*魂の次元* (by としべえ)

肩から力を抜いて、自由に楽しく生きる。

文化の盗用問題と経済的支配構造、あるいは、中心と周辺、そしてランクという概念について

アメリカのファッションモデル、カーリー・クロスさんが日本の「芸者風」の衣装で撮った写真がファッション誌「ヴォーグ」に掲載されたことについて、これが「文化の盗用」として批判され、カーリーさんはTwitter上で謝罪したことが報道されています。
カーリー・クロスが炎上謝罪 日本文化を盗用と指摘、米VOGUE誌で「芸者スタイル」披露

アメリカの人たちが気にしている「文化の盗用」って何なんでしょうか?

そして、どうして、白人女性モデルが「芸者風」の格好をするのが問題になるのでしょうか?

「人種差別と経済的支配」という視点を通して、日本においてこの問題がどんな意味を持つのか、少し考えてみることにしましょう。

「文化の盗用」は、文化的多数派が少数派の文化的スタイルを不用意に用いることから生じる

カーリーさんの「文化の盗用」事件は、ファッション誌における「日本文化の盗用」として批判を招くことになりました。

日本とは縁もゆかりもない白人女性であるカーリーさんが、表面的に「日本文化」を真似たことが、少数者の文化を勝手に商業利用することにあたり、日本の文化を侮辱するものだ、というのです。

神社に立ったカーリーさんが、得体のしれない「和服もどき」を着ている写真や、相撲取りのような人と並んで黒と赤のドレスを着ている写真は、ステロタイプな「日本表現」であり、「ばかばかしく」は感じますが、これを見て「日本文化を侮辱している」と思う日本の人は、たぶんあまりいないのではないでしょうか。

とはいえ、日系のアメリカ人がどう考えるかは、また別の話ですし、アメリカにおいてはこの「文化の盗用」問題は、常識の範疇としてきちんと考えて然るべき、「差別」につながる問題なのです。

アメリカにおける人種差別との関連

アメリカ合州国の歴史は、先住民族であるアメリカン・インディアンの虐殺の歴史であると同時に、労働力としてアフリカから連れてきた黒人奴隷に対する差別の歴史でもあります。

そして、たとえば白人の*1ジャズの歴史は、見方によっては「黒人文化の盗用」そのものとも言えますし、アメリカン・インディアンの物語を白人が描いて著作とするときにも、そこには文化的多数派の人間が「少数者の文化を登用して商業利用する」という構図が当てはまるわけです。

こうした状況の中、少数者自身が「文化を盗用するな」という主張をするのも当たり前ですし、多数派の中でも良識的な人たちは、「文化の盗用」を快く思わないということになるわけです。

東雲さんが、こちらの記事
文化の盗用と関西弁 - 東雲製作所
で述べているように、カーリーさんの問題だけを見ると、「行き過ぎたポリティカルコレクトネス」という捉え方ももできなくはないのですが、「豪右翼政党の党首の議場でのブルカ着用によるイスラム文化への侮辱」(http://www.asahi.com/articles/ASK8K4RC5K8KUHBI016.html) といった極端な例を持ち出さなくても、アメリカの言論の状況から言えば、「文化の盗用」は大きな問題になりうるわけです。

日本においての先住民族問題との関連

日本では、アメリカのような問題は起こらないのかというと、そうではありません。

大きな問題にこそなっていませんが、先住民族であるアイヌ民族の人たちの中には、「文化の盗用」に類する問題を指摘する声があります。

明治以降、アイヌ名やアイヌ語を禁止し、文化的抹殺政策を取ってきた「日本人」が、そうした「迫害の歴史」を十分反省することもない状況の中で、「先住民族の知恵に学ぶ」といった内容の本が出版されることに対する違和感の声です。

この辺りの話は国際先住民年であった1993年頃にいくつかの記事があるはずなのですが、残念ながら手元に資料がなく、ネット上でも該当するものが見当たりませんでした。どなたかご存知の方がいらっしゃれば、ご教示いただきたく思います。

また、国連の委員会は沖縄の人々を先住民族として認めるよう勧告を繰り返しており、今後は日本でも「文化の盗用」が大きな問題となってくる可能性もありえます。*2

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中心と周辺という視点

さて、東雲さんの記事
文化の盗用と関西弁 - 東雲製作所
では、「文化の盗用」という問題を、「悪意のあるなし」という観点と、「パブリックとプライベート」という軸で、考えていらっしゃいます。

  • 「政党の党首がブブカというイスラム教の格好をする」のは、悪意があるので問題である、
  • モデルのカーリーさんの場合、アメリカン・インディアンの格好をしたときのほうが、和服を着たときよりも問題になったのは、日本の文化のほうがパブリックで、アメリカン・インディアンの文化のほうが、プライベートなものだったから、

というわけです。

それに対して、wattoさんは、
「文化の盗用」を論じる補助線としての「中心(的)文化」と「周辺(的)文化」 - しいたげられたしいたけ
という記事で、「パブリックとプライベート」ではなく、「中心と周辺」という見立てをしています。

