*魂の次元* (by としべえ)

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本の紹介: これ一冊で西洋の魔術師の全てが分かります - 森下一仁「魔術師大全」

みなさんは「魔術」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。

魔法使いのお婆さんが鍋でぐつぐつ秘薬を煎じているところ、なんてのは、ちょっとレトロすぎますかね。

何しろアニメの魔法少女がダークファンタジーの世界で活躍する時代ですもんね。

あれ、でも、魔術と魔法って、同じものなんでしょうか?

この記事では、その辺りの言葉の使い方を入り口にして、SF作家、森下一仁氏の「魔術師大全」という本を肴に、魔術を巡る駄法螺を吹くことにしましょう。

魔術と魔法と呪術とまじないの関係をコーサツする

魔術とか魔法とかいうのは、たぶん英語のマジック magic の訳語として作られた言葉なんでしょうね。

マジックの語源は、古代ササン朝ペルシアの神官を意味するマギ magi からきていて、西欧世界の人々がペルシアという東洋の異教の儀式を「魔術」として捉えたということのようです。

日本語でマジックと言ったら、奇術や手品のことになってしまいますが、これはアメリカあたりから見世物として入ってきたマジックショーの影響でしょうか。

試しにアメリカのフリーの辞書アプリを引いてみますと一番最初に「呪文や特別の身振りによって不可能なことを実行する不思議な力」といった意味のことが書いてあります*1

ちなみにマジック以外に魔術に当たる言葉としては、ソーサリー sorcery というのもあります。

異世界ファンタジーの分野で「剣と魔法もの」というのがあって、これは sword and sorcery の訳ですね。英雄が剣を振り回し、魔法を使って活躍する物語のことです。

また、ぼくが好きなカルロス・カスタネダの「呪術師と私」というノンフィクション・ノベルでは、メキシコの呪術師に弟子入りしたアメリカの人類学者の姿が描かれますが、この呪術師は sorcerer の訳ですから、魔術師と言ってもかまわないはずです。

この辺の使い分けは、西洋的な魔術師に対して、それ以外のアジア・アフリカ世界などの場合は呪術師になるといった感じでしょうか。

ここで改めて魔法と魔術の違いを考えてみると、

  • 魔法は、おとぎ話やファンタジーに出てくるもの、
  • 魔術は、西洋世界で現実に誰かが実践しているもの、

というニュアンスの違いがあるような気がします。

というところで、森下一仁氏の「魔術師大全」の話に入ることにしましょう。

森下一仁著「魔術師大全」を読めば、西洋における魔術師の歴史が一目瞭然!

さて、森下さんの「魔術師大全」ですが、副題が「古代から現代まで究極の秘術を求めた人々」となっています。

アマゾンのページで内容を見ると、

魔法・魔術は奇跡を生む技であり、古くから魔術を実現するため人々は試行錯誤を続けてきた。錬金術、テレパシー、占星術、未来予知、不老不死、テレポーテーションなど、人間が古代から求め続けた魔術の真髄を解き明かす。

とあります。

つまりこの本は、古代より現在に至るまで、西洋において実践されてきたとされる「魔術」について、様々な文献からその実像を解き明かす書物ということになります。

例えば古代ギリシアのビタゴラスといえば、ピタゴラスの定理でお馴染みですから、幾何学を研究した哲学者くらいに思っている方が多いかもしれませんが、彼が数学を研究したのは、神の持つ神秘の力が数字に現れるという数秘学の思想があったからこそなのです。

現代の数学観、科学観からすれば、不思議に思えるかもしれませんが、自然を統べる法則こそ神の力の顕れであり、古代においてはその研究はまさに魔術だったわけです。

SF作家のアーサー・C・クラークは「十分に発達した科学技術は魔法と区別できない」という意味のことを言いましたが、こうした歴史を鑑みれば、そもそももともとは魔術と科学の間に区別などなかったことが分かります。

