*魂の次元* (by としべえ)

肩から力を抜いて、自由に楽しく生きる。

「科学万能主義」のみなさんは「牛乳有害説」なんて鼻で笑うでしょうけど、やっぱり牛乳は有害なんとちゃう?

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「差別」「EM菌」「牛乳の有害性」についての記事を宣伝してくださっているみなさまへ、感謝の言葉とお願い、そしてご説明 - *魂の次元*

※免責に関わる説明: 本記事は、自然科学的に誤りのない内容であるように注意して書いておりますが、社会科学的には様々な異論があるものと思われます。したがって、読者の皆様の立場が本記事作者の見解と異なる場合、あるいは、審美的な見地から、本記事の文章・内容が不愉快と思われる可能性が、大いに予想されますので、以降の記事を読み進めるにあたっては、すべて自己責任にてお願いいたします。

※また、本記事は科学的な論文ではありませんので、この記事の主張を補強するために、根拠としての文献を上げることは特にしません。ここに書かれているのは、「こういう見方もあるよ」というだけのことであり、問題提起をしているにすぎませんから、その主張が妥当かどうかは、読者の皆さまがそれぞれにご確認いただければ幸いです。

※なお、タイトルの「科学万能主義」という言葉は、「素朴に『科学』を信じて、その限界をあまり気にしない考え方」という程度の意味であり、「有害なんとちゃう?」というのも単なる惹句であり、牛乳の「有害性」を主張するものではありませんので、よろしくご理解ください。

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[全文無料] 牛乳「有害」問題ことはじめ|とし兵衛@ぷちウェブ作家|note

以下が本記事の見出しです。

牛乳、飲んでますか?

飲みたい人は飲んでください

「牛乳は有害である」みたいなことを書いてますので、牛乳好きの方にはもうしわけないです。

でも、「牛乳は有害だから飲むな」と言いたいわけではありません。

「有害かもしれないから、注意したほうがいいかもしれませんよ」

という程度の話です。

ここで、科学に関心のあるあなたに、ちょっとだけ考えてほしいこと

牛乳を飲むことには、有益なことも多いでしょう。

でも、もしも、有害性が無視できないほど大きかったら?

科学的な話は、ややこしいし、ネットで検索してみても、

「どっちが本当か分からん」

となりがちです。

でも、分からないながらに、そうやって自分で調べて、自分で確かめることには、意味があります。

自分で調べ、自分で確かめることにより、

「多くの人が言ってる」からとか、
「自分が信頼する人が言っている」から、

という理由ではなく、

「確かにこれは本当のようだ」とか
「これはどうも嘘っぽいな」とか、

自分で判断するための力がつき、ものごとを「見極める目」が育っていくからです。

ですから、この記事を読んでも、「どうも牛乳は危ないらしい」というような結論には飛びつかないでください。

ネットで調べるなり、本を読むなり、ご自分でさまざまな情報を総合してから、自分なりの判断をくだしていただけたらと思います。

牛乳の有害性、信じますか?

乳糖不耐性の問題

牛乳を飲むとお腹をこわす人がいます。

それは、牛乳には乳糖という物質が含まれており、一部の人はこれを分解することができないためです。

それでも牛乳が飲みたい、というあなたのためには、牛乳から乳糖を減らした雪印メグミルクのアカディがおすすめ。

普通の牛乳より甘みを強く感じますが、味の差は気になるほどではありませんでした。人によってはこっちのほうがおいしいと感じるかも。

牛の飼育に使われるホルモン剤や抗生物質の問題

牛の飼育には、ホルモン剤や抗生物質が使われており、これが牛乳や牛肉に残留し、健康に影響を及ぼしている可能性が指摘されています。

乳がんや子宮体がん、前立腺がんのリスクが高まる可能性です。

こうした可能性は、牛乳よりも牛肉、また国産牛よりも薬剤が多用されるアメリカ産の牛肉に多いと考えられるものですが、牛乳自体のリスクもゼロとは言えません。

また、抗生物質の使用により耐性菌が増えるのも、直接的ではありませんが、広い意味での健康被害となる、大きな問題です。

もちろん、「政府が規制しているんだから大丈夫」と考える方にとっては、気にするまでもない、「些細な」問題にすぎないでしょう。

アレルギーやアトピーは牛乳に限りませんけれども

アレルギーがあるため、牛乳が飲めない人がいますし、アトピーも牛乳が原因の一つになっていると考えられます。

なお、これについては、牛乳自体が問題なのか、それとも「環境中の有害物質」や「飼育の際の薬剤」が問題なのか、ということも、考えるべき重要な点だと思いますが、こうした観点からの研究は、お金も時間もかかる上、資金を得ることがむずかしく、残念ながら、今後の進展はあまり期待できそうにありません。

科学的ってどういうことなの?