東雲さんがおっしゃっていることも、ほぼ同じことだと思うのですが、「中心と周辺」という切り分け方のほうが、問題がはっきり浮かび上がるように思います。

  • ある地域において、優勢ないしスタンダードである中心的文化は、当たり前に周りの文化から模倣の対象となるが、中心的文化の側がそれ以外の周辺文化を真似る場合、文化の盗用の問題が生じる

という説明です。

ちなみにwattoさんは「中心文化と周辺文化」という概念は、すでに存在するものだろうか、それとも新しい考え方だろうか、と問うてらっしゃいます。

ぼくが思い当たるものとしては、 柳田國男の方言周圏論があります。

方言周圏論 (ほうげんしゅうけんろん)は、 方言分布の解釈の原則仮説の一つ。 方言周圏説 (ほうげんしゅうけんせつ)とも呼ばれる。
方言の語や音などの要素が文化的中心地から同心円状に分布する場合、外側にあるより古い形から内側にあるより新しい形へ順次変化したと推定するもの。見方を変えると、一つの形は同心円の中心地から周辺に向かって伝播したとする。 柳田國男が自著『 蝸牛考 』(かぎゅうこう、 刀江書院 、 1930年 )において提唱し [1] 、命名した。

これは言語の伝搬とその保存や変化に関する仮説ですので、wattoさんの問題意識とは少しずれるかもしれませんが、「中心と周辺」という捉え方が有効な枠組みとなることの一つの例示としては使えるのではないでしょうか。

法華経の話題や「文化の盗用」問題などを取り上げることになるであろう、wattoさんの「中心と周辺を巡る哲学的冒険の物語」、いつか読ませていただきたいものであります。

ランクと経済的支配構造の問題

さて、「文化の盗用」の問題について「中心と周辺」という切り分け方は、確かに役に立ちます。

東雲さんの記事で取り上げられている

「関西人以外が関西弁を真似てしゃべることに関して関西人は不快に感じることがあり、それを『文化の盗用』と考えることもできる」

という話は、標準語を使う「中心」の人間が、関西という「周辺」の文化を真似ることから生じる問題としてとらえられますもんね。

ここで、「中心と周辺」という捉え方に重ね合わせる形で、ランクという考えを紹介したいと思います。

ランクというのは、ユング派の精神分析から派生したプロセスワーク(プロセス指向心理学)において使われる考え方なのですが、人間同士の関係性には社会的アイデンティティによって規定される「地位の高さ=ランク」というものが無意識のうちに設定されているという仮説です。

そして、高いランクにあるものが自分のランクに無自覚であるとき、差別的な言動をしているのにそれに気づかないといったことが簡単に起こるのです。

さきほどの「関西弁の真似」の話をこれで説明すると、標準語を普通に使う「中心」の人間は、文化的支配の中心に位置するため高いランクを持つことになります。

そのとき「中心」の人間が無邪気に関西弁の真似をすることは「高いランクの乱用」に当たり、「周辺」に位置する「低いランク」の人間は、それを侮辱と受け取り、不愉快に思う、ということが起こるわけです。

このランクという概念は、人種差別的な構図でも使えますし、そうした差別構造とパラレルに存在する社会的・経済的格差の問題にも適用できるなかなか有用な捉え方だと思います。

「文化の盗用」という問題を「支配的な文化階層側からの周辺文化に対する文化的・経済的な搾取」として捉えるとき、無自覚で無邪気な「支配側・中心側」からは、そもそも何が問題になっているかすら分からない場合があることも、このランクという考え方を入れることで、理解が容易になるのではないでしょうか。

ぶっちゃけた言い方をしてしまえば、「お金持ち」の側の人間は、法律で罰せられない限り何をしようと自由、という考え方に陥りがちなものと思われます。

とすれば、そこに民主主義的な人権の概念をきちんと入れていくためには、われわれの一人ひとりが自分のランクというものを意識し、それを乱用していないかを謙虚に確認する必要があるはずだと思うのです。

とまあ、えらそうなことを、東京生まれの「中心」的原住民が、NHK風の香りがつきまとう東京弁の「ですます調」で書いているものですから、大阪の人から見れば、「日本の中心づらしてナニくだらんこと書いとるんや」とお叱りを受けること必至の内容ではありますが、子どもの頃に「男どアホウ甲子園」という水島新司の漫画で大阪弁の洗礼を受け、「京都の人は自分たちの言葉を『京言葉』と呼ぶ」ということを知って以来、西言葉の練習を心がけている人間の書いた駄文にすぎませんので、まー、どーか、そんなかたいこと言わへんで、てきとうに読み流しておくんなましーおくんなせぇと、どこの日本語か分からぬ怪しい戯言でもって、今回の記事の終わりとさせていただきたく御座候。

それではみなの衆、またやーさい、ナマステジーっ♬

*1:id:minotonさんからコメントをいただき、言葉足らずであることに気づいたため、「白人の」という言葉を追加しました。

*2:「沖縄の人々を先住民族と認めるように」 国連が勧告 政府「アイヌ以外に存在しない」

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