  *  *  *

さて、時代は下って17世紀、中世のフランスの話です。

太陽王ルイ14世の愛人モンテスパン夫人が起こしたとされる黒魔術の事件は、なんともおどろおどろしいものです。

この時代、魔術はキリスト教社会では当然のように禁じられていたにも関わらず、実際にはカトリックの神父が黒ミサと称される魔術的儀式をとりおこない、世俗の人間の欲望を叶える手伝いをしていたのでした。

モンテスパン夫人はルイ14世に見初められ寵愛を受けるのですが、やがて年月が流れば、王の心は更に若い愛人へと移っていきます。

その王の心を繋ぎとめようと、夫人は黒魔術に手を染めてしまったのです。

夫人の依頼を受けて、ギブールという神父が初めに行なったのは、夫人の希望が叶うように祈る程度のまだまだ常識的な範囲のミサでした。

しかし王の心を失うことを恐れた夫人の不安は収まることがなく、ギブール神父と彼を手引きした魔女ヴォアザン夫人に、更なる魔術や惚れ薬を要求していくことになります。

やがて鳥を生贄にする怪しい儀式を行なうことになり、それでも飽きたらずついには自らの体を祭壇とする黒ミサを行なうまでに至ります。

この血に染まった黒ミサでは、モンテスパン夫人は全裸になって自らの体を祭壇としたばかりでなく、なんと人間の赤子を生贄としたというのです。

しかしそうした儀式の甲斐もなく、王の心は夫人から離れてしまい、逆上した夫人は、王の呪殺、毒殺までをも依頼しますが、当局の手がヴォアザン夫人とギブール神父に及んだためにこの暗殺計画は頓挫します。

この事件で逮捕された関係者は360人を超えたにも関わらず、その顧客に宮廷内の有力者が多かったことから、実際の告訴は110人にとどまったとのことで、有罪となった者たちは、流刑、終身刑、死刑などに処されたのですが、ギブール神父は終身刑、ヴォアザン夫人は主犯として火炙りの刑を受けることとなったのでした。

王の寵愛を受けたモンテスパン夫人には特段のお咎めはなく、その後10年の間王との親交は続き、敬虔なカトリックの信仰に戻った夫人は、16年後にひっそり息を引き取ったとのことです。*2

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  *  *  *

やがて19世紀の末になると、「薔薇十字団」や「黄金の夜明け団」といった魔術結社が活動を始めます。

近代的な科学の発展に刺激されて、魔術の側でも個々の実践だけではなく、組織的な研究が必要とされる時代に入ったのでしょう。

英語版のウィキペディアには「黄金の夜明け団」は、20世紀の西洋の神秘主義にもっとも大きな影響を与えた団体の一つであるとしるされています。

そして20世紀を代表する最大の魔術師のアレイスター・クロウリーが登場します。

クロウリーは1875年に原理主義的なキリスト教徒の両親のもとでイギリスに生まれました。

キリスト教に熱心すぎる両親を持ったことから、クロウリーはキリスト教への反発心を持つことになり、やがて魔術に興味を持つようになります。

ケンブリッジ大学で哲学、心理学、古典などを学んだ彼は、ちょっとした偶然から「黄金の夜明け教団」と出会うことになります。

教団からは様々な知識を得たものの、自由奔放なクロウリーは教団内に安住することはできず、独自に魔術の実践を重ね、世界を股にかけ、多数の人を巻き込みながら波瀾万丈の魔術的人生を送ります。

悪魔ブエルを呼び出して友人の病を治し、「黄金の夜明け教団」の内紛時には「魔術戦」に明け暮れ、弟子の修行の邪魔になるからとその恋人を呪い殺す、などなど、彼の人生は奇怪なエピソードに満ちています。

クロウリーの破天荒な生き方に興味を持たれた方には、ちょっと高価な本ですが、
フランシス・キング「アレイスター・クロウリーの魔術世界」(1994 国書刊行会)
をおすすめしておきます。