「証明されてないものは信じない」は科学的リテラシーとしてはありうる

さて、「牛乳によって乳がんのリスクが高まる」ということは、現時点では、明らかになっているとは言えない話です。

ですから、「証明されてないものは信じない」という立場の人が、「牛乳によって乳がんになることを恐れている人」に対して、

「そんなに怖がらないで大丈夫だよ」

といったとしても、間違いとは言えないでしょう。

また、怪しい「エセ科学商法」にだまされそうになっている人に対して、

「それは科学的に根拠がないから、お金の無駄だよ」

ということも、間違いとは言えません。

つまり、一般の教養としての科学的リテラシーの立場から言えば、

「証明されてないものは信じない」

というのは、十分に意味のある主張であると言えます。

「証明されているものを信じる」のは「科学的な態度」とは言えない

けれども、こういう場合はどうでしょうか。

今は「牛乳と乳がんの関係」は明らかでありませんが、将来「牛乳によって乳がんリスクが高まる」ことがはっきりしたとします。

その場合は、科学的な証明のあるなしに関わらず、「牛乳による乳がんリスク」を疑って、牛乳を飲むのをやめた人のほうが、ある意味では正しかったことになります。

また、「エセ科学商法」は確かに効き目のない「おまじない」を売っているだけかもしれませんが、プラシーボ効果によって現に「効き目」を感じている人に対して、「科学的に根拠がないからやめたほうがいい」ということは、果たして道義的に正しいのでしょうか? あるいは社会的に見て意味のあることなのでしょうか?

確かに「エセ科学商法」は科学的に見て間違っていると「証明」されているかもしれません。

けれども、そうした「証明」があることと、「効果」があるかどうかは、また別の話です。

おまけに、今は「証明」されているものが、あとになって「間違ってました」となることも、よくある話です。

もちろん、「証明」があるものを信じるかどうかは、その人の自由です。

けれども、それは「科学的な態度」とは別の話でしょう。

「科学の限界」をわきまえている人には、

「この事実は現在このような形で『証明』されている。しかし、そのような『証明』は覆される可能性もある」

という言い方の正しさがお分かりいただけると思いますし、そうした言い方を、どんな対象に対しても謙虚に言えることこそが「科学的な態度」なのだ、といっても、さほどの異論はなかろうと思います。

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物理学者のファインマンさんは、ご存知ですか?

合州国の物理学者リチャード・P・ファインマンさんは、量子力学の発展に貢献したため、日本の朝長振一郎さんと一緒にノーベル賞を受賞した人物であり、また、アメリカの、マンハッタン計画として知られる原爆開発にも関わったことで知られています。

そのファインマンさんが「カーゴ・カルト・サイエンス」という言葉を使って、科学の中に潜む「擬似科学」に対する警句を述べています。

彼の学問・研究に対する姿勢は、巻末に載っているカリフォルニア工科大学1974年卒業式式辞「カーゴ・カルト・サイエンス」に明快に示されている。カーゴ・カルト・サイエンスとは科学の仮面を被った似非科学を指しているのだが、自分に都合のよい実験結果のみを言い立て、都合の悪い結果は隠すと厳しく批判している。そして、卒業生たちに「(われわれが心から願っているのは)一種の科学的良心(または潔癖さ)、すなわち徹底的な正直さともいうべき科学的な考え方の根本原理、言うなれば何ものをもいとわず『誠意を尽す』姿勢です。たとえばもし諸君が実験をする場合、その実験の結果を無効にしてしまうかもしれないことまでも、一つ残らず報告すべきなのです」と諭している。

本当は、あなたは誠実な人だったのでしょう、ファインマンさん・・・【山椒読書論(176)】 « 榎戸誠の情熱的読書のすすめ

(この榎戸誠さんの引用記事、ファインマンさんの著書「ご冗談でしょう、ファインマンさん(上・下)」の魅力を短い文章で上手に紹介していますので、興味のある方はぜひ全文ご覧ください。なお「カーゴ・カルト・サイエンス」に関する講演が載っているのは、下巻の方ですのでお間違えなく!)

真に「科学的な態度」というものは、ファインマンさんのいう「『誠意を尽す』姿勢」を持っていることであり、それは結局、

「現在の科学ではこのような『仮説』が支持されている」

という以上のことは語らないということではないでしょうか。

仮に、学校教育で「誤った」知識が教えられているとしても、それを頭ごなしに否定することは、「科学的」に見て間違っているだけでなく、社会的にも意味のあることとは思えません。

なぜそのように「誤って」しまったのか、そうした「誤り」を正すにはどうしたらよいのか、ということを、科学的な視点からだけでなく、心理学的にも、経済学的にも、社会学的にも、日頃から、検討し、議論していくことが社会全体の利益のためには必要なのではないでしょうか。

※「科学的な態度」にもとづいて、意義のある議論をしようとする皆さまにおかれましては、ぜひ、下記の本に掲載されているファインマンさんの「カーゴ・カルト・サイエンス」についての講演原稿を読んでいただきたく思います。

