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オウム真理教: 村上春樹の寄稿記事と「アンダーグラウンド」をぜひ読んでほしいとぼくが思う理由

オウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫氏をはじめとする13人の死刑囚に対する「処刑」が、2018年7月に二回に分けて執行されました。

この件について、作家の村上春樹氏が毎日新聞に次の記事を寄稿しています。
村上春樹氏:寄稿 胸の中の鈍いおもり 事件終わっていない オウム13人死刑執行 - 毎日新聞

村上氏は「アンダーグラウンド」というノンフィクションの作品で地下鉄サリン事件の被害者や遺族のインタビューをまとめており、オウム事件の裁判の傍聴も続けてきました。

本稿では、村上氏の寄稿記事を紹介するとともに、オウム真理教事件がわたしたち国民の一人ひとりに問いかける問題について、今一度考えてみたいと思います。

死刑という制度は必要なのか、生きて償いをするべきではないのか

村上氏ははじめに、一般論として「死刑には反対の立場である」ことを述べ、その理由として

  • 死刑が究極の償いであるという考え方は、世界的にコンセンサスが得られなくなっていることと、
  • 数多くの冤罪事件を考えれば、死刑は「致死的な危険性を含んだ制度」である

ことを挙げています。

一方で、オウム真理教事件に関しては、

「アンダーグラウンド」という本を書く過程で、丸一年かけて地下鉄サリン・ガスの被害者や、亡くなられた方の遺族をインタビューし、その人々の味わわれた悲しみや苦しみ、感じておられる怒りを実際に目の前にしてきた僕としては、「私は死刑制度には反対です」とは、少なくともこの件に関しては、簡単には公言できないでいる。

と書いています。

村上氏がこのように述べていることにはまったく共感するのですが、ぼくの個人的意見としては、オウム事件についても死刑を執行するべきではなかったと考えるのです。

もちろん村上氏が書くように、

「この犯人はとても赦(ゆる)すことができない。一刻も早く死刑を執行してほしい」という一部遺族の気持ち

があることを考えれば、そうした遺族に対して、「いや、死刑という制度には問題があるから、死刑を執行するべきではなかったのだ」というようなことをわざわざ言うぺきだとは思いません。

現に今の日本に死刑という制度がある以上、その刑罰が現実に執行されたことについてはそれなりの合理性も当然あり、一部の遺族の気持ちがそれで多少なりとも安らぐのであれば、その事実まで否定することはできないからです。

しかしながら、死刑という刑罰の形ではなく、生きて「なぜあんな事件を起こしてしまったのか」という問いと向き合い、不完全ではあってもその答えを社会に伝えるという形で償いをすることのほうが、犯罪を犯してしまった人にとっても、そのどう時代を生きる者にとっても、ずっと意味があるはずだ、という考えはぼくの中で揺るぐことはないのです。

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「師を誤らない」ためにはどうすればいいのか - 林泰男氏の場合

村上氏は、オウム事件の裁判の傍聴に当たり、地下鉄でのサリン散布を実行し、13人中9人の死亡者*1を出したことから、「殺人マシーン」の異名で呼ばれることになった林泰男氏の裁判を特にフォローしたと述べています。

氏は、林泰男について「他の実行犯たちが、サリン・ガス溶液の入った二つのビニール袋を、尖(とが)らせた傘の先で突いたのに対し、自分から進んでビニール袋を三つに増やしてもらい、それを突いた」と書いていますが、ハフポストの記事
林泰男死刑囚への1審判決で、裁判長が出した異例のメッセージとは?(ハフポスト日本版) - Yahoo!ニュース
によると、「喜んで」三つの袋を受け取ったわけではなく、「みんながいやがる仕事を引き受ける」という「真面目さ」からそのような結果になったことがうかがい知れます。

一審において林泰男の審理を担当した木村烈裁判長は、量刑理由の要旨で、

被告は元来凶暴、凶悪な性格ではない。魚屋を営む友人が病み上がりの体で商売する姿を見かねて自分の仕事を犠牲にして手伝ったこともあり、善良な性格を見て取れる。松本被告や教団とのかかわりを捨象して林被告を一個の人間としてみるかぎり、資質や人間性それ自体を取り立てて非難することはできない。

およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、林被告もまた、不幸かつ不運であったと言える。

(強調、筆者。以下同)

と述べています。

では、「師を誤らない」ためには、彼はどうしたらよかったのでしょうか。

あるいは、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。
(安倍首相を政治の頂点に抱くわれわれは「師」を誤っていないと言えるでしょうか)

そして、「師を誤ってしまった」と思われる人たちに対して、わたしたちはどう接すればよいのでしょうか。

木村烈裁判長は次のようにも述べています。

地下鉄サリン事件で、林被告は教団の存続、松本智津夫被告の利益、自分自身の修行を進めるという身勝手な利益のために多数の市民を犠牲にした。独善的、自己中心的で極めて強い非難に値する。

(中略)

松本被告が信徒の帰依心や教団への強い帰属意識などを巧みにあおって、自らの権力欲の満足や保身をはかるために実行させたのであり、林被告が松本被告に利用された側面も否定できない。

麻原彰晃こと松本智津夫の「権力欲や保身」、林泰男の「身勝手な利益」の追求が、地下鉄サリン事件を引き起こしたというわけです。

こうした意味付けは、実際に被害に遭われた方やその遺族、そして日本社会の多数のみなさんにとっては当然納得できるものに違いありませんが、オウム事件の真相に迫るためには、こうした「通俗的」な理解だけでは不十分ではないかとぼくは思うのです。

村上氏は、死刑判決についてこう述べています。

死刑判決を生まれて初めて、実際に法廷で耳にして、それからの数日はうまく現実生活に戻っていくことができなかった。胸に何かひとつ、鈍いおもりが入っているような気がしたものだ。

(中略)

十三人の集団処刑(とあえて呼びたい)が正しい決断であったのかどうか、白か黒かをここで断ずることはできそうにない。あまりに多くの人々の顔が脳裏に浮かんでくるし、あまりに多くの人々の思いがあたりにまだ漂っている。ただひとつ今の僕に言えるのは、今回の死刑執行によって、オウム関連の事件が終結したわけではないということだ。

ここで村上氏が言っていることは、「身勝手な理由から大量殺人事件を起こした悪人たちの処刑は済んだから、この事件についてはもう忘れていい」というような通俗的な理解では、この事件の真相には迫れない、ということでしょう。

ですからぼくたちは、オウム事件の同時代に生きるものとして「胸に鈍いおもりを抱きながら」この事件の意味するところをこれからも手探りで暗闇の中を探っていく必要があるのだと思うのです。

インドのヒンズー教の教典「バガヴァッド・ギータ」には、王アルジュナが親族同士の争いを前に、このような血なまぐさい戦闘にどういう意味があるのか、と悩む場面があります。

それに対してクリシュナ神は「そのような俗世の悩みを捨てて、神の真理のために戦え」と諭します。

このような考え方は、「死刑は行なうべきではない」といった考えに代表される現代的な人権思想や平和しそうには馴染まないものかもしれませんが、密教やヒンズー教を教えの根幹に取り入れたオウムの信者にとっては、修行を通して身につけるべき価値観だったのではないかと推測されます。

また、アメリカやイスラエルがテロを撲滅するために戦争をしかけたり、死刑制度を持つ国家が「凶悪な殺人犯」を死刑に処することも、結局は「多数派の真理」を少数派に押しつけているだけなのではないか、という疑問も生じます。

また、村上氏は「遺族感情によって裁判員の判断が動き、一人の犯罪者の命を左右することになるのは、果たして公正なことなのか?」と疑問を投げかけています。

そうした疑問について十分に思いを巡らすためにも、村上氏の著書「アンダーグラウンド」を読んで、地下鉄サリン事件の被害者やその遺族の方々のリアルな言葉を自ら体験することには大きな意味があるはずです。

以上、長文を最後までご精読ありがとうございました。
それではみなさん、ナマステジーっ♬

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村上春樹「アンダーグラウンド」(1999 講談社文庫)

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