*魂の次元*

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パクリと模倣とオマージュと - 村上春樹氏をネタに使わせてもらって

wattoさんの記事、
[自炊の余禄]創作を推進する最重要エネルギーの一つはパクリじゃないかということ(その1) - しいたげられたしいたけ
と、そこについたブックマークコメントがなかなか面白かったので相乗りさせていただきます。

題して「創作における模倣問題」。

見出しはこんな感じです。

創作に模倣はつきものだよね

すべての作品が模倣とまでは言えませんが、オリジナルでユニークなストーリーや形式がそうそう生み出されるわけもないのですから、たいていの作品はどこかしら他の作品を思わせたりするものです。

意図的に模倣するか、無意識的な模倣なのかはともかく、歴史的に培われた人間の発想自体の「型」ということまで考えれば、「模倣かもしれない類似」をいちいちパクリという言葉で指摘して、その作品の価値を貶めようとしても、あんまり意味はないですよね。

ちなみに、wattoさんの記事は、「パクリ」という言葉を否定的に使っているわけではなくて、「創作を推進するエネルギー」ととらえているわけですから、ブックマークコメントに散見される「パクリ≒否定」という解釈は、wattoさんの意図に対しては誤読ということになるかと思います。

まあ、「パクリという否定的ニュアンスのある言葉をわざわざ使わなくてもいいのに」という意見は、ごもっともでありますが。

模倣とパクリの違いはどこに?

というわけで、模倣自体はなんら否定するべきものではないはずなのですが、世の中には「パクリ」としかいいようのない、つい何かを言いたくなるような作品が存在するのも事実です。

たとえば、これはタイトルのパクリになりますが、片山恭一氏の「世界の中心で、愛をさけぶ」

これの原典は、SFファンにはおなじみのハーラン・エリスン「世界の中心で愛を叫んだけもの」ですが、実際には「新世紀エヴァンゲリオン」の最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」からの孫引きの可能性もあるようです。
(参照: 世界の中心で、愛をさけぶ - Wikipedia)

ここで、「エヴァ」における「模倣」は「オマージュ」として理解されますが、片山氏の小説は言い逃れのしようのない「パクリ」ですよね。

というのは、「エヴァ」は、最終話にそのタイトルをつけたから売れたわけではありませんが、片山氏の作品は、「人から借りてきたタイトルで売れた」と言っても言い過ぎではないと思われるからです。

ただし、片山氏の名誉のために付け加えておけば、氏がもともと用意したタイトルは「恋するソクラテス」というもので、編集者の助言によって「世界の中心で愛を叫ぶ」になったとのこと。

そして、その結果、村上春樹氏の「ノルウェイの森・上巻」を上回る、日本の小説における最大のベストセラーになったというのですから、「パクリ商法・大成功」の稀有な例とも言えるでしょう。

模倣に寛容なのはアジア的文化?

欧米においてこうした「明らか」なパクリが許されるかというと、たぶん許されない気がするのですが、残念ながらそれをきちんと資料で裏打ちするほどの知識はありません。

ですので、この項は単なる個人的印象に過ぎませんが、どうも日本に限らず、アジア各国は模倣に寛容なような気がします。

ブランド品の模倣や音楽CDの海賊版なども含めれば、模倣ビジネスは切りがないですよね。

ぼくの印象に残っているのは、タイの超有名ロックバンド・カラバオのケースなのですが、あからさまにボブ・マーリーのコピー的ライブビデオを出しているんですよね。

もちろん、全部タイ語で歌っている、カラバオのオリジナル曲ですから、ボブ・マーリーに対するオマージュだと言えば、確かにそうも言えるのですが、コーラスの入れ方から何から、ふだんのカラバオのスタイルではなくて、ボブ・マーリーのパクリとしかいいようがないレゲエの演奏になってるんですから、さてこれはどういうもんだろう、みたいな感じで。

聴いていて十分楽しめますから、タイの人はこれでOKなんだなと納得するだけですし、確かに作品として成立しているので、文句をいう筋合いもないのですが、ここまであっけらかんとパクってもいいのかと、なんとなく不思議な感覚を覚えたという話でした。

オマージュは模倣ではないし、ましてパクリではない

というわけで、カラバオの場合もボブ・マーリーに対するオマージュと考えればまったく問題ないわけですが、模倣やパクリとは異なるオマージュというのは、どういうものなのでしょうか?

