚」を引き起こす力を持ちますから、
「人々が自分に対して持っている、自分に都合のいい思考の錯覚」は、一種の資産として機能する
というわけです。
これがふろむださんのいう「錯覚資産」というものです。
また、「全体的に優秀」という錯覚は、思考の錯覚のほんの一部にすぎないので、様々な種類の錯覚を掛け合わせることで「とんでもない威力の錯覚資産が作り出される」とも書かれています。
そして、
「自分の得になるような、他人の勘違い」(=錯覚資産)は、生涯賃金に換算して、何千万円、何億円ものお金を生む。
のだから、錯覚資産は大変重要なものだし、他人に騙されないためにも、この錯覚資産についてよく知っておく必要があるのだ、というわけです。
なかなか面白い話ではありませんか。
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