「ご冗談でしょう、ファインマンさん(下)」をアマゾンで見る

EM菌と牛乳と放射性物質と、あるいは科学的リテラシーという「社会学的」問題

多くの人の科学の理解が、ファインマンさんの「『誠意を尽す』姿勢」にまで至らなかったとしても、それはしかたがないことだと思いますし、その場合、たとえば、

「EM菌の効果は科学的に証明されていないので、教育の場で使うべきではない」

という主張は、科学的リテラシーの立場からして、間違ったものと言えないことは先程も書きました。

しかし、

「EM菌は有害な可能性があるから教育の現場で生徒に飲ませるべきではない」

という論理が成り立つのなら、

「牛乳は有害な可能性があるから教育の現場で生徒に飲ませるべきではない」

という論理も成り立ちます。

あるいは

「EM菌を環境中に河川などの放出することは、有害なので禁止すべきである」

というのなら、

「有害なので環境中に放出することが禁じられている放射性物質が、政府の恣意的な判断で、不可抗力である以上に環境中に放出されている」

という現実に対して、どのような立場を取るのが正しいことなのでしょうか?

ここでは、結論めいたことは書きません。

こうした問題は、

「社会学」的な問題なのであって、「科学的」な立場からだけでは、結論は出しようがない、

という意見を述べるにとどめ、あとは読者のみなさんのお考えにお任せします。

科学を信じるも、信じないもあなたの自由です。そして大切なのは、自分の中に「見極める目」を育てる努力です

現代社会が、科学的な思考法によって大きな恩恵をこうむっていることは間違いありませんが、だからといって、科学を「盲目的に」信じることは、「科学的でない」という以上に、「害が多い」としか言いようがありません。

というのも、科学は「恩恵」をもたらしてくれるだけではなく、反作用や副作用として、多くの「害悪」をも世界中に広めているからです。

現状肯定派のみなさんは、「害悪」は取るに足らず、「恩恵」の方が大きいと言うかもしれませんが、「害悪」や「恩恵」の大きさの評価は人それぞれであり、そのとき、各人各様に持つ異なった価値観の間で調整をすることこそが、民主主義の意味であることを考えれば、単に「多数派」のみなさんが、科学を「信仰」しているからと言って、それが社会的に見て正しいという話にはなりません。

とはいえ、科学を信じるも信じないも、あなたの自由です。

信じたい人は信じてください。

ぼくは、科学的な思考法の有用性は信じますが、そこには限界があるとも思っていますので、信じるとか信じないとかいう話よりは、

  • 自分の中に「見極める目」を育てることができるか、

ということが大切だと思っています。


ぼくが前の記事で、

「有るかもしれないし無いかもしれない」ことを伝えた上で、その見分け方を自ら見極める方法を伝えるのは、とても意義のあることだと思います。

EM菌「撲滅」委員会の皆様へのお返事集です - *魂の次元*

と書いたところ、id:turanukimaruさんから

「有るかもしれないし無いかもしれないことのその見分け方を自ら見極める方法」を提示してくれ。

というコメント (http://b.hatena.ne.jp/entry/345008551/comment/turanukimaru) をいただきました。

前の記事で「方法」と書いたのは間違いで、「方法論」とすべきところでした。

残念ながら、ある言明が「正しいか、正しくないか」を簡単に見極める方法は、数学的に言っても、この世界に存在しえません。

(ゲーデルの不完全性定理によって、意味のある公理系には真偽を決定できない言明が必ずあり、もとの公理系に対して「それを真とする公理」を加えることでも、「それを偽とする公理」を加えることでも、拡張できることが明らかになっているからです。そもそも公理系というもの自体が「何を公理とするか」という前提次第で得られる結論が異なってくるわけですから、前提が無数にありうる「自然科学や社会科学の言明」について真偽を見極める方法などあるはずがありません)

だからこそ、自分なりに「真偽を見極める方法論」が重要になるわけです。

そしてそれは、ある意味「教育」のように誰かが与えてくれるものではなく、一人ひとりが自分の中で培っていくしかないものなのです。

ですから、それを授業に取り入れるためには、教師が生徒の自主性と創造力を信じ、生徒の力量が自分の力量を上回るかもしれないことすら、受け入れる必要があります。

教師は決して生徒の上に立つ存在ではありません。人生の先輩として、道先案内人として、生徒に助言することはできるでしょうが、自分の限界から生徒を裁くのではなく、生徒が正しく自分が間違っている場合には、謙虚にそれを受け入れられてこそ、真に有能な教師だと言えましょう。

いろいろと書いてきて、ずいぶん散漫な文章になってしまったし、書き足りない部分も多々ありますが、この文章がここまで読んでくださったみなさんの「見極める目」を育てる、小さなきっかけにでもなれたとしたら、これを書いた甲斐があるというものですし、また、自分なりの「見極める目」をお持ちの方々と、これをきっかけに出会うことができたとすれば、本望です。

長文、最後までご精読ありがとうございます。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬

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