オマージュにおいては、題材を拝借する作品・作家に対する敬意があるということが、まずはポイントでしょう。

また、オマージュを表現する作家と読者の間に、それがオマージュであるという共通理解が生まれうるだけの何ものかが、そこに表現されていることも重要です。

作家の側はオマージュとして書いているつもりなのに、読者からするとただのパクリ、ということは実際ありがちな話ではないでしょうか。

また、日本の文学には「本歌取り」という形がありますが、これもオマージュの一種と考えることができると思います。この場合は教養としてすでにみんなが知っている過去の作品に題を取るわけですもんね。

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インスパイアされるということ

さて、wattoさんの元記事は「創作の原動力としての模倣」に言及していたわけですが、ここでちょっとだけ、村上春樹氏の最初期の二冊「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」について考えてみましょう。

村上春樹氏が、どういう動機で小説を書くことになったのかは知りませんので、ここに書くことも個人的な印象にもとづくものにすぎませんが、氏がアメリカ文学を好んで読んでおり、翻訳も手がけていることはよく知られるところです。

そのとき、村上氏は「アメリカ文学にインスパイアされて小説を書くことになったのではないか」という仮説は容易に立てることができます。

であるからといって、村上氏の小説は「アメリカ文学の亜流」にすぎないのかといえば、その小説の翻訳が世界中で受け入れられいることを考えれば、それ以上のものであることは、多くの人の認めるところでしょう。

というわけで、「創作の原動力としての模倣」ということは、村上氏の場合にもあてはまるのではないかと、思うわけです。

そして、「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」なのですが、この二つの作品は、それ以降の氏の長編作品とは異なる形式上の特徴を持っています。

それは、細切れの文章をつなぎ合わせる形で、全体が構成されている点です。

この手法は、村上氏のオリジナルというわけではなく、アメリカの作家カート・ヴォネガットが得意とするものであり、これはパクリと言われても仕方がない種類の模倣に入ると言えましょう。

また、「風の歌を聴け」にはデレク・ハートフィールドという架空の作家が登場しますが、これもヴォネガットが自作にキルゴア・トラウトという架空のSF作家を登場させていることを連想させます。

村上氏はオマージュのつもりでこういう表現方法を取ったのかもしれませんが、この辺りのことを勘案すると、

  • アジア的模倣文化が村上文学を生んだ

といってもよいかもしれない、と思ってしまうのでした。

なお、ぼくは「風の歌を聴け」も「1973年のピンボール」も、ヴォネガットを知った上で読んで、日本にもおもしろい作家が出てきたもんだな、と思った口ですので、カラバオがボブ・マーリーを真似てもOKなように、村上氏のヴォネガットの真似もOKな部類だと思っています。

けれども、氏自身は必ずしもそう考えていなかったようで、「村上自身が初期の長編2作を「自身が未熟な時代の作品」と評価していたため」この二作品の英訳は講談社英語文庫から英訳が出版されていたにも関わらず、長らく海外では出版されていなかったというんですから、おもしろい話ですよね。「日本人的な謙虚さ」とでもいうべきでしょうか。
(参照 1973年のピンボール - Wikipedia)

おまけ、「創作ができる人」と「できない人」の違い

wattoさんが記事の冒頭で、

「創作ができる人」と「できない人」の違いについて、それは「才能のある人」と「ない人」の違いである、

という意味のことを書いています。

ご本人が「それを言っちゃあおしめえよ」と注意書きをしてますけれど、まあ、同義反復というやつですね。

それに対して、

id:erukitiさんが、

創作できる人とそうじゃない人の違いは才能ではありません。「一つ作り上げたかどうか」だけです。 創作できる人というのはスタート地点に立った人か否かです

というコメントをつけてらっしゃいます。

創作する側の立場からすると、まったくその通りだなと思います。

と同時に、「一つ創り上げる」ということも才能のうち、と考えれば、やはりこれも同義反復のうちでしょう。

もちろん、すべての真理は同義反復の形でしか語ることができないのですから、いかに分かりやすい形で同義反復していくか、ということになりますので、ここでぼくなりの表現をさせてもらえば、

  • 創作をできる人とできない人の違いは、苦労を厭わずに創作することを楽しめるかどうかにある

とでもなりましょうか。

ぼく自身は、「作家になれたらな」人種であって、創作をきちんとするほどの「根気」はほぼないものと、今では大体あきらめておりますが、こうしてネット上に小さな記事を書くのも作家稼業のうち、というつもりで「ぷちウェブ作家」を名乗っております。

けれども、この程度の文章も、必ずしも楽しんで書いているとは言えず、ひいひい言いながらようやく形をつけているありさまですので、内容のおそまつさに至りましては、みなみなさまのご寛恕を請う次第であります。

てなわけで、みなさん、ナマステジーっ♬

[追記]デレク・ハートフィールドのモデルはロバート・E・ハワードだったのか

記事を書き終わったあとで、こういうページを見つけました。
村上春樹 デレク・ハートフィールドを歩く

ヒロイック・ファンタジーの元祖「コナン」シリーズを書いたロバート・E・ハワードがデレク・ハートフィールドのモデルだ、という話。

村上氏本人は、ほかにヴォネガットやラブクラフトを混ぜ合わせたと言っておりますが、経歴などはハワードにそっくりとのことです。

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