魔術とは果たして何なのか、それは本当に存在するのか

魔術とは何か、という問いに答える前に、科学の魔術性について、今一度考えてみましょう。

十分に発達した科学は魔法と区別ができないし、もともとは魔術と科学に区別などなかったことはすでに書きましたが、こんなケースはどうでしょうか。

アマゾンの奥地で文明と接触することなく原初の暮らしをしている先住民族がいます。

そこに解熱剤を持った「文明人」が訪れ、友好的に接触することに成功し、高熱で苦しむ先住民族の一人をその薬で救ったとします。

先住民族の人々がその「文明人」を魔術師と考えることは間違いありません。

なぜなら「病気」という「魔物」を退治し、あるいは敵の「呪い」の現れである「病気」を祓うことは、魔術師にしかできないことだからです。

このように見れば、確かに科学は魔術と考えられうるのですし、逆に言えば、現代の科学では説明のつかない何らかの超越的な技を、わたしたちは「魔術」と呼ぶのでしょう。

では例えば「呪殺」というような魔術は本当に存在するのでしょうか?

「魔術師大全」を書いた森下氏は、そうした魔術が存在すると信じているわけではありません。

あくまでも客観的に、現実に存在したクロウリーという「魔術師」が「呪殺を行なった」という本人の認識を示しているにすぎないのです。

純粋に科学的な立場からすれば、実験で確かめられる客観的な因果関係が示されない限り、ある現象が「存在する」とは言えませんから、魔術は科学的には存在するとは言えません。

逆に客観的に存在が証明されてしまえば、それはもはや「魔術」ではなく「科学」になってしまいます。

とすれば、魔術の定義は

  • 常識では考えられない超常的な現象を起こす、存在するとも存在しないとも言えない不思議な能力のこと

とでもいうことになるでしょう。

これは「神の存在」が科学的には証明し得ないのと同じことで、結局は「信じるか信じないか」という話になるのです。

ぼく自身は基本的に現実的な科学主義者ですので、まだ証明されていない事実としての超能力や超技術としての魔術というものは、大抵の場合、特別に信じたりはしていないのですが、「呪殺」や「テレパシー」や「予言」といったことを行なう能力は実はあるだろうと思っています。

というのは、いわゆる「本物の魔術」というものは、実際には「極めて高度」な体験的で心理学的な技術によって行なわれているに違いないと信じているからです。

すごくぶっちゃけた説明をしてしまうと、人が何かを信じるというのは、

  • 現実に自分はそれを体験した

と体の感覚として思うことですから、暗示的、あるいは催眠的な技術によって相手を変性意識の状態に導き、

  • あなたは確かにこれこれの体験をしましたね

と思わせることができれば、はい、これで魔術が実現できました、ということになるわけです。

このような催眠的な技術が比較的単純なものであっても、割合多くの人がそれを信じてしまうに違いないことは、様々な新興宗教を信じる方がたくさんいらっしゃることからも推測されます。

ましてこのような心理学的な操作の技術が高度なものとなったとき、ある信念を実感させるための様々な現象が「現実の体験」として感覚されるであろうことは、たとえばカスタネダの「力の話」などを読めば理解していただけるはずです。

人間の知覚や認識というものは、この世界をシミュレーションすることができるほど精緻なものであるために、逆にシミュレーションしたにすぎないことを現実と取り違えてしまう危うさも持っているのです。

多くの場合、こうした取り違えは害のない空想的信念にすぎませんから、取り立てて問題にするほどのことはありません。

けれども、オウム真理教の事件などに見られるように、こうした「技術」が犯罪的行為に使われる場合もありえますので、どこまでが「無害な空想」でどこからが「有害な妄想」になるのか、といった「厳密には線引きができかねる問題」についても、日頃から遊びがてら考えておけたら、いざというときに役に立つかもしれませんよね。

てなことで、長文に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
ではではみなさん、ナマステジーっ♬

*1:Merriam-Webster Dictionary のアプリを参照

*2:参照: http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/akuma/montesupan.